大人への手紙

 ある商業新聞の記事についてです。「おとなへのてがみ1ー7」を読むと、灰色の教塔(白い巨塔をもじりました)である学校内の一断面がえぐり出されているのを感じます。最近、不登校の子供達の訴えを文章にした物を目にすることが多くなってきていますが、商業紙で子供の視点からのこの種の記事は、さすがに訴える力が強いように感じました。そこでいつも感じる事なのですが、小学校とは、中学校とは、場合によっては高等学校とは、一体何なのかと言う疑問が涌いてきます。私が知る限り、子供達の大半がこの「おとなへのてがみ1ー7」のような経験をしています。つまり子供達は教科書の内容の知識を積極的に身につけることを希望していないのです。子供達の多くは先生と個々に、人間的なかかわり合いを求めています。そのかかわり合いの結果なんらかの知識を得たいと望んでいるようです。それに反して、先生方はある範囲の知識を工夫を凝らして、何が何でも子供達の頭の中へ入れようとしています。その様子はいろいろな教育関係の雑誌を見ても分かると思います。そこには知識を子供に植え付けるための方法論ばかりが載っています。それが悪いわけではないのですが、そのような見方は、結果として方法論の結果が大切になり、子供達を単に対象として見ることになり、子供達の個人としてのかかわり合いを見落とすことになります。特に公立の学校は生徒の性格や能力の多様性が大きくて、結果の成功した子供達ばかりに先生の注目が行き、不成功の子供達を救えずに、見捨てることになりがちです。

 それでは学校は何のために有るのでしょうか?確かにかつてはそれなりの役割を果たしました。しかし現在は学校が有るために、どれだけの子供達の心が傷ついているのでしょうか?そればかりでなく、今の教育システムで勝ち残り、大学に進んだ子供達の学力の低下、能力の低下が問題になっています。それでいても日本の科学や文化、工業はそれなりに進化しています。それは何を意味しているのでしょうか?答えは簡単でないと思います。しかし少なくとも今の小、中、高の学校が機能していない、変わらなくてはならないことを意味していると思います。

 それではどの様に学校が変わらなくてはならないか、先生が変わらなくては成らないか、そのヒントの一つが「おとなへのてがみ7」に見られると思います。ただこのような姿の学校、子供の心をつかもうとする学校を、文部官僚を含めてかつて受けた教育で頭が堅くなっている大人達が認めるだろうかと言う問題が新たに生じると考えられます。次に、このような形態の学校ではいろいろな失敗が生じ易いし、事故も起こり易いです。その際に、誰が責任を取るかと言う問題を生じます。事勿れ主義の大人からは格好の攻撃材料になります。つまり、管理が大切か、子供の心が大切かの問題を生じます。子供の身体的な安全を重視すれば子供の心が傷つくし、子供の心を大切にすれば、子供の身体的な安全をある程度犠牲にしなくてはならないと言うジレンマを生じます。

 現在の所、今の学校のあり方、先生のあり方では良くないことは「おとなへのてがみ1ー6」のように、子供達がすでに示しています。しかしどう変われば良いのか、はっきりとした見透しはたっていません。それならどうすれば良いか、それは「おとなへのてがみ7」のように、良いと思われることを先生や親達がどんどんやってみることだと思います。どんどん成長する子供達には、猶予はないのです。ですから、思いついた人がどんどんやれる範囲でやってみることだと思います。学校のあり方を変えるのも良いし、全く新しい形の学校を作るのも良いし、家庭内学習でも良いと思います。そして文部省も内容には触れないで、それを認める事ではないかと思います。できたら文部省が経済的にも保証することだと思います。失敗を認めることだと思います。事故が起きても、それを政府が保証するぐらいの度量が欲しいです。現実に、小学校に一日もいかなくても、中学校に一日もいかなくても、小学校、中学校の卒業資格が取れるのですから、あらゆる形の教育形態を認めても良いと思うのです。

 子供達は教育上の平等を訴えてはいません。訴えているのは欲の目から見る大人達です。それよりも子供達には子供達が教育を受ける場所の選択の自由があっても良いと思います。公立学校も選択される必要があります。選択が許可されると、親の欲目から、子供達がある学校へ集中する可能性があります。その際の選別に問題は残すとしても、学校や先生の自然淘汰は必要な感じがします。

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