イモリの沼   須藤 透留
 
 僕は今年の夏も山滝村に来ました。山滝村は高原の村です。日光はとても強いのですが、空気が乾燥していますから、日陰に入るととても涼しいのです。受験勉強をするにはうってつけの場所でした。去年の夏もここで頑張ったおかげで、僕の成績をぐんと延ばすことができました。生憎希望のM大学には入れなかったのですが、今年一年頑張ればきっとM大学に入れそうな自信がついたので、今年の夏も僕はここに来たという訳です。
 僕は農家の一室を借りて勉強をしていました。ずいぶん贅沢な勉強の仕方だと言う人があるかも知れませんが、一夏の予備校の講習会費よりも安い料金で生活できるのですから、僕に言わせれば決して贅沢な勉強の仕方ではありません。掃除、洗濯等、食事以外の事全て皆自分でしなければなりません。僕に取っては自立するための、そして将来下宿生活をするための練習にもなっていると思っています。
 このように言うと、僕はとても一生懸命勉強しているように思われるかも知れませんが、その実、僕は午後の大半を遊びに使っていました。昼食を終えると僕はこの農家の犬チコを連れて野山を歩くのを楽しみにしていました。チコは僕を家族の一員と思っているらしく、僕の命令にはよく従いましたから、僕が散歩に出かける時には、いつもチコを連れて行ったものでした。
 今年の夏も早速チコをつれて裏山を登ってみました。今年は梅雨が長かったせいでしょうか、山道がいたるところで壊れていました。湧水も方々で流れだしていましたから、滑って転ばないように、足元に気をつけながら、ゆっくり、ゆっくりと僕が登っていたのに対して、チコはちょこちょこと寄り道をしながら平気でどんどんと登って行きました。分厚い新緑のトンネルをかさこそと揺らして吹き去る風が冷たくて、汗ばんだ額や首にとても心地良い刺激でした。
 こ一時間も登り続けるとぱっと視界が開けて尾根に出ました。そこはずっと開けていて、一面の日光きすげが、まだその黄色な頭を持ち上げて、嬉しそうに日光浴を続けていました。ここが地蔵平と呼ばれている所です。この地蔵平の中央に結構大きな沼があります。僕とチコとはこの沼のほとりで一息ついて、水面に写る青空と白い雲とをながめていました。
 突然小さな声で
「健一さん、健一さん、」
と僕は呼ばれました。この辺りまではめったに人が来ることはありません。もちろん辺りを見回しても誰もいませんでした。
「健一さん、健一さん、どうか私のお願いを聞いてはくれませんか?」
声のする方を良く見ると、水際で一匹のイモリが水の上にちょこんと顔を出していました。
「君?僕を呼んだのは。」
「はい。健一さん、どうか私の子供を助けて下さいませんか?」
僕は僕の耳を疑いました。
「君の子供を助けるって、どういうこと?」僕は何が何だかさっぱり解らないまま聞きかえしました。
「実は先日の大雨で池の水があふれ出し、私の子供が一人、流されてしまったのです。ほら、聞こえるでしょう、私の子供が私を呼んでいる声が。」
 そう言われて耳を澄ましてみると
「お母さーん、お母さーん。」
と遠くで呼んでいる声が聞こえるような気がしました。
「さて、どうしたものだろう。」
と躊躇していると、脇でチロが僕を促して言いました。
「助けて上げましょうよ、健一さん。」
「え?、チロまで言葉をしゃべるの?うーん、じゃあ、やるだけやってみるか。」
僕は決心をしました。
「いまさっきの声から言うと、君の子供は向こうの沢の方に流されたんだね。」
「はい。沢の方角に流され、落ちて行きました。どうか子供をお願いします。」
 この沼から沢の方に降りる道はありません。険しい斜面を熊笹を分けて降りて行かなければなりません。しかしチロが先にたって降りて行けそうな所を見つけてくれましたから、潅木の枝で顔をつつかれたり、熊笹の葉で手に擦傷を受けながら、どうにかこうにか少しづつ降りて行くことができました。
 その時チロが叫びました。
「健一さん動かないで!熊よ!熊がやって来るわ。危ないからそこでじっとしていてね。」と言うか言わない内に、熊が熊笹の中からぬっと顔を出しました。チロが身構えてうなり始めた。
「何でそんなに怒っているんだい。俺、何もしやしないよ。それより、こんな所で何をしているんだい?」 
ずいぶん優しそうな熊でした。チロがうなるのを止めて、それに答えて言いました。
「僕たちはイモリの子どもをを捜しているんだ。君、見かけなかた?」
「この辺じゃあ見かけなかったよ。捜すの、手伝って上げたいけれど今忙しくて。足元が悪いから気をつけてね。」
と言って熊はたち去って行きました。
 もう暫く熊笹の斜面を下って行くと、僕らの頭の上の木の実をつついていた小鳥が不思議そうな顔をして言いました。
「お二人さん、どうしてこんな所を歩いているの?」
「僕たち、イモリの子どもをを捜しているんだ。君、見かけなかった?」
今度は僕が小鳥に尋ねました。
「知らないねえ。だけどこの先に兎さんが住んでいるから、兎さんに聞いてみるといいかも。私が行って聞いてきて上げるから、ここでちょっと待ってて。」
小鳥はそう言って飛んで行ってしまいました。しかし二、三分も経たない内に帰ってきて、もとの木の枝に止まって言いました。
「兎さんがそれらしいイモリの子どもを見たって言ってたよ。いますぐここに来てくれるから、ちょっと待っているといいよ。」
と言って、又おいしそうに木ノ実を食べ始めました。
「小鳥さん、ありがとう。助かるよ。」
僕は小鳥にお礼を言うと、一息つくために露出している岩に腰を掛けました。チロも僕の側に座って、大きくあくびをしながらいいました。
「そのイモリが私達の捜しているイモリだといいわね。」
 間もなくして茶色の野兎がちょこんと現れて言いました。
「君達、イモリの迷い子を捜しているんだって?そりゃあ大変なこった。俺、この先の清水が湧きだしている所に一匹いるのを知っているから、そこに案内してあげるよ。ついておいで。」
 兎はこの辺りのことを良く知っているとみえて、足場の良い所を選んで、僕たちをその清水が湧きだしている所へ案内してくれました。その清水が湧きだしている所の水溜りに、小さなイモリが一匹泣いていました。このイモリの子どもはずいぶんお腹が空いているらしくて、とても衰弱していました。
 「君が尾根の沼から流されてきたというイモリ君かい?」
と、僕が尋ねても、イモリはちょっとうなずいただけで、弱々しく泣き続けていました。 僕はどうやってこの弱ったイモリを尾根の沼まで連れて行こうかと考えました。幸い僕のポケットの中にビニールの袋がありましたから、その中に水とイモリを入れて運んで行くことに決めましたが、何しろ急な斜面と密生した熊笹の中を登らなければなりません。登って行く最中にビニールの袋が破れたら大変です。その時にはきっとこのイモリの子どもは死んでしまうでしょう。そのことを気ずかっていると、
「俺が登り易い道を捜してあげるよ。」
と言って、兎が道案内を申し出てくれました。又ちょうどその時、先ほど出会った熊が、のっそ、のっそ、とやって来ました。
「迷子のイモリが見つかったんだって?」
「うん、ありがとう。おかげで見つけることができたんだけど、連れて帰るのが大変だよ。この破れ安いビニール袋が破れちゃうと、このイモリの子どもは死んじゃうかもしれないからね。」
僕はイモリの入ったビニールの袋を熊に見せながら答えました。
「それじゃあ、この俺が笹を踏み倒して、歩き易くしてやろう。」
ということで、熊もイモリの子どもを尾根の沼に連れて帰る手伝いをすることになりました。
 兎が先頭を切って歩き安いルートを捜しました。その後から熊が熊笹を踏み倒して続きました。その後から僕がビニール袋を破らないように、気を付けて歩いていきました。最後にチコが満足気に、尻尾を振り振り続きました。
 兎と熊のお陰で、思ったよりも楽に地蔵平に戻ることができました。イモリの子どもを沼に戻してやりますと、イモリの母親は涙を流して喜び、僕やチコ、兎、熊に何ども何どもお礼を言って、イモリの子どもを連れて、沼の底に消えて行きました。
 僕たちは
「やったね、やったね。」
と言って、喜んで抱き合いました。この様にして抱き合った時、動物達の心の暖かさと優しさが、僕の肌を通して伝わってきて、僕も目頭が熱くなるのを感じました。
 初夏の太陽も照り疲れたとみえて、その熱も弱くなり、空を茜色に染めて、まだ残雪の残る峰の向こうに沈もうとしていました。
「皆、今日は本当にありがとう。皆が協力してくれたので、とっても良いことができました。僕たちはいつまでも仲良くしていきましょう。」
僕は皆にお礼を言うと、又いつか会う事を約束して、手を振って別れ、尾根を降りて行きました。しかし、不思議な事に、尾根を降り始めた頃には、チコは尻尾を振ってくんくん言っているだけで、もう僕が理解できる言葉は何も話さなくなっていました。
 部屋に戻ってから、僕は今日の午後の不思議な出来事を順を追って思いだし、考えてみましたが、どう考えても府に落ちませんでした。将来僕は科学者に成ろうと考えていますですから動物達が人間の言葉を話すことなんて絶対に信じる訳にはいきません。今日の所は、僕がきっと夢をみていたのだろうと、自分自身に言いきかせるしか方法がありませんでした。それにしても、動物達って何と優しくて、思いやりが有るのだろうと、僕は思ました。
 翌日、僕はチコを連れてもう一度地蔵平に登ってみました。しかし沼のほとりに立ってみても、何も変わったことは起りませんでした。水面をあめんぼうが数匹、すっすうと滑っているだけで、一匹のイモリも顔を出すこともありませんでした。沼の周りには、昨日あの野兎や熊がつけた足跡も無かったし、僕とチコとの足跡すら見つけることもできませんでした。周囲の熊笹も、押し倒されたり踏みつぶされたりした跡も無く、僕は今日も又自分の目を疑わざるを得ませんでした。
「それじゃあ、昨日の出来事は何だったんだ!やはり、僕はここで夢を見ていたのかなあ。確かに動物達が人間の言葉を話す訳が無いよね。でも、この手の怪我はこの斜面を降りる時にした怪我なんだよ。すると僕は夢遊病者になっていたのかなあ。それにしても頗る不思議な話だなあ。チロ、チロ。もう一度何とか言ってくれよな。」
しかし、チロは僕の側に座ってあくびをしただけでした。
 地蔵平には今日も初夏の日の光が一杯でした。僕とチロは沼のほとりに腰を卸して、暫くの間、水面に写る青い空と白い雲を眺め、小鳥達が歌を歌うのを聞きながら、大自然の中で時間がゆっくりと進んで行くのを楽しんでいました。
 
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