徒競争

 暑くて、のんびりとした時間の連続だった夏休みが終わり、あわただしい二学期が始まりました。二学期の授業が始まると、すぐに運動会の練習も始まりました。つくつくぼうしの鳴き声が聞こえる校庭で、行進や出し物の練習が、毎日のようにありました。

 私は運動が嫌いではありません。走るのだって遅くはありませんし、身のこなしだってけっこうす速いほうです。ダンスなどの体を動かすことは大好きでした。それなのにどうしても、徒競争だけを好きになれませんでした。私は今まで徒競争で三位までの賞を取ったことがありませんでした。徒競争で一等をとって、お兄さん達のように、賞品をもらってみたいという願いが、いつも強く働いていました。それでいて、人前に出ると怖気ついてしました。怖気ついていつものように走ることができなかったのでした。そのために、私は徒競争をすることを好きになれなかったのです。

 私は今、小学六年生。今度で小学校の運動会は最後です。私は六年生になってから、以前よりは足がずいぶん早くなったように感じていました。そこで今年こそは、徒競争で三位以内に入って、表彰されたいと強く思っていました。三位以内に入って、いつも私のことを

「のろま、のろま」

と笑っている兄達を、見返してやりたかったのでした。

 運動会が近づくに連れて、私の頭は徒競争のことでいっぱいになってきました。授業の最中でも徒競争のことを考えるようになっていました。はじめのうちは何かの折りにふと徒競争のことを思い出すくらいでしたが、運動会が後何日と言うぐらいに近づくと、絶えず徒競争のことばかりを考えてしまいました。授業には勉強に集中しようとして、一生懸命先生の方を見ていたのですが、時には、先生の姿がいつのまにか走っている私の姿になってしまいました。私が一生懸命走っているのに、少しも前に進まないで焦っている私の姿になっていました。私は慌てて、頭を振って、私の哀れな虚像を振り払う必要が有りました。

 家に帰ると、まだ残暑で蒸し暑い家の前の道路で、何回も何回も走る練習をしました。スタートダッシュの練習もしました。あたりが暗くなっても練習を続けました。おにいちゃんが、

「これだけやって、一等になれなきゃあ、おまえはよっぽどののろまだぜ。」

と言って、私のことを冷やかしました。

 夕飯を終えて、宿題をしようとして机に向かうとすぐに眠くなりました。眠くてしょうかないので布団にはいると、徒競争のことが思い出されて、すぐには寝つけませんでした。そうしているうちに、うとうとっ、としてその中で、私が徒競争で走っている夢を見ました。やはり一生懸命走っているのに、なかなか前に進まない私の夢でした。私は冷汗をかいて目をさましました。目がさめるとまたうとうととして、そのうちまた徒競争の夢を見ました。

 運動会の前夜はそれこそ何回も、私は徒競争の夢を見ました。そして朝早く目がさめてしまいました。外はまだ薄暗かったのですが、すでにお母さんが起きて、お弁当の支度をしていました。

「あら、百合ちゃん。もう起きたの。もう少し寝ていなさい。まだ早いわよ。」

「ううん。もう、目がさめちゃったから。」私は部屋に戻り、週刊少女漫画雑誌を見て、朝ご飯になるのを待ちました。漫画でも読まないと、徒競争のことを思いだして、落ちつけなかったのでした。

 私はいつもより早く登校して、運動会の準備をする係でした。秋晴れの暑い日でした。私は率先して準備の仕事をしました。そのためと寝不足のせいだったのでしょうか、運動会の最初の入場行進の頃には、疲れてけだるさを感じていました。六年生女子の徒競争はお昼前にありました。それまでは、私は生徒の席で、夢中で応援をしていました。

 徒競争のために、入場門の所に整列しました。私は相変わらずけだるさを感じていましたが、それでも友達とおしゃべりをして出番を気楽に待つことができました。

 いよいよ出番になりました。八人づつの列になってみると、私と一緒に走る人には足の早い人は二人だけでした。

「あーあ、良かった。この組だと悪くても三位にはなれそうだわ。」

私はほっとして、胸をなで下ろしました。

 スタートの順番が近づくにつれて、私の心臓は激しく動悸を打ちました。私は自分に

「落ちつくの。落ちつくのよ。」

と言い聞かせました。しかし、胸の動悸はますます強くなるばかりで、頭の中も真っ白けになり、周りの音もろくに聞こえませんでした。口は渇き、目はただ前方を見据えていました。もう友達とおしゃべりをすることすらできませんでした。

 前の組の人たちが走ったので、今度は私たちの組の番だとわかりました。

「用意」

の声でほかの人たちがスタートラインに手をつきました。私も慌てて手をついて、スタートの準備をしました。ただ、前を見ていました。後は何が何だかまったくわかりませんでした。

「どーん」

と音がしたことに、私は確信を持てませんでした。あたりを見てみると他の人たちが走り始めていました。私はそれを見て走りだしました。私たちの組で足が一番遅いと思っていた隣を走る加代ちゃんが、すでに私の一メートル以上前を走っていました。私は夢中で走りました。すぐに加代ちゃんに追いつきました。加代ちゃんに追いつきそうになったとき、加代ちゃんが転びました。私はとっさに加代ちゃんを避ける必要がありました。おかげで私も転びそうになりました。転びそうになったので、私はまた遅れてしまいました。

 私は一生懸命走りました。体がけだるくて、家で練習をしたときのようには走れませんでした。それでも何人かを抜いてゴールに飛び込みました。ゴールを走り抜けると、

「こっち、こっち」

と手招きされて、私は四位以下の所に並ばされました。徒競争は終わりました。私は泣きたい気持ちでした。

 運動会の午前の部が終わり、お昼を食べるために一般席のお母さんの所に行きました。ところがお母さんは私と顔を合わせるなり

「早かったわねえ、百合ちゃん。」

と、言ってくれました。私は

「スタートに遅れちゃったし、隣の加代ちゃんが転んじゃって。」

とがっかりした声でいいました。

「そうね。残念だったわね。それにしても、その後びっくりするほど早かったわ。スタートが遅れなかったら、きっと一等だったと思うわよ。あれで、四等なら悪くわないわ。」

と言ってくれました。私はその言葉で胸に支えていたものが、すーとどこかへ飛んで行ってしまいました。  

 

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