氷の将軍とすみれ草   須藤 透留
 
 昔々、日本がまだ氷で覆われていた頃のお話です。その頃は日本ばかりでなく、地球上の大半の陸地と海が氷で覆われていました。すなわち、巨大な氷の精の軍団に支配されていたのです。氷の精達は全て氷でできていました。氷でできた体を持ち、氷を食べて、氷の服を着て生活をしていました。冷酷な心をた氷の精の軍団は、地表上の全てを凍り付くして、その勢力を南へ南へと拡大して行きました。
 北方を完全に掌握した氷の精の将軍ジョンソンは、南の国々を征服するために、強力な氷の精の軍隊を率いてまず日本に攻め込み、北の方から日本を占領し、支配して行きました。地上の草花を枯らし、動物達を南へ駆逐し、大地を凍らせて、ジョンソンの軍団は激しい勢いで南下を続け、もうすぐ九州を占領してしまいそうな勢いでした。
 しかし春を迎えて戦局に変化がでてきました。南九州での戦いはそれはそれは激しいものになりました。ジョンソンの軍にも莫大な被害がでるようになりました。最前線では、かもしかや兎の軍団にかき乱されて、後方では手薄になってところから、若芽の軍団にじわじわと補給路を断たれて、ジョンソンの軍団には苦戦が続くようになりました。ジョンソンは戦線を後退させて、軍団を整えては何度も何度も波状攻撃をかけましたが、その度に撃退されてしまいました。
 多分皆さんはご存じだと思いますが、氷の精の軍団の主戦法は、暗い雲で空を埋め尽くし、冷たい北風を吹かせて、真っ白な雪で地上を覆い、全てを凍り付かせて占領するという方法です。ですから彼らの戦法の弱点は暖かい南の太陽の光です。夏を迎えてジョンソンの軍団は壊滅的な損害を受けて、苦境に立たされてしまい、撤退を余儀なくされてしまいました。
 撤退の途中でジョンソンの軍団はすみれ草の軍団に待ち伏せ攻撃を受けてしまいました。すみれ草の兵士達は隊列を組んで、激しく氷の精の兵士に挑み、倒していきました。退路を開くため、氷の精の兵士達も激しく反撃しました。その戦いは何日も何日も続き、ジョンソンの部下の多くは戦場に倒れて水と化してしまいました。大半のすみれ草の兵士もちぎれたり凍り着いたりして枯れてしまいました。しかし、ただ一株だけ頑強に抵抗して倒れないすみれ草がありました。それは薄緑色のか細い体に紫の衣をまとった、若い女の兵士でした。
 「私があの女兵士を一捻りに捻り潰してやろう。」
と言ってジョンソンは軍団の先頭に立ってこのすみれ草の兵士に戦いを挑みました。
「負けてなるものか」
すみれ草の細い体は激しい北風に揺られて今にも引きちぎれそうでしたが、必死に地面にしがみつきながら、その緑の腕を振り回して、次々に襲いかかる氷の精の兵士をなぎ倒しま
した。それでも次から次と氷の精の兵士が容赦なく襲いかかります。ジョンソンも氷のやい刃を振りかざして、すきを見澄ましてさっと切りかかりました。しかしすみれ草の兵士はさっと体をかわすと
「えい!」
とばかり、その緑の腕に持った太刀で切りかえしてきました。
 紫の衣が風に吹かれてひらひらとしました。すると細い体のあちらこちらに手傷を受けた素肌が見えました。力つきて倒れてしまうのは時間の問題のようでした。多くの手傷を受けながら孤軍奮闘するこのすみれ草の兵士の姿は痛々しくて、氷の心しか持たないジョンソンでさえ、ややもすると哀れでいとおしいと思えました。
 氷の精が優しい心を持つことは許されません。もし持ったならその心の暖かさで自分の体が溶けて死んでしまいます。自分が生き残るためには氷の精達はいつも残忍で冷酷でなくてはならないのです。しかしジョンソンはうかつにもこのすみれ草の兵士に心を打たれてしまったのでした。ジョンソンの心はジョンソンの体を溶かし始めましたので、ジョンソンは思うように動けなくなりました。その時です。ジョンソンは激しい傷みを感じて倒れてしまいました。すみれ草の兵士のやい刃を受けてしまったのでした。
 将軍を失った氷の精の軍隊は総崩れでした。氷の精の兵士達は我先にと北に向かって逃走して行きました。戦場に倒れたジョンソンは激しい傷の痛みに耐えていました。しかし溶け出した体の痛みは苦痛では有りませんでした。それどころか今まで感じたことの無い安らぎを感じて、死が近づいている事さえも少しも恐ろしく有りませんでした。ジョンソンは息も絶え絶えに、すみれ草の兵士に向かって言いました。
「すみれ草さん、どうして君は戦うんだい?女の君がどうしてそんなに強いんだい?無理して戦わなくても、南の方に逃げて行けばいいのに。」
 しおれかけ、倒れかけていたすみれ草は驚いたように振り返ると、倒れているジョンソンに気付いて、優しくそのちぎれかけた紫の衣を一枚掛けてくれました。それはジョンソンの傷の痛みを和らげると共に、ジョンソンの心にすみれ草に対する憧れの気持ちをもたせました。
「私も、私の兄弟も、私の両親も、おじいさんもおばあさんも、みんなここで生まれ育ちました。ここは私達の古里、私達の生活、私達の命そのものなのです。ですからこの地を誰にも渡すことはできません。女の私も命を掛けてこの地を守ります。」
「ではなぜ君達を殺しにきた私を殺さないのですか?私は君の仲間をみんな殺してしまったのに。」
「貴方はもうこれ以上私達に危害を加えません。ですから私はこれ以上貴方を責めません。私は皆んなと仲良く暮したいのです。」
「君はなんと優しいんだろう。侵略者の私を許してくれるんなんて。君はなんて美しいのだろう。私は君のような方に会ったことが無い。私はすみれ草に生まれてくれば良かった。そして君と一緒に暮らしたかった。いや、もう一度生まれてこれるなら絶対にすみれ草に生まれてきたいなあ。」
「今からでも遅くはないわ。一緒に仲良く暮らしましょう。」
すみれ草は優しく微笑んで答えました。
「私は生きたい。貴方を知って生きるということがどういう事だか、今初めて解りました。他の人を愛するってどういうことかがやっと解りました。でも私達氷の精にとって、他の人を愛することは死を意味します。すみれ草さん。貴方を愛してとこしえに生きてみたい。でも私はもう死ななければなりません。ありがとう、すみれ草さん。貴方にあえて本当に良かった。私は貴方の事を思い続けます。さようなら。さようなら、すみれ草さん。」
 命の絶えたジョンソンの体は凍らずに、自分の心の暖かさのため溶けて水になり、地面にしみ込みました。すみれ草は根からその水を吸い上げて、怪我を癒し元気を取り戻しました。こうしてジョンソンはすみれ草の体の一部となることによって、すみれ草と一緒に暮らすことができました。
 その後も何度となく氷の精の攻撃が有りましたが、地表の動物や植物が皆協力して戦ったため、氷の精の軍団は日本を支配することを諦めて、北の海の向こうに撤退していきました。そして日本は緑が多くて、色々な動物が沢山住む豊かな国に成りました。
 
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