親父の会に参加してみて

 ある親父の会に参加しました。参加した父親達は皆さん、その人なりに現在の自分の子供達のあり方を認めて自信を持って生きておられました。予め登校拒否とは何かを知っておられて、そこでお子さんの登校拒否を経験され、優しくそれを受け入れられた父親もおられましたが、お子さんの登校拒否に慌て、動揺し、迷い、お子さんとぶつかりあい、そこでやっとお子さんを認めようとなさった方もおられました。お子さんから人間としてのあり方を学ばれて、「きっと親子で力強く生きておられる」と私が想像できる父親もおられました。飲み干したビールもかなりの量になったと思われますが、そんな親父のエネルギーがすてきな家族を支えているのだと感じられました。

 父親は母親とは違った性格、経験、思考形態を持っています。家庭の中でも母親とは異なった役割分担をしています。それが良いか悪いかは各夫婦が決めれば良いことであり、場合によっては父親が家庭を省みないで仕事をする事も有りえても良いと思います。その根拠はハリー・ハーロウの類人猿の観察から言えますが、ここでは省略します。しかし人間は類人猿よりもはるかに発達した思考を持っており、その思考により自分自身をコントロールして家庭を維持しているようです。それ故に各家庭はその家庭なりの営みを行い、それがその家庭では一番正しいあり方だと私は考えています。ところが子供が登校拒否と言う形でその家庭のあり方に異議を唱えた時、母親は子供の苦しみを感じ取り、早く子供の立場に立てるのに対して、父親が自分の主義主張を貫こうとする態度は極自然の成りゆきだと思います。一固の生物の雄としての主張、人間社会の中で自分が担っている責任感からの主張、これらは父親に無い方が不自然です。それを自分の影響下の人に押しつけようとする事も私にはうなずけます。ただそれも程度の問題であり、その境界を何処に見いだすかはその父親の人間性によるものではないかと思います。 

 登校拒否は子供の甘えでも、怠けでも有りません。間違いなく子供が子供なりに一生懸命生きて、どうにもならなくて、最後の手段として親に訴えている形態です。勿論この事実を理解できる父親には以上の、また以下の議論は不要です。しかし父親としてこの事実を認められなくても、自分の子供の登校拒否を認められなくても、それは決して父親として間違いではないと思います。ただ自分の知らない人間のあり方を認める余裕がないだけだと思います。それはやむを得ない事だと思います。登校拒否と言う知らない状態にある自分の子供を見ることは、父親として大変に辛いことです。其れ故に辛くて自分の子供を見れないなら、見なくても良いと思います。そのようにしても一家の中で、経済面で支える父親の役割は計り知れない大きさがあることには変わり有りません。ただ登校拒否という訴えをしている子供と、その子供を必死で認め、支えようとしている母親の邪魔だけはしないで欲しいと私はお願いしたいと思います。父親が登校拒否を理解できない状態で子供や母親に関わると、自分も傷つき、子供や母親に大きな心の傷をつける可能性がきわめて大きいからです。そしてそれは登校拒否の子供を持つ母親の願いでもあるようです。勿論、登校拒否の子供やその母親を認め支えられればもっと良いことも事実です。

 「こんな事でお父さんを困らすのは可哀そう」とお嬢さんが言ったと言う話が出ました。この言葉には登校拒否をしている子供達の多くが父親に対してもつ気持ちが現われていると私は思います。そのまま理解するなら、登校拒否の問題で、お父さんを煩わしたことを謝っていることになります。ではこの言葉のお父さんをお母さんに代えたものを、子供は母親に言うでしょうか?私は言わないと思います。子供にとって、母親は子供と一緒に登校拒否の問題を悩んで貰いたい存在ですから、「お母さんを困らすことは可哀そう」とは思わないと私は思います。この言葉は「お父さんは他で大切なことをしているから、登校拒否の事に関わらなくても良い。それが関わらざるを得なくなって、お父さんが可哀そうだ」と言っているのだと思います。子供達が父親の存在価値を十二分に知っている事実を表わしているのだと思います。そうだからお父さんには、自分の登校拒否の問題には、無理して関わらなくても良いと言っているのだと思います。勿論子供だけで登校拒否の問題を解決できる訳がありません。この言葉の裏には、「お母さんと一緒にやって行くから大丈夫だよ。だからお父さんは心配しないでね。」と言う意味だと思います。

 私が知る限りのことですが、母親が登校拒否の子供を認め支える限り、父親の直接的な役割は必ずしも必要ないようです。子供は父親の存在価値を十分に知っています。子供が「お父さん、助けて」と言ったとき、その時だけ子供の希望に沿った対応をすれば良いようです。

 

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