嫌な靴   須藤 透留
 
 今日は月曜日。朝の早いお父さんはもう出勤してしまった。僕も早々に朝食を終えると
「ごちそうさま。学校に行ってきます。」
と言って席を立ち、ランドセルを背負うと玄関に行った。げた箱からいつもの運動靴を出してみて、僕はびっくりした。いつもの靴なのにどことなく違うのだ。どことなく小さく見えた。どことなく硬そうに見えた。どことなく僕の靴ではないみたいだった。
 それでも玄関の土間に置いて履こうとしたが、どうしても靴につま先すら入らない。
「えっ?どうしたんだろう?」
僕は運動靴を手に取って靴の中を良く見てみた。その靴は昨日まで僕が履いていた靴に違いがなかった。そこでまた土間に置いて履いてみた。しかしやはりその靴には、僕の足の指先も入らなかった。まるで靴の中に透明の障害物が入っているようだった。僕は玄関に腰を掛けて、両手で靴を持って履いてみようとした。しかしやはり僕の足は、少しも靴の中に入って行かなかった。
 しばらくの間、僕は両方の靴を何ども何ども交互に履いてみようとした。しかし僕の足は両足ともどうしても靴の中へ入って行かなかった。僕は焦ってしまった。僕は悲しくなった。早く靴を履いて学校へ行かないと遅刻してしまうのに、どうしても靴が履けないのだ。僕は泣きだしてしまった。
 僕の泣き声を聞きつけて、お母さんが玄関にやってきた。
「卓ちゃん、なに、ぐずぐずしているのよ。早くしないと学校に遅れるじゃあないの。」僕の様子を見て、お母さんが強い調子で言った。僕は泣きながら、
「靴がはけないんだよ。どうしても靴に足が入らないんだよ。」
と言ったら、お母さんはなお声を荒立てて
「何を馬鹿なことを言ってるの。さっさと靴を履いて学校へいきなさい。」
と怒鳴った。
 僕は泣きながら何ども何ども靴を履こうとしたが、やはり靴の中に足は入って行かなかった。そこでお母さんは僕から運動靴を奪うようにして、取り上げると、僕の足を掴んで、運動靴を無理やり履かせてしまった。
「さあ、これでいいでしょ!さっさと行きなさい。」
とお母さんが怒鳴った。僕は涙を拭きながら立ち上がり歩き出そうとした。しかしどうした訳だか、足が上がらないのだ。嫌な運動靴だ。靴が土間にくっついて離れないのだ。右の足も左の足も、どうしても持ち上がらないのだ。必死になって足を動かそうとしていると、ついにお母さんがかんしゃくを起こしてしまった。
「何をぐずぐずしているのよ。早く行きなさいよ。」
と思いきり僕の背中を押したので、僕はばたんと前に倒れてし、こたま腕と顔を打ってしまった。僕はわんわんと泣きだしてしまったが、お母さんはそれには頓着せずに、強引に僕の手を引っ張って起こすと、玄関の外に僕を引っ張り出して、玄関の戸をばしゃんと締めてしまった。僕は玄関の外でしばらく泣いていた。
 しばらく玄関の外で一人で泣いていたら、突然気分が楽になった。するとあの嫌な運動靴が軽く動きだしたのだ。いつもの運動靴と同じになったのだ。僕は学校へ向かって歩き出した。学校は既に始まっているから、歩いていても学校の生徒に会うことはなかった。
 学校へ行く途中の公園に来た。公園には人影はなかった。僕はランドセルをその辺に放りだして、ブランコに乗ってみた。いつも乗るようには面白くはなかった。そこで滑り台をしてみた。全く面白くなかった。滑っていても、この先にある学校の事が頭に浮かんできた。それを振り払いながらもう一度滑ってみた。やはり全く面白くなかった。公園のそばの道を通勤の人が、僕をじろじろ見て歩いて行った。僕はランドセルをそのままにして、公園の外へ歩いて行った。
 僕はどこまでもどこまでも歩いて行った。その時の運動靴は少しも意地悪ではなかった。それどころか、僕を乗せた一足の運動靴は地表を滑るように、僕をすいすいと運んで行ったのだ。学校とは全く別の方向へ歩いていった。僕はただ無心で歩き続けた。どこをどう歩いたのだか全く覚えてはいなかった。
 もうお昼はとっくに過ぎていた。お腹がすごく空いていた。お金の持ち合わせはなかったので、僕は何か食べ物を買うことが出来なかった。僕は途中の公園の水を飲んで我慢した。疲れと足の傷みが襲ってきた。だんだんまっすぐ歩けなくなった。すれ違う人が僕の姿をを見て、心配そうな顔をして過ぎ去って行くように思えた。僕は建物の陰にひと休み出来そうな所を見つけて、そこに腰を降ろした。腰を降ろして目を閉じたら、いつのまにか寝込んでしまった。
 僕を呼ぶ声で目を覚ますと、僕は部屋の中の長椅子の上にいた。お巡りさんが僕の顔をのぞき込んでいた。
「目がさめたかい。良く寝ていたね。もうすぐおかあさんが来てくれるよ。そこで待ってなさい。」
と言った。僕は初め自分がどこにいるのかわからなかった。しかしすぐに交番の中にいることに気づいた。僕はどうして良いのかわからなかったが、急に家に帰りたくなったので、
「僕、家に帰ります。」
と、机に向かって何か書き物をしているお巡りさんに言ったら、お巡りさんは顔を上げて、笑いながら答えた。
「どうやって帰る?ここは君の家からずいぶん遠くなんだよ。それにしても、よくこんなに遠くまで来れたものだね。歩いて来たんだろう。まもなくするとお母さんが来るから、心配しないで待ってなさい。」
 まもなくしてお母さんがタクシーで駆けつけて来た。お母さんは僕を見つけるなり、僕を抱きしめて泣きだしてしまった。僕も良く理由は分からなかったが、泣きでしてしまった。お母さんの柔らかくて暖かい胸が、僕をほっと安心させてくれたのだ。
 お母さんはお巡りさんに何どもお礼を言って、僕を連れてタクシーで家に帰った。タクシーの中では僕はずっとお母さんに寄り掛かっていた。お母さんは僕の頭にずっと手をやっていた。僕がお腹が空いているということで、家に帰るとお母さんはすぐにいろいろと食べ物を用意してくれた。お父さんが帰ってきても、何も僕に言わなかったので、僕はとても助かった。普段なら、げんこつ数発は覚悟しなくては成らないはずだったのだ。僕は疲れていたので、その夜は早々と寝てしまった。
 翌朝起きてみたら既に十時はゆうに過ぎていた。布団の中でぐずぐずしていても、お母さんは起こしに来なかった。昼ごろになり、お腹が空いたので台所に行ってみると、僕の食事が用意されていた。僕はゆっくりとご飯を食べると、その後ファミコンを夕方までした。ゆっくりとした、とても退屈な一日が過ぎて行った。
 それ以後僕は約二ヶ月間、あの嫌な運動靴を履くことはなかった。
 
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