石鹸のウサギ      須藤 透留

 

 もう二三ヶ月も前からの事です。僕が自分の部屋で机に向かっていると、時々誰かが僕を呼んでいるような気がしました。多分気のせいだろうと思って、僕はいつもほっておきました。しかし、何日も、何日も、呼ばれた様な気がする日が続いたので、僕は少し自分に疑いを持ち始めていました。

 ある日のことでした。僕は又誰かに呼ばれたような気がしました。良く耳を澄まして聞いてみると、その声は押入の中から聞こえて来るようでした。僕は意を決して、押入の戸を開けてみました。勿論、だれも押入の中には居ませんでした。僕は

「やはり空耳だったのか。僕は勉強の事が気になって病気なったのかなあ。」

と思って、押入の戸を閉めようとした時、

「健ちゃん。」

ともう一度僕は呼ばれました。

 それはどうも押入の中の棚に積んであった箱の中から聞こえて来たようでした。僕は箱の一つを開けてみました。そこには石鹸でできたウサギが入っていた。

 真っ白な体に目だけが赤い、小さなウサギでした。手のひらに乗せてみるとなかなか可愛い物でした。

「やっと僕を見つけてくれたね。」

ウサギは僕を見上げて言いました。

「君は確か、二三年前に、お父さんが僕に呉れた石鹸のウサギだよね。」

僕が不思議そうな顔をして言うと、

「ああ、そうだよ。僕を捨てないでいてくれて有り難う。僕を君の側に置いててくれれば、きっと君の役に立つよ。」

とウサギは真面目な顔をして言いました。僕はウサギを机の横の棚に置くと、数学の勉強を始めました。

 僕は数学が得意でしたが、それでも因数分解など、なかなか解けない問題もありました。するとウサギが頭を持ち上げて

「XYでくくってみて。」

とアドバイスをくれました。それに従ってやってみると、確かに問題は解けました。

「ウサギ君、君はずいぶん頭がいいんだなあ。大したもんだ。」

僕が感心をして言うと、ウサギはまじめな顔をして

「だから僕は君の役に立つと言っただろう。」と言いました。

「じゃあ、しばらく僕の勉強を手伝ってくれよ。」

「解らない時に手伝うだけだよ。」

ウサギは表情を変えずに答えました。

 この様にして、石鹸のウサギは僕専属の家庭教師になりました。この家庭教師には、解らないことは何も有りませんでした。とても上手に僕の勉強を見てくれたので、その後、僕の成績はどんどん上がりました。お父さんもお母さんも、僕の勉強ぶりをたいへん喜んで、僕の欲しいものは何でも買ってくれました。僕は少々天狗になっていました。

 それから一年ぐらいたった、ある日の事でした。僕はうっかりして、この兎を机の上に置いたまま学校へいってしまいました。学校に行っている間にお母さんが僕の部屋の掃除をしました。その際に、僕の机の上の石鹸の兎を見つけて、それを洗面所に持って行って、手洗いに使ってしまったのでした。

 僕が学校から帰って、洗面所で手を洗おうとした時、既にすり減って、わずかに形だけが兎らしいと解る石鹸の兎を見つけた。僕は喫驚しました。「しまった!」と思いました。

「お母さん、お母さん、この兎の石鹸、どこから持ってきたの?」

「健ちゃんの机の上からよ。」

「なんで勝手なこと、するの。」

「健ちゃん、あの石鹸、いるんだったの?」

「形が面白いから、とっておいたのに。」

勿論本当の事は言えませんでした。

「そうなの。後免ね。石鹸だから使わないともったいないと思ったのよ。」

僕はそれ以上、何も言えませんでした。僕は見るも無残な兎の姿を可愛そうと思う前に、これから先の自分の勉強がどうなるのかが、一番の心配として頭の中を駆け巡りました。

 石鹸の兎を部屋に持って帰って、話しかけてみました。しかし兎はもう何も答えてくれませんでした。僕は兎が、いつかまた声をかけてくれるかも知れないと、かすかな期待を持って、兎を引出しの奥にしまっておきました。けれど、それ以後、兎は二度としゃべってくれることは有りませんでした。

 石鹸の兎がいなくなってから、僕はいつまでも天狗ではおれませんでした。今までの成績を維持するためにいままで以上に勉強をせざるをえませんでした。その勉強をする僕の姿を見て、お父さん、お母さんは益々喜びました。僕の苦労を知らないで、自分の息子の自慢話ばかりをしていました。

 

 

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