児童、思春期の子どもの心の病をどう捉えるのか 1−2版2015.3.24
(脳科学から子どもの心の理解)

目次
$0 定義
$1 脳科学から見た子どもの心(「子ども論」第一章 諷詠社 参照)
$2 子どもの情動
$3 
rules for unabled mindとrules for capable mind
$4 よい子を演じる fair action 2−2回避系の本能を参照
$5 母親 2−1接近系の本能を参照
$6 子どもの行動を考えるとき
$7 躾
$8 辛さを生じる条件反射(fecor)( トラウマその成因と回復法、諷詠社参照)
$9 なぜ人々は人に存在しない心の病を考えるのか?(子どもの心の病、諷詠社参照)
$10 発達障害
$11 鬱状態
$12 向精神薬の効果、大量投薬と減薬の問題
$13 子どもへの長期投薬
$14 認知療法
$15 未就学児の心の問題
$16 大人の心の問題と心の病について
$17 反抗期
$18 不登校 (子ども論、第二章参照)
$19 いじめ、いじめられ (子ども論第二章参照)
$20 子どもの犯罪 (子ども論第二章参照)
$21 ありのままのあなたでいいんだよ
補足 認識の脳科学 ほ乳類での脳の情報処理の仕方

$0 定義

0−1 心とは脳の機能

意思、記憶、思考とは異なっているが、心という点ではとても密接な関係があり、ここではこれらを同意語として使っています。 また、運動、行動、反応も心という点では密接な関係があり、同意語として使っています。 情動とは感情より広い意味で、大脳旧皮質の活動を総称して使っています。呼吸、循環、消化器、皮膚、筋肉、内分泌、免疫などに変化を来すことで表現されます。

脳の機能は大脳新皮質の機能と、大脳旧皮質の機能とに分かれる。大脳新皮質の機能は感覚情報の処理、記憶、認知、認識、運動(反応と同じ意味でここでは使います)。大脳旧皮質は情動。

体外からの感覚情報は感覚野で処理されて、記憶(頭頂葉、側頭葉)されて、認知(前頭前野)される。認知された情報は、記憶に照らし合わされて、運動野で運動(反応)情報が作られて、体全体の筋肉に情報が送られて、具体的な運動になる。認識とは認知された情報の内言語化した内容を言う。

情報は記憶から同時に大脳辺縁系の扁桃体に送られて情動評価をされて、情動情報が作られて、自律神経を介してから中の臓器に表現される。この体中に表現された情動を認識したときに、この情動を感情と表現する。情動情報は運動野にも送られて、情動行動として表現される。

0−1.1 心とは脳の機能と考える考え方を精神身体一元論という。子どもでは必ず精神身体一元論で心を考える必要がある。

0−1.2 心とは精神世界であり、その精神世界が人間の脳に作用をして、人間活動をしていると考える考え方を精神身体二元論という。心が元気な大人では精神身体二元論でよいが、心が辛い大人では、精神身体一元論が当てはまる。今の精神医学はこの精神身体二元論から人の心を考えている。現在の精神医学はほとんどすべてで約束事であり、客観的な根拠を持っていない。

0−1.3 思考とは記憶を選択して反応することを言う。動物は意識に上らない思考をしているが、人間では意識に上る思考もしている。意識の定義はまだ確立していないが、思考を利用していること、言語で表現することが必要条件である。

0−1.4 人間の情動の表れを我々はいろいろな言葉で表現するが、その本質は接近系(喜び、その刺激を報償と言う)と回避系(恐怖、その刺激を罰と言う)とに分けられる。

0−2 人間の行動は脳内の情報の処理の仕方から、3種類の行動に分けられる。

0−2.1 意識行動 記憶を用いて意識からの行動。その表現は大人では言葉と行動だが、子どもでは言葉だけ。

0−2.2 認知された情報からの行動。情動の接近系の行動を繰り返すことでも形成される。皮質反射とも言う。習慣行動として理解される。習慣行動として成立すると、情動を伴わない行動になる。

0−2.3 情動行動。本能からの行動と、主として母親をまねして作られた情動からの行動がある。その表現は子どもでは行動と表情に表れる。大人では意識で調節されているから、表面に出てこない。ただし情動が強く働くと、感情として表現され理解される。

に分けられる。新生児では本能行動だけだけれど、乳幼児、幼児になると、母親をまねすることで形成されてくる情動からの情動行動、本能行動と情動行動を繰り返すことでできあがった習慣行動から行動をするようになる。年齢が進むにつれて、習慣行動の割合が多くなり、大人の多くの行動は習慣行動である(脳科学から見た子どもの心を参照)。

0−2.4 刺激を受けてから行動を起こすまでの反応速度は皮質反射が一番早く、次に情動行動であり、意識行動が一番遅い。刺激を受けるとそれに対する皮質反射を学習している人はすぐに皮質反射可能反応を行った後に、情動を生じる。大人はその生じた情動を短時間に調節する。

0−3 心が元気な子どもの論理と心が辛い子どもの論理

0−3.1 今までの常識からの子育てが可能な子どもへの対応の仕方を「心が元気な子どもの論理 rules for capable mind」と呼ぶことにする。

0−3.2 心が絶えず辛くて、些細なことで問題行動や病気の症状を出す子どもへの対応の仕方を「心が辛い子どもの論理 rules for unabled mind」と呼ぶことにする。荒れる子ども、事件を起こす子ども、病気の症状を出す子どもの心を理解するには、このrules for unabled mindを理解する必要がある。

0−4 人の情動は3,4歳頃にはできあがり、それ以後変化をすることはない。条件反射およびそれに類似する反射はその情動を変化させる唯一の方法である。ひとたび条件反射で情動が変化をすると、その消失には長い時間がかかる。条件反射が繰り返すことでより条件反射(条件反射を生じる神経回路)は強化される。条件反射には条件刺激が接近系か回避系かと言うことで、接近系の条件反射と回避系の条件反射がある。

0−4.1 接近系の条件反射としてパブロフの犬の実験が有名である。動物の飼育に利用されている。

0−4.2 回避系の条件反射は動物実験の際の動物の学習に使われている。回避系の条件反射は回避行動を誘発するので、辛さを生じる条件反射(fecor)と呼ぶことにする。辛さを生じる条件刺激(fedos)に反応して、辛さを生じる条件反射(fecor)を生じる。

0−4.3 トラウマとは突然、死んでしまうのではないかと思われるような辛い症状を感じ、コントロール不能な辛い症状を出し、日常生活が不可能になる状態をいう。その原因としていろいろな人がいろいろな説を唱えているが、少なくとも辛さを生じる条件反射(fecor)はトラウマを説明できる。

0−5 辛い刺激を嫌悪刺激という。よい子を演じる、荒れる、問題行動をする、心の病の症状を出す。

0−5.1 よい子を演じるとは、子どもが自分の素直な姿ではなくて、大人の希望する姿を演じることを言う。素直な姿、本心からの行動なら接近系の行動だが、よい子を演じているときには、見かけ上接近系の行動であるが、情動から言うなら、回避系の行動である。

0−5.2 荒れるとは、子どもが何かに反応をして、暴力行為をして物を壊したり、相手を攻撃することを言う。問題行動とは大人が嫌がる行動を言う。荒れることも問題の行動の一つである。

0−5.3 心の病の症状とは自律神経の症状と精神症状を言う。嫌悪刺激が加わると程度の差はあっても必ず自律神経症状がでる。それは生体を危険から守るための反応だが、その程度が強いと病的に感じるし、病的な変化を体に生じる。

0−5.4 心が辛いとは、子どもが辛い刺激から逃げ出せなくて、よい子を演じている場合、荒れたり問題行動をしている場合、心の病の症状を出している場合を言う。そのときは出していなくても、すぐにこれらの反応を起こしてしまう場合もいう。ただしよい子を演じる場合は、その場ではわからない。ある程度時間がたってわかることである。

0−6 刺激に対して反応をする反応の仕方、自発的な行動の仕方を性格という。大人では思考行動と習慣行動が大きな割合を占めている。子どもでは、本能、母親をまねして成立した情動と、本能と情動からの反応を繰り返すことでできあがった習慣行動からなる。年齢が進むと習慣行動の割合が増える。思春期を過ぎるとある時期から突然意識行動が現れ、情動行動の割合が減っていく。

0−7 障害とは日常生活の中で、性格に不都合な性格を言う。今の精神医学では著しく日常生活に著しく障害を生じる性格を病気としているが、障害と障害で無いものとの間は連続的で、明確な境界はない。

0−8 ストレスとは何か。動物が受けた刺激から回避行動をとる刺激を嫌悪刺激、辛い刺激、罰刺激、ストレス刺激など表現する。ストレスという言葉にはストレス刺激という意味とストレス状態(ストレス刺激を受けて、ストレス刺激から逃げられなくて、心が辛い状態にある)という意味の二つの意味がある。

0−9 ミラーシステムとは、動物が真似ができる脳内の神経回路を言う。具体的にはまだ詳しくはわかっていないけれど、見ているだけで、聞いているだけで、完全でないけれど、ほぼ同じ行動ができるようになる神経回路が脳内に存在している。乳幼児の情動の学習、生活習慣の学習、いろいろな技術の学習など、本能から以外の行動は、そのスタートはミラーシステムで行動を覚えて、繰り返すことで行動を上達させている。

0−10 病気とは。生理的には存在しない、生体内の物で生体に、日常生活に、不都合を生じる場合、これを病気という。単に日常生活に不都合を生じる場合は、障害という。障害だけでは病気ではない。障害は文化に大きく影響を受ける。原因が生体外に存在して、その結果生体を程度の差はあっても破壊して、生体に、日常生活に、不都合を生じる場合を、外傷という


$1 脳科学から見た子どもの心(「子ども論」第一章 諷詠社 参照)

心は脳の機能である。子どもの心は大人の心と異なる。 行動に直接関わる脳の機能を 本心(real intension) と言う。 子どもの本心は情動(旧皮質、大脳辺縁系)だが、大人の本心(新皮質、前頭前野)は意識である。 

1−1 子どもは言葉を話す。形態、行動は人間 。 しかし心は動物、特に類人猿とほぼ同じ心(情動)と、人間の大人と共通の心(意識)とを持つ。 子どもは年齢が少なければ少ないほど、体が小さく運動能力も低いから、親への依存度が高くなる。 思春期になると体も運動能力も大人並みになってくるが、社会生活という意味では親へ依存をしなければならないことが多い。 それは思春期だといっても、その心は子どもの要素を強く持っていることによる。


1−2 子どもの情動と意識とは、ほぼ独立して機能をしている。子どもでは意識は言葉にだけしか表現されない。子どもでは行動は情動の表現、つまり情動行動である。子どもの本心(real intention)は情動である。大人の情動は意識で調節されていて行動に表れにくい。意識で調節できないくらいに情動が強いときにのみ、感情として意識される。大人の本心(real intention)は意識である。

1−3 子どもの心と大人の心は全く別な心と考えてほぼ間違いない。子どもが思春期頃に達すると、心が元気な子どもでは、心が突然と言ってよいほどに、大人の心に変化していく。子どもが思春期頃に達すると、突然意識の心で行動できるようになる。しかしまだ情動も働いていて、意識で調節が下手なために、大人の目から見たら、心が不安定な状態に理解される。大人の心を未熟な状態にすると子どもの心になるのではない。子どもの心に、大人の心の要素を付加すると大人の心になる。

1−4 子どもは言葉で知識を表現し、行動で情動を表現している。情動は潜在意識だから、その場限りで、記憶に残らない。子どもも自分のした行動を意識的に理解することはできない。もし子どもが自分の心を言葉で表現したときには、その表現を周囲の大人が言葉で子どもに教えたことを記憶して表現したものである。子どもは自分がした行動を大人がわかるように説明できないのが当たり前だし、大人が子どもの行動を大人の知識と経験とで説明しても、それは子どもの心に沿っていない。つまり子どもへの対応を間違えてしまう。子どもの心を知るには、動物の心を理解し、子どもに当てはめて考える必要がある。

1−5 進化論から言える子どもの本能

1−5.1 子どもは母親に守られる必要があるし守られようとする。ほ乳類で父親が育児に関わっている動物はほんのわずか。ほ乳類の場合、母親から離れたら、子どもの死を意味する。

1−5.2 ほ乳類の場合、母親には母性という本能の存在がある。父性もあるのであろうが、類人猿の場合は母性の存在が子どもの安全を守る。

1−5.3 ほ乳類では子どもは母親に対しても、子どもの周囲の環境に対しても、順応しようとして成長をする。周囲の環境に順応しようとしないと、子どもは生命が危険になる。淘汰される。

1−6 動物実験から言える子どもの本能

1−6.1 嫌悪刺激で逃げようとする。逃げられないときには暴れる。 それでも嫌悪刺激を与え続けると、動物はすく身の状態になる。

1−6.2 嫌悪刺激を受けて暴れている状態の動物が、その嫌悪刺激から逃げることを経験した動物は、すく身の状態にならないで、暴れ続ける。

1−6.3 二匹の動物をケージに入れて、一匹だけに嫌悪刺激を与え続けると、嫌悪刺激を受けている動物は暴れると同時に、嫌悪刺激を受けていない動物を攻撃する。

1−6.4 ハリーハローの猿の実験は、小猿の心の安全や成長に果たす母親の役割を実証している。 人間にも概ね当てはまると考えられるし、心が辛い子どもに応用すると、ほぼ同様の結果を得られている。

$2 子どもの情動

大人の行動は習慣行動と意識行動であるが、子どもの行動は習慣行動と情動行動である。 習慣行動は日々の子どもの行動を見ていると理解することができるが、情動は潜在意識だから、子どもにいろいろと質問をしても意味がないし、大人の心からの理解は子どもの情動を理解できないので、動物から学んだ情動を理解する必要がある。 情動の基本は本能である。 本能は必ず機能をしているから、子どもの心を理解するには、まず子どもの本能を理解する必要がある。 情動を表現する言葉はいろいろとあるが、その言葉による表現は、状況に応じて生じた情動を指している。 情動を大きく分けると、接近系と回避系がある。

2−1 接近系の本能

2−1.1 成長をする。 心身の成長に喜びを感じる

2−1.2 母親または子どもが母親と認識する人が必要。 母親の前では素直な子どもの姿で成長をしようとする。 母親が子どもを苦しめない限り、子どもは母親の前では、よい子を演じない。

2−1.3 何かを求めるエネルギー(意欲)が大きい。 心が辛くないと子どもは何かを求めて必ず動き出す。 その動き出す方向は子どもが属する環境に順応する方向であり、また、両親の生き様をまねしようとする。

2−2 回避系の本能(four F)

2−2.1 辛い刺激から逃げようとする(flee from fear stimulus)。逃げるために、脳は自律神経を介して、ホルモンを介して、体内に逃げるに適した状況を作る。

2−2.2 辛い刺激から逃げられないときには「よい子を演じる」(act fair actions)。 よい子を演じるという概念は後ほど詳しく説明する($4よい子を演じる)。その際の辛さの程度に応じて、自律神経やホルモンに異常を生じ始める。

2−2.3 よい子を演じられなくなると荒れたり、問題行動(fight against fear stimulus)をするようになる。自律神経やホルモンに異常を生じる。

2−2.4 荒れたり、問題行動を大人の力で押さえつけられたとき、また子どもの性格として荒れたり、問題行動をできない子どもは、心の病の症状を出す(freese action)。 自律神経やホルモンに異常を生じ、身体的に病的な症状を出す

2−2.5 嫌悪刺激の症状

子どもは辛さがなければ、子どもの本能として、子どもが属する社会に順応する方向に、また親の生き様をまねして、成長しようとする。 子どもが嫌悪刺激から逃れられたときには、子どもは以前の子どもの心の状態に戻れる。 それと同時に、その嫌悪刺激から逃れる知識を身につける。嫌悪刺激から逃れる知識を持った子どもは、嫌悪刺激から上手に逃げることができるようになる。

子どもが嫌悪刺激から逃れられないとき、子どもは無意識に、過去の経験から、よい子を演じる。よい子を演じている子どもの姿は、大人にとって好ましい姿だが、子どもの体内では自律神経やホルモンに異常を生じる。 その異常を生じる程度は、よい子を演じる頻度や、時間で異なってくる。子どもが体内で生じる自律神経やホルモンの異常で生じる辛さに耐えきれなくなると、子どもは次の辛さの症状、荒れたり、問題行動をするようになる。

子どもがよい子を演じきれなくなると、子どもは荒れたり、問題行動をするようになる。 荒れるとは家の内外で暴力行為をしたり、万引きや盗み、暴走行為、いじめなどの、親や大人が嫌がることをするようになる。

子どもが荒れたり、問題行動をしても、大人の力でこれらの行為が押さえつけられた場合、または子どもの性格から、荒れたり問題行動をできない子どもでは、いわゆる心の病の症状を出すようになる。

嫌悪刺激が加わると、その嫌悪刺激から効率よく逃げ出せるように自律神経が働き、ホルモンが分泌される。嫌悪刺激から逃れられたなら、自律神経もホルモンも、元の状態に戻る。ところが嫌悪刺激から逃れられないと、交感神経はよりいっそう強く働き、ホルモンもより多く、より長く働くことになる。その結果体中に自律神経の症状を出し、ホルモンによる症状を出すようになる。これらの症状は病的な変化を体に生じて、二次的に病的な症状を出すようになる。血圧、心拍、呼吸、代謝、消化吸収、免疫に大きな影響を与え、胃潰瘍、過敏性腸炎、潰瘍性大腸炎、甲状腺機能亢進症、甲状腺機能低下症などの病気として治療を受けている人たちを見かける。

子どもが荒れたり、問題行動をしたり、心の病の症状を出すとき、大人はその原因を見つけようとする。大人が見つけた原因はほとんどの場合間違っている。原因が見つからないと判断しても、それは見つけられないのであり、原因がないのではない。つまり、子どもには性格が悪い子どもはいないし、心の病も存在しないことになる。大人が悪い子ども、心の病を持った子どもと判断したときには、子どもが出している嫌悪刺激から逃げられなくて辛いというサインを、誤解しているだけである。

2−3 刺激の相互作用

2−3.1 接近系の刺激の連続の時、接近系の刺激の作用が減弱され、最終的には刺激としての作用がなくなる。つまり慣れを生じる。

2−3.2 回避系の刺激の連続の時、回避系の刺激の作用が強められる。相乗作用があり、きわめて弱い回避系の刺激でも、繰り返すことで、その刺激を受けているという人には、とても強い回避系の刺激になる。 他の人では理解できない回避系の刺激の存在が説明できるし、多くの場合、当人も自分に加わっている嫌悪刺激に気づいていないことが多い。

回避系の刺激に慣れがあると主張する人がある。 または嫌悪刺激がある環境に順応する反応があるという人がある。 動物のすく身の状態がこれに相当すると主張をしている。 しかし嫌悪刺激を受けて、その嫌悪刺激から逃げることを経験した動物は、すく身の状態にならない。 つまりすく身の状態とは、動物が逃げることを放棄した状態、自分の生存を放棄した状態であることがわかる。 それは嫌悪刺激から逃げだそうとしている動物、すく身の状態になった動物の伝達物質の量や、体内のホルモンの量を測定しても、その動物が回避できない嫌悪刺激に、暴れるという回避行動を放棄しただけの状態であることが分かる。 動物のすく身の状態は、人間で言えば心の病の症状を出している状態に相当する。 動物と人間とでは、大脳新皮質の機能が大きく異なるために、回避できない嫌悪刺激に対する反応の仕方に、このような違いを生じる。

2−3.3 接近系の刺激の後に回避系の刺激が続くとき、はじめ接近系の情動を生じ、その後減弱された回避系の情動を生じるか、全く回避系の情動を生じなくなる。 回避系の刺激の後に接近系の刺激が続くとき、はじめ回避系の情動を生じ、その後減弱された接近系の情動を生じるか、全く接近系や回避系の情動を生じなくなる。子どもの心の問題を生じるのは回避系の刺激だから、子どもの心を守るために、回避系の刺激を受けた子どもはその後接近系の刺激が必要である。 ただし、接近系の刺激の接近性を高めるために、適度な回避系の刺激も必要である。楽しさ、喜びを求めるには適度な嫌悪、恐怖も必要である。

2−4 嫌悪刺激からの症状のまとめ

2−4.1 身体症状(自律神経、ホルモンを介する症状)

あらゆる身体の病気の症状を出すと考えていた方が良い。動悸、息切れ、胃炎、胃十二指腸潰瘍、過敏性腸炎、潰瘍性大腸炎、じんましん

2−4.2 精神症状(脳新皮質症状)

あらゆる精神疾患の症状を出す。鬱病、統合失調症、食思不振症、不眠

あらゆる発達障害の症状を出す。いわゆる幼稚化である。この幼稚化は、幼児で見られる発達障害と症状は似ていてもその意味は大きく異なっている。以前にしきりと言われたアダルトチルドレンも幼稚化と同じ意味である。

2−4.3 今の医療は、まず第一に症状を消して、その後の社会復帰を目的としている。大人はすでに社会活動をしているのに対して、子どもは成長過程なので、心の成長を考える必要があり、大人の心と同じに考えることはできない。症状はストレス状態であるというサインであるが、日常生活に障害を来すから、病名は障害という言葉を最後につけている。障害自体は病気という意味ではないが、医療では日常生活に著しく障害を来す障害は病気だと定義をしている。

現実の対応では、一番大きな嫌悪刺激は

1) 義務教育年齢では 学校(fecos)。 子どもがそれ以外のことを言ってもそれらは増悪因子であり、解決してもそれほど意味をなさない。

2) 高校生から大学生年齢では 学校と自己否定(恐怖反応だがFecorのような物)

3) それ以後の大人の年齢では 自己否定、職業と汎化した辛さを生じる条件刺激fecos

2−4.4 子どもでは、他人から見たら異常な状態でも、当人の情動は素直(生物として生理的)に働いている。基本的に子どもがしてい行動は、全て接近系か習慣からの行動であり、その子どもの行動を修正しようとする大人の対応、治療はそれを否定されることになり、嫌悪刺激になる。この事実が、大人が気づかないうちに、子どもを否定し続けている、子どもに嫌悪刺激を与え続けている事実になっている。

2−4.5 脳の機能としては生理的なのだが、社会生活上不都合な精神疾患の症状を出しているのに、その症状を出すような嫌悪刺激が見つからないので、今の精神医学は精神病としている。日本{の子どもで精神疾患として治療を受けている子どもでは、必ず嫌悪刺激があるが、多くの他の人では嫌悪刺激でないので、大人がストレス刺激だと気づかないだけ。大人でも、長年精神症状を出しているために、脳内の精神症状を出す神経回路が強化されて、嫌悪刺激に敏感になっていることで、嫌悪刺激に気づかない。大人の場合の気づかない原因の一つとして、嫌悪刺激が汎化していて、全く嫌悪刺激に気づけないようになっている


$3 rules for unabled mindとrules for capable mind
  心が辛い子どもの論理と心が元気な子どもの論理

多くの子どもは私たちが今までしてきた子育てで問題なく成長をする。 しかし一部の子どもは今まで私たちが子育てでしてきた対応で、かえって辛くなり心の成長を阻害されてしまう子どもがいる。 それらの子どもは心が絶えず辛い場外にある子どもたちです。 心が絶えず辛い状態にある子どもたちには子どもたちに問題がありそれを正して私たちの常識が通じるようにすべきと多くの人は考える。 しかし実際に子どもたちの行動を正そうとすると、かえって心が辛くなり問題行動を強めてしまう子どもたちのことを「心が辛い子どもたち」、そしてその心が辛い子どもたちへの対応の仕方を「心が辛い子どもの論理rules for unabled mind」と表現することにする。 それに対して、ごく普通の常識的な対応で問題ない子どもたちのことを、「心が元気な子どもたち」と表現し、そのような子どもたちへは今までの私たちの子育て、対応が効果的ですから、その対応の仕方を「rules for capable mind」と表現する。

3−1 心が辛い子どもの論理rules for unabeld mind が当てはまる心が辛い子どもは、絶えず辛い思いをしています。嫌悪刺激を受けている。 周囲の大人には子どもが受けている嫌悪刺激が分からないので、嫌悪刺激を受けていないと理解しているから、子どもが回避行動をとると子どもの心が異常だと理解してしまう。 しかし心が辛い子どもは辛さを生じる条件刺激fecosという周囲の大人には分からない嫌悪刺激fecosを受け続けている。 絶えず心が辛い状態にある。 何もしていないと絶えず辛くなるので、子どもは辛くならないことをして、辛くなる時間をやり過ごそうとする。 それが子どもたちの刹那的な喜びを求める行動、遊びである。 大人の目から見たら、そのようなことばかりをしないでもっと他のことをすればよいと思うことが多いが、子どもは他のことができないから、唯一できることである刹那的な喜びを求める行動をする。 子どもが苦しむ原因を親が子どもから取り除かない限り、子どもは絶えず辛くて、その辛さを回避するために、刹那的な遊びに没頭する。 子どもが辛いと反応する刺激が何であっても、その嫌悪刺激が何か分からなくても、子どもが辛そうにしているなら、周囲の大人には分からない嫌悪刺激fecosが子どもに加わっていると理解して、心が辛い子どもの論理rules for unabled mindを当てはめる必要がある。

3−2 心が辛い子どもの論理rules for unabled mind は子どもの本能に沿った対応の仕方だから、身体障害、脳障害がある子どもを含めて、すべての子どもに当てはまる。 心が元気な子どもに当てはめる必要がないだけである。 心が元気な子どもには心が元気な子どもの論理rules for capable mindを当てはめた方が子育ての効率がよいという大人からの理由がある。 ただしその際に、大人からの要求を子どもが大人に合わせているという面があることを忘れてはならない。

3−3 心が辛い子どもの論理rules for unabled mindと心が元気な子どもの論理rules for capable mindを、コップに水が入っている場合で例えてみる。 コップが心で、水が辛いことです。 コップの中の空間が喜びです。 コップに入っている水の量が少ないと、水をある程度足しても水はコップからはあふれない。 これが心が元気な子どもの論理rules for capable mindに例えられる。 水の量に無理が利きく。 コップに水がいっぱい入っているか、ほとんどいっぱい入っていて、少しの水を入れてもコップから水があふれ出してしまう場合を心が辛い子どもの論理rules for unabled mindに例える。 コップに水を入れられない。コップに水を入れて、あふれ出た水が、荒れたり問題行動をしたり、心の病の症状だったりに例える。 ですから、この場合、コップに水が入るのを防がなければならない。 コップの水は時間とともに蒸発して、少しずつ少なくなっていく。 しかし時間がかかる。 コップの水を減らすのは喜びです。 楽しいことを続けることで、コップの中の水は減り、空間が増えてくる。 心の余裕が増えて、辛いことに出会っても、荒れたり、問題行動をしたり、心の病の症状を出したりしなくなります。 心が辛い子どもは絶えず辛さを生じる条件刺激fecosに晒されているから、つまりコップに絶えず水を加えられているから、コップの水が絶えずいっぱいになっていて、水がこぼれるかこぼれやすい状態になっている。

3−3 心が辛い子どもの論理rules for unabled mindの具体的な内容

3−3.1 子どもの心が辛いときには辛い心の反応を示す。 心を辛くする物を取り除けたら、子どもは辛さを示さない。 けれど、多くの場合子どもが辛くなる原因がわからない場合が多い。 わかったと思っても間違っていることが多い。 またわかっても取り除くことができないことが多い。 子どもが辛い心の反応を示しているときには、母親は原因を見つけて解決しようとしないで、子どもの辛さに共感し、スキンシップをすると、子どもの心の辛さが減るか、無くなる。
3−3.2 子どもは、ありのままの自分を母親(母性)に認めてもらいたいだけ。認めてもらえれば後はその子どもなりの楽しさを求めるという方法で、時間を掛けて(成長)自分なりに解決する。母親に聞く耳があれば、子どもは自分の心の内を全て母親に話そうとする。心の成長、解決方向は母親と与えられた環境に順応する方向。母親は子どもの動きの後追いをしていくだけでよい。決して先回りをした対応をしてはならない。
Capable mindの子どもは、よい子(母親の要求を受け入れて、それを行う)を演じきる心を持っている(トラウマFecorがないので、嫌悪刺激に耐えられる、心に余裕がある)だけの違い

3−3.3 ありのままの子どもを認めるとは、要求を全て認め、共感とスキンシップである。教育、治療は心が元気な子どもでは受け入れる心の余裕があるが、心が辛い子どもでは、心が辛い子どもA child of disabled mindを否定することになる。子どもへの関わりは母親(子どもが母親として納得している人)を介して行う

3−3.4 母親が母親の機能を発揮していないときには、他の人(多くは女性)に母親の代役を求める。 他人によるカウンセリングの意味が、子どもにはないだけでなく、子どもを苦しめることになる。 母親が無条件で子どもの訴えを聞き続けることが、一番のカウンセリングになる。

3−3.5 自然発生的な子供の要求でないもの、楽しくないことを求められると、特に子どもでは、それは嫌悪(苦しめる)刺激になる。心が元気な子どもはよい子を演じる。子どもがよい子を演じると、大人は子どものためによいことをした、子どもの心に沿った対応をしたと考えてしまう。心が辛い子どもでは、子どもは大人の要求を受け入れる心の余裕がない。その結果、子どもは回避行動をとるようになる。

$4 よい子を演じる fair action 2−2回避系の本能を参照

子どもがその辛さを回避するためによい子を演じるという行動をとる。 子どもが他の人から辛い思いをさせられているとき、子どもとしては不本意だが、その人が希望する行動をして、その人がそれ以上その子どもに辛い思いをさせないような行動の仕方を無意識に見つけ出して、行動をする。 そのためには、子どもは過去にこのような経験をしていなくてはならないし、それを思い出す能力を持っていなければならない。 つまりよい子を演じるにはそれなりの頭の良さが必要だし、頭がよい子はきわめて複雑な行動をして、大人にはわからない場合が多い。

子どもはその本能からありのままの子どもから成長を求めている。 それが子どもの喜びである。そのありのままが認められなくて、その辛さから逃れられないとき、その辛さを生じる刺激をなくする方法を、過去の記憶から無意識に見つけて行動をする。 子どもはその成長の過程で、大人から求められることをその時だけ受け入れることで辛さを生じる物から逃れることを知っている。

子どもにとって母親は最高の喜びである。 母親が子どもを責めない限り、子どもは母親の前ではよい子を演じない。 子どもは基本的に母親の前では素直な子どもの心で行動をする。 母親が子どもを責めると、子どもは母親の前でもよい子を演じるようになる。 子どもがよい子を演じきれなくなったときには、子どもは母親に向かって問題行動をするようになる。 子どもが母親の前と他人の前とで姿行動が違うときには、母親の前の姿行動が子どもの素直な姿であり、他の人の前の子どもの姿行動は、よい子を演じている姿である。

よい子を演じること自体は、解決できたらその子どもの新たな知識になる(いわゆる学習)。 しかし見かけと違って心の中では辛い(脳神経の反応では回避行動)から、無意識に、どこかでその辛さを解消する行動をすると同時に、辛さについて敏感になってくる。 心に余裕がある子どもや辛さがほとんど無い子ども心が元気な子どもの論理rules for capable mindでは自分なりに遊びなどで解消できる。 多くは大人の目が届かないところで問題行動をすることで解消して悪影響を残すことはないし、場合によっては子どもの能力を伸ばすことにもなっている。 心が辛い子どもの論理rules for unabled mindでは、大人の目の前で問題行動をするか、少しだけ心の余裕がある子どもは大人の目の前でよい子を演じて、大人の目が届かないところで問題行動をする。 これが大人には理由がわからない、思わぬ事件になることがある。 常識に反するので大人が気づかないうちに、子どもは辛さに敏感になっていき、よい子を演じられなくなっていく。

大人が、子どもがよい子を演じることを見分けるのはとても難しい。 多くは時間経過の中で、結果的によい子を演じていたことがわかる。子どもを目の前にして、子どもが心底よい子なのか、子どもがよい子を演じているのかを見分けるのは難しくて、不可能に近い。 子どもがよい子を演じていることを見分けるには、大人は常識を捨てて子どもを素直に見る必要がある。見分ける方法は以下のようである。

4−1 子どもの姿、行動が良すぎるとき

4−2 子どもが親が知らないところで、問題行動をしているという噂があるとき

4−3 子どもが過剰に享楽にふけっているとき

4−4 よいこと思っていた子どもがだんだん元気をなくして、母親の前でもいつもと違うと感じられるようになったとき

これらのことを加味しても、母親の前の子どもの姿行動が、一番子どもの素直な心からの姿行動に近い。

4−5 子どもが持っていない物を得ようとして努力する姿、挑戦する姿を、そして親からの報償(褒められる、ご褒美をもらうなど)を求める姿を、よい子を演じる行動と理解できないこともないけれど、前者は子どもが自分の能力を伸ばそうとする本能行動である挑戦と、後者は報償を求める接近系の情動行動と、回避行動であるよい子を演じる行動と区別した方が、理解が正しい。


$5 母親 2−1接近系の本能を参照

5−1 進化の過程で、子どもの成長に母親が絶対に必要。父親が子育てに関与するのは、母親が母親の機能を果たさないとき、父親がその機能を補おうとする。

5−2 母親は子育てに必要な物を全て備えている。

5−3 類人猿の実験から、ストレスにさらされた子どもには、暖かくて、柔らかくて、揺れる肌が、子猿のストレス状態を解消できることがわかっている。

5−4 子どもの観察から、子どもは母親を求める。 母親が存在しないときには母親に代わる人を求める。子どもが母親と認識している人を無条件で信頼しようとする。 子どもの問題の一つの側面は、母親が子どもを信頼しないことが関与していることが多い。


$6 子どもの行動を考えるとき

6−1 子どもの行動の種類

6−1.1 思考行動

思考行動とは、自分の経験、知識を用いて自分の行動を意識的(言葉にして)に選択し行動する。 大人の心では思考行動が可能だが、子どもでは、言葉にできるけれど、実際の行動にするのは大変に難しい。 できないと考えた方が、子どもの心の問題の解決にはよく当てはまる。 子どもが思考から行動したように見えるとき、それは子どもが報償を求めて、または罰を回避するための行動である。子どもの行動を考えるときには、大人のような思考からの行動を考えると子どもの心に沿わないことになる。

子どもの意思(知識、思考)からの行動は、言語行動にしか表れない。 意思からの表現は、子どもでは言葉だけで、行動には表れないが、大人では言葉と行動に表れる。また、意思も情動の影響を受けている。 意思が働く前に、すでに脳内で脳神経活動が生じていることがわかっているが、それは情動ではないかと推測される。 そのとき働いていた情動で思考内容が変化をするし、情動が強く働いているときには、思考が働かなくなる。 このように、思考が働くには長い神経回路を経ることになるから、思考反応を生じるまでにはほかの反応より時間がかかる。

6−1.2 習慣行動

同じ行動を繰り返すことで可能になる行動の仕方。刺激から、記憶を経て、認知され、すぐに運動野に情報が送られて、反応する(皮質反射)ので、行動の中で反応が一番早い。生まれてからの経験の繰り返し、積み重ねで形成される。

たとえば野球選手がピッチャーの球を打った時を考えてみる。打者はピッチャーがどのような球を投げてきたから、どのように打ったかを言う。しかし実際のバッターはピッチャーが投げてきた球を、ピッチャーがどのような球を投げたから、どのようにバットを振って打ったらよいかを考えて、バットを振ったわけではない。今までの経験に基づいて、無意識に、反射的に打っている。打った後、その結果を見て、打者なりにピッチャーの球、自分の打席を振り返っていっているだけである。私たちの毎日の生活も、絶えず目の前のことを分析して、対応法を考えて、行動をしているのではない。何も考えないで、いつものように行動をしている。これらの行動を習慣行動という。

6−1.3 情動行動
刺激が情報処理されて、前頭前野から、運動野に送られて、反応するのと同時に、刺激が大脳辺縁系に送られて、扁桃体で情動処理されて体中に自律神経やホルモンを介して情動表現をする。この反応自体は直接意識に上らないが、体に表現された情動を、外からの刺激を取り入れる感覚器で刺激情報として取り入れて、前頭前野で認知され、認識される場合がある。これを感情という。情動は体の中に表現されると同時に、直接前頭前野に情報を送り、運動野に情報を送って、情動行動を誘発する。子どもの行動はこの情動行動か、習慣行動である。

たとえば学校の廊下を危険だから走ってはいけないという校則についてです。自然な子どもの姿なら、子どもは廊下を走ったり、歩いたり、遊んだりする。ところが先生がいると、子どもは廊下を走るのをやめる。それは廊下を走ってはいけないという知識から走るのをやめたのではなくて、先生にしかられるのを避けるために、廊下を走るのをやめたのです。子どもが学校に行くことも、学校が楽しいから学校に行く、学校に行く習慣がついているから学校に行く、学校に行くと親が喜ぶから学校に行くというように、子どもの行動は習慣からの行動と、報償を求めて、罰を逃れて、行動をしている。

大人の情動は意識で調節されていて、表面に出ることは少ない。意識の調節を超えて、情動が表面に出てきたものを感情という。それ故に、大人は普段習慣から行動をして、習慣行動がうまくいかないとき、当てはまる習慣行動が見つからないとき、思考が働き、思考行動をとる。大人では情動行動が子どもに比べてきわめて少なく、情動行動が多い大人を子どもっぽい大人と表現することが多い。情動を大切にする芸術家は、その行動がどうしても子どもっぽくなる。

6−2 子どもの立場からの子どもの行動

6−2.1大人の立場から、子どもが好ましい行動をする場合

子どもの行動、言葉、症状は情動行動か習慣行動であり、大人のような思考からの行動ではないと言ってよい。子どもの行動が習慣行動でない場合、つまり、大人から見て、大人にとって好ましい行動をするとき、必ず接近系からの行動か、回避系からの行動か、二つの要因を考える必要がある

1) 接近系からの行動・・・子どもが能力を伸ばそうとする発展性のある行動。子どもの何かに対する挑戦。挑戦に成功すれば、子どもは能力を伸ばせる。挑戦に失敗すれば、子どもは再挑戦をしようとする。結果的に子どもが置かれた環境に順応する行動となる。

2) 回避系からの行動・・・よい子を演じている行動(fair action)。子どもが何か辛いことから逃れられなくて、子どもが無理をしている。その無理に耐えきれなくなったこともは、よい子を演じなくてよい場所、大人の目が届かないところで、問題行動(親や大人がいやがる行動)をするようになる。

子どもの挑戦の行動とよい子を演じている行動(fair action)とはその場では区別できないことが多い。 後から振り返ってよい子を演じていたとわかることが多い。  子どもの挑戦の過程で、子どもがよい子を演じている過程で、子どもはどちらも辛い症状を出す。 挑戦に失敗して、新たな辛さを生じる条件刺激(fecos)を学習して、辛さを生じる条件反射(fecor)で苦しむ子どもも出てくる。 それを防ぐには、挑戦に失敗しても逃げていける逃げ道を母親は作っておく必要がある。逃げ道を作る方法は、子どもが何かをしたいと言って挑戦しているとき、その何かをしなくてよいと、母親が言いながら、子どもを待ち続けることである。 子どもが何かをしたいとよい子を演じているときでも、母親がその何かをしなくてよいと言いながら待つと、子どもはよい子を演じなくなる。 素直な自分に戻ろうとする。

6−2.2 大人の立場から、子どもが問題行動をする場合には、次の二つのどちらに属するのかを考える必要があります。

1) 子どもの持って生まれた本能からの行動(接近系)が大人にとって不都合な場合、親や大人はその子どもの行動を大人の思う姿にしようとします。子どもは生まれ持った性格から、行動をしようとしていますから、親や大人のこのただそうとする対応は、子どもにっては否定されたことになり、子どもはとても辛い状態になります。親や大人が対応をしているときにはよい子を演じて親や大人の対応に従いますが、親や大人がいなくなると、問題行動をするようになります。親や大人が問題だと判断した行動をますます親や大人が希望する方向の逆方向にしてしまいます。幼少期の発達障害と呼ばれている状態はこの子どもの姿だと考えられます。
 
2)回避行動(回避系)をしている場合です。子どもは何か子どもを辛くするものに反応をして、よい子を演じられなくなり、問題行動を行っている場合です。暴れる、ものを壊す、大人がいやがる行動をする、犯罪を犯してしまうなどです。子どもによっては、いわゆる幼児化を生じる子どももいます。この場合発達障害と診断されることが多いようですが、幼少期に正常と思われる成長をしていて、その後幼児化を起こしたときには、それは幼少時期の発達障害とは異なったものです。子どもを辛くするものが何かわかるなら、子どもは大人から守られる必要があります。

6−2.3 大人の前での子どもの行動の仕方

子どもの行動の仕方は大人と異なります。子どもの行動の基本は、子どもの本能行動と情動行動とそのときまでに身につけた習慣行動です。これらが阻害されると、子どもはとても辛い状態になり、情動の回避行動が生じます。子どもが単独で、又は子どもの集団の中で行動するときには、これらの本能行動、情動行動、習慣行動だけです。子どもが大人の前で行動するときには、これらの行動に加えて、また、これらの行動を阻害されて、よい子を演じる行動が加わります($4よい子を演じるを参照)。大人の前で子どもが大人にとって好ましい行動をしたときには、多くの大人は無条件で、大人が子どもによい対応をしたと考えます。これが子どもの理解の大きな間違いを生じる場合がしばしばあります。大人は子どもの姿を、子どもの素直な姿なのか、子どもがよい子を演じていた姿なのかを、絶えず考慮に入れておく必要があります。


$7 躾

子どもに大人が求める行動を習慣づけることを躾という。 子どもに躾をしようとするときには、子どもの心の構造を考えて行う必要がある。 子どもに躾をするときに、多くの大人は言葉で教えようとする。 しかし子どもは知識から行動をするのはできないか大変に難しい。 それは子どもに大きなストレス刺激を与えることになり、子どもは大人の目の前ではよい子を演じるが、その後かえって問題行動を行い強めてしまう。躾が逆効果になっている。

7−1 叱ることでの躾

子どもが問題行動をすると叱られる。大人が理由をつけて説明しても、子どもはなぜ自分が問題行動をしたのか理解していない(子どもの行動は情動行動だから)から、子どもはなぜ叱られたか分からない。 子どもは大人から嫌悪刺激を受けたことになる。 おとなから辛くされたことになる。その叱られた現場では、子どもはよい子を演じるが、それ以後辛さに敏感になる。子どもが行った問題行動を強めてしまう。叱られることが繰り返されると、子どもは辛いことに敏感に反応をして(大人が気づいていないものに辛さを生じる条件刺激(fecos)を学習して、辛さを生じる条件反射(fecor)を学習してしまう。 学習した辛さを生じる条件反射(fecor)を強めてしまう。 大人が子どものために子どもの性格を正そうとして、かえって、その子ども特有の回避行動が習慣化してしまう。絶えず問題行動をする子どもになる。

子どもを説得することで躾けることは、大人では合理的であるが、子どもでは真反対の、叱ることでの躾と同じ意味になる。子どもはなぜ自分が大人から説得されるような行動をするのかわからない。子どもが理解できないことを説明されると、子どもは子ども自身を否定されたと、子どもの情動で反応をする。大人から叱られたと同じ意味に、子どもの心の中で機能をする。

7−2 ほめることでの躾

子どもがある行動をすると大人から褒められる。 子どもは喜びを求めて、その行動を繰り返そうとする。 その行動を繰り返すことで喜びの条件反射を学習する。繰り返すことで喜びは薄らいでいくが、同一条件下で子どもは無意識に大人から褒められる行動を繰り返し、条件反射を強化していく。繰り返すことで、習慣化していく。

7−3 大人が繰り返し行動で示すことによる躾

親や大人が繰り返すことを、子どもは見たり、聞いたりしている。それが繰り返すことで、子どものミラーシステムが働き、あたかも子どもがその行動をしていたかのような神経回路が脳の中にできて、子どもが同一条件下に遭遇すると、親や大人が繰り返していたことを、無意識に、無条件でするようになる。


$8 辛さを生じる条件反射(fecor)( トラウマその成因と回復法、諷詠社参照)

日本人は、心を傷つける、心を傷つけたという言葉をよく使う。それは、辛く感じた、辛い経験をしたから、反応がおかしくなっているという意味であり、医療分野の心的外傷とも異なっている。医療分野の心的外傷、トラウマとは、脳の中に今の科学では見つからない傷ができて、そこからテンカンのように情報が広がって反応症状を出すと考えられている。ここではそれらの概念とはっきりと区別するために、辛さを生じる条件反射(fecor)という概念を提唱している。辛さを生じる条件反射Fecorとは、ごく普通に身の回りにあって、普通の人では気づかない辛さを生じる条件刺激Fecosに反応して、死んでしまうのではないかと思えるような辛い症状を出す反応を言う。

8−1 接近系条件反射

パブロフの犬の実験は有名である。

8−2 回避系条件反射

 嫌悪刺激で条件付けられた条件反射を、辛さを生じる条件反射 fecor トラウマという。辛さを生じる条件反射を生じさせる原因刺激を辛さを生じる条件刺激 fecos という。 脳内には辛さを生じる条件反射 fecor は一つと考えてほぼ間違いない。しかしこの辛さを生じる条件反射 fecor を反応させる辛さを生じる条件刺激 fecos は複数あることが多い。

8−2.1 辛さを生じる条件反射(fecor)はトラウマの条件をすべて満たす。よってトラウマは辛さを生じる条件反射 fecor であるが、トラウマは 辛さを生じる条件反射 fecor の一種であるが、辛さを生じる条件反射 fecor ではない。

8−2.2 辛さを生じる条件反射(fecor)の成因

嫌悪刺激が加わって動物が回避行動を行っているときに、情動を生じない無感刺激が存在すると、それ以後、今まで無感刺激だった刺激を経験することで、回避行動をするようになる。その無感刺激を嫌悪刺激として学習する。その動物のそばにあった無感刺激のうちで何が一番嫌悪刺激として学習されるのかという事実は、その動物の経験による。程度の差はあっても、その動物の側にあった物は全て嫌悪刺激として学習されていると考えられる。学習した嫌悪刺激 fecos で生じる回避行動は、学習させた嫌悪刺激とほぼ同じである。無感刺激を嫌悪刺激と切り替えた神経回路は扁桃体に存在する。扁桃体が無感刺激を嫌悪刺激と、切り替えた。この切り替える程度は、辛さを生じる条件反射 fecor が繰り返されれば繰り返されるほど強くなっていき、辛さを生じる条件反射 fecor が反応しない時間が長くなると、だんだん弱まって行き、最終的にはこの切り替えが消失する。また元の無感刺激に戻る。ただしこのためにはとても長い時間を要する。子どもの心の問題を考えるときには、辛さを生じる条件反射 feocr が自然消失することはないと考えた方がよい。

8−2.3 辛さを生じる条件刺激(fecos)の汎化

辛さを生じる条件刺激 fecos も嫌悪刺激である。辛さを生じる条件反射 fecor が反応をしている状態、つまりトラウマがうずいている状態は同時に辛さを生じる条件刺激fecosを学習している上ただから、新たな辛さを生じる条件刺激 fecos が学習されている。その辛さを生じる条件刺激fecosから新たに学んだ辛さを生じる条件刺激fecosを汎化した辛さを生じる条件刺激fecosという。子どもたちの辛さを生じる条件反射が繰り返し生じている場合、最初の辛さを生じる条件刺激fecos以外に、何が辛さを生じる条件刺激fecosになっているのか全く分からなくなる。感じ方としては、何も原因がないのにトラウマがうずきっぱなしと理解されるようになる。

8−2.4 恐怖反応、恐怖症、辛さを生じる条件反射(fecor)の違い。

恐怖反応とは、恐怖刺激の存在が理解されて、その恐怖刺激で恐怖反応を生じている場合である。

恐怖症とは、恐怖刺激は特定できないけれど、ある条件がそろうと恐怖反応を生じる場合である。ある条件を避けることで、恐怖反応を生じなくなる。ただし多くの人では、そのある条件で恐怖反応を生じない場合が多いので、病的に扱われることもある。

辛さを生じる条件反射 fecor トラウマとは、恐怖刺激が見つからないのでないと考えられるのに、恐怖反応を起こしている場合である。実際には辛さを生じる条件刺激fecosがあるので、その人は絶えず恐怖反応を起こすことになる。この絶えず辛さを生じる条件刺激fecosに晒されていることが、ほかの恐怖反応と区別する必要があることである。

8−2.5 辛さを生じる条件反射 fecor からの回復法。

辛さを生じる条件反射 fecor が反応しなければ自然消失するが、それを期待するのは難しい。そこで辛さを生じる条件反射 fecor を生じない場所に逃げるのが一番よい。

子どもが子どもとして楽しく過ごせて、辛さを生じる条件刺激 fecos の存在を忘れていられる状況を作ることである。

この二つ以外の対応は、子どものあり方を否定する対応になり、逆効果になることが多い。

8−2.5 いわゆる心の病、すなわち精神疾患とは何か?心の病を持っている子どものほとんどすべてが、辛さを生じる条件反射(fecor)を持っている。


$9 なぜ人々は人に存在しない心の病を考えるのか?(子どもの心の病、諷詠社参照)

社会生活の中で何か生活しづらさを感じ、あの人は、または自分がおかしい(怒りっぽい、すぐに落ち込む、行動が普通の人と違う、性格が異常)と感じたとき、その問題点を解決できないという点でも苦しんでしまう。その際に、正常、異常、病気の間に明らかな境界がないので、誰か判断をする人を求めてしまう。求められた人も、自分の意見に、根拠はないけれど、強制力を強めるために、障害と病気という概念を持ちだしてきている。もっと強制力を高めるために、客観性を高めるために、最近は脳についての知識からが広まってきた。正しいままでの精神医学のほとんど全て、心理学の多くは、脳の知識から説明がつけられていない。


$10 発達障害

一次的な発達障害(子どもの性格であり、病気ではない。大人にとって好ましくない性格と言うだけ)

子どもは本能としていろいろな性格を持って生まれる。その本能は人種的なものもあるかもしれない。子どもの属する社会で子どもの性格が評価されるために、そのままでは社会生活が難しい場合がある。その難しさは母親や家族に理解されて、子ども自身も与えられた環境に順応しようとする本能からその子どもなりに修正されて、子どもは子ども社会に出て行く。 子ども社会に出て行っても問題が存在するので、子どもはその辛い心を母親で癒やされて、その後子ども社会に順応していこうとする。この子どもが子ども社会に順応できない程度が著しいとき、つまり関係する大人にとって好ましくない程度が著しくて許せないとき、発達障害と言う概念を持ちだしているようだ。

関係する大人にとって好ましくない性格が脳に欠損、奇形、病変がある場合には脳障害と言って、発達障害とは言えない。発達障害とは脳は正常だが、その性格に異常と感じられる物がある場合である。異常を感じて病気とは言えない。成長の過程の個体的な特徴である。幼児期、学童期では、脳の欠損や奇形があるかどうか、分からないことが多いので、脳障害と発達障害と区別できないのは仕方がないのかもしれない。

乳幼児期に母親の情動をコピーする際に、社会生活にすぐに適応できる性格を得られなかった。そのために子ども社会に出て行ったとき、不適応行動となった。不適応行動を大人の力で矯正しようとすと、子どもには理解できないことなので、子どもは葛藤状態になる。その場ではよい子を演じるが、回避行動を強めてしまう。不適応行動を悪化させてしまう。その姿を発達障害と呼んでいるようだ。発達障害として認識されるようになるのは、子どもが保育園、幼稚園に行くようになってから、小学校の低学年のことが多い理由である。

それでも子どもは成長する過程で、社会に順応しようとする本能を持っている 。子どもが感じる辛さを母親の元で癒やされて、子ども社会に挑戦し続けることで、子どもは社会に順応する能力を高めていく。発達障害として治療をすると、その子どもはその子どもなりの成長を認められていないので、強い回避行動をとるようになる。ますます発達障害の症状を強めていく。子 どもが自分で問題を感じ、母親に癒やされて、自分の本能で自分の行動を変えようとするのを待つ(ありのままを認める)のが、時間はかかるが、一番確実で、一番早い方法である

二次的な発達障害(気づくのは、小学生以上の子どもや大人)

トラウマ(fecor)が反応した結果、回避行動の一つとして、発達障害の症状を出す。幼い頃の性格に発達障害が見られないことで、区別がつく。以前しきりと言われたアダルトチルドレンもこの二次的な発達障害をさしている。


$11 鬱状態

精神科医は鬱を心の風邪と表現して、積極的に受診するように進めている。風邪はビールスによって生じ、重症化しない限り、治療をしなくても、抗体ができて、ビールスが中和されて治癒をする。鬱はストレス刺激で生じて、そのストレス刺激が無くならない限り、直らないか、増悪していく。治療はストレス刺激をなくすることであり、必ずしも薬を投与することではない。薬を投与することで一時的な意味はある場合もあるが、基本的には解決にならない。

子どもは本能からトレス刺激から逃げようとします。逃げられないときにはよい子を演じます。よい子を演じられなくなると暴れる問題行動をします。暴れたり問題行動を大人の力で押さえつけられたり、暴れたり問題行動ができない性格の子どもは、心の病の症状を出します。その際に最初に出す症状は、鬱状態です。医者はすぐに鬱病として薬を投与しますが、それは間違いです。鬱状態にはストレス刺激が原因ですから、そのストレス刺激を取り除かない限り、解決はありません。

鬱病は鬱状態です。子どもの鬱状態は、子どもをストレス刺激から守ることで解決します。ただし、ストレス刺激が大人の目から見たら、ストレス刺激だと思えないことが多くて、見過ごされている場合が多いです。


$12 向精神薬の効果、大量投薬と減薬の問題

12−1 薬は脳(シナプスの伝達物質、脳神経)に作用する。薬は情動の回避系に作用をして、症状を出さないようにしている。同時に薬は接近系や、それ以外の脳にも作用をしているはずである。経験的に薬は刺激に対する反応速度と意欲をなくす。また、長期投薬の脳への影響は全く考えられていない。目の前の症状をなくすることだけしか考えられていない。

12−2 薬は症状に関係する神経系への作用で認可されている。可能な限り客観的に検討されているが、その大本は主観的な判断であり、その結果は主観的な、感覚的な判断になっている。臨床と一致しない症例が多くなる理由である。脳の機能はきわめて複雑であり、主観的な判断で治療がなされてよいのかどうかの問題は、全く考えられていない。ほかに方法がないから、やむを得ず薬を使うしかないという形で医療はなされているが、今の医療は医療が全ての心の問題を解決すると誤解されている。

12−3 薬は症状を軽減しているだけで、本質的な心の問題を解決していない。薬の作用は、脳から見たら、脳の機能を妨げる物であり好ましくない。脳から見たら好ましくない薬の多剤投与は、どのような影響を脳に与えるのか全く分かっていない。現実に多剤投与で内臓や脳への薬の副作用が複雑になり、その副作用で苦しむようになる。その薬の副作用を消すために、新たに薬の投与を受けることになる。

12−4 減薬を急ぐとリバウンドが起きて危険だと言われているが、根拠はない。リバウンドと考えられているものは

12−4.1 薬は症状を軽減している(症状を出す原因は続いている)だけであるから、薬を減らすと、元の症状が出てくる。

12−4.2 薬を長期に使用すると、元の症状は薬を使っている間に強くなっている。現実に当初は少量の薬ですんでいるが、経過とともにどうしても薬が増えてしまう。大量の薬を使うことになる。長期に大量に使用していると言うことは、薬で軽減している症状がとても強くなっているという意味になる。それは薬を減らしたときに、その強くなった症状が出てくる。だから薬を減らせない。

12−4.3 薬を飲んで一時にも楽になった人は、薬を飲むことで安心感を持つようになる。辛い症状が続くとこの安心感を求めて、薬をやめられなくなる。


$13 子どもへの長期投薬

多くの大人の場合には、その大人は社会的に確立している。精神症状で社会活動ができないと大きな損失になるし、精神症状を抑えて社会活動を続けられるだけで大きな意味がある(発病前の現状維持。QOL)。臨床的に見て、薬は症状の出現を抑制しているだけである。薬で症状が抑制されている間でも、嫌悪刺激に対する感受性が高まっていくことを阻止していない。その結果、薬の効果以上に反応が高まって、薬が見かけ上効かなくなる。これは子どもについても同じである。

子どもは成長過程にあるから、薬を飲むことでどのような影響を内臓を含めた体、脳に影響を与えるのか分かっていない。特に投薬する薬の種類が多くなったときの薬の間での相互作用が、子どもの身体脳にどのような影響を与えるのか全く分かっていない。

子どもの場合これから社会的に確立していかなければならないけれど、薬で精神症状を無くしても、子どもの本能からの成長して社会に順応しようとする能力が、薬で発揮できなくなっている。いつまでたっても親から、社会から、助けてもらわなくてはならない性格になってしまう。


$14 認知療法

14−1 トラウマを反応させる嫌悪指摘を、無意味な刺激と認知するようにする対応法を認知療法という。そのためには意識で情動を調節できなければならないので、大人の心でないと不可能である。子どもでは嫌悪刺激を再経験することになり、症状を悪化させる。経験的には二十歳代の大人でも効果が期待できないことが多い。ただし、現実にトラウマを反応させる嫌悪刺激は一つ出ないので、効果がない場合があるし、効果がないと自己否定感が強くなり、症状を強める場合がある。

14−2 大人にとって問題でも、常識では許されないことでも、目の前の子どもの姿をそのまま認めることで、子どもの自己肯定感を高められて、症状が軽減していく。その認める人が母親だと一番効率的である。大人は常識にとらわれるので、難しさがある。大人でも常識にとらわれない人なら、効果的である。自己否定からの辛さをそれでよいと認めてあげると、悪循環が断ち切れて、辛さが減るために、問題行動が減って、自己否定がなくなり、辛さがなくなる。自己否定以外の嫌悪刺激に対する反応が弱くなり、辛さが軽減する。

12−3 トラウマが反応する嫌悪刺激が加わっているとき、大きな喜び刺激を与えることで、嫌悪刺激を喜び刺激に置き換えることができる。トラウマを消失できる。子どもでは有効な方法である。

12−4 大人ではカウンセリングで認知療法を行うが、自分で自分の姿をそのまま認めようとする自己説得法も効果的である。子どもではしてはならない。


$15 未就学児の心の問題

子どもは本能と、母親から受け入れた情動と、それらで反応した経験から、反応し行動(習慣行動)をしている。まだ習慣行動が不十分なために、子ども社会に出たときに、問題を感じることが多い。この問題は子ども自身が解決するのであり、大人からはまだ幼いからと許されてきていた。最近はこの時期から大人の思いで子どもを動かす、つまり躾をしようとして、子どもの素直な成長を阻害して、子どもの問題を生じてくるようになっている。


$16 大人の心の問題と心の病について

大人の場合、子どもと違って、心の問題で苦しんでいる時間が長い場合が多い。苦しんでいる時間が長いことはそれだけ神経回路が強固にできているから、その神経回路を機能しなくさせる神経回路を作るのが難しい、つまり心の問題の解決に時間がかかることになる。

大人の場合、子どもと違って、精神的にも、経済的にも、ほかの大人に依存ができない。また、子どもから依存される場合もあり、自分一人の問題でない場合が多いので、解決法が複雑になる。

大人の場合、意思、思考から情動を調節できるようになるので、認知療法が可能になる。しかし、子どものように、無条件で自然にわいてくる意欲が少なくなっているから、成長により心の問題を解決することができない。


17 反抗期

いわゆる反抗期とは、思春期における親や大人に対する問題行動を言う。この時期は、脳の構造上心が大人の心の移行する時期であり、機能としてはまだ子どもの心のままであるのに、身体的には大人の身体になり、大人と対等にたち振る舞える時期である。また、子どもの生活範囲が広がって、子どもが辛くなるような経験をより多くする時期でもある。親や大人は常識が優先して、子どもが辛くなった心を理解しないことが多いので、子どもは子どもにより程度の差はあるが、よい子を演じ続ける。そのよい子を演じ続けられなくなったときに、親や大人に向かって問題行動をするようになる。その問題行動も大人並みの激しい問題行動をするようになるから、親や大人は、今までの子どもと違って、子どもが反抗をするようになったと感じるようになる。子どもがよい子を演じてそのまま大人になれたなら、親や大人が子どもの辛さを理解できて受け入れられたら、または子どもを苦しめるような辛さがないなら、子どもはいわゆる反抗期を示さないで、大人になっていく。


$18 不登校 (子ども論、第二章参照)

子どもが学校に対して感じる辛さから、学校に行かない状態を不登校という。小学校に入学後早期に不登校になる場合には、子どもの心が子どもの集団生活に適応するまで成長をしていないという意味に理解できる。それ以後は学校内の事件や子どもが苦しみ続けたことで、学校に反応する辛さを生じる条件反射 fecor を学習して、学校に行けなくなっている。子どもが不登校になったと親が気づいた時点で、多くの不登校の子どもの辛さを生じる条件刺激 fecos は、学校、先生、勉強、友達となっている。(別紙参照)


$19 いじめ、いじめられ (子ども論第二章参照)

いじめ、いじめられも、心が辛い子どもがよい子を演じ続けてよい子を演じきれなくなって、いじめをしたり、いじめを受けたりしている。確かにいじめる子どもがいなければいじめられることはないけれど、大人からいじめがあったとは思えない場合でも、いじめを受けたと感じる子どももいる。いじめられた訴える子どもがいじめられたと情動で感じたときには、それはいじめがあったと考えるべきである。いじめた側は嫌悪刺激をいじめられた子どもに与え、いじめられた子どもは嫌悪刺激をいじめたと訴える子どもから受けたという意味であり、いじめとはその嫌悪刺激を受けた程度が著しい場合である。それは言葉になる場合、すなわち子どもが意識する場合と、意識に上らない場合がある。いじめられたとは周囲の人の判断ではない。いじめられたと情動で反応する子どもがいる場合、その子どもがいじめたと表現する相手は、いじめたと思えなくても、程度の差はあっても、その子どもをいじめたことになる。

心が元気な子どもはいじめを受けてもいじめから逃げることができる。心が辛い子どもはいじめから逃げる方法論を持ち合わせていないから、いじめられ続けて、いじめの問題を生じる。大人から見て、いじめられる子どもにいじめから逃げる方法があると考えられても、いじめられている子どもにはそのような逃げる方法に逃げられない、その子どもなりの理由があることを、親や大人は知るべきである。

いじめをなくする方法は、いじめをなくそうとするのではなくて、心が辛くてその辛さをいじめという形で解消しようとする子どもをなくすることである。(別紙参照)


$20 子どもの犯罪 (子ども論第二章参照)

子どもは大人と異なり、個人的な利害関係から、犯罪と考えられる問題行動をしない。子どもは社会に順応しようとするし、親の後ろ姿に従おうとする。子どもが問題行動をするのは、嫌悪刺激に晒されていて、よい子を演じても演じきれなくあんったと気である。嫌悪刺激に、よい子を演じていたことにも気づかないで、子どもの問題行動を大人の理由で考えたなら、子どもが問題行動をした意味が分からない。大人なりの理由をつけて大人なりの対応をして、子どもが悪かったから子どもを矯正する必要があると結論が出るだけである。

子どもの犯罪は子どもが克服することができない辛さに晒され続けられて、限界を超えてしまったというサインである。親や大人は、子どもが犯罪を起こした意味を子どもの心に沿って理解して、子どもを辛くした嫌悪刺激から子どもを守ると、子どもは社会に順応した大人になることができる。


$21 ありのままのあなたでいいんだよ

 子どもにとって「ありのままの自分で生きる」ことは、子どもの本能としての欲求(情動の接近系)です。子どもが「ありのままの自分で生きよう」とすると、それは親や社会にとって都合が悪いことが多いです。そこで理由をつけて子どもの「ありのままの自分で生きたい」という欲求を抑えつけて、親や社会が要求することに従わせます。子どもは弱い立場にありますから、それに従わなくてはなりません。大人は子どもが納得して従ったと理解していますが、子どもは仕方が無くしたがっています。多くの心が元気な子どもでは、このような対応が可能です。

 「ありのままの自分で生きたい」という思いを多くの大人は子ども時代に感じて育ってきています。そして親になって、自分の子どもも「ありのままの自分で生きたい」と願っているのに、自分が育てられたように、子どもの「ありのままを認めない」子育てを、親から自分が受けた子育てを続けています。その理由の一つとして、「ありのままに子どもを育て」たら、どの様な子どもに育つのかを、大人が全く知らないという事実があります。また、親や社会の要求で縛り付けられて育った子どもの成功例しか教えられていないという事実もあります。常識や社会からの要求に沿わない子育てをしたから、子どもが問題行動をしたと教えられているからのようです。

 
心が辛い子どもrules for disabled mindを守り育てるのは、まさに「ありのままの子どもをありのままに育てる」子育ての実験です。そして私たちが対応をしている限り、全てその子どもなりに元気な大人になって、社会に出て行っています。心が辛い子どもにとって「ありのままの自分を認められる」ことは、子どもが成長をして社会に順応をしようとする強い動機を与えます。子どもの問題解決にとても役立ちます。別の表現をするなら、親がありのままの子どもを認めることで、子どもは自分で自分の問題を自分で解決して、成長をしようとしますし、解決することができます。親が知らないところで子どもは問題行動をしません。それに対して、親が子どもを厳しく躾けたら、子どもは親の前でよい子を演じます。親は上手に子どもを育てたと考えますが、親が知らないこところで問題行動をして親をびっくりさせます。親を困らせます。子どもが子どもを殺す殺人事件の多くはこのことに大人が気づいていないことから生じています。


補足 (1) 認識の脳科学 ほ乳類での脳の情報処理の仕方

感覚器からの情報は感覚神経で視床を経て、感覚野に投射される。感覚野では、感覚情報は感覚情報の基本まで再分割されてそれから再統合されて、いくつかのまとまった情報として、頭頂葉から側頭葉にかけての領域に記憶される。頭頂葉では主として空間的な情報、側頭葉では意味的な情報が記憶されている。

記憶に使われた情報は、前頭前野、大脳辺縁系扁桃体、海馬に送られる。前頭前野では感覚内容を認知される。認知された情報は、運動連合野に送られて、必要な反応情報が組み立てられて、運動野に送られて、体中の筋肉に情報が送られて、表現される反応行動になる。これを皮質反射又は習慣行動といい、受けた情報に対して一番早い反応の仕方である。

記憶に使われた情報は、同時に大脳辺縁系扁桃体と海馬に送られる。扁桃体でどのような情動を生じるのか、情報が評価されて、視床下部から、脳幹を経て、体中の臓器に情動が表現される。自律神経とホルモンによる体内の調節である。評価された情報は前頭前野眼窩上回を経て、運動連合野に送られて、情動に基づく反応の仕方が選択されて、反応行動として表現される。これは情動行動といい、皮質反射に遅れて表現される。

海馬に送られた情報は、生じた情動情報と共に、記憶を強化する情報を作って、頭頂葉から側頭葉に情報を送る。永久記憶を作る。

人間では意識という脳の機能があり、これが他のほ乳類と異なる脳の機能である。意識が脳のどのような機能なのか、まだ正確には分かっていない。言葉に関係していることは分かっている。言葉は信号の一つであるが、言葉には具体的な概念を持っていることが、信号と異なっている。言葉で具体的な物や様子を再体験可能な点である。そのために、実際に物や様子が存在しなくても、それらを再体験でき、操作できて、新たな情報として記憶できる。意識とは少なくとも、言葉で表現できる感覚情報の処理の仕方であり、意識で情報を認知する場合を認識という。

意識した情報は逆行性に記憶を経て、感覚野に送られて、現実に感覚していなくても、感覚していた時を再体験できる。意識した情報は記憶を経て、情動に送られて、実際に感覚していなくても、感覚をしていたときと同じ情動を生じることができる。

意識した情報は運動連合野に送られて、反応の仕方の情報が作られて、運動野から前進の筋肉に情報が送られて、意識行動になる。意識は言葉を用いて情報を評価している。それを思考という。認識した情報は言葉にされて、その言葉について、言葉を用いて分析される。その結果の選択を決定するのは情動である。選択結果、情動で一番強い接近系の情動が生み出された事柄を、答えとして選択している。そのために、思考には時間を要するので、意識行動の反応時間は一番長い。

意識は認知を経て、扁桃体に情報を送り、反応性を調節できる。情動を調節できることになる。そのために人間の大人は、情動を調節して、社会活動を可能にしている。この調節ができなくなったときに、感情的になっていると表現される人間の姿になる。

意識はそれ自体で生じているのではない。意識は情動からの情報で働き始めている。情動が働いていないときには思考は働かない。また、情動が強すぎるときには、思考は情動で抑圧されて、やはり働かなくなる。ただし子どもでは大人では情動が働かない状況でも、自然発生的な本能的な接近系の情動が働いて、そのための情動行動が見られる。

補足(2) 人間での反応

人間では反応の仕方(行動の仕方)に3種類ある。人間特有の思考行動、動物と共通の習慣行動と情動行動である。これらの行動は全て大脳新皮質の運動野を介して行われる。特に情動行動は、旧皮質から前頭前野眼窩上回を経て前頭前野を経て、運動野に情報が送られ情動行動が表現されると同時に、視床下部脳幹を経て、体中に情動を表現する。この際前頭前野では運動野に情動行動の情報が送られると同時に、意識を誘発して、意識行動の情報も作られ、意識行動として表現される。ただし、子どもでは意識が誘発されるが、その意識からの意識行動ができないか、大変に難しいという事実がある。

これらを総合して人間の反応又は行動をまとめると、まず皮質反射による習慣行動が生じ、それを追いかけるように情動行動が生じる。それに遅れて思考反応が生じる。それ故に情動を生じないような状態では、人間は習慣行動で行動している。情動が生じると習慣行動が少し出た後に、習慣行動を押さえて、情動行動が出てくる。その時間差はきわめて短いし、情動が働いているだけなので、習慣行動をしていたことが記憶には残らない。情動に基づいて思考が働くが、思考はそのとき働いている情動も認識して、思考を働かせ、思考行動を決定して、思考行動を表現する。情動が強すぎると思考が働かないか、十分に働かないで、情動行動だけが強く表現されて思考行動を伴わなくなる。いわゆるパニックと言われる状態も、情動が強く働きすぎて、思考がうまく働かなくなった状態の一つである。

子どもでは情動に基づいて思考が生じるが、その思考はそのとき働いている情動を認識でき、情動を含めた思考が可能であるが、その思考に基づいての行動はできないか下手である。その理由として前頭前野と旧脳との神経系結合が、軸索のミエリン化の遅れで不十分なためであると考えられる。また、神経結合が十分になっても、前頭前野が旧脳の神経活動を調節する能力を獲得するには、それなりの調節しようとする経験の繰り返しが必要なために、それなりの時間的な経過が必要になる。個人差があるという意味。

補足(3)  言葉と意識

動物は声を信号として使用をしているが、人間は声を信号と言葉と使用している。信号は記憶を利用して皮質反射を生じる。一種の習慣行動である。言葉そのものは信号にもなって、思考行動を誘発する場合とがある。言葉は記憶を誘発し、その記憶を言葉で意識をして、その意識をした言葉を加工する記憶(すでに学習して記憶となっている)を誘発して、新たな記憶を誘発したり新たな記憶を作って、その新たに作った記憶に基づく行動を誘発する。この過程を思考と言い、その思考に基づく行動を思考行動という。この言葉を加工する記憶は、子どもが言葉を利用し始めたときから、親との会話、社会との会話で、できあがっていく。






表紙に戻る