「人さらいが出た!」    須藤 透留

 

 皆さん、人さらいって知っていますか?。実は私も本当は良く知りません。多分悪い人が子供を誘拐してどこかへ売ってしまうことだと思います。昔の日本の中では、このような子供の人身売買が時々みられたとのことです。戦後間もない健ちゃんの村で実際に人さらいがあったかどうかはわかりませんが、子供達は

「人さらいが出るといけないから、遠くまで遊びに行ってはいけません。」

と親によく言われたものでした。今から考えると、子供達を村の外の危険な場所に行かせないようにするための、親からの脅し文句のようにも思えるのですが、小さな子供達にとっては、人さらいはこの世の中で最も怖い物の一つになっていました。

 幼稚園児の健ちゃんも、人さらいはとても恐ろしいものだと信じていました。しかし実際には絵本で見たことのある大きな熊のような動物を想像していました。そしてこの動物に出会うと咬み殺されて食べられてしまうことを考えていたようです。

 健ちゃんには小学五年生の慎ちゃんと小学三年生の良ちゃんの二人の兄がいました。慎ちゃんは、この夏休みには昆虫採取をやるんだと言って、良ちゃんと健ちゃんを引き連れて毎日野山を歩き回っていました。慎ちゃんはトリモチのついた長い竹の棒を持って先頭をきって進みます。良ちゃんは虫採り網のついた竹を持って後に続きます。健ちゃんは竹ヒゴでできた虫篭を肩からぶらさげて、二人の兄に遅れないよう一生懸命ついて行きます。ムギワラ帽子に白い半袖のシャツ、半ズボンにゲタ履きといういでたちで、毎日のようにかけまわっていました。

 今日は昆虫採取の目玉、熊蝉を採りに行くことになりました。村の中ではめったに熊蝉を見かけることはありません。三人はギラギラ輝る太陽の下、村を通り抜けて林の中に入っていきました。林の中では木を一本一本丹念に調べながら進んで行きます。勿論鳴き声が聞こえれば蝉のいる場所を見つけるのはさ程むずかしくありませんが、蝉は人が近づくとパタッと鳴くのを止めてしまいます。又、雌は全然鳴きませんから、目を凝らして見つけ出すしか方法がありません。熊蝉が見つかったとしても、多くは木の高い枝にとまっているので、持って行った網が届かないことの方が多いのです。そこで木に登って捕らえようとするのですが、その間に蝉はたいてい飛んで逃げてしまいました。三人は声をひそめて、あまり足音を立てないようにして草を踏み分けて林の中を進んで行きました。

 林の奥深くまで来たことを最初に心配しだしたのは良ちゃんでした。

「兄ちゃん、人さらいが出るといけないからぼつぼつ帰ろ。」

「このへんはまだ大丈夫さ。」

慎ちゃんは五年生だけあってまだ少し強気です。でも本心では少し心配になっていたのですが、兄として強いところを見せたかったのでしょう。健ちゃんは二人の兄ちゃんがいたので全く気にしていませんでした。

 しかし不安というものは一度生じるとしだいに強くなっていくものです。三人の進軍はその先十分とは続きませんでした。時折吹く風が今まで以上に林を揺すっているように思えます。下草の中でも異様な音がしているような気がします。

 慎ちゃんの威勢も限界に達しました。山鳥の飛び立つ羽音と鳴き声は慎ちゃんに人さらいの出現を確信させました。

「人さらいが出た!」

慎ちゃんが先頭を切って今来た所を走り出しました。良ちゃんも

「人さらいが出た!」

と言ってその後に続きました。健ちゃんは正直言って何がどうしたのかよくわかりません。ただ兄ちゃん達の言うことを真似して、

「人さらいが出た!人さらいが出た!」

と声を張り上げて、一生懸命兄ちゃん達の後を追いかけるだけでした。

 村が見えてきたので三人は走るのを止めました。大汗をかいて肩でハアハアと息をして苦しそうです。慎ちゃんは少し青ざめて放心したような顔つきでした。良ちゃんはうつ向いていました。健ちゃんはふしぎそうな顔をして二人を見比べていました。

 

 

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