心が辛い若者が元気になるには
第一章 はじめに
社会の中で心が辛い若者を元気にする対応法がいろいろと主張され、有効であったと報告されています。その報告例を分析してみると、対応法が有効であったと報告されている例でも、それは一時的で、一見有効であったと思えただけであり、それ以後も元気な社会人となって、社会に出て行っていません。しきりに主張されている対応法は、大人が持つ知識や常識からの対応法です。それらの対応法は心が元気な若者への対応には当てはまるでしょう。けれどそれらの対応法は、心が辛い若者の心に沿っていません。大人が一生懸命対応をしても、若者が元気にならない場合が多いし、かえって若者がより辛くなってしまっている場合も見られます。心が辛い若者への対応は、若者の本心に沿っている必要があります。心が辛い若者への対応法は、常識や大人が持つ知識が全く当てはまりません。若者の心、特に本心を知るには、脳科学的な心の理解が必要です。若者の本心には、大人の心と違う部分があるからです。本心は潜在意識にありますから、例え当人でも言葉や文章で正確に表現できません。脳科学的に知るしか方法がないです。
第二章 言葉の説明
1、大人とは
心について大人とは、思春期以後の人で、心理的に、経済的に、親または親に相当する人に依存をしていない人を指します。もちろん例外もあります。
2、子どもとは
心について子どもとは、大人以外の人を指します。
3、心とは
心とは何か、色々なところで色々な議論がなされています。それらの多くが概念上の心を議論しています。ここでは脳科学で若者の心を考える必要から、心とは脳の機能と考えることにします。また脳の機能の範囲の心で考えることで、若者の心を理解することができます。
心を脳の機能を考えるとき、四カ所の脳の機能に注目する必要があります。それは前頭前野、運動野および運動連合野、側頭葉および頭頂葉、大脳辺縁系です。
前頭前野はおでこのあたりの前頭葉で、人間特有の思考機能に関与しています。大人は主として、この脳の機能で反応し行動しています。この前頭前野の機能が成熟するのは、思春期以後です。思春期以前の子どもはこの前頭前野の機能が不十分ですから、思春期以前の子どもでは、前頭前野の機能を大人のように求めることができません。思春期以後の子ども、すなわち若者では、この前頭前野の機能は大人並みにできてきています。しかし前頭前野の機能は大人並みでも、その前頭前野の機能を十分に発揮させる経験や知識が不足しています。そのために大人のような知的な行動もできますが、時には子どものようないわゆる幼稚な行動や反応をしてしまいます。つまり若者の間で大人っぽいとか、子どもっぽいと言う違いを生じているのは、この前頭前野の成熟具合の違いと、その前頭前野の機能を十分に発揮する経験量と知識量の違いから生じています。
大脳辺縁系という言葉や大脳辺縁系の機能を知っている人は少ないです。大脳辺縁系は大脳の中央部にあり、大脳新皮質で覆われています。大脳辺縁系は情動に関与しています。情動という言葉は耳慣れませんが、感情という言葉に置き換えることも可能です。感情とは情動の一部ですが、今後はわかりやすいように感情という言葉を使っておきます。子どもは主として、この脳の機能で反応し、行動しています。
私たちは感情を色々な言葉で表現できますが、それらの言葉で表現される感情をもっと突き詰めて考えると、喜びを伴った反応と辛さを伴った反応(体に動きが出た場合には行動と表現できますが、体に動きがない場合も含めて反応という言葉を使っておきます)と、大きく二つに分けることができます。この喜びを伴った反応は、より喜びを得ようとする反応になりますから、反応に発展性があります。それに反して辛さを伴った反応はその辛さから逃げる反応(逃避行動)、暴力行動、病的症状を表現します。これらの逃避行動、暴力行動、病的症状を出すことを、嫌悪刺激(人を辛くする刺激)からの回避行動と言います。
辛さが強ければ強い程、回避行動は強くなります。辛さが無くなったら回避行動もなくなりますが、辛さに敏感になっていますから、回避行動が出やすくなっています。回避行動は破壊的で、創造的な発展性はありません。辛さの程度に比例して、回避行動はより逃避的になったり、破壊的になったり、病的になったりします。逆に逃避行動や暴力行動や病的な症状などの回避行動の強さは、その人が受けている嫌悪刺激の強さに比例します。同じ嫌悪刺激でも人によって刺激される程度は異なります。その刺激される程度は、その人が表現する回避行動の強さに比例します。その人が表現する回避行動の強さで計られます。
運動野および運動連合野は行動や反応の仕方が記憶されています。いわゆる習慣行動やスポーツや芸術などを表現する体の動きなどがこれに相当します。大人が考えるしつけや作法に相当する行動も入ります。幼い子どもでは情報不足という状態が存在しますが、訓練や練習で、成長と共に急激に情報が蓄積されて、若者や大人では社会生活をするのに、既に十分な情報を持っています。
側頭葉から頭頂葉にかけての領域は、知的な情報が記憶されています。意識に登らない情報に支えられて、意識に登る情報が蓄えられています。学校での勉強や学問、知的経験などがこれに相当します。意識に登る記憶を陳述記憶と言います。普段は意識に登らないが、必要に応じて知識に登らせられる記憶もあります。これらの記憶も成長と共に急激に情報が蓄積されて、青年や大人では社会生活をするのに、既に十分な情報を蓄えています。
心が辛い若者を考えるには、前頭前野の機能と大脳辺縁系の機能を考える必要があります。大人と違って、一般に若者は前頭前野の機能が不十分な場合が多いので、どうしても理性的な反応や行動が大人程上手にできません。感情的な行動や反応が多いです。特に心が辛い若者では大脳辺縁系の機能が辛さに過敏になっていて、前頭前野の機能を抑制してしまいますから、理性的な行動が取れません。より感情的な行動や反応が多くなり、問題行動が多くなります。この脳科学的な事実から、心が辛い若者を元気にするには、若者が嫌がるような刺激から若者を守り、若者が嫌がるような対応を止める必要があります。若者が辛くなる対応を止めるだけで、若者は元気になっていきます。若者が喜ぶような対応を続けると、より早く若者が元気になります。
第三章 学習した嫌悪刺激
辛さを表現させるような刺激を嫌悪刺激と呼びます。嫌悪刺激を受けると、その刺激は大脳辺縁系で評価されて(受けた刺激に対して、反応の仕方が決定されること)回避行動を取ります。本能的な嫌悪刺激の代表は、痛みや強すぎる感覚刺激です。これらの嫌悪刺激を受けて辛くなっている場合には、辛さの原因が分かる場合が多いです。それに対して学習した嫌悪刺激は原因を見つけにくいです。辛くなる原因があるのですが、原因だと思えなくて、その原因から逃げ出すような、逃避行動を取ることができない場合が多いです。その様な場合の辛さは、体の奥底から湧いてくるような、何とも表現できない辛さです。原因が分からないことから、病気と考えられがちです。
動物が死ぬような辛い経験をすると、その動物の周囲にある物を辛さを生じる嫌悪刺激として学習します。それ以後その学習した嫌悪刺激(辛さを生じる条件刺激)を経験すると、辛さを表現するようになります。これを”辛さを生じる条件反射”と言います。
その例として登校拒否(登校拒否の結果実際に学校に行かない場合を不登校と言います)があります。登校拒否とは、学校内でとても辛い経験をした子どもが、学校を見たり意識したりするととても辛くなり、学校に行こうとしても、体の奥底から湧いてくる辛さで、学校に行けなくなります。この場合はその子どもにとって、学校が辛さを生じる条件刺激になっています。しかし多くの大人は、学校が子どもを辛くしているとはとても考えられません。そこで学校に行こうとしない子どもがおかしいから、その子どもの学校に行こうとしない反応の仕方を正そうとします。無理矢理に学校へ行かそうとします。それはその子どもをとても辛くして、その子どもの周囲に存在している人に対して辛さを生じる条件刺激を学習してしまいます。いわゆる”対人恐怖症”を生じてしまいます。
このように学習した”辛さを生じる条件刺激”から、次の”辛さを生じる条件刺激を学習すること”を、辛さを生じる条件刺激の”汎化”と言います。辛さを生じる条件刺激の汎化を起こしてしまうと、辛さを経験している当人も、周囲の大人も、なぜその人が苦しんでいるのか全く分からなくなります。辛さを経験している当人も、周囲の大人も、原因が無くて、辛さを表現しているから病気だと考えてしまい、辛さを生じる条件刺激から守る対応が取られなくなり、辛さから逃れなくなります。
第四章 若者とは
若者とは思春期以後の人を指すこととします。思春期以後の若者は、見かけ上大人と区別できません。しかし心の場である脳の前頭前野の機能が完成したばかりで十分に機能をしていません。この事実から、心が元気な若者では大人と同じように考えて良く、大人への対応と同じで良いのですが、大人に求めることと同じことを若者に求めて良いのです。心が辛い状態の若者では、その反応の仕方が子どもにとても近いです。子どもへの対応と同じ対応が必要な場合が多いです。
思春期以後から二十歳代の若者では、前頭前野の機能が不十分です。心が辛い若者では大脳辺縁系が反応しやすくて、問題行動や病気の症状を出しやすいです。しかし若者が辛くなるようなことから守られると、大脳辺縁系の自発的な何かを求める行動が働いて、自発的に、その若者なりに、何かを求めて動き出します。その何かを求めて動き出す行動が、若者を辛くて苦しんでいる問題の解決にとても良い効果を与えます。
三十歳代の若者では、若者が辛くなるようなことから守られたとしても、何かを求めて動き出す動きが弱くなっていきます。四十歳代の若者では何かを求めて動き出す動きがより弱くなっていきます。年齢が高くなると自発的な何かを求めて動き出す動きが弱くなりますが、それに反して前頭前野の機能が強くなって、自分の意志で自分の行動を決めることが可能になります。大脳辺縁系から生じる辛さを、自分の意志で調節できるようになります。カウンセリングや作業療法の効果が高くなって行きます。
心が辛い若者を考えるとき、若者が置かれている環境との関係を考える必要があります。思春期以後の心が辛い若者は親から学校に行くことを求められていますし、学校に行けないなら働くことを求められている場合が多いです。しかし現実には学校にも行けないし、働くこともできません。そのように親の期待に応えられないと認識することや、若者が知識として持っている、あるべき自分の姿として自分が持っている自分の姿と、現実の自分の姿の違いを認識することから、情動が葛藤状態になってしまいます。いわゆる自己否定を生じて一層辛くなっています。
年齢が高くなると、学校に行くことは要求されなくなりますが、働くことをより強く要求されます。働くことを要求されなくても、自分で働かなければならないと感じて、実際に働けない自分を認識すると、情動が葛藤状態になってしまいます。その葛藤状態が、いわゆる自己否定が、年長の若者を辛くする一番大きな要素になっています。
現実に心が辛い若者への対応を続けていますと、若者が辛くなった原因を見つけて解決しようとしたり、若者が言葉で訴える原因を解決しようとしても、若者を元気にできないことが分かります。それは若者を辛くする原因を見つけられないか、若者を辛くする原因を見つけたと思っても違っているからです。また、若者を辛くする原因が一つだけでない場合が多いので、一つの原因を解決しても他の原因が解決されないで残っているので、辛さには変わりないからです。それよりも若者が陥っている葛藤状態、いわゆる自己否定をなくして、自己肯定感を持てるように対応をすると、原因を解決しなくても、若者がだんだん元気になっていくのが分かります。
心が辛い若者の前頭前野が機能をし出したとき、若者が病識を持つと、対応が大変に難しくなるし、解決が大変に難しくなります。病的な症状を出している若者の多くは病院で投薬などの治療を受けています。薬を飲むと自分の問題は解決すると信じるようになります。しかし薬は心の問題を解決しません。多くの薬は病的な症状を軽減する薬です。薬ではその病的な症状を出す原因を解決できません。病的な症状を出せば出す程、何かの原因に反応してより辛くなっているのです。その辛くなる原因から若者を守ろうとしないで、薬で症状を抑えようとするのですから、若者は元気になれません。若者が元気になる機会を失ってしまいます。
参考までに、年代により心がどのように変わってくるのかをまとめてみます。
*大人
その年齢までに身につけた知識や習慣で反応や行動をして、その際に生じる感情を抑えることができます。理性的な行動が可能です。感情を抑えられないときには感情的になったと表現しています。感情的になることは大人げないと、否定的に考えます。
*若者
その年齢までに身につけた知識や習慣で反応や行動をします。その際に生じる感情を抑えることができますが、大人程上手にできません。心が十分に穏やかなときには、心が元気な若者では、理性的な行動が可能です。しかし感情が強く働くと、理性的な行動ができなくなります。理性で感情を大人程上手に調節できませんから、大人と比較して感情からの反応や行動を起こしやすいです。特に普段から心が辛い状態の若者では、理性的な行動は大変に難しく、感情的な行動が大半になります。
*思春期以前の子ども
その時までに得た経験が習慣になって行動をするか、真似や感情からの反応や行動が全てです。知識からの行動はできないか大変に難しいです。
*幼児
本能と真似と感情で反応し、行動をして、その経験が習慣化していきます。
第五章 親は心が辛い若者に気づこう
心が辛い若者が元気になるためには、心が安全な場所が必要です。心が安全な場所を若者一人ではつられません。元気になってもらうために、親は若者の心が安心できて、生活を楽しめる場所を作る必要があります。
心が辛い若者の心が安心できる場所には、若者を苦しめる物があってはなりません。若者を苦しめるような物から、親は若者を守ってあげる必要があります。それでも心が辛い若者の心が辛くなることがありますから、その辛くなった心を癒すために、必要に応じて母親の存在が必要です。常識的な人から見たら、引きこもっていて、母親に甘えている若者と理解されるぐらいがよいです。
生活を楽しめる場所として、若者が納得がいくまで楽しめる遊び道具が必要です。周囲から幼稚と理解されるかも知れませんが、若者が耽っている遊びを、とことんさせる必要があります。同年代の若者が既に社会で働いているなどと親が考えると、親自身も辛くなるし、その親の思いを感じ取った子どもがより辛くなります。
心が辛い若者の見つけ方です。若者の心が辛くなると、若者はその辛くなる場所から逃げようとします。ある場所から逃げて、別のある場所に若者が行ったなら、逃げてきた場所に若者を辛くした物があり、逃げていった場所には若者を辛くする物がないか、若者を辛くする物があっても、逃げてきた場所の辛さより辛くないという意味になります。逃げていく場所として家庭が若者を楽にします。しかし家庭に居場所がないと、つまり両親が若者の心の辛さを理解しないと、若者は家庭に逃げないで、町中とか、親から見て好ましくないところに逃げてしまいます。家出をして町の中をふらつく若者とは、若者が悪いのではなくて、心が辛い若者を親が理解していない姿です。また、いわゆる引っ込み思案と感じられる若者は、程度は軽いですが、既に心が辛い若者です。
心が辛くなる場所から若者が逃げられないとき、若者はいわゆるよい子を演じ(辛さを与える相手に対して、相手が希望する行動を若者がして、それ以上辛さを若者に与えないようにする)ます。若者がよい子を演じているのか、本当によい子なのか、その区別は大変に難しいです。殆どすべての大人は、若者がよい子を演じていても、大人の対応が受け入れられていると判断して、若者を辛くしている対応を続けてしまいます。若者はよい子を演じ続けなければならなくなります。よい子を演じるにはとても大きな努力を必要としますから、若者の心は大変に疲れ(意欲を失い)ます。
よい子を演じる限界に達しますと、またはよい子を演じられないと、若者は暴れたり、問題行動を取ります。若者の家庭内暴力、万引きや盗み、暴走行為などの犯罪行為、不純異性行為、薬物などは、若者が悪いのではなくて、心が辛い若者を親が理解していないという姿です。若者が暴れたり、問題行動を取るときには、若者が問題であるとか、その問題行動を正す必要があると考えるのではなくて、若者の心が辛いのだと理解する必要があります。
若者が辛い場所から逃げられなくて、又は逃げられたとしてもその逃げた場所が辛くて、よい子を演じる限界を超えていて、暴れようとしても力で押さえつけられたり、心が優しくて、暴れたり悪いことができない若者では、いろいろな神経症状や精神症状など、病気の症状を出すようになります。頭が痛い、お腹が痛い、胸が痛い、めまいがする、動悸がする、息苦しい、気持ちが悪い、嘔吐する、下痢をする、血便が出る、歩けなくなる、手が動かなくなる、手足が震える、夜眠られなくなる、眠っていても目が直ぐ覚める、こだわりが強くなる、儀式をする、食欲が無くなる、食欲が過剰にある、幻聴がある、幻覚があるなどの、ありとあらゆる症状を出します。病院に連れて行くと病気として治療をされますが、辛さから逃げられないときには病気と全く区別ができないこれらの症状を出します。病気と信じて治療を受けると、心が辛いところに加えて、辛い治療を受けることになりますから、若者はますます辛くなります。場合によっては症状が悪化します。また、心が辛くてこれらの症状を出しているのですから、それを病気と考えてしまうと、辛い心を癒す対応を取ることができなくなり、若者の問題解決の機会を失ってしまいます。
心が辛い若者を常識で判断すると、人間的にも社会的にも好ましくない若者と理解されます。それは常識が間違っているのであり、心が辛い若者を見つけて、守り、元気にして行くには、常識がじゃまをします。常識を捨てて、心が辛い若者の心に沿った対応が必要です。それは大人の経験から知ることはできません。一般常識から心が辛い若者への対応をする人は、心が辛い若者の心を知らない人です。一般常識を心が辛い若者に押しつけることになり、ますます心が辛い若者を苦しめてしまいます。
心が辛い若者の心を若者の言葉から完全に知ることはできません。心の辛さを生じる刺激は潜在意識で処理されて、体中に辛さを表現しますから、若者自身も、周囲の人も、心の辛さを生じる刺激を知ることはできません。生物としての人間の心を脳科学的に解析して初めて分かります。また、辛さを生じる刺激が心が辛い若者の外から加わっているとは限らないです。心が辛い若者自身が作っている場合もあります。親は心を辛くする刺激を、原因を捜そうとしない方が良いです。常識を捨てて、心が辛い若者の心を癒し、若者を信頼して待つしか、解決法がない場合も多いです。
第六章 心が辛い若者に大人が対応するとき
大人は知識から、意識的な行動が可能です。大人が発する言葉通りに行動が可能です。この大人の心の機能を、若者も大人と同じように持っていると大人は考えがちです。大人と同じように、全ての若者は意識的に、理性的に行動が可能だと大人は考えています。
心が元気な若者は大人の対応を受け入れて、若者なりの理性的な行動を可能にします。心が元気な若者への対応はそれでよいですが、心が辛い若者には、とても辛い対応になってしまいます。大人には若者が怠けているようにしか見えないですが、心が辛い若者はやっとの思いで自分を維持しています。大人からのいろいろな要求を伴った対応を、受け入れたいけれど受け入れる余裕がないから、受け入れられません。それだけでなく、大人からの要求を受け入れられないことで、心が辛い若者は葛藤状態になり、ますます心が辛くなってしまいます。
参考のために、思春期以前の子どもの反応や行動の仕方に触れておきます。子どもは無意識に(潜在意識から)、本能や真似、感情(情動)からと、それまでの経験で習慣化した反応の仕方で反応し、行動しています。ですから理性的な行動は皆無に近いです。子どもの言葉は、子どもの持っている知識を表現しているだけで、その知識から反応したり、行動できません。子どもが持っている知識から行動をさせるには、子どもが喜ぶようなご褒美をあげる(母親の喜び、物を与えるなど)か、子どもへ嫌悪刺激を与える(叱るなど)必要があります。
心が辛い若者への対応を親や大人が行うとき、大人への対応と同じ対応をしてしまいます。その大人へと同じ対応は心が元気な若者の能力を高めますが、心が辛い若者をますます辛くしてしまいます。心が辛い若者への対応を行うときには、子どもへの対応と同じような対応が必要になります。つまり言葉は心が辛い若者の知識を表しているだけで、言葉通りには行動ができないこと。感情から行動しているから、大人について行う分析と同じ分析が当てはまらないこと。母親から心が辛い若者の心を癒す対応をうける必要があることがあげられます。
人はいつでも知識的な行動、知識的な行動ができると考える理由に触れておきます。意識には陳述記憶が必要です。陳述記憶を持っているのは人間だけです。人は同時に色々な刺激を受けています。その内で意識に登った物が陳述記憶として記憶され、意識に登らなかったけれど、潜在意識で反応した物は反応記憶や情動記憶として記憶されます。人が反応しなかった刺激は、記憶に残りませんから、無たと同じです。そこで人は意識に残った物が現実に経験したことであり、無意識に反応した刺激や全く反応しなかった刺激は無かったと考えてしまいます。また、自分の感情を自分の意識で調節して反応や行動をしていますから、全て意識的に反応し、行動していると、全て理性で解決できると考えてしまいます。けれど人の周囲には意識に登らなかった刺激がたくさんあります。人が意識した周囲の情報は、氷山の一角なのです。
第七章 心が元気になるとは
心の元気さを計る尺度はありません。心の辛さは、辛いところから逃げる、よい子を演じる、破壊行動や犯罪行動などの問題行動をする、色々な病気の症状を出すことで表現されます。心が元気になるとは、これらの辛さの表現が無くなることです。つまり、積極的な自発的な、何かを得ようとする行動が多くなる、素直な自分で行動をする、問題行動や辛い症状が無くなる、などです。
外見的には、表情や行動が生き生きしています。生きようとするエネルギーを感覚的に感じます。今まで動きが少なかったのが、活動的になってきます。これらのことで、心の元気さを感じ取ることができます。しかし生き生きしているから、活動的だから、その人の心が元気だとは言えない場合があります。それは”よい子を演じ”ている場合です。今まで動きが少なかった人が、生き生きして活動的になった場合には、その人の心が元気になってきたと判断できます。
第八章 嫌悪刺激への反応(人間の子どもについて。大人でもおおむね当てはまる)
無意識(潜在意識)から、自分を守るための反応をまとめておきます。
1、辛くする刺激から逃げようとする
2、辛くする刺激から逃げられない時には、人間の場合”よい子”を演じる
3、辛くする刺激から逃げられないとき、よい子も演じられないとき、元気を失う、暴れる、問題行動を行う
4、辛くする刺激から逃げられないとき、よい子も演じられないとき、大きな力で押さえつけられて、暴れたり問題行動を行えないとき、病気の症状を出す。
その逆も成立しますから、常識を捨てて、子どもの心が辛い状態であることを理解する必要があります。
1、ある場所から逃げてきて、その場所に戻ろうとしないとき、その場所に子どもを辛くする物がある。
2、子どもがよい子を演じているかどうかを見極めることは大変に難しいが、子どもがよい子を演じていると判断される場所に、その子どもを苦しめる物がある。
3、子どもに元気がない、子どもが暴れる、子どもが問題行動を行う場合、それは子どもに問題があるのではなくて、子どもを辛くする何かがある。
4、子どもが病気の症状を出しているとき、子どもが病気だと考えてはならない。死ぬ思いをする程子どもを辛くするものがある。
第九章 心が辛い若者が元気になるとは
心が元気になるとは、今まで嫌悪刺激として回避行動を取っていたのが、その同一の刺激に対する反応が無くなる(嫌悪刺激が嫌悪刺激でなくなっている)か、有っても直ぐに消失する状態です。すなわち何かから逃げようとする反応が無くて、周囲から見ても素直な心で反応し、行動している場合です。見た目にも生き生きとした表情です。積極的な、自発的な行動が中心になります。しかし、生き生きとしているから、活動的だから、元気だといえない場合があります。それはよい子を演じている場合です。
大人と違って、若者を含めた子どもは、嫌悪刺激がないと、それだけで元気になっていきます。心が辛い子どもは嫌悪刺激がないと、心が辛くなくなり、子どもの本能から、心が元気になっていきます。基本的に心が辛い子どもを、大人が元気にしようとする必要がないです。大人が心が辛い子どもを元気にしようとすると、大人が心が辛い子どもの心に沿わない対応をしてしまうので、かえって心が辛い子どもの元気を奪ってしまいます。
大人ができる心が辛い子どもへの対応とは、心が辛い子どもをその子どもを辛くする嫌悪刺激から守ってあげることです。それだけで心が辛い子どもは心の辛さがなくなり、元気に振る舞います。見た目は心が元気な子どもと同じになります。しかし心が元気な子どもでは辛くならないもので、心が辛い子どもはその心を辛くしてしまうという違いがあります。心が辛い子どもは、親によってその心を辛くする物から守られて、心が辛くならない生活を続けていますと、いつの間にかその心を辛くする物でも、辛くならなくなってしまいます。その子どもにとって、嫌悪刺激がいつの間にか嫌悪刺激で無くなってしまいます。心が辛い子どもでなくなってしまいます。
心が辛い子どもは、親によってその心を辛くする物から守られて、心が辛くならない生活をするだけでなく、その子どもとして楽しいこと(例えばゲームや漫画、テレビ、ビデオ、音楽、その他の趣味。常識的な親や大人は、このような物に没頭すると、一生続くように考えますが、子どもは必ずこれらの楽しみから卒業をします。卒業しないときには、子どもがこれらの楽しみで十分に楽しみを得られない場合です。安心してこれらの楽しみに没頭できない場合です)に没頭していますと、子どもの心にエネルギーが貯まってきます。その子どもなりに何かしたい物ができてきます。その子どもなりに何かしたい物をしようとすることで、その子どもの嫌悪刺激が嫌悪刺激でなくなっていきます。その子どもなりに楽しいことに没頭することで、積極的に嫌悪刺激を無くすることができます。心が辛い子どもが、より早くその心を元気にできます。
心が辛い若者が辛くなる原因の一番大きな物は”自己否定”です。現実の自分の姿と、自分が期待する自分の姿との間に差が大きいと、それだけで葛藤状態になり、辛くなります。辛くなるとますます自分が期待する姿から遠ざかり、ますます辛い自分を許せなくて、ますます葛藤状態になります。辛くなります。悪循環に入ってしまいます。心が辛い若者とは、殆どすべてこの悪循環からの自己否定に陥っています。だから心が辛い若者と表現されます。
心が辛い若者を元気にするには、この自己否定の悪循環を断ち切らせてあげる、その結果自己肯定感を持てるようにする必要があります。現実に過去の若者を辛くした原因を解決しなくても、この自己否定の悪循環を断ち切るだけで、心が辛い若者は自己肯定感を持てて、元気になります。心が辛い若者の辛さを解決して、元気な大人にするには、この自己否定の問題を解決するが一番大切であり、全てであると言って大丈夫でしょう。
心が辛い若者が、自分で自己否定の悪循環を断ち切るには、自己説得法がよいです。心が辛い自分をそれでよいと受け入れる自己説得をするのですが、ある程度年齢が進まないと難しいです。心が辛すぎて自己説得する余裕のない若者には無理な方法です。
心が辛い若者の辛さを解決しようとしないで、親、特に母親によって、心が辛い若者をそれでよいと認めようとする対応が一番効果的です。心が辛い若者は、心が辛いままでよいという母親の対応に、初めのうちは怒り出しますが、その内に心が辛い若者は楽になり、怒らなくなります。心が辛い若者でなくなります。自分の意志でその子どもなりに動き出します。子どもの周囲にある子どもを辛くした物についても、自分で解決して社会へ出て行きます。
荒れて親を悩ませている若者でも、親は荒れて良いと子どもに言い続け、子どもを荒れるままにしておく必要があります。親、特に母親は荒れる子どもを抱きしめて、辛いねと辛さに共感する必要があります。そうすると子どもは荒れる必要が無くなり、落ち着いてきます。
病気の症状を出している若者は、自分が病気だと思うことで楽になろうとします。親も子どもの出す症状が病気だと思うと楽になりますから、一生懸命若者に薬を飲まそうとします。病気だと思うことで楽になる、薬を飲むことで楽になることは事実です。現在の常識でも、病気の症状を出すと心の病気だと考えて、病院にかかり、薬を飲み出します。
若者の辛さは自己否定を含めて、何かに反応して病気の症状を出しているのですから、自分を病気だと考えることや、薬を飲むことは、何かに反応して病気の症状を出してはいけないという意味になります。何かに反応して病気の症状を出している若者自身を否定することになります。それは心を葛藤状態にして、新たな辛さの原因になります。心の辛さを解決できないことになりますし、薬を止められなくなります。
第十章 年長の若者がいつまで経っても働いてくれない
年長の若者がいつまで経っても働かない(いわゆるニート)で、または自分の小遣い程度しか働かなくて(フリーター)、ゲームなどのお金にならないことに耽っていますと、両親に焦を生じます。自分たちの老後の生活が成り立たなくなるのではないかと心配します。両親は年齢を感じて、自分たちや若者の将来に不安を感じます。両親は年を取ってきて、父親の定年が迫ってきています。または既に定年になって、収入が少なくなっています。その様な両親の不安が若者に伝わりますと、若者にも焦りを生じます。若者は自己否定を生じて辛くなります。その辛さを癒すために、ますますゲームなどの快楽に耽ってしまいます。
現実に定年などで収入が減っても、家族はどうにか生活ができます。若者の心が落ち着いていたら、若者の方で無理な要求を親にしてきません。社会的には就職が難しくなってくる年齢ですが、その若者らしい仕事を見つけたり、自分で個人事業を起こして働くようになります。そればかりでなく親との関係がよいと、親の介護をしてくれます。一番安くて確実な介護を親は保証されたことになります。これほど親にとって安心なことはないです。
年長の若者でも、心が落ち着けば、自分から何かをして働こうとします。どこで自分にあった仕事を見つけて働こうとします。ですから、年長の若者でも何か仕事を見つけさせて働かそうとするのでなくて、自分から仕事を探そうとするまで、徹底的に家の中に引きこもらせて、好きな遊びをさせて、楽しませるのがよいです。無理をして働かせると、直ぐに仕事ができなくなるか、できても発展性がありません。自分からもっと働こうとする意欲が湧いてきません。
第十一章 心が元気な若者と辛い若者の違い
心が元気な若者は、大人の要求に若者が従うことができます。また、若者の方で大人に順応しようとしますから、大人の持つ知識から、常識から若者への対応が可能です。若者の方で大人を上手に利用して、成長していってくれます。
心が辛い若者は、大人の目からは怠けているように見えます。心が辛い若者は、その現状で精一杯であり、それ以上のことができません。心が辛い若者を無理矢理に動かそう(学校に行かそうとする、働かそうとする)と、若者はよい子を演じるか、大人の要求に若者は荒れるか、病気の症状を出します。逆効果になります。
若者がよい子を演じたときには、若者が大人の要求を受け入れて行動をしますが、その行動はその時限りです。大人が居なくなったときには、若者は大人が求めたことの逆の行動をします。大人が若者を動かして、習慣づけるには、要求と一緒に、要求することで生じる辛さ以上の喜びを若者に与える必要があります。現実に多くの心が辛い若者は、親や大人から大きな力で無理矢理に動かされ続けてきていますから、今の常識的対応では、若者を動かして習慣づけることを期待できません。心が辛い若者は、自分で納得して動く必要があります。若者の本心に沿って動く必要があります。心が辛い若者でも、若者にとって大きな喜びがあると、その分大人の要求を受け入れられて、行動し、習慣づけることができます。
第十二章 心が辛い若者について、大人が陥りやすい間違い
心が辛い若者について、常識上の間違いがあります。不登校、引きこもり、ニート、対人恐怖、忍耐力欠如、家庭内の荒れや暴力、犯罪行動、不良行為、自律神経症状、精神症状(いわゆる発達障害などを含む)などは、若者に問題があり、若者を矯正したり、治療をしなくてはならないと大人は考えます。また対応する機関や病院も、若者に問題があり、その問題を正そうと対応します。けれどこれらの若者の反応や行動は、若者が嫌悪刺激を受けて反応し、辛い状態にあると言う意味しか有りません。その際に若者が発する言葉は、若者がその言葉のように認識している、理解しているという意味であり、若者の本当の姿(本心)を現していません。若者の発する言葉通りに理解すると、大きな間違いになりやすいです。
特に若者がこれらの症状を出すときには、若者が発する言葉の内容が重要ではなくて、若者が陥っている”辛さと自己否定の悪循環”、すなわち辛くて何もできない自分を認識することでその様な自分を許せないで否定する(自己否定)、自分のあり方を否定するとますます辛くなってこれらの症状を出す”という悪循環に陥っていることが一番の問題点です。若者がその時までに辛くなった大元の原因を解決する意味が無くなっています。
若者が辛くなった原因を捜しても見つからないし、見つかったと思っても違っていることが多いし、また本当の原因が見つかったとしても、その原因を解決することに意味はなくて、若者が陥っている”自己否定と症状との悪循環”を断ち切れるようにしてあげる、つまり自己肯定感を持てるように対応するのが、心が辛い若者が元気になる最も良い方法になります。
第十三章 なぜ心が辛い若者への対応に特別の注意が必要なのか
心が辛い状態の若者を元気にするのは、大変に難しいです。常識からの対応が心が辛い若者を苦しめますし、常識とは逆の対応が効果的な場合が多いです。
心が辛い若者にとって、辛さの原因の主な部分は若者自身が自己を否定をしていることから生じています。しかし若者自身も、親や周りの大人も、若者の過去のことに拘って、若者を辛くした原因を見つけて、その原因を解決して、若者を元気にしようとします。多くの場合若者を辛くした原因を見つけられませんし、見つけられても、その原因を解決しても、若者は元気になれません。
言葉は若者の持つ知識、自分や周囲の状況を観察してそれを表現(学校に行きたい、働きたい、友達が欲しい、嬉しい、辛い)しているのであり、必ずしも若者の本心を表現していません。若者の本心とはその若者の情動であり、それは潜在意識ですから、若者自身も知ることができません。心が辛い若者が一番苦しんでいる原因は、若者自身がありのままの自分を許せなくて、自分を否定していること(自己否定)から生じています。過去の辛い思い出を思い出す、めまいがしたりして体の調子が悪い、人に会うと苦しくなる、幻聴や幻覚があるなどの症状を解決しないと元気になれないように、多くの人は考えます。私の経験的には、心が辛い若者が自己否定をしているのに対して、自己肯定感を持たせてあげると、若者を辛くしている原因を解決しようとしなくても、心が辛い若者が元気になっていきます。
第十四章 心が元気な子どもが持つ本能(おおむね若者にも当てはまります)
若者の反応や行動を理解しようとするとき、若者には未だ子どもの反応の要素が多分にある事実を配慮する必要があります。特に心の辛い若者を理解しようとするときには、大人にはない、子どもが持つ本能から理解する必要があります。以下に子どもが持つ本能を列挙しておきます。
1、子どもは心身共に成長する。その際に、母親と認識する人に信頼されている必要がる。
2、子どもは与えられた環境に順応しようと成長する
3、子どもは周囲の物に優しい。特には親に優しく、母親が喜ぶのを好む。
4、子どもには自然に湧き出すエネルギーが大きい。これは大人にはない物である。
5、子どもは次から次と、新しいもの(刺激)を求める。
6、刺激に素直に、精一杯、反応して行動する。
7、知識からの行動が大変に難しい(大人になかなか信じられない事実である。)
これらの本能の結果と、子どもの行動が習慣化していないから、子どもは大人から見て失敗をしたり、事故に巻き込まれたりしやすいです。また、子どもの反応の仕方には意識的な行動が少ないので、動物での反応の仕方が当てはまりやすい、動物の反応の仕方が参考になります。
第十五章 心が辛い若者と母親
子どもの本能として、子どもは母親に守られようとします。母親に無条件の依存を求めます。一方、母親は母性から、子どもを守ろうとします。無条件の依存を許そうとします。その事実から、哺乳類が地上に現れてから二億年以上、哺乳類は進化し続けて、人間が地球上に繁栄できています。しかし最近の人間では、知識から子どもへの対応を考える傾向が強いので、母性が機能しない場合があります。子どもが苦しんでいるのに母親が気づかなかったり、苦しんでいる子どもの姿を誤解してしまっている場合が有ります。時には母親の知識からの対応により子どもが苦しむ原因になっています。
心が辛い子どもが元気になるには、その辛くてどうにもできない心を母親によって癒される必要があります。それは母親の共感の言葉とスキンシップです。それ以外には子どもが求めた要求を100%叶えることです。それにより辛い心を母親で癒された子どもは、辛さが軽くなると自分から動き出します。そうなると母親は子どもを信頼して待つだけでよいです。
この子どもへの母親の対応は、心が辛い若者にもそのまま当てはまります。心が辛い若者を元気にできるのは母親だけです。決して医者でも、カウンセラーでも、専門家でもありません。若者も自分を守ってくれる人を母親だけに求めます。決して母親以外の人に求めません。母親以外の人に対応を期待するときには、母親が母親の機能をしていない場合です。心の辛い若者が母親に対応を求めないと気付いたときには、母親は自分の対応を考え直して、若者から対応を期待されるようにする必要があります。
第十六章 心が辛い子どもの論理(心が辛い若者にも当てはまります)
大人にはその様に見えないかも知れませんが、心が辛い状態の子どもは自分を守ることで精一杯です。心が辛い子どもは、大人の要求を受け入れる余裕はありません。心が辛い子どもは、哺乳類の子どもとして、反応を示し行動します。ですから、その対応は生物としての子どもの心に沿った物でなければなりません。それは子ども特有の心理であり、大人の持つ常識で理解できません。心が元気な子どものように、子どもの能力を伸ばす子育ては、心が辛い子どもにできないません。子どもの辛い心を癒して、元気にする対応が最優先されます。子どもの要求を可能な限り即座に、100%叶える必要があります。
基本的に心が辛い子どもは、辛さから逃げて、その子どもなりの成長をする必要があります。その子どもなりの成長とは、子どもにより千差万別です。どのような形で成長するのか、それは子どもに任せる必要があります。
母親が子どもの辛さから子どもを守る必要があります。基本的に母親は子どもを守ればよいですが、既に心が辛くなっていますから、可能なら辛い子どもの心を母親が癒すと、子どもはより早く元気になれます。あくまでも可能ならであり、辛い子どもの心を癒せないなら、母親は子供を信頼して待つ必要があります。母親が子どもへの信頼感を伝えるには、
1、母親が子どもの姿を見ない、
2、子どもが話しかけてこない限り、子どもに話しかけない
3、母親の笑顔
を実行する必要があります。子どもと母親との心の距離は、他人が子どもと母親の姿を見たとき、同じ屋根の下に住む他人同士のように感じるぐらいがよいです。
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