「学校って何?、先生って何?」
 
 元来、子供のための学校は、子供に読み書き算数等、子供が大人になって社会生活をするために有効な手技を教える所でした。日本では富国強兵策の一環として、日本の文化程度を高めて、西欧に追いつくための政策から、義務教育が施行されて、日本中くまなく学校が設立されました。そのように設立された学校が、現在の文化的に発展し、経済大国であり、物質的に豊かな日本を作り上げたと言っても良いかも知れません。この様に学校自体の存在やそのあり方の問題は、極めて人為的な物であり、決して人間という生物としての自然現象ではありません。つまり、学校とは人間である為政者が意識的に学校を作り、その意味を定め、維持をして、現在も大筋では設立当初の形態のままで存在をしています。為政者は法律で学校を規定しています。その事実は、その時代時代の為政者のあり方で学校のあり方、問題点が変化してくると考えられます。日本国中の大人は、その人なりに学校のあり方に対する意見を持っており、それを総括した形で、行政が学校を維持しています。その教育の手法とは、教師が教科書の中の知識を子供に教えて、子供がどの程度その知識を身につけたかをテストという形で測定するというやり方です。また、その知識をどの程度拾得したのか、その到達度を子供の間で競争することにより子供達を振り分けています。

 この様に、学校教育とは社会が物質的に貧しかったときに作り出された物であり、当時の物質的に恵まれなかった多くの子供達には夢や希望を与える物でした。また、この知識の到達度を競う競争に負けても、子供達は元々貧しかったが故に、それ以上に追い込まれることも有りませんでした。ところが現在の物質的に豊かになった日本やアメリカ、西ヨーロッパでは、先生から与えられる知識に興味を示さない子供の割合が大きくなってきています。一方的に与えられる知識に拒否反応を示す場合も出てきています。学校にいることが辛い子供の割合が増えてきています。先生から与えられる知識の到達度で競わされることに恐怖を感じる子供が多くなっています。その理由はここでは触れませんが、昔ながらの学校のあり方では、現在の子供には必ずしもふさわしい物ではなくなっています。そのような事実が子供達にあるにも関わらず、親たちは子供が学校教育からはみ出さないことが、できたら学校教育での競争に打ち勝つことが、子供達の将来を保証するかのように考え続けています。そして、子供のためと考えて、子供が行き渋る学校へ子供を無理矢理に押し出しています。場合によっては強引に子供を学校へ連れていっています。

 勿論全ての子供に現在の学校のあり方が悪いわけではありません。勉強やスポーツなどの競争に適した子供には、現在の学校のあり方は問題にはなりません。しかし、現在の物質的に豊かな社会の中で競争を好まない子供達が増えてきています。それらの子供達にとって、競争を強いる現在の学校は辛い場所になっています。行政も、また多くの親たちも、子供達が辛く感じている事実には全く目を向けないで、競争を好まない子供達を競争する子供達に変えてしまおうと言う立場のようです。子供達の性格を変化させて、今の学校教育に合う子供にしようというやり方です。この競争を好まない、又は知識の一方的な押しつけを好まない子供達の性格を変えて今の学校のあり方に子供達を合わせようとする現在の指導法は、子供達を大変に苦しめています。現在の子供達を観察する限り、子供達が自分たちの性格を変えようと先生や親たちから働きかけられることに、とても苦痛を感じています。どうも子供達の立場からは、子供達が自分たちの性格を変えて現在の学校のあり方に合うようにすることは不可能なようです。しかし先生や親たちはそれができると信じています。現在の学校のあり方に子供達が従えないなら、子供達が自分たちの性格を変えて現在の学校のあり方に自分たちを合わせることを要求し続けています。子供達が現在の学校のあり方に自分たちを合わせられないのは、子供達が悪いと判断しています。そこに現在の学校教育の問題点が有ると私は分析しています。先生や親と子供達との思いの間にずれを生じています。子供が今の学校のあり方に合うように変われないなら、学校が子供達の変化に対応して変化する必要が有ると思われます。

 それでもこの様な現実の中で、多くの子供は元気に、一生懸命与えられた学校に適応しようとしています。そして、傷つきながら時間を過ごし、肉体は大人に向かって成長しても、学校生活の中で心が傷ついて、社会に対して好ましくない行動を取るようになっています。かなりの数の子供達にとって、学校や先生は自分たちを苦しめる存在になってきています。その結果子供達は「学校って何?」「先生って何?」と言う言葉を投げかけるようになってきています。これらの言葉で、子供達は学校が、先生がこうあるべきだという議論をして欲しいと言っているのではありません。これらの言葉の意味するものは、学校や先生は子供達の味方であり、決して子供達を苦しめる存在ではないはずなのに、現実には学校や先生が子供達を苦しめて辛い思いをさせているという意味が含まれています。学校や先生が子供達の求めている学校や先生でないと言う意味をこれらの言葉で表現しています。その結果子供達が学校でとても辛い思いを続けていることを意味しています。

表紙へ戻る