「不登校拒否」は存在するか?

 「不登校拒否」という言葉は現在のところ無い。しかし新たに作ったとしたなら、どのようなことを意味するだろか考えてみた。「不登校拒否」には、登校拒否ではないという意味と、不登校を拒否するという意味の二通りの意味の言葉にできると思う。ここで触れておかなければならないことは、登校拒否と不登校は同一の物ではないことである。つまり、不登校をしている子供達の多くは登校拒否であるが、登校拒否をしている子供には不登校でない子供もたくさんいると言うことである。学校に行くことを拒否しているが、外圧で学校へ行かされている子供、習慣として無理して学校へ行っている子供がたくさんいるという事実である。

 不登校拒否を登校拒否でないという意味にとるなら、それは登校を拒否することなく学校へ行っているという意味になる。もし本当に子供が登校を拒否することなく学校へ行けているのなら、それは多くの親も希望していることであり、親としても、その子供としてもありがたいことである。子供の心が学校に対して傷ついていないと言うことである。親にとっては好ましいことであろう。ただし、子供にとって本当に好ましいかどうかは別の問題である。

 不登校拒否を不登校を拒否すると言う意味に取るなら、それはその子供にはゆゆしき問題になるであろう。つまり、不登校とはただ単に学校へ行っていないというのではない。登校拒否をして、それが親から認められて、又は認められないが実力行使で登校をしていないという意味である。不登校をしていると、登校拒否をしている原因でそれ以上心が傷つくことがない。心が傷ついた子供には好ましい状態である。登校拒否とは恐怖を生じる学校を回避することである。子供が自分の意志で恐怖である学校を回避する行動を拒否することは不可能である。親たちからの外圧で、子供の意志に反して拒否させられるのである。無理して学校へ行かされている状態である。登校拒否をしているが、不登校状態でない子供を意味していることになる。

 不登校の子供が、その子供の不登校を問題視する大人に向かって「不登校拒否」と言ったなら、それはあなたは登校拒否で無いという意味でなければ面白くない。学校へ行っているか登校拒否をしているかという見方でなく、登校拒否をしている子供の立場から見て、登校拒否をしていないか、登校拒否をしているかという、見る視点の基準をその子供の立場に変えているから面白い。その子供の主体性を尊重していると言える。その子供が不登校を問題視する大人とは別の世界、登校拒否を問題にしない世界にいるだけだから、登校拒否が当たり前だとの主張が聞こえてくる。登校拒否は普通のことだから、登校拒否を問題視するのはおかしい、それどころか登校拒否をしていない方がおかしいという主張も聞こえてくる。ひょっとしたら、「あなたは登校拒否をしたくても出来なかったのでしょう」という意味を含ませているのかも知れない。

 不登校の子供を問題視する大人と、不登校を肯定する子供との間には相容れない物がある。それは、不登校を問題視する大人には、登校拒否不登校に至った子供の経験や心の反応が理解できないのである。それ故に、登校拒否、不登校の子供は異常だと信じ込んでいる。不登校を受け入れると自分の存在が怪しくなる。一方、不登校を肯定する子供には学校を拒否しなくてはならない辛い経験と心の反応が有ることである。学校を受け入れようとすると自分自身が苦しくなり、維持できなくなる。学校を否定したところにのみ自分の存在を見つけられるのである。この二つの世界は相容れないのである。学校が有る世界も存在するし、学校がない世界も存在して良いのである。

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