登校拒否と脳
 
「恐怖の条件反射」


 恐怖の条件反射とは、古典的条件反射の内で恐怖を生じるような条件反射を言う。今までなされたラットの脳の破壊実験から、視床聴覚野と中脳聴覚野を破壊すると恐怖の条件反射を生じなくなる。この事実から、ラットの音に関する恐怖の条件反射の成立には大脳新皮質は関与していないことがわかる。大脳新皮質下のいろいろな部分の破壊実験から、扁桃体を破壊したときだけ、恐怖の条件反射が成立しなくなる。これらの事実から、大脳辺縁系扁桃体が恐怖の条件反射の中枢と考えられる

 長い間、扁桃体はいろいろな情動行動の表出に重要な脳の部位であると考えられてきている。いろいろな研究室が様々な動物を使って、いろいろな恐怖について、その異なる側面から扁桃体の破壊実験を行ってきた。その結果を総合すると、全ての動物で扁桃体が恐怖の条件付けを担当する神経回路網の中枢で、神経回路網の中でも中心的な、重要な要素であることが結論づけられている。特に扁桃体の中心核は、様々の条件反応の制御に関与している脳幹のいろいろな部位に対して、神経結合を持っている。情動を具体的に表現する脳幹の各神経核へ情報を送っている。恐怖に遭遇したときに体に現れるいろいろな変化や反応は、この神経路でなされていると考えられる。

 視床扁桃体路が恐怖の条件反射に必要な神経回路であるこが分かっている。ところで、ラットでの恐怖の条件付け、音や光による感作の際に、ラットは音や光だけに感作をされているわけではない。音や光に強く感作されているが、そのラットが入れられていたケージやその周囲にあった物にも、感作されており、恐怖の条件反射を生じることがわかっている。この事実は見落とされがちであるが、とても大きな意味合いを持っている。特に人間社会では、気がつかない内に、思わぬ物に感作されている、恐怖の条件反射を学習している事が見かけられる。そして、この思わぬ物に感作されている事実は、該当する人やその周囲にいる人達に気づかれることがほとんどないので、見落とされがちである。無視されがちである。

 条件反射を起こす物として、音や光など単純な刺激と、ラットだとケージなどの環境にある物とがある。その環境にある物への恐怖の条件反射は、条件反射が成立した後でもしばらくの間は、海馬を破壊することにより、恐怖の条件反射を生じさせなくできる(一時記憶が消失すると、恐怖の条件反射は起こらなくなる)。ある時間が経過すると、海馬を破壊しても恐怖の条件反射は生じ続ける。(永久記憶として残る)この事実は、空間的な、背景的な、生活環境的な(大脳新皮質が関与している)といった、複雑な条件刺激を処理するには、海馬が絶対に必要であるという結論に達する。

 恐怖の条件反射は大脳新皮質下の反応であるために、元来は意識に登らない反応である。人間の場合、この複雑な条件刺激を意識に登らせることができる場合もある。全く意識に登らない場合もある。登るのであるが、条件刺激だと気づかない物もある。単純な刺激の場合、大脳新皮質は恐怖の条件反射を成立させるのに、必須の物ではない。しかし、大脳新皮質も特異的な神経生理的な反応を生じている。音刺激による恐怖の条件反射を成立させたラットの視床から扁桃体への投射路を破壊しても、恐怖の条件反射は生じるし、大脳新皮質の聴覚野を破壊しても、恐怖脳条件反射は生じる。また、大脳新皮質の聴覚野を破壊したラットでも、恐怖の条件反射は成立させることができる。

 ある研究によると2種類の異なった音の一方で、恐怖の条件づけを行った後、大脳新皮質の聴覚野を破壊すると、音刺激を区別することができなくなった。つまり大脳新皮質の聴覚やを破壊する前には、一方の音で恐怖の条件反射を生じ、他方では恐怖の条件反射を生じなかったのに、大脳新皮質の聴覚野を破壊した後は両方の音で恐怖の条件反射を生じるようになった。音の区別ができなくなった。それは音による恐怖の条件付けは扁桃体でなされて、音の種類の区別は大脳新皮質の聴覚野でなされることが、その後の研究でも確認されている。

 恐怖の条件刺激の内、非常に簡単な刺激は視床から直接扁桃体に送られる。複雑な刺激は大脳新皮質の感覚野とその連合野で処理されて扁桃体に送られる。これらは類人猿でも確かめられている。人間も間違いなくこの神経系で処理されている証拠がたくさんあり、間違いないと考えられる。人間の場合殆どの恐怖の条件刺激は大脳新皮質を介している。単純な大きな音、強い臭い、強い光、痛み等が視床から扁桃体に、直に送られていると思われる。簡単な刺激による恐怖の条件反射を生じる記憶は扁桃体の中にある。複雑な刺激による恐怖脳条件反射を生じる記憶は大脳新皮質の中にある。大脳新皮質の記憶は複雑な環境の情報を処理して、その結果を扁桃体に送り、恐怖の条件反射を生じている。そのため、多くの神経細胞を、シナップスを介して情報が扁桃体へ送られてくるために、時間を食うことになる。それに対して、簡単な刺激の情報は視床から直接情報が送られるために、短い時間で恐怖の条件反射を生じることになる。この違いで、何かを見たり、聞いたりしたときに、はっとするが、その後それが問題ない物であることが分かってほっとすることがある。
 
「大脳辺縁系扁桃体」

 サルの扁桃体の中に次の三種類の神経細胞が見つかっているとの報告がある。
1.単一種感覚応答神経細胞
視覚や聴覚など、一種類の感覚刺激に反応する。
2.多種感覚応答神経細胞
多種類の感覚に反応する。
3.選択応答神経細胞
特定の報償性の刺激、嫌悪性の刺激にだけ反応する。
  扁桃体内の三種類の神経細胞を報告している物によると、各種の感覚ニューロンは、感覚刺激が報償性の場合、嫌悪性の場合、それぞれ生物学的に意味があると反応する。その反応の度合いは、それらの報償性、嫌悪性の価値の度合いと比例する。

 ある神経細胞は新奇な刺激に反応する。その反応の仕方は、初めは価値判断に伴い反応を続けるが、報償性の、または嫌悪性の価値がなければ、次第に反応を止めてしまう。価値が有れば、その価値の大きさに比例して、反応を続ける。価値が無くて反応を止めていても、その刺激に学習による価値を与えると、新たに反応をし始める。

 これらの感覚ニューロンは、扁桃体の全ての領域に分布している。これらは大脳新皮質の、各感覚連合野から神経の投射を受けている。その感覚連合野の機能と、扁桃体内の感覚ニューロンとは、互いに意味のある関係にある。すなわち、例えば、視覚連合野からの投射を受けている扁桃体内の感覚ニューロンは、視覚に関するある物に反応して、その意味の大きさに比例して、スパイクを発しているのが観察されている。

 いろいろな感覚刺激の組み合わせに応答する選択ニューロンは、快、不快の、情動に密接に関係している。あちらこちらで既に紹介されているので知っている人も多いと思うが、すいかに選択的に反応する神経細胞のことが有名である。このスカイに選択的に反応するニューロンは、すいか以外の刺激には反応しないで、すいかの姿、形だけに反応する。すいかを口に入れてしまうと、もう反応をしなくなる。このすいかに塩を付けると、二三回の経験で、この神経細胞は反応をしなくなる。このように、扁桃体内の神経細胞には、いろいろな感覚が総合されて、連合されて、反応するものがある。その反応の仕方は、感覚に生物的な意味を持たせているだけでなく、その反応の結果、ある種の行動、情動行動に繋がっている。

 すでに類人猿で、扁桃体内のある種の神経細胞が、あらゆる感覚を総合し、連合させて、情動反応の中心的な役割を果たしていることがわかっている。これは当然人間にもあることは推定される。また、情動反応は扁桃体でなされると理解して、人間の行動を観察すれば、間違っていないことが推定される。今後は脳の映像化技術で、人間でもこの過程が見られることを証明すればよいだけである。また、今までのPETの研究でも、人間の情動反応が生じている際に、扁桃体への血流の増加を示すデータが数多く得られている。扁桃体の神経細胞は、具体的な感覚刺激と快(接近系)、不快〔回避系)に密接している。その不快に密接に関係した反応系が恐怖の条件反射を生じる。

 扁桃体は他の神経核やホルモンの影響による修飾を受ける。視床下部ー下垂体ー副腎系、青班核、縫線核、前頭葉の影響が大きい。それは刺激を受けたときに、個体の置かれている状態で恐怖の条件反射が修飾を受けることを意味する。

 前頭葉は扁桃体へは多くの場合抑制的に働く。恐怖の条件反射が類人猿でも存在し、扁桃体の中にそれに必要な神経回路がある。それは人間にもあることが予想されるし、そのことを裏付けるようなPET所見が得られている。類人猿と人間との違いは、大脳新皮質の発達の度合いであり、人間では大脳新皮質から送られてくる感覚情報がより複雑であることと、人間では大人になると前頭葉からの抑制効果が強く働くことである。つまり、人間の子供では、その大脳辺縁系は類人猿とほぼ相同であり、人間の子供と類人猿との違いは、人間の子供には発達過程にある前頭葉が存在することである。

 現在の心理学は人間の成熟した前頭葉があることを前提にしている。子供に当てはめる心理学は動物と共通の大脳辺縁系扁桃体と発達過程にある前頭葉を持った存在として考える必要がある。
 
「お化け、お医者さん嫌い」

 恐怖の条件反射として、お化けが怖いことがあげられる。元来日本人は、日本文化の中で想定されているお化けが怖いわけではない。日本人は日本のお化けが怖いと言うように、日本文化の中で、恐怖の条件反射を学習しただけである。日本のお化けを知らないような外国人には、日本文化に触れていないような外国に住んでいる日本人には、日本のお化けは恐くはないのである。

 子供の恐怖の条件反射として、お医者さん嫌いがある。子供は誰でも最初からお医者さんが嫌いなわけではない。ところが痛い予防注射を受けると、かなりの子供がお医者さん嫌いになる。お医者さん嫌いは、子供が意識して怖がるのではない。お医者さんを見ただけで、自然と恐ろしくなる反応である。子供がお医者さんを見て、この人は自分を痛い目に遭わせると考えて、お医者さんから逃げ出そうとしているのではない。全て潜在意識の中で行われている反応である。

 子供が予防接種を受けると、痛い注射が恐怖を与える無条件刺激になっている。注射を受けたとき、その痛みによる恐怖で、周囲にあるものを恐怖の条件刺激として学習する。周囲にあった、子供にとって印象的なものは医者の白衣である。その結果、恐怖の条件反射が成立すると、子供は医者を見ただけで、恐怖を生じるようになる。お医者さん嫌いの場合、子供が恐怖の条件反射を学習するのは痛みや、押さえつけるなどの、子供にとって辛いことである。痛みを与えない限り、子供は注射器やメスを見せても、医者や看護婦を見ても、決して恐怖の条件反射を学習しない。また、痛みを与えなくても、押さえつけて処置をしたりすると、子供はお医者さん嫌いを生じる。その学習した恐怖の条件刺激は医者ばかりでなく、病院の建物、病室、着物の形や色なども、学習している場合が多い。子供によっては病院へ行くと聞いただけで、回避行動をとる子供もいれば、ある病院は大丈夫だが、こちらの病院は回避行動をとるという場合。子供によっては、白い衣服を着ているだけで、回避行動をとる子供もいる。ただし、これらの回避行動をとるとき、子供は決していろいろと思案をして、思考を巡らして、反応を行っているわけではない。認知した瞬間から、反応を生じ、回避行動を生じている。

 お医者さん嫌いは生後3ヶ月から始まる三種混合の予防接種で始まる。三種混合の予防接種は特に痛いので、一回でお医者さん嫌いが成立する子供もいるし、二回目以降に生じる子供もいる。注射器を見せないようにして行ってもお医者さん嫌いを生じる。注射器を見せても、注射したり、その後もんだりするときに母親だけを見せるようにすると、意外とお医者さん嫌いは生じない。この年齢ではまだ前頭葉はほとんど機能していない。しかし、認知に関する感覚系の大脳新皮質や辺縁系は機能し始めている。そしてお医者さん嫌いは一生続く反応の形態である。お医者さん嫌いは、まさに動物的な恐怖の条件反射である。
 
「性格の変化、登校拒否、不登校」

 子供達が集団生活を開始するのは保育園、幼稚園、小学校である。小学校に入学する前で、すでに心が傷つき、小学校に通うことを最初から拒否する子供もいるが、その他の多くの子供達は学校へ行くことを好む。それは猿の子供の観察からの分析や、子供達の観察から、ごく自然な本能的な行動のようである。子供達は家庭を基盤として、子供達の集団と関わろうとしている。子供達の集団の中で社会性を得ていこうとしている。子供達の集団の中で社会性を得ることは、子供達には喜びのようである。

 この子供達の集団の中で、子供が辛い経験をすると、その子供は家庭に逃げ帰る(回避行動、逃避行動)。そして母親の側で問題を解決してまた子供達の社会へ出ていく。子供が学校を含めた集団の中で回避できない嫌悪刺激に遭遇し、その結果恐怖の条件反射を学習したときには、性格の変化として現れてくることが多いようである。その性格の変化も、親や周囲の大人達には解らない形、子供達同士の間では気づかれるという形を取っている場合が多い。その恐怖の条件反射が強化され、条件刺激の汎化が生じると、親や周囲の大人もその子供の性格が変化した、子供の性格がおかしいと感じるようになるようである。

 一般に子供の性格の変化、特に不適応行動に走る性格の変化は、子供に問題があると考えられがちである。場合によっては親のしつけが悪いと考えられがちである。ところが実際は、子供が好んでこのような性格の変化を生じたのではない。子供は回避できない嫌悪刺激により、不適応行動をとることを学習させられたのである。親のしつけも、恐怖を用いたものであるなら、子供を不適応行動に走らす方向へ、性格の変化を生じる。不適応行動をとるように、子供の性格が変化したとき、子供は子供の集団、特にその子供の集団を管理する大人から、いろいろな拘束を受ける。それは子供にとって軽い嫌悪刺激であったり、強い嫌悪刺激であったりする。これらの嫌悪刺激は程度の差は合っても、その子供に、その子供の集団からの回避行動をとらせることになる。その集団に加わることを回避するようになる。それは動物的なごく自然な反応である。そしてその集団が幼稚園なら、登園拒否、小学校中学校なら、登校拒否となる。

 学校で恐怖の条件反射を学習した子供は、学校に対して回避行動を取ろうとする。しかし、親との力関係から、回避行動をとれないことが大半である。その姿が学校への行き渋りの姿である。大人はこの学校への行き渋りに対して、いろいろな理由付けをして分析をしているが、その実体は回避できない嫌悪刺激にさらされている子供の姿にしかすぎない。この学校への行き渋りの状態は、子供が嫌悪刺激に対する恐怖の条件反射を強化している状態である。

 学校への行き渋りの状態は、回避できない学校という恐怖の条件刺激に子供が反応して回避行動を取ろうとしている、しかし回避行動が十分にとれないので、恐怖をいろいろな形で表現している状態と言える。恐怖が強くなればいろいろな精神症状を出すようになってくる。いわゆる心の傷を深くして行っている状態である。その結果、最終的に学校へ行けなくなって、親がどのようにしても学校へ行かないと言う、不登校と言う形になる。

 不登校とは子供が学校や学校に関するものに対して、恐怖の条件反射を最大限まで強化してしまった状態、心の傷を深くしていった状態である。それ故に、不登校になった直前の原因を解決して、不登校問題を解決しようとしても、ほとんどの場合不可能である。不登校問題を解決しようとするなら、子供が学校や学校に関するもので恐怖の条件反射を学習し始めたことまで、つまり登校拒否を始めたことまで遡って、考えなければならない。情動の心に注目すると、登校拒否と不登校とは本質的に同じである。その違いは、恐怖の条件刺激である学校に対して、その反応の度合いが異なるだけである。その結果として表現が若干異なるだけである。

 登校拒否の段階で早く恐怖の条件刺激を取り除けば、問題の解決はそれだけ早くなる。早ければ早いほど、その分だけ恐怖の条件刺激の刺激性が低いし、条件刺激の汎化も起こしていない。恐怖の条件反射は、それを生じる条件刺激に出くわさないことで、時間とともに消失していくことが、動物実験でも確かめられている。また、実際の登校拒否の子供に対して、学校から隔離する対応を取ると、意外と簡単に(不登校の子供の対応と比較しての話だが)問題の解決を見ることができる。

 一般に、親や先生、対応する人たちは、子供が不登校になった前後の、問題を考えて、登校拒否不登校問題を解決しようとする。しかし、登校拒否不登校問題の出発点は、そして基本的で一番重要なものは、子供が学校へ行き渋りだした時点付近にあることが、恐怖の条件反射を考慮すると言えることになる。不登校になった時点はわかりやすい。しかしその時点での出来事を解決して不登校問題を解決しようとしても意味がないことを示してきたし、現実にも殆ど役に立たない。

 登校拒否を起こした時点とは、子供が学校に対して恐怖の条件刺激を確立したときである。その結果、子供は学校に行き渋る、学校へ行こうとするといろいろな症状を出しだした時点である。登校拒否(実際の子供の姿は行き渋りの状態)の子供は、反応する恐怖の条件刺激が限定されている。その刺激性も低い。それ故に、この時点で恐怖の条件刺激の脱感作を図れば、恐怖の条件反射を消失することは実際上さほど難しいものではない。ところが不登校の子供は、恐怖の条件刺激の汎化を生じている。学校とは直接に結びつかないものを、数多く恐怖の条件刺激として、学習してしまっている。その反応性も高まっている。その結果、恐怖の条件刺激の特定が難しいばかりでなく、周囲の人に理解できない反応を生じることになる。いろいろな精神症状も出すために、病気として対応されてしまうことになる。

 条件反射は、その条件刺激より、より強い刺激を受けると、条件反射が一時的に抑制される。それは恐怖の条件反射にも言える。親や教師はその内でも恐怖を利用して、登校刺激を行う。それは新たな恐怖の条件反射を生じる。登校刺激を行い、子供が学校へ行くから親や教師は安心をするが、その間に子供は新たな恐怖の条件反射を学習し続けている。その結果、恐怖の条件刺激に対して感受性が増加し、また、新たな、そしてその条件刺激は学校とは違う何かを、恐怖の条件刺激として学習して、不登校になってしまう。それ故に、不登校になると、子供が何に恐怖を感じているのか解らなくなる。性格の変化、精神疾患と解釈されてしまう。
 
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