小児脳科学心理学

{0}{はじめに}

 今までの心理学は人間をブラックボックスとして、知り得る外からの刺激に対して、人間がどのように言葉を発するか、行動するかを、分析者の経験に照らして解析し研究をしてきた。ところが心は脳細胞の働きであることは間違いない。最近の科学技術の発達に伴い、脳科学の進歩はめざましいものがある。我々は今までにも多くの事を脳について知ってきている。それらに基づいて人間の行動を研究しようとするのが脳科学心理学である。しかしそれでいて、我々の知っていることは脳の機能のごく一部であることも間違いない。だから、脳科学心理学はこれからの心理学である。不完全ではあるが、可能なところから人間の心を科学的に分析していく必要がある。
 心理学で扱う心とは、人間の行動を規定する心を対象にする。人間の社会の中で生じるいろいろな問題の多くは情動に関するものが多い。その場合の心とは情動を意味することが多い。ところが情動は哺乳類では共通なところが多く、動物を研究することで人間の情動を研究することができる。情動を生じるメカニズムは脳科学では既にかなり解ってきている。ここでは主として情動を中心とした心理学を展開してみる。思考に関する心理学は今までの心理学に委ねる。今までの心理学は、情動が思考の脳とは別の脳で行われていることを無視してきた。ここでは情動の脳、扁桃体を含めて大脳辺縁系の機能に注目して、心の問題点を扱う。
 心の働きはきわめて複雑で捕らえがたい。その捕らえがたい心を経験に基づいて分析する心理学は科学が心を扱うことを大変に嫌うようだ。その第一の理由はこの複雑な心を科学はごく一部しか知らないので、そんなあやふやな知識で心を論じられては困ると言うことらしい。又一部の心理学を行っている人は、このきわめて人間的な心に、科学の手が入って欲しくないと言う願望も有るようである。
 現在の心理学自体が経験から導き出された仮説の集合体である。多くの心理学者は今にこれらの仮説が証明されて、科学的な体系ができあがると信じている。日常の経験なら、あらゆる人が日々繰り返しているものである。その経験から導き出された仮説を、多くの人がその人なりに持っている。そのような意味では、あらゆる人が心理学者だと言える。その結果心理学は、その人なりの心理学の域をいっこうに出ようとしていない。ところが脳科学は極一部の人しか研究できない。脳科学を判断材料にしてしまうと、多くの人が心理学の外に置かれてしまう。そのような意味で、脳科学に基づく心理学は受け入れがたいような傾向にある。人間は生物である。脳も生物現象により機能をしている。生物現象なしには脳は存在し得ない。現在では、心とは脳の中での情報処理という生物現象の表現として、理解する試みをしても良い時期になっていると考える。
 心は今まで概念的に捕らえられてきた。長年多くの人たちにより、多くの人を観察することにより、心の概念が形成されて、心理学が成立した。しかし依然として心とは何か、どうなっているかを模索している段階であることには変わりがない。個々の心の問題となると、専門家と称する人たちが必要になる。専門家という人たちが心とはこういうものだと決めつけて、人々に授けている。人々も専門家が言うことならと、そのまま鵜呑みにしている。しかし間違いなく架空の概念でない心は存在する。
 心はそれぞれの人に必ずある。人ばかりでなく他の動物にもある。動物たちを観察していると、人間の心ほどではないが、間違いなく人間の心に似た心を持っていることがわかる。動物と人間に共通する心とは脳の働きと考えるのが妥当であろう。少なくとも心が働くには脳が必要である。現在は人間の心の動きをEEGおよび脳電図、PET、f−MRIで直に捉えることができるようになった。また動物と同じ心が人間にも存在することがわかっている。
 脳科学はかなりの所まで脳を、心を分析できるようになってきている。脳科学で示されない心もあるかもしれない。しかし脳科学で示される範囲の客観的な心の仕組みを理解すれば、かなりの範囲の心の問題が解決できるし、いろいろな心の問題の解決に脳科学であたる必要があると感じられる。特に子どもの心はすでに脳科学がかなり解明している。それは子どもの心が動物の心にとても近いからだ。動物から得た心の構造や働きが、子どもの心の働きをきわめてよく説明してくれるからだ。その子どもの心についての知識を用いて、例えば、登校拒否やいじめ、いじめられ、不良行為などの不適応行動、問題行動を解決できる。


{1}{言葉の説明}

*脳の構造
 脳と表現するときには、頭蓋内の神経系を指す。大ざっぱに、脳幹、小脳、間脳、大脳と、表現しておく。小脳は運動の協調性に関係した脳であり、認知や心の状態の表現という意味では不可欠であるが、心そのものとは直接大きな役割が無い(学習に必要であることが、最近のPETの研究からわかってはいるが)ために、ここでは触れないでおく。脳幹は生命の維持を直接調節しているところである。生命そのものと表現しても過言ではない。心という意味では、情動を体の中に表現するための指令を出すと言う意味で大切である。間脳では視床と視床下部、中心灰白質とに分けられる。視床は感覚神経の中継をする場所である。それ以外にも機能があるが、心という意味では今の所中継点であることを考えておけば良いようだ。視床下部は生得的な行動(本能)、ホルモンの調節を行っている。心という意味では情動に伴うホルモン分泌に関係し、情動を具体的な表現にするための処理を行い(表出)、その結果を脳幹に送っている。大脳は大脳辺縁系と大脳新皮質に分けられる。大脳辺縁系が情動に関する脳である。その内でも扁桃体は情動の評価、海馬は記憶に関係し、不安に関しても大きな役割を持っている。大脳新皮質は各種の感覚中枢であり、随意的な運動中枢でもある。他の動物と際だって異なっているところは、言語に関する脳、思考に関する脳が、人間では極めて発達しているところである。
 脳をその学習機能から、すなわち心という意味から大きく三つに分けられる。それらは大脳新皮質前頭葉(以後前頭葉)とその他の大脳新皮質(以後新皮質)、大脳辺縁系(以後扁円形)である。中脳と脳幹は学習能力がないと考えられるので、ここでは心の構成要素とは考えない。
 大脳新皮質は明瞭な認識に関する感覚や記憶に関与している。特に前頭葉は他の動物と比較して際だって発達している脳である。前頭葉はその時までに学習した知識、陳述記憶に基づいて判断する、人間の考える脳、理性の部分であろうと考えられる。新皮質は感覚器からの情報の処理とその結果の記憶が存在する場所である。
 扁桃体は情動の反応の場所である。外からの刺激を評価して、情動を生じさせる情報を作る。その刺激に対しての反応の仕方は、生まれ落ちたときからその時までに情動に関して学んでできあがった反応パターンできまる。それは情動反応に関する性格に相当する。扁桃体での恐怖に関する評価の研究はLuDouxらにより詳しく研究されてきている。
 大脳新皮質と辺縁系は発生学的にも異なり、同じ大脳の中でも辺縁系は大脳新皮質に覆い隠されたようにして存在している。それだけ大きく発達した大脳新皮質は人間を人間らしくしている脳では有るが、その新皮質の機能の根幹は辺縁系、特に扁桃体に依存している事に注目をする必要がある。

*意識(意識的な反応を起こす動機)
 科学的にいろいろな説がでているが、現在まで確立していない。自我を意識するという意味では、意識は自我という概念に関するクオリア(後述)である。意識的な行動に関しては、ここでは意欲と言う言葉で表される接近系の情動であると考えられる。その中枢は辺縁系の前部が大きな役割を果たしている考えられる。幾つかの記憶を思い出し(概念が選択されて)、それらが体の中に表現するもの(クオリア)の内で、接近系の強いものが選択され実行される。意識レベルを意識と表現する場合もある。

*認知
 知覚した対象の概念に相当する神経細胞群ができあがったり、その概念に相当する神経細胞群が選択された場合を認知という。その概念に相当する神経細胞群が存在する場所は大脳新皮質のワーキングエリアでる。認知した概念に相当する神経細胞群の下に、概念を構成するいろいろな構成要素の神経細胞のtree構造ができている。

*認識
 認知したものを意識(認識)するためには、認識しようとする意欲が必要である。あるものを認知すると同時に、そのとき存在する情動を認知すると、それが認識の重要な要素を形成する。

*錯覚
 その仕組みは分かっていない。感覚連合野で処理される段階で生じている。

*認知科学
 脳内の認知をする仕組みを科学的に解き明かすこと。おおむね脳科学と同じ意味

*思考
 判断しようとする辺縁系からの意欲によって、認知した概念や記憶している概念のうちから、比較、取捨選択(一番接近系の傾向の強い概念を選択)する。また、今まで存在している概念を組み合わせて新しい概念を作る。

*情動
 辺縁系の機能。外からの刺激が感覚野で処理されて、刺激が扁桃体で評価されて脳幹で表出されて、体中に表現されたものを情動という。直接意識に登らない。

*感情
 意識に登る情動を感情と言う。主として情動が体中に表現されたものを知覚神経で感じ取り、体感覚野、連合野で処理されて、前頭葉に送られ、記憶と照らし合わされて、情動の概念ができたり、選択される。その情動の概念を意識したものが感情である。

*記憶
 記憶には陳述記憶と非陳述記憶がある。陳述記憶とは言葉または文字として出力される記憶である。非陳述記憶には手続き(習慣)記憶と情動記憶がある。手続き記憶とは新皮質内の記憶で言葉または文字として出力されない記憶。体の動き、習慣がある。情動記憶とは、情動を生じるのに必要な記憶。扁桃体の中にあるものの他に、新皮質内の情動記憶の一部も使われている。
 大脳皮質内の記憶は、その概念を頂点として、構成要素に細かくカテゴリーに分解されて、新皮質内に分散している。多数のカテゴリーの直列的な並列的な連続として、蓄えられている。カテゴリー自体は他の記憶でも使われるが、そのカテゴリーの選ばれ方が、記憶そのものである。認知とはそのカテゴリーのtree構造ができあがることまたはできあがっている概念に相当する細胞群が選択されることである。

 陳述記憶  言葉や文字で表現される記憶。新皮質内にある。
 非陳述記憶 体の動きや反応で表現される記憶
   手続き記憶 体の動きで表現される記憶。新皮質内にある。
   情動記憶  情動を生じるのに必要な記憶。辺縁系内にあり、周辺記憶(関連
         記憶)は新皮質内にある。

 一時記憶  ワーキングエリアに記憶ができあがるが、その後完全に消失してしまう記
       憶。NMDAのシナップスである。
 永久記憶  一度できあがって消失することのない記憶。主観的には思い出せなくても、
       何かの折りに、夢などで思い出すことができる。永久記憶には海馬が関係
       しているが、どのようにしてできるのか、現在までわかっていない

*忘却
 一時記憶は思い出されないと(記憶が強化されないと)消失する。脳内に記憶がなくなる。ところが永久記憶は思い出されないと、思い出されにくくなる。記憶自体は脳内に存在するが、記憶を呼び出す方法が消失することを意味する。

*ワーキングエリア
 一時的な概念を作ったり、概念同士の一時的な結合を作ったりする脳の領域。前頭葉にある。意識的な活動にはこのワーキングエリアの存在が必要である。

*接近系、回避系
 辺縁系の神経回路は接近系と回避系に分けられる。接近系とは、与えられた刺激を得るために接近しようとするための神経回路である。回避系とは与えられた刺激から逃げるために遠ざかろうとする神経回路である。意欲と呼ばれているものは接近系である。
 辺縁系の情報は、接近系と回避系と同時に存在し得ない。それは接近系が働いているときには回避系は働かないし、回避系が働いているときには接近系が働かないことを示している。

*嫌悪刺激、ストレッサー
 刺激を受けると回避系が働くとき、この刺激を嫌悪刺激又はストレッサーという。恐怖刺激と不安刺激を言う。

*恐怖刺激
 刺激を受けると、回避系反応の内で、回避行動逃避行動を取る場合、攻撃行動を取る場合、すくみの状態のどれかになってしまう場合の刺激を恐怖刺激という。

*恐怖状態
 恐怖刺激を受けて、回避行動や逃避行動、攻撃行動を取っている状態

*不安刺激
 嫌悪刺激の内で恐怖刺激でない刺激。元来は恐怖刺激であるが、学習結果として、行動抑制(体の中に恐怖と同じ表現が成されるが、具体的な回避行動や逃避行動、攻撃行動がなされない)がかかってしまう刺激。

*不安状態
 不安刺激を受けている状態。

*ストレス
 嫌悪刺激(ストレッサー)を受けている状態。ストレッサーをストレスと表現し、ストレッサーを受けている状態をストレス状態と表現する場合もある。ここではストレッサーを受けている状態を、誤解を避けるために、ストレス状態と表現する。

*ストレス条件反射(恐怖の条件反射)
 条件反射の内で、嫌悪刺激(ストレッサー)を受けると、恐怖状態や不安状態(ストレス状態)を起こすものを言う。

*意欲
 扁桃体で情動評価された結果は、扁桃体以外の辺縁系で処理されて、新皮質で表現される情報に処理されて、前頭葉に送られる。それらの情報には接近系の情報と回避系の情報とがあるが、その内で主として接近系の情報を意欲という。意欲はしばしばエネルギーと表現される。
 意欲の内で、辺縁系前部で自然発生的に生じるものがある。それには主として子どもの見知らぬものを求める行動(新奇刺激)を意欲と呼ぶ場合がある。

*クオリア
ある概念を記憶するとき、その概念を得たときに生じていた情動も一緒に記憶している。概念の持つ情動記憶である。それをクオリアと言う。いわゆる身体化の結果生じる情動である。概念によりその概念が持つクオリアは色々であり、芸術的な要素はこれによる。思考の際に概念の取捨選択をする動機は、クオリアによる接近系への影響の度合いによると考えられる。自我とは、自分を認知した際の自分を認知する行動とそれに伴って生じるクオリアである。

*脳科学
 現在までに入手可能な科学的な手法を用いて脳の機能を分析すること。
 他の動物の脳の一部を破壊することで、その脳の機能を知ることができる。
 脳細胞の中に微小電極を入れたり、顕微鏡で神経細胞や神経繊維を見ることで、脳の構造を知ることができる。最近は電子顕微鏡がより多くの情報をもたらしてくれている。
 神経化学的な研究成果がホルモンや神経終末、レセプターなどの情報をもたらしてくれている。
 脳電図やPET、f−MRIなどは直に脳の活動を見ることができる。

*習慣
ある刺激を受けたとき、学習から同一の反応をするようになることを習慣と言う。その機能は習慣の心の表現(新皮質の学習結果)である。習慣化するには、同一の反応を繰り返すことと、反応の際またはその前後に、強い情動を生じている場合(オペランド条件付け)とがある。

*心
脳の機能を心という。脳科学心理学では、学習機能のある脳を心として特に注目する。けれど、心の表現の場所として、脳幹や体全体を考慮に入れなければならない。今まで気づかれていないことだが、体全体や内蔵感覚が、心が判断を下すとき、大きな役割を果たしている。

*性格
 刺激に対して、その個体の反応の仕方を性格という。意識的な反応は入らない。習慣の心の反応と情動の心の反応とがある。

*嗜癖
 性格の内で、主として情動的な性格

*癖
 性格の内で、主として習慣的な性格

*夢
 睡眠の最中に、習慣の心の中の記憶が,ランダムに、一部一貫性を持って、思い出される(認知される)

*登校拒否
 学校に対して、言葉で、行動で、症状で、行くことを拒否している状態。実際に学校へ行っている場合もある。それは学校に対する回避行動である。力関係で回避行動がとれない場合には、神経症状や精神症状を出す。

*不登校
 実際にある期間、学校へ行っていない状態。学校そのものへの回避行動をとってる状態。

*引きこもり
 家庭外の社会と関わりを持たない状態。親や一般社会が希望する社会と関わりを持たない場合も言うときがある。家庭外の人やものへの回避行動。

*不適応行動
 回避行動の内で周囲の人が理解できない行動。社会的に好ましくない行動になっている

*不良行=非行行為
 法律に反する、または社会的に好ましくない子どもの行為


{2}{脳科学的な事実}

{大脳新皮質の思考について}
 人間の明瞭な、意識的な思考、判断は前頭葉、特にワーキングエリアと言う部分で行われていると考えられる。PETを用いた注視のメカニズムの研究は最近進歩してきている。それによると、辺縁系の前部がワーキングエリアに影響を与えて、意識的な思考や判断は行われている。前頭前野皮質は大脳の感覚野、運動野、言語に関する部分と強い神経連絡があるとともに、扁桃体や海馬等とも強い神経連絡が有る。
 目や耳の感覚器からの情報は大脳内の視床を経て、大脳皮質の一次感覚野に投影され、感覚連合野で処理され、前頭葉に送られて認知される。前頭葉では、感覚連合野からの情報を陳述記憶と照らし合わして、必ず扁桃体を含めた辺縁系(情動)からの影響下に判断して、反応行動を起こすための情報を脳の各部分に送りだす。またこの際の情報を一時記憶として一時蓄えて、情動の脳からの影響を受けて、その内の一部を陳述記憶として新たに大脳皮質に蓄える。何を記憶して、何を記憶しないかの決定は、もちろんその人の意思によるが、それよりも大きな要素として、情動の影響に注目する必要がある。またその人の意思もその人の情動に大きく影響をされていることも忘れてはならない。
 新皮質では、かけ算のような簡単な演算、数学の証明のようなもの、日常の生活習慣などは、情動の影響なしに新皮質だけで判断できる。それらの判断の大部分は意識に登らないで行われている。これらの判断をする脳を、習慣の脳(心)と呼ぶことにする。前頭葉は、ワーキングエリア内で情報を処理する習慣の脳と、ワーキングエリアの情報を駆使して明瞭な意識的な思考で判断する思考の脳とに分けられる。ただし現在まで、それは解剖学的には区別することができない。
 人間の明瞭な、意識的な思考とは何かとの問題が生じる。ただしこれに関しては脳科学は答えを持ち合わせていない。いろいろな説が言われている。では人間以外でも意識的な思考が存在するかどうかを考えてみよう。確かに人間以外の動物は人間が理解できる言葉を発してくれない。言葉では知ることができない。しかしその行動を観察する限り、習慣の脳からの行動ばかりでなく、意識的な行動をする動物がいる。

(注釈) その例として犬を考えてみたい。私はパピーウォーカーとしてラブラドールレトリバーと言う犬種の子犬を育てたことが有る。盲導犬になったこの子犬は訓練に見事に耐えて、私の要求に応えてくれた。この犬が考えたとしか思えない行動に私はびっくりしたことがある。ある日、私が外出から帰ってきたとき、犬は庭で遊んでいた。私の姿を見つけると直ぐに塀の所にやってきて、うれしそうに尻尾を振っていた。しかし塀が有るために私の足元には来れなかった。そこで突然犬はどこかへ走り去った。一分もすると犬は私の足下へやってきた。即ち犬は開いている裏庭の出口から外に出て、私の足元までやってきたのである。この行動を私は犬に教えたことは無い。犬が私の家の概略の構造を知っていたことは私も知っていた。しかし私から遥かに離れて見えないところにある裏口へ行こうとするのは、犬としての主観的な思考行動としか私には考えられない。また、家の柵を間においた側にいる関係では不満足で、私の直の足下に来たいという欲求から行動を起こすことも単に手続きとして学習したものとは考えがたい。自分の状態を見つめる能力を持っているのではないかと考えられたが、それ以上のことを教えてくれなかった。ただしこの犬について、将来や過去について思いを巡らしている様子は一度も見かけなかった。

 主観的な思考とは、関係するいくつかの記憶を思いだし、その各々の記憶の情動記憶が体に表現されたもの(クオリア)の内で、もっとも接近系の強いものが選択される。その記憶も自分自身が経験したものだけではなく、他人から、書物など、知的経験から得られた記憶も選択の対象にされる。また、かつて判断に用いた判断の仕方や、教えられた選択の仕方自体も記憶として思い出されて使用される。そのために複雑な思考過程を形成することになる。ただし、何もないところからの選択はできない。何か突拍子もない考えが浮かんだとしても、それはかつて記憶した事実を思い出しているだけである。その思考をする対象の時間帯に関しても、現在の事柄ばかりでなく、過去や未来の事柄についても思考可能である。それらの判断は情動の脳からの指示がない限り判断できないことが、前頭葉に障害を持った人の研究から分かっている。
 多くの場合、前頭葉では扁桃体の中で進行している情動の状態を知ることはできない。感覚連合野で処理された情報で扁桃体の中で情動反応を生じる。前頭葉は、扁桃体が情動反応を起こした、其の情動反応が体に表出したもの、例えば心拍や呼吸、発汗等を知覚神経を介して感じ取って情動の内容を判断し、感情を形成している。その事実は、人の情動反応が起きているのに、其の情動反応の原因や其の情動自体が何であるのか主観的に分からないという経験をする事を説明している。
 成熟した人間の意志の力で、扁桃体で評価されて表現されてくる情動抑えることができる。ただ、それは発動した情動反応の継続時間を短くするのであり、情動の発生自体を抑えたのではない。子どもでは大脳新皮質の発達が未熟なために、この機能は弱いか無いと考えられる。子どもは刺激を受けるとそのまま情動反応を起こして体中に情動を表出する。

{扁桃体の情動判断について}
 情動に関する脳は縁系が司り、その主たる部位は扁桃体あり、扁桃体で情動評価が行なわれている。目や耳の感覚器からの情報は視床を経て大脳の一次感覚野に投影される。一次感覚野の情報は連合野で処理されて、そこから前頭葉と扁桃体、海馬に投射される。扁桃体に投射された情報から、扁桃体で情動評価をされる。その結果は視床下部から、脳幹や中心灰白質に伝えられて、自律神経やホルモン、運動神経を介して、体中に情動を表現する。同時に情動評価された情報は、辺縁系で処理されて、前頭葉に送られて、新皮質の機能を用いた情動反応を表現する。
 体中に表現された情動は、知覚神経を介して大脳皮質の体感覚野に体感覚を生じ、体感覚連合野で処理されて、前頭葉に送られて、過去の経験と照らし合わされて、主観的な情動、感情を形成する。私達が感情と表現しているものは認知された情動であり、それ以外に認知されない情動もあることに注意する必要が有る。特に子どもでは経験の不足から認知された情動も的確に感情として表現できないことが多い。
 情動の脳は前頭葉での理性的な判断や記憶に大きな影響を与える。場合によっては情動の脳が理性の脳を完全に支配してしまうことすらある。其の状態が理性を失って人間の感情が暴走する状態、自分を失った状態である。若い人の間での、いわゆる”パニッくった”とか”キレた”と表現する状態である。
 情動反応は思考反応と異なり、単なる神経反射である。その情動評価の材料になる情動の記憶は扁桃体の中に蓄えられている。その情動の記憶をもたらした背景は新皮質に記憶されている。扁桃体が情動反応を起こすとき、簡単な記憶を参照する場合には、扁桃体内にある記憶を用いる。複雑な内容の事柄を参照しなくてはならないときには、新皮質内に蓄えられた記憶を用いることが分かっている。
 一般的には、情動刺激となる感覚刺激は新皮質の体感覚野で処理された後に扁桃体に入ってきて情動を生じる。しかしきわめて単純な情報は感覚路の途中にある視床から、直接情報が扁桃体に入ってくる。この経路から入る情報は単純なきわめて基本的な刺激である。この神経路は情動刺激が入ってきてからその反応を起こすための時間が短くなるという、個体が危険にさらされたときに、いち早く反応するための経路であろうと考えられている。日常何かで「はっ」とする時である。間違っていち早く間違った情動反応を起こしても、大人ではその後大脳皮質からの情報を得て、扁桃体内に起きている情動反応を止めることができるために、日常生活の上では問題がないようである。子どもでは大脳皮質から扁桃体内の情動反応を抑える能力が未熟なために、これが問題になることがしばしばある。

{視覚からの認知、情動、感情について}
 目からの情報は視床で中継された後、後頭葉の視覚野に送られて、二次、三次の視覚野で処理された後、同時に前頭葉のワーキングエリアと扁桃体、海馬に送られる。
 辺縁系の前部に有ると考えられる意識的な注視機構に関与する部位からの支配を受けたワーキングエリア内の情報は、新皮質内の陳述記憶と照らし合わされて、意識的な、意味を持った状況の認知として捕らえられる。辺縁系前部からの支配が無いときには、新皮質内の手続き記憶によって、意識に登ることのない今まで学んできた習慣的な反応としての行動を行う。
 扁桃体、海馬に送られた情報は、扁桃体の中の情報や新皮質内の記憶を用いて情動評価される。その結果は直接脳幹の各神経核に送られて、また、視床下部に送られ、反応の仕方が決定されて、その情報は中心灰白質と脳幹に送られて、基本的な行動や自律神経の症状を出すことになる。
 情動反応でも、新皮質の機能から表現される情動がある。前記の扁桃体で評価された情報が鈎状束を用いて、辺縁系で処理されて、前頭葉に送られて、新皮質の機能の情動を表現する。
 体中に表現された自律神経の反応症状は体中にある感覚神経の末梢感覚受容器から脳の体感覚野に送られ処理されて、それらの情報はワーキングエリアに送られて、新皮質内の記憶と照らし合わされて、主観的な感情を生じる。
人間も動物であるから、条件反射を学習する。条件反射の場は扁桃体である。大地震のような大きな恐怖を生じる刺激の情報は、扁桃体に送られて評価されて、体中に恐怖を表出する。その際にその恐怖の周辺情報、たとえば低い音とか人々の叫ぶ声などを扁桃体内に、また海馬の機能を介して新皮質内に記憶する。その記憶された内容が以後扁桃内で条件刺激を評価するものになる。前頭葉のワーキングエリアでは例えば地震などの恐怖の対象物は認識することになるが、何が恐怖の条件刺激になったのかという事は認識できない。以後、扁桃体や新皮質内に記憶された条件刺激と同じ刺激を経験すると、その人は突然恐怖を経験することになる。しかし条件刺激が何かと言うことを意識していないので、なぜ恐怖を生じるのか当人も、その人に対応する人も知ることができない。これがPTSDの神経生物学的なメカニズムである。シックハウス症候群の多くの場合が、臭いによるPTSDである。

{恐怖}
 ある刺激を受けたとき、その個体が逃避または回避、攻撃、すくみのどれかを生じている状態を言う。ある個体にそのような状態を生じる刺激を嫌悪刺激(恐怖刺激、ストレッサー)という。生得的な嫌悪刺激として、痛み、強すぎる五感がある。欲求不満性無報酬(無視)も恐怖と同じ状態である。新奇刺激は条件(刺激源との距離)次第で恐怖となる。
 目や耳から入った情報は視床を中継して、視覚野や聴覚野に投射される。そこで処理された情報は順次高次の視覚野や聴覚野で処理された後、一つは前頭葉に送られて、刺激の内容が認識される。もう一つは扁桃体に送られて、恐怖の情動評価がされる。扁桃体で恐怖と評価されると、その情報は視床下部へ送られる。視床下部からはCRF(corticohormon-releasing-factor)が分泌される。視床下部から中心灰白質に送られた情報で回避行動(生得的な体の動き、たとえばびっくりして飛び上がるなど)を生じる。具体的な回避行動は情動に支配された習慣の脳からの情報(過去の学習結果)によって行われる。また、視床下部から脳幹へ送られた情報で、青斑核からはノルアドレナリン作動性神経繊維が興奮状態となり、縫線核からはセロトニン作動性の神経繊維が興奮状態となり、脳内に緊張状態を作る。

{不安}
 不安とは恐怖を予想させる刺激を受けたときの状態をいう。脳内での情報の処理は恐怖と同じ仕組みに加えて、不安を生じる信号は海馬,中隔でも処理されて、視床下部へ促進性の信号を出す。それに対して扁桃体は視床下部へは抑制性の信号を送っている。視床下部が促進性の信号を受けると、視床下部は中心灰白質へ抑制性の信号を出す。その結果恐怖反応の内でも、恐怖を回避する行動だけを抑制することになる。それを行動抑制と表現する。

{神経症状(心身症、自律神経失調症)}
 人間社会では嫌悪刺激を認識できないことが多い。それは嫌悪刺激が誰でも理解できるものだけではないからである。嫌悪刺激が加わると、その時新たに条件刺激を学習して、新たな嫌悪刺激が発生するからである。その新たに発生した嫌悪刺激は、その条件刺激を嫌悪刺激と学習した当人しか恐怖を生じない。当人以外はその嫌悪刺激で恐怖を生じることを理解できない。当人も周囲の人が理解できない原因で自分が恐怖を生じるこを理解できなくて、自己否定を生じていることが多い。恐怖が認知できなくて、嫌悪刺激が長時間続くと、自律神経症状や神経症状を強く意識するようになる。

{鬱状態}
 回避できない嫌悪刺激が加わり続けると、ノルアドレナリン作動性神経終末、セロトニン作動性の神経終末において、それらの伝達物質の枯渇を生じるようになる。これは現象的な事実である。伝達物質のノルアドレナリンやセロトニンは神経細胞体で作られるが、神経終末部に送られるのに時間がかかり、分泌に間に合わないためである。

{精神症状(心因性盲、心因性聾、心因性歩行障害)}
 子どもの情動反応は原則として大脳新皮質の前頭葉は関与していない。ところが認識することや意識的な反応には、前頭葉の関与が大きな役割を占めている。何かを見聞きしてそれを認識するには、辺縁系前部の意欲に相当する情動と、ワーキングエリア、頭頂葉の空間的情報処理、側頭葉の意味的な情報処理が不可欠である。心因性の盲、聾、歩行障害は、辺縁系前部から前頭葉へ意欲に相当する信号が生じないために起こる。見えたり聞こえたりしている(認知している)ので、行動は普通にできる。ただ、見たり聞こえていると意識しない状態である。心因性の歩行障害は、意識的に歩こうとしないだけで、習慣の脳から行われる無意識にする歩行は可能である。

{接近系と回避系}
 辺縁系での情報の処理は大きく分けて接近系と回避系に分けられる。
*子どもにおける接近系として
摂食
飲水
温度
意欲
と、それから学習した条件刺激があげられる。学習した条件刺激には、五感で見られるような慣れが有る。
*子どもにおける回避系としては
痛み
強すぎる五感
欲求不満性無報酬(無視)
学習した条件刺激
回避系(恐怖、不安)刺激には五感で見られるような慣れはない。それどころか相乗作用がある。

{脳について成長の観点から}
 大人の心と子どもの心の違いは、この観点から第一に考えるべきであろう。扁桃体の機能は三才ぐらいで成熟する。前頭葉を含めて大脳皮質の機能の成熟には思春期以後までかかる。つまり情動は早く大人と同じ機能になるのに対して、子どもの思考は大人とは違っている、大人と同じ様な考え方ができるようになるには思春期以後ぐらいにならないとできないと言う意味になる。子どもはたぶん子宮内から、生まれ落ちたときには、すでに共感と言う形で情動の学習を本能として始めている。それは扁桃体の中には情動の記憶として記憶されて行く。しかし大脳が未熟なために陳述記憶には全く残らない。その情動記憶ともって生まれた遺伝的な性格とを併せて、親が子どもの性格として感じるものの大半を占めているように思われる。また子どもでは未熟な大脳新皮質は、前頭葉は成熟した扁桃体に簡単に支配されてしうので、子どもはすぐにパニック状態になり易い。
 成熟した前頭葉でも扁桃体の情動が動き出すことを止めることはできない。しかし大人では、発動した情動が続くことを抑えることはできる。つまり同一の感情が続く時間を短くすることはできる。それが人格に相当する。子どもでは前頭葉の発達が未熟なため、動きだした情動を止めることは大変にむずかしい。ほぼ不可能だと考えられる。見方を変えて述べるなら、子どもは次から次と入って来る刺激に素直に反応していることになる。それらの反応は情動反応であるから、子どもの行動の大半は情動行動そのものの連続である。その子どもの行動を子どもの自主的な意思で、思考で変更しようとしても、それは大変にむずかしいことを意味する。そのため、大人は子どもの行動を規制するために、恐怖という情動刺激を安易に使っている。それが子どもの心をさらに傷つけることになる。

{意識、習慣(新皮質)と情動(辺縁系)の表現}
 今までの心理学や精神医学では、意識、習慣(繰り返しやオペランド条件反射で学習したもの)も情動も脳全体を一つとみなして同じレベルで考えて、それらの表現から、心の内容を分析していた。意識や習慣は錐体路を、情動は主として錐体外路を介して体の動きとして体内外に表現される。
 人の行動はその人の思考、習慣を表現している。また、情動に支配された思考、習慣も表現しているから、人の行動を分析しただけでは、それが思考、習慣なのか情動なのか区別をつけることはできない。しかし情動は運動神経を介して表情に、自律神経を介して自律神経の反応症状として体内にも表現される。表情や自律神経の反応症状に注目することにより、思考反応か情動反応かの区別をして考えることが可能になる。
年齢が小さければ小さいほど大脳新皮質の機能は未熟である。そのために年齢が小さければ小さいほど、思考反応の度合は少なく、思考反応も情動反応の影響を強く受けて、思考反応の自立性は少なくなる。つまり情動反応に従属した思考反応であり情動反応の一部と考えても間違いとは言えない。日本の子どもたちを観察する限り、小中学生では自立した思考反応はほとんど期待できないと言える。高校生ぐらいの子どもの思考反応でも、多くの部分が情動反応に支配されているように思われる。
 外から加わった刺激に対して、子どもでは思考の脳が未発達なために、習慣の脳と情動の脳で処理されてその反応が表現される。手続きの脳の表現は言葉であり、情動の脳の表現は行動である。手続きの脳が情動の脳の支配下にある時には、子どもの言葉と心とが一致するし、手続きの脳と情動の脳が独立して機能しているときには、言葉と行動とが一致しない。このときには子どもの本当の心とは情動の脳と言える。
 外から加わった刺激に対して、多くの大人では思考や手続きの脳が情動の脳を調節して、情動の脳の表現を押さえてしまう。その結果大人の言葉と行動とは思考の脳と手続きの脳との表現になる。思考の脳が働いているときには手続きの脳は思考の脳の支配下にあるので、言葉と行動とが一致することが大半である。大人でも情動の脳を調節する訓練を受けていない人は、時に情動の脳が暴走して、情動の脳が手続きや思考の脳を支配してしまう。いわゆる気性の激しい人、感情的な人である。

{言葉と行動}
言葉も人間の行動の一つである。人が刺激を受けて、その反応として言葉を発して行動を起こす。ただ、言葉だけは直接特定の意味を持って理解されて、相手に多くの情報を与えるところが、その他の行動と異なるところである。子どもは幼い内から言葉の学習を絶え間なく受け続けている。それに反して行動の学習を受ける機会は言葉の学習ほど多くはない。あったとしてもそれはいわゆるしつけという形で、恐怖を用いた強制による行動のことが多く、子どもの反復する学習行動という形を取ることは、言葉の学習ほど多くはない。また言葉は、一つの言葉でおおむね人によらないで一つの意味を伝えるが、行動はその観察者により異なった理解を生じる。場合によっては観察者により、その意味が全く逆な理解のされ方をされる場合もある。その結果子どもの言葉と行動とは刺激に対して全く違った反応の仕方をすると解釈する観察者も出てくる。
 大人では外部からの刺激に対して、思考と手続きの脳で情報が処理されて、その結果が言葉と行動になって現れる。情動は思考や手続きの脳からの調節能力で、その情動反応が押さえられてしまうことが大半である。そのため大人の言う言葉と行動が一致することが大半であり、それが子どもと違うところである。
 子どもではその行動にほとんど思考の関与はないと考えて良い。手続きの脳で処理された刺激は言葉となって現れることが多い。情動の脳で処理された刺激は行動になって現れることが多い。行動や反応は外からの刺激で反射的に、または学習した手続きに基づいて生じる。子どもでは自発的な行動が多く見られる。それは辺縁系からの情動である意欲から、周囲に積極的に働きかけるというか達で生じる。

{性格}
 外からの刺激に対する反応の仕方を性格と言う。性格は
1.情動
2.習慣
から成り立っている。
 習慣とは、繰り返し、またはオペランド条件反射の形で新皮質(習慣の脳)に記憶される。意識に登らせることもできる。子どもの場合、意識的な行動と見えても、その思考の仕方が手続き化しているので、習慣の脳の反応と考えられる。

{クオリア}
ある概念を記憶するときその概念を得たときに生じていた情動も一緒に記憶している。概念の持つ情動記憶である。いわゆる身体化の結果生じる情動である。概念によりその概念が持つクオリアは色々であり、芸術的な要素はこれによる。思考の際に概念の取捨選択をする動機はクオリアによる意識への影響の度合いによると考えられる。自我とは、自分を認知した際の自分を認知する行動とそれに伴って生じるクオリアである。


{3}{ハリー・ハーロウの猿の実験からみた子どもの心の構造の推測}
ハリーハーロウの猿の実験を抜粋して、人間に当てはめてみる。

(1)代理母の実験では、実験の概要は柔らかい布地の猿の人形と、金網でできた猿の人形とで、その各々について乳房のあるもの無いもの、4種類を作り、赤ん坊の赤毛猿の行動を観察した。結果は乳房があるなしに関わらず、赤ん坊猿は布地の人形でほとんどの時間を過ごすことを好んだ。それ以外のいろいろな母猿の人形を作り、それらの人形と赤ん坊猿の観察から、赤ん坊猿は、柔らかくて、暖かくて、適当に搖れる肌を自ら求めることが結論付けられた。常識的には赤ん坊猿は食べ物を与えてくれるものを愛すると考えがちだが、実際は食べ物を与えてくれることはそれなりの要素であり、それとはまったく独立して、赤ん坊猿はその情動の安定のために、柔らかくて、暖かくて、適当に搖れる肌を必要とする。赤ん坊猿が求めるこのような肌は、父親より母親により適しているが、母親でなくても良いことも示している。ある年齢まで赤ん坊猿に対して、代理母で十分に機能をする事を示している。
 赤ん坊猿は他の猿から愛されることを要求するのでは無い。要求するかも知れないがその割合は、柔らかくて暖かい動く肌を、赤ん坊猿が求め愛することと比べるとはるかに少ない。赤ん坊猿はまず、暖かくて柔らかい肌を求め、愛し、信頼することから始まっている。この柔らかくて動く肌の存在は辺縁系扁桃体で判断される。暖かさ、食欲、口渇は独立に、視床下部に中枢がある。情動の安定を得るための、恐怖不安から自分を守る判断は扁桃体で行なわれる。
 これを人間の生活形態の上で、人間にはすぐには当てはめることはできない。人間の赤ちゃんは暖かくて、柔らかいものにくるまれて育つ。母親の肌が無くてもこの条件は満足されている。子どもは愛されることを望んでいるかも知れないが、私達が子どもたちの行動を観察していると、「子どもが愛し、信頼できる大人」を求めていることは、子どもの行動の中で随所に見つけられ、感じられる。
(2)生まれてすぐの赤ん坊猿を母猿より離し個室で育てる。ここに動く熊の玩具を入れると、赤ん坊猿は恐怖を示し、食欲を失い、おびえてノイローゼ状態になる。しかし同じ親から隔離された赤ん坊猿でも、柔らかい肌ざわりの母親の人形がある時には、暇さえ有ればその人形に抱きついているし、動く玩具の存在に耐えることがでる。母親の人形が電気で暖かく、少しづつ搖れるようにしてあれば、ある程度まではノイローゼになることもないようだ。
 この赤ん坊猿を6カ月以内に猿の集団に戻すと、他の猿との集団生活ができるが、6カ月を超えると、集団生活ができないばかりでなく、成猿になっても異常行動を示すようになる(心の傷と言える)。この事実は人間にも当てはまる。子どもにとって信頼できる人(必ずしも母親でなくてよい、子どもが信頼できることが大切)とのスキンシップが、子どもの辛い経験を克服させる基礎となることを示している。新奇刺激を求め、学習して行けることを保証する。
(3)柔らかくて暖かい猿の人形を4種類作り、一つは小猿に圧縮空気を吹きかけた。二番目は激しく搖れて小猿を振り飛ばした。三番目は飛び出す物を内蔵して、小猿を突き飛ばした。四番目は釘が飛び出して、小猿を突き刺した。これらの不愉快な経験をした小猿は同様に恐怖の様子をみせたが、母親の人形が元に戻るとすぐに、小猿は母親の人形の所に戻り、「まるで全ての母親の行動を小猿が許しているかのように振舞った」。
 小猿にとって、母親の人形は愛する、信頼する物であり、それからの愛を求めていない。それどころか、小猿にとって危害を加える存在であっても、その危害が無くなると無条件に母親の人形を許し愛した。小猿に与えた危害さえ、小猿は許してしまうようだ。
 この事実は人間の子どもにも当てはまる。子どもは親から愛されなくても十分に成長できる。子どもが親を愛することが、信頼することができるなら、子どもは十分に成長できる。親は良い親である必要はない。子どもが親を愛するにかないさえすれば、信頼するにかないさえすれば、親はそれで良い。いつの時代でも親は「子どものため」、と子育てを考えて、子どもに手を加える。子どもが一人前の大人になるだけなら、子どもに手を加える必要がない、単に子どもに愛されさえすれば、信頼されさえすれば、其れで十分な可能性を、示唆している。
(4)猿の興味を引くと判明されているさまざまな物(箱やコップなど)を散らかした部屋の中に小猿をおくと、小猿は「布地の母親(必ずしも猿の形をしていなくてよい。柔らかくて暖かくて動く布)」を活動の基地として利用し、周囲をちょっと調べに出ては、「布地の母親」に戻ってきた。「布地の母親」がないときには、小猿達はうずくまってしまった。小猿の中には「布地の母親」が置いてあった部屋の中央へ走って行ってから、キーキー鳴きながら、物から物へと不穏状態で走り回る猿もいた。ハーロウの観察する限り、本当の母親への愛と、代用母親への愛とは、非常に似ているように見えるだけでなく、本当の母親への愛以上の愛を感じているように見える。本当の母親から受ける安心感のように、布地の母親から受ける安心感もある。
 前に述べたように、親は必ずしも子どもを愛する必要はない。子どもに愛されれば十分だし、親のできが悪くても、子どもは親を愛し、それから安心感を得ようとする。
(5)小猿にとって母親の顔の特徴がどれくらい重要かの実験をした。小猿に、頭のかわりに丸い木のついた「布地の母親」の人形を与えた。小猿はこの「母親」に熱烈に反応した。つまり小猿にとって顔の様子は母親を愛する妨げにならないことを示唆している。この小猿が三カ月になったとき、その「布地の母親」の丸い木と猿の顔とをとり替えた。すると小猿は一目見るなり悲鳴をあげた。小猿は数日間おびえていた。この小猿はその後首を180度まわして、顔を見えなくした。実験者が首を元に戻すと、小猿は又首を180度まわした。其れを繰り返すと小猿は「布地の母親」の首を引き抜いてしまった。つまり小猿は自分が愛を注いでいた母親の顔が変わることを許さなかった。自分が愛してきた母親の顔に近いものを求めたことになる。
 この実験も人間に当てはまる。生後まもなくの赤ちゃんが母親の顔を見て、にっこりと笑う。それは赤ちゃんが母親の愛情を求めているのではなくて、母親に赤ちゃん自身が愛していると言う信号を送っているのである。そしてその時覚えた母親の顔を、自分の愛の対象にする。ただその母親の顔をどれだけ弁別できるのかは不明である。ひょっとしたら男と女の顔を区別していないかもしれない。きっと猿の顔では許さないであろう。熊や犬の顔だったら、きっと区別して反応すると思う。その裏をかえせば、狼に育てられた人間の子どもは人間の顔を見て、きっと人間の顔を許さない、自分の愛する対象とは思わないであろう。
(6)赤ん坊猿が生後数カ月間、他の猿と会ったり相互関係を持つことを許されないと、其の影響は後々まで続く。この様な猿を何びきも一緒にすると、きわめて猿たちは攻撃的に振舞まった。その多くの猿の行為は精神病院の患者の行為に似ていた。これらの猿が大人になっても雄も雌も性生活ができなかった。性的本能が有るだけでは猿は性生活はできない事を示していた。
 この猿の行動から、いわゆる精神病の一部は親が、環境が、時には医者が作る、回復のできない、大きな心の傷の産物の様に推定される。
(7)孤立状態で育った猿を社会的にする方法を考えた。孤立した猿を同じ年齢の猿の中に戻すと、孤立状態で育った猿は他の猿に恐怖を感じて、不適応を示した。精神病の行動を示した。孤立状態で育った猿を其の猿より数カ月若い猿の中に戻すと、孤立状態で育った猿は社会的に適応する事ができた。
 この実験的な事実から、孤立状態で育った猿よりは能力的に低いぐらいの社会に戻すことが、孤立状態で育った猿の社会性を得る一つの方法であろうと結論付けられる。動物には臨界期と言うものが有りますが、猿や人間には、社会性を得ると言う意味では、輪界期と言うものはなさそうである。
(8)母性本能を猿で試みた。青年期に達しない雌の猿達に赤ん坊猿を会わせると、猿達は愛情のこもった態度で赤ん坊の面倒をみた。ところが雄の猿の集団に会わせても、猿達は赤ん坊に無頓着であった。この事実は現実にどの動物も雌が好んで子育てをする事実と共通している。人間でも女性は子どもに興味を持つ傾向にある。これらの事実を総合すると、女性には母性本能、子どもを慈しみ育てようとする能力が、本能として存在していると考えられる。ただ、現在の所まで、脳科学的には証明されていない。子育ては見返りを要求しない、時間のかかる、大変な労働である。女性は、動物の雌は、自分の子どもと認識したときには、それをやってのける。自分の子どもでないと認識した場合には、雌のその対応は動物により、個体によりいろいろである。しかし、人間以外の雄はほとんど子どもに興味を示さないし、本能としては興味を示さない。
 生後数カ月を孤立して育った猿は性的に無知であった。この雌猿が大人になり、人的に受胎させ、子どもを生ます事ができた。この雌猿は多くの場合、自分の子どもを無視した。赤ん坊がしつこく母親をめたときだけ、少しばかり赤ん坊の相手をした猿もあった。四ヶ月ぐらいたつと母親は子どもに乳首を与え始めた。次に第二番目の子どもを生んだとき(人工的にうまさせられた)には、かなり普通の子育て(猿として)ができた。しかし一部の母親猿は自分の子どもを踏みつけたり、床に子どもの顔を押しつぶしたり、子どもの手足をかみちぎったりした。中には子どもの頭を噛み砕いたりした母親もいた。
 この事実は、猿には母性本能は有っても、其れが発揮されるには条件があることを示している。心の傷を受けた人間の母親、いわゆる大人になりきれなかった大人の母親の子育てにそっくりである。

 ハーロウ猿の実験を見る限り、出生直後から乳児期にかけて、子どもの存在を保証する大人との信頼関係が、子どもの性格形成に大きな影響を与える。もって生まれた遺伝的性格、それにつけ加えるようにして信頼する大人(ほとんどが母親)の情動反応を自分に移植して、自分で修正して、独立した個体としての情動反応を形成して行く。基本的な性格が形成されて行く。幼児期になると、子どもは社会と関係を持ちはじめ、もっと複雑な刺激や問題に遭遇する。それが子どもにとって辛いもの、危険なものの場合、子どもは信頼する大人のもとでそれが解決するのを待つ。それが過ぎ去ると、子どもは信頼する大人のもとを離れて、社会と接触し、新たな経験をする。この繰り返しで、子どもは情動の学習を重ねて行き、性格を形成し続ける。
 猿の実験でも、信頼する大人のいない猿は、社会性の欠けた性格になる。情動が不安定で攻撃的になる。社会に対する不適応を起こす。子どもが大人を信頼する条件としては、子どもの肉体的、精神的安全と欲求を無条件で保証する必要がある。これを支えると表現する。

{4}{発達心理学、小児心理学}
{小児心理学の意味}
 子どもの成長とともに子どもの心の中で起こっていることは発達なのだろうか?大人を発達の頂点を考えれば、それに向かうことを発達と取る見方可能ではあるが、子どもの各臓器は未成熟な状態にあり、子どもそれぞれの子どもについて、能力の限界がある。大人は往々にしてその能力の限界を超えたものを子どもに要求しがちだし、要求したときには、子どもは大変に辛い立ち場にたたされる。それならばその子どもなりの能力の限界の範囲内で能力を伸ばすという意味で、大人になっていないときの心理学という意味で、小児心理学と名付けるべきであろう。

{臨床、理論、実験と文献考察}
  臨床 子どもへの、子どもを取り巻く環境内での対応
↑↓
  理論 対応の基本をなす仮説、原理
↑↓
  実験 理論を導き出したり確認をする人間、動物での作業

 心理学では臨床で用いる理論の確立を目指している。多くの場合臨床経験から仮説を導き出して、その仮説を臨床で証明するという形が取られている。しかし臨床では、仮説を証明しようとする対象の構成要素が個体によりそれぞれで著しく異なる。それは都合の良い対象だけが選ばれて、都合の悪いものは用いられないで切り捨てられるという現実をもたらす。また、科学的な仮説の検証が難しい。検証に必要な統計処理も難しい。それは心理学の理論の大半が仮説のままにならざるを得ない。仮説の検定が難しいことは、いろいろな仮説が出てきてもそれを積極的に否定できないことになり、研究者の人生観、発達観、科学観が反映した仮説が一人歩きすることになる。その仮説をあたかも原理として使用しているのが現実である。
 この様な歴史的経過により、逆に科学的でないところでの心理学が発達して、その中ではかえって科学的手法を好まない風潮すら生じている。科学性を放棄している。それでは心理学が科学になり得ないので、科学をどのように導入するかを考えてみる。確かに心理学領域における科学的な実験は難しい。実験が難しいなら、脳科学的な文献的からの考察を行うことで、理論を作り上げることにする。

{進化論と成長}
 ダーウィンの進化論「その環境に適応した個体そしてその個体の属する種が子孫を残す」は、証明ができないけれど、地球上の生物を観察する限り、全ての生物に当てはめられる原理だと認められている。ただし人間だけは、知恵から知恵を生み出すという形で、自然淘汰に反する行動をとることが可能であるし、また自然淘汰に反する行動をとっている。
 多くの哺乳類の子どもはその大人以上に自然淘汰圧力に晒されている。だから、大人の庇護のもとで成長して、自然淘汰圧力に耐え抜いて行く時期を待つと同時に、その本能から意欲的に学習して、環境に順応して自然淘汰に耐え抜く能力を学習をしていく。もし意欲的に学習をしない個体であったなら、その個体は十分にその環境に十能できる能力を獲得できないことになる。ただし与えられた環境に外敵が居ない環境ならば、意欲的に学習をしない個体でも淘汰されないし、逆に非常に過酷な環境に育っている個体では、意欲的に学習しない個体はまず淘汰されてしまう立場にある。そして成熟して親の元から独立するときには、既に自然淘汰に耐える能力を持った状態になっている。その環境とは自分のいる自然環境ばかりでなく、自分の属する集団に順応することも含まれる。この事実は人間の子どもにも当てはまる。つまり、成長とは肉体的に大人に近づく過程で有るばかりでなく、本能的に、それは別の表現をすれば意欲を持って、環境や社会へ順応の学習をする過程である。進化論から弁証法的にこのように結論できる。
 ダーウィンの進化論は、種が存続し繁栄するためには、その種の一個体毎にその与えられた環境にもっとも適応する必要を言っている。環境にもっとも適応するには、個体はその環境の中での刺激に対して最も良い反応をする必要がある。そのためには個体はあらかじめできるだけいろいろな性格を持ち合わせていない方が良いことになる。生きていくために必要最小限の素質を持って生まれてきて、それ以外の素質は全て環境との学習で得た方がより環境に適することになる。この意味から言うと、世界中のいろいろな環境に適して最も栄えている人間のいろいろな素質、複雑な行動や反応を引きおこす素質は、人間が環境から学習したものであると帰結できる。
 子育てとは、親の子どもが自然淘汰に耐えるための、肉体的な成長の保証、環境に順応するための社会性の保証である。ただし人間では人為的な学習、教育が子育てに加わる。教育は人間にだけ見られて、他の動物では見られない。教育は人間を他の動物との違いを際だたせている。けれど子どもにとっては、教育も単なる環境としての意味しかない。教育という環境が子どもを有能にする場合もあるが、逆に子どもを人間として無能力者にもしてしまう危険性もはらんでいる。教育が子どもの社会へ順応しようとする欲求と一致したときには、教育はその子どもに大きな効果があるが、子どもの欲求と一致しないときには、子どもにはストレスとして働くからである。その時でも親や大人は子どものためと考えて、子どものために良いことをしていると考えて行動している。これが大人と子どもの間に意識のずれを生じる原因の一つになっている。

{臨界期}
 人間にも有るようだが、決定的なものではない。意志的な訓練により、教育により、その能力を付けることができる。ただし臨界期以後だと効率が悪いことは間違いない。

{依存、支え、信頼関係}
 ある事象が起こると必ず別のある事象が起こると信じて行動するとき、それを依存という。依存を起こした後にこの依存関係が壊れると、大きなストレスを経験することになる。それを防ぐには別の人が、ある事象が起こると必ず別のある事象が起こることを保証しなければならない。この保証のための行動を支えという。支えが崩れると依存が崩れて、依存していた人が大きなストレスを経験する。そのためにも、一度支えだすと支えるという行動を止められなくなる。そのことは、依存と支えという関係は親子や夫婦といった、100%それに耐えられる関係の人たちの間だけでしか行うことはできない。100%依存を許されることと、それを裏打ちする100%支える関係のことを、信頼関係という

{情動の成立}
 情動の成り立ちを示す。
1.遺伝性
  遺伝子に乗っている情報による情動の表出の仕方で、表情の大半や、乳児の反応の仕方の多くがこれによる。
2.移植性
  2、3歳までに主として母親から受け入れる。扁桃体の中にできあがる。
3.学習性
  強い刺激を受けることでできあがる。主として条件反射と言う形で学習し、扁桃体に書き込まれる。その周辺情報は海馬の役割を介して新皮質の中に書き込まれる。反応自体は意識に登らない反応である。

{性格}
 外からの刺激に対する反応の仕方を性格と言う。性格は
1.情動
2.習慣
から成り立っている。
 習慣とは、繰り返し、またはオペランド条件反射の形で新皮質(習慣の脳)に記憶される。意識に登らせることもできる。意識的な行動と見えても、その思考の仕方が手続き化しているので、習慣の脳の反応と考えられる。

{刺激と子どもの行動}
 特殊な場合を除いて、大人は思考から言葉を発し、行動をする。思考を用いない場合でも既にできあがった新皮質内に記憶された手続き(習慣の脳)により言葉を発し行動をする。特殊な場合以外には情動からの行動はほとんどない。それは思考や手続きとしての記憶から、情動を調節しているからである。またそれが大人のあり方だと考えられている。
 大人と違って、子どもは刺激に対して素直に反応する。大人は刺激を分析してその結果を予測して行動することができる。しかし子どもは加わった刺激に対して、行動の仕方を学習している(習慣化した行動)場合をのぞいて、加わった刺激にそのまま反応する。それは情動行動である。思考からの行動はほとんどないと考えてかまわない。言葉の大半は手続き化した言葉が大半であり、情動からの言葉(恐怖に直面したときなどの短く発する声)は僅かであり、思考による言葉は年齢が小さければほとんどないと考えられる。

{ストレスと行動}
 動物では、ストレス(ストレス状態)とは嫌悪刺激(恐怖刺激または不安刺激)を受けている状態、恐怖状態又は不安状態と置き換えられる
ストレスを生じる刺激(ストレッサー、嫌悪刺激)を受けたときの子どもの行動は恐怖状態、または不安状態の行動をとる。子どもが具体的にどのような行動をとるかについては、その時までの子どもの経験が大きく関与している。現実的には、子どもの性格という言葉で濁されていることが多い。
 度重なるストレッサーを受けて、そのストレス状態から逃れられないときには、子どもは無気力になる。その際に、子どもは辛い自律神経症状や精神症状を出す場合、問題行動をする場合、又はその両方の場合とある。それでもまだ回避できないストレスが続くと、子どもの肉体的、精神的な成長が止まる。場合によっては成長が逆行することすらある。それらの姿はまさに精神疾患であると医者から言われた人の姿と全く同じである。逆にこの事実から、子どもの精神疾患の大半は、ストレスッサーをたびたび受けた子どもの姿であろうと考えられる。

{トラウマ}
 トラウマと心的外傷、心の傷は同じ意味である。その本質はストレス条件反射である。トラウマを持つ人には、ストレス条件反射を学習した恐怖体験がある。それを心が傷つくという。条件刺激により神経症状や精神症状を出したり、回避行動をとる時、心の傷が疼くという。ストレス条件反射を生じる条件刺激と恐怖体験起こした恐怖刺激とは異なることに注意をすべきである。条件刺激は日常身の周りにある極ありふれたもののことが多く、当人だけにストレス条件反射を生じ、当人以外には恐怖を生じないことから、恐怖や不安を生じる条件刺激(恐怖不安の条件刺激、嫌悪刺激、ストレッサー)として理解されないことが多い。
 心の傷が疼くこと、すなわち恐怖不安の条件刺激でストレス条件反射が生じるときには、新たに身の周りにある物を恐怖不安の条件刺激(ストレッサー)として学習する。つまり恐怖不安の条件刺激の汎化を生じる。
 元来、子どもは自分から進んで社会性を持とうとしている。ところが実際は年齢が進むにつれて、家庭に、子どもの社会である幼稚園や学校に不適応を起こす子どもが出てくる。それは子どもが成長の過程で恐怖(子どもとして嫌なこと、辛いこと)に出くわすからである。すなわち、子どもが恐怖に出くわすと、その周囲にある物を恐怖不安の条件刺激として学習する。次にその子どもがその恐怖不安の条件刺激に出くわしたとき、子どもは回避行動をとる。大人にとって、その恐怖の条件刺激が恐怖の原因だとは分からないから、大人は子どもの回避行動を見て、その子どもの性格が歪んだと感じるようになる。ただ、子どもが嫌悪刺激に出くわさないような成長は現実には不可能である。子どもが恐怖を感じたとき、それを癒してストレス条件反射を学習しないようにするのは、母親や教師を含めた大人の役目である。その大人が子どもの恐怖を癒そうとする大人の役目が現在機能していない場合(大人や教師が子どもから信頼されていない)が多い。その事実が、社会に不適応を起こす色々な性格の子どもを生じる原因の一つとなっている。
ストレス条件反射を概念的に表現すると、それは心の傷である。心の傷に触れる物がないと心の傷は疼かない。何か心の傷に触れる物があると疼く。心の傷が出す症状は色々な自律神経の症状や精神症状である。心の傷からの出血は子どもの問題行動である。
 私たちは、「心を傷つけた」とか「心を傷つけられた」とか、表現することがある。その際に、私たちがそれらの言葉で意味したものは、「嫌な思い、辛い思いをさせた、させられた」と言うものである。大地震や事件、災害で死ぬような思いをしたときには、トラウマを受けたと表現する事が多い。そのトラウマを受けた結果、いろいろな神経症状を出したり、社会生活の上で不都合な行動をするようになったとき、トラウマがある、トラウマを持っている、と表現している。
 日本でトラウマが注目されだしたのは、1994年の阪神大震災の時である。その際にPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)と言う概念が、注目され出した。現在ではPTSDをトラウマと同義語として用いる人もいる。しかし、PTSDはトラウマの一つであり、トラウマがPTSDではない。
 トラウマという言葉は英語の Psychic Trauma から来ている。それを直訳すると精神上の外傷、心(理)的な外傷となる。心の傷も同じ意味になる。ここではトラウマと言う言葉を用いる。
 トラウマを神経生理学的に言うなら、それは恐怖を生じる条件反射(ストレス条件反射と表現する)である。条件反射だから、条件反射を学習する段階と、条件反射が確立した段階に分かれる。ストレス条件反射を学習する段階を、トラウマを受ける、人の心を傷つけると表現する。ストレス条件反射が確立した状態をトラウマがある、心の傷があると表現し、そのストレス条件反射自体をトラウマ、心の傷と表現する。ここで恐怖についてふれておく。人間だと恐怖についていろいろと表現が可能であるため、かえって恐怖の概念を統一できない。そこで実験心理学的に恐怖を定義するのが妥当だと思う。
 ストレス条件反射の分かりやすい例として、子どものお医者さん嫌いと、暴力教師と生徒との関係の、二つの例をあげてみる。
 まず、子どものお医者さん嫌いである。子どもは元来医者を嫌いではない。それが医者を嫌うようになるのは子どもが病院で注射などの痛い経験、嫌な経験をしてからである。痛い経験、嫌な経験とは注射をされたり、押さえつけられたりしたためである。その為にその時側にいた医者を、白い着物を着た人を恐怖の条件刺激として学習したのである。恐怖の無条件刺激は注射の痛さであり、押さえつけられたその時の嫌な気持ちである。決して医者自体に痛みや嫌な気持ちを感じたわけではない。ひとたびこの医者に対するストレス条件反射が成立すると、それ以後子どもは医者を見ただけで恐怖を感じるようになる。それは医者が注射をするしないに関係なく起こる。それ以後も医者の側で子どもが注射などの嫌な思いを続けると、子どもは医者ばかりでなく、白い衣服を着た人を怖がるようになる。条件刺激の汎化である。この事実は大人自身が以前経験したことであるから、大人にも理解できる。その意味では心の傷とは言えないけれど、子どもの心の中で、脳の中で起こっていることは、心の傷とまさに同一である。
 暴力教師に殴られた生徒は、それ以後その暴力教師を見て逃げだす。これを神経生理学的に解説してみる。暴力教師(元来は無関刺激)が殴ったと言う痛み(恐怖を生じる無条件刺激)で恐怖を生じ、その際に、恐怖と連合して、暴力教師(元来は無関刺激)を恐怖の条件刺激として、殴られた生徒は学習する。その後、この生徒が暴力教師(恐怖の条件刺激)を見ると恐怖を生じ(ストレス条件反射)、この暴力教師に見つからないように逃げだす(ストレス条件反射の反応)。この例もトラウマと言えないこともない。しかしトラウマと言う場合には、ストレス条件反射の反応が、一般の人には理解が難しい場合をさしている。つまり、トラウマでは、恐怖の条件刺激が私たちの周囲の普通に存在していて、私たちには恐怖を与える条件刺激にはならないために、ストレス条件反射がなぜ起こるのか理解できない場合をさしている。
 これらを基に、トラウマを受ける=心を傷つけられる=恐怖の条件刺激を学習する、について、考えてみる。この際の心を傷つけるものは強い、繰り返す嫌悪刺激(恐怖の無条件刺激、痛み、大きな音、強い光、嫌な臭い等)、場合によっては恐怖を起こす物(これは既に恐怖の条件刺激に成っている場合です。例えば刃物を突きつけられる)で恐怖を生じ、その際に周囲にある物を、例えば登校拒否ですと教師や学校を、恐怖の条件刺激として学習する。PTSDだと、阪神大震災の時の激しい搖れが恐怖の無条件刺激で、その際にごーとする音や、人の悲鳴を恐怖の条件刺激として学習する。化学物質過敏症もトラウマの一つの形である。化学物質過敏症で苦しむ人達はどの様な恐怖の無条件刺激を受けたのか、恐怖そのものを受けたのか、人によって異なっている。その際に化学物質の臭いを恐怖の条件刺激として学習している。ここで注意しなくてはならないことは、トラウマと言う場合には、学習した恐怖の条件刺激が、普通の人では恐怖を起こさないために、普通の人では、なぜその人が恐怖を起こしているのか分からない、恐怖を起こしている本人も、なぜ自分が恐怖を起こしているのか分からないことが、大きな意味を持つのである。
 次にトラウマ=心の傷=ストレス条件反射とは、既に学習した恐怖の条件刺激にであったとき、恐怖を生じるようになっていることを言う。ストレス条件反射そのものを言う。今までのいろいろな論文を読むと、トラウマがあるから不適応行動を示すと言うような論法が大半である。しかし神経生理学的に見て分かるように、恐怖の条件刺激が加わらない限り、ストレス条件反射は起こらない。トラウマは痛みださない。うずきださない。トラウマがあっても、トラウマを刺激するもの、恐怖の条件刺激がなければ、日常生活上何か問題になることはない。トラウマを気にする必要はないのである。ところが実際は、トラウマを刺激するもの、恐怖の条件刺激は、前述のように、普通の人では恐怖を起こさないものであり、かつトラウマをもっている人だには恐怖を起こすため、普通の人では恐怖の条件刺激を見つけだすことができない。トラウマを刺激しないように、対応することができない。普通の人では、なぜその人が恐怖を起こすのか理解できない。その点がトラウマとして問題であり、大切なところである。化学物質過敏症では、未だに多くの医者が、化学物質で生じる体内の反応を研究しているが、見つかるはずが無いのである。その臭いをかいだことで、ストレス条件反射を起こしていると言う事実を無視しているからである。

{欲求不満性無報酬}
 子どもの社会へ不適応を起こすような性格を生じる原因としてストレス条件反射がある。子どもの経験する恐怖としてわかりやすいものは、親の子どもへの虐待、子ども同士の喧嘩、事故、幼稚園や学校でのいじめなどがあげられる。しかし気づかれていない恐怖として、欲求不満性無報酬と言うものを強調しておきたい。現在の物質的に豊かで少子化の時代に、赤子は両親や祖父母の十二分な愛情と物質の中で生まれて育っていく。その成長の過程で、今まで無条件に与えられていた物が突然与えられなくなると、子どもは恐怖を感じる。それは大人の目から見ればわがままだったり、だだをこねたりしている姿であるが、子どもの心の中では殴られたのと同じ効果がある。その結果恐怖の条件刺激を学習することになり、大人の目から見たら、性格のゆがみを感じるようになる。

{個性について}
 私達が「あの人は個性的」と表現するときには、その人が良い意味でも、悪い意味でも、私達が普段「これが普通だ」と考えている、「平均的だ」と無意識に考えている人の能力、性格や行動と異なっていることを指している。そして多くの場合肯定的に考えられているようだ。当然その人の平均的な能力、性格や行動に関しては肯定することを含んでいるから、個性的で有ることを肯定する立場は、ありのままのその人の性格や行動、能力を認めることを意味することになる。
 個性の持つ意味あいは大人と子どもと違うようだ。大人は主体性を持って社会という集団の中で生きて行かなくてはならない。そのような意味で個性が社会生活の障害になることがある。勿論可能な限り大人でも個性が許されてしかるべきだろうが、許されない場合も存在する。けれど大人は自分の意志で自分の個性を修正して行動することができる。ところが子どもは本質的(脳科学から考えても)に既にできあがっている個性を社会に合わせることができない。周囲から個性を押さえつけようとすると、それは子どもの心を傷つける(恐怖を生じ、ストレス条件反射を学習する)形で作用する。それ故に子どもの個性を曲げるようなことはしてはならない。個性を曲げるようなことをしないで見守ると、子どもは自分の成長とともに、自分の個性に見合った形で社会性を得続けて、大人になっていく。それがその子どもにとって一番素直な成長の形だと思われる。それは社会に新しい息吹を与える。子どもの個性が輝きながら大人への成長をしている姿だと思われる。
 脳科学から個性を考えてみる。個性とは主として情動の脳と、一部手続きの脳との表現である。手続きの脳は修正可能だが、情動の脳は既にできあがっており、修正は大変に難しい。ところが大人では思考の脳がこの情動の脳を調節しながら行動ができる。それ故に大人では個性を押さえつけるようなことが可能だ。ところが子どもでは思考の脳が未発達のために、情動の脳を調節することがでない。既に2、3歳でできあがった情動の脳の働きを押さえつけることは、情動の脳に回避行動、即ち情動に傷を付けることになる。それ故に子どもでは情動の脳の働きに素直になる必要が有る。情動の脳の働きに素直に従っておれば、思考の脳、手続きの脳がそれに調和して発達して、社会性を持った思考や習慣が身に付くことになる。

{社会不適応児}
 いわゆるLD(Learning Disuturbance)やADHD(Attension Deficit Hyperactive Disorder)、自閉症と呼ばれている子どもたちがいる。これらの子どもたちの病理は全く分かっていない。乳幼児期に受けた心の傷かもしれないし、もって生まれた性格なのかも知れない。脳内に原因が見つかっていない。

{能力について}
 能力は多岐にわたる。それらの能力を構成する、より基本的な能力だけに注目する。個体が成熟してもその能力の限界には個人差がある。能力は刺激すると能力は増加する。刺激しないと減少する。しかし能力の限界からかけ離れた刺激をすると、それは個体の能力を伸ばそうとする意欲をなくしてしまう。子どもは未成熟なために、大人より遥かに能力の限界は小さい。それを大人は未発達だとか、怠けていると誤解しやすい。子どもに関しては絶えず能力の限界を出して環境とつきあっていると考えるべきである。それは子どもは意欲的に環境から学習をしていることを意味している。もし、子どもが能力の限界を出していないと判断できるときには、それは大人の判断が間違っているか、子どもが能力の限界を出せない何らかの原因が子どもに有ると考えるべきである。大人の判断が間違っている場合として、大人自身の能力と比較して子どもが出している能力が低いために、子どもが能力の限界を出していても、出していないと間違って判断してしまうことがある。能力が出せない何らかの原因として、子どもに加わっているストレッサーの存在があげられる。

{子育て}
 子育てとは、親の子どもに対する、子どもの肉体的な成長の保証と子どもの社会性の学習の保証である。子育ては人間でも他の動物の子育ての進化の延長上にあると考えられる。特に類人猿の子育ては人間の子育てに大いに示唆を与えてくれる。しかし人間では人為的な学習が加わる。これは他の動物には見られないものである。
 成長は子どもの欲求であることは既に述べた。それ故に子育ては子どもの欲求と一致しなければならない。一致しないと、子どもに対してストレスになる。ところが一致しない場合でも、親は子どものことを考えて、良いことをしていると認識していることが多い。

{しつけ}
 動物としての行動(オペランド条件反射)から考えてみる。

接近系からの行動(報償が物だと依存を生じる)
 能動的接近行動・・・ある行動を行うと報償を与える。  
 受動的接近行動・・・ある行動以外の行動を行うと報償を与える
回避系からの行動(罰により恐怖の条件刺激を学習する)
 能動的回避行動・・・ある行動を行うと罰する
 受動的回避行動・・・ある行動以外の行動を行うと罰する。

 子どもは元来子どもの方から社会性を持とうとしている。与えられた社会に順応して、その中で成長しようとする。しかし現実にはそれだけでは大人は困る。積極的にある行動をとって貰いたいし、ある行動はとって貰いたくない。そこで子どもの要求(接近系)を親の要請(恐怖を伴う物と報償を伴う物がある)で阻止して、習慣化する必要がある。それをしつけと表現する。
 そこで積極的にある行動をとって貰う場合を考える。その行動をとると報償を与える場合と、それ以外の行動をとると罰する場合がある。その行動をとると報償を与える場合、子どもの反応は生き生きとしている。報償が具体的な物であり、行動と報償の間に連合を生じると依存を生じる。反射的に報酬を要求するようになる。この行動と報酬の関係が続く限り問題はないが、この行動と報酬の関係が崩れたとき、子どもは欲求不満性無報酬を起こす。大きなストレスを感じて、ストレス条件反射を学習する。ところがこの行動の報償が、子どもとの信頼関係のある大人の愛情であると、その愛情は無くなることが内ので、欲求不満性無報酬を起こすことはない。
 ある行動以外の行動をとると罰する場合には、罰せられることで子どもはストレス条件反射を学習する。これらの理由から、子どもにある行動をとらせるときには、母親や教師の愛情で子どもをある行動に導くことが好ましいことが分かる。
 積極的に子どもにある行動をとらせない場合を考える。その行動をとると罰する場合と、その行動以外の行動をとると報償を与える場合がある。その行動をとると罰する場合では、子どもはストレス条件反射を学習するので好ましくない。その行動以外の行動をとると報償を与える場合、その報償が具体的な物であると依存を生じ、欲求不満性無報酬を起こしやすい。その報償が子どもが信頼する人の愛情であると、欲求不満性無報酬は起こさない。

子どもの立場から見ると
1.代償で放棄(飴と鞭とも言える)
  依存を生じる。納得した形。代償を愛情にすることが好ましい。
2.要求放棄
  ほとんどが恐怖により放棄する。ストレス条件反射を生じる。恐怖が無ければ単なる経験
3.実力行使(暴れる。だだをこねる)
  社会的に結果が好ましいとほめられる。
  社会的に結果が好ましくないと罰せられる。その際に加えられた罰はしつけとは連合しない。
4.葛藤状態
  どっちつかずで迷っている状態。

叱ることによるしつけの問題点。
1.叱ることで子どもの心が傷つきやすい。欲求不満性無報酬
2.しつけを主張する人や、しつけをしようとする親の子ども時代の時代背景と、現代の子どもの時代背景が異なる。
3.親がしつけをしない。親により価値観がひどく異なる。親がしつけをされた経験がないので、しつけの仕方を知らない。

{安全な場所}
子どもにとって嫌悪刺激=ストレスがあってはならない、あったらそれを克服させる必要がある。そのためには、子どもには安全な場所=居場所が必要である。そこでは子どもはストレスを受けないで成長することが保証され、子どもが社会と関わったときに受けたストレスを解消する場所である必要がある。その安全な場所の全ての条件を満足させるのが家庭である。安全な場所であるべき家庭は、学校教育や、社会生活で受けたストレスを解消する、喜びの場所である必要がある。

{万引きなどの不良行動}
 子どもは環境に順応しようとする。親や環境に対して好ましくないことはしようとしない。ところがストレス状態にあって、そのストレス状態から逃げ出せないとき、子どもはいろいろな神経症状、精神症状を出す場合(ストレス条件反射の症状)と、より強い刺激を求めて行動(ストレス条件反射を起こさなくする)する場合がある。より強い刺激でそのストレスから回避しようとする。それが万引きなどの不良行為である。万引きなどの不良行為が子どもにとって強い刺激にならなければ子どもは万引きなどの不良行為を行わなくなる。つまり、ストレス状態にある子どもは、より強く禁止されたことをするようになる。
 万引きなどの不良行為は、その始まりは情動からの逃避行動であった。それが万引きなどの不良行為が繰り返されると、その行動は習慣の心に記憶されて、強化されていくので、状況によってはストレス状態になくても、万引きなどの不良行為に走るようになっていく。

{物質的に豊かな社会と多様性のある子ども}
 子ども数の減少にも関わらず、登校拒否の子どもの数は増え続けている。子どもたちのいじめや非行も依然として続いている。子どもの凶悪な犯罪も起こっている。いろいろな人から「最近の子どもたちは我慢ができない、とてもひ弱だ」と言われている。学校の教師達からも、「宇宙人のような感じの子どもがいる」との言葉が聞こえてくる。これらの事は、今の学校の仕組みに合わない子どもたちが増えてきていることを示している。以前とは違って、いろいろな性格の子どもが増えてきていることを示している。それらの原因として、親の躾が行き届いていないことや、親がわがままに子どもを育てていること等があげられている。そのために心の教育や、就学前の躾が問題にされだしている。ところが型にはまった心の教育や、就学前の躾がかえって事を悪くする。その理由は、多様性のある子どもが生まれるのは、豊かな物質社会のためであるからだ。この「物質的に豊かな社会と多様性のある子ども」の関係に気づいている人もすでにいるようだが、その理由をはっきりと述べている人はいない。
 「物質的に豊かな社会と多様性のある子ども」の関係の根拠はAdelman & Maalsch 以後 Wager、Daly らの欲求不満性無報酬の実験にある。つまり欲求不満性無報酬は罰の効果があると言う動物実験である。欲求性不満無報酬とはある欲求に対してそれが満たされ続けていた状態で、突然その欲求が満たされなくなったとき、それは罰を受けたと同じ様な事が脳内で生じると言う意味である。お小遣いに例を取ってみると、毎月1000円の小遣いをもらい続けていた子どもが、ある月突然お小遣いを貰えなくなったとき、子どもは殴られたと同じ様な効果が心(辺縁系=感じる心)に生じると言う意味である。
 子育てを考えてみる。物質的に豊かな社会では子どもが生まれ落ちたときから、両親や其の周囲の人は、子どもにいろいろな物を与えてきている。食べ物、衣類、おもちゃ、そして先回りした思いやりなどである。子どもの数が少ないだけ、余計に大切に子どもは育てられている。子どもは当然の事として、これらの事に依存を生じている。ところが大きくなるにしたがって、いろいろと制限を受け始める。その主なものが躾である。それから幼稚園や学校に置ける制約がある。それらが子どもたちの物や人に依存し続けていた心に、欲求不満性無報酬の状態を作る。心に大きな恐怖を生じさせ、心に傷を作り、性格を曲げて、多様性のある子どもを作ることになる。
 ある人に裏切られた時を考えてみて欲しい。人は誰でも裏切られたとき激しい怒りを感じる。脳科学的には、その裏切った相手に、裏切られた人は激しい恐怖を感じることになる。恐怖だから、逃げだしたり、怒り、攻撃したりする。
当然怒りの程度は、その依存度による。依存度が高ければ高いほど、怒りも大きくなる。そのことも動物実験から示せる。ただ、人間の大人では、前頭葉の思考が、思考の脳が、辺縁系、感じる脳の怒りを調節できるから、必ずしも依存度と怒りとの関係は比例しない。ところが子どもは思考の脳で感じる脳を調節できない。そこで子どもは怒りを表わにする。すると親は子どもを叱ることで子どもの怒りを押さえつける。躾と言う名目で、当然の事として子どもを叱ることは、それは子どもに恐怖を与え、其の恐怖で怒りの反射を押さえつけている。その結果親が子どもに与えた恐怖は、欲求不満性無報酬から受けた怒り=恐怖よりもはるかに大きな恐怖になっている。しかしこの際に、親は良いことをしたとして、子どもに与えた恐怖は親の記憶に残らない。親は極普通に、常識的に子育てをしていると考えているが、子どもには大きな恐怖になっている。子どもには恐怖を感じる子育てになっている。
 人を含めて、ほとんどの動物は恐怖を感じた際に、ストレス条件反射を学習する。その学習したストレス条件反射の条件刺激は、人の場合一般の人には特に意味の無い刺激である。その条件刺激に出くわしたとき、動物は思わぬ恐怖の行動を取る。それと同じ事が、子育ての際に子どもたちが学習している。それは心の傷と表現されるものである。心の傷はストレス条件反射である。その恐怖の条件刺激に注目しなければ、気づかなければ、一般の人で言う、子どもの性格の変化と言うことになる。ストレス条件反射を持った子ども、それは不適応行動を持った子どもと言うことになる。つまり多様性のある子どもとは、心が傷ついて、いろいろな不適応行動を持った子どもと言うことになる。豊かな物質社会に生まれて育つ中で、人間社会の拘束で心を傷つけられた結果、主として不適応行動を示す多様性のある子どもが生まれてきている。


{5}小児心理学と現実の問題点

{教師と子どもの行動}
 教師が、自分の担任する、又は、担当して教えている子どもたちが、全員元気で教室内で一生懸命勉強して、良い成績を取って欲しいと思うのは、教師として当然のことである。そして、良い成績の子どもがいることを教師としての誇りに感じるのも自然のことである。ところが現在の教室内では、担当したクラスで既に登校拒否、不登校等の不適応を起こしている子どもがいたり、新たに出たりする。これらの子どもたちの問題を解決して、子どもたちを教室に呼び戻して、全員そろって授業をしたいと思う、しようとするのは、教師として自然な発想だと思われる。しかしあくまでもその様な考え方、感じ方は教師としての立場であり、子どもの立場を考慮していない考え方だと言える。勿論、多くの子どもについて、今までのように子どもを思う教師の考え方で、実は際上問題はない。けれど、登校拒否や不登校など、心に傷を受けている子どもへの思いとしては、それらの子どもの立場を考慮していないことになり、大きな問題点を生じるという意味である。辛い立場にいる子どもたちへの対応を、今までとは異なった、新しい、科学的な考え方で、教師は考える必要が出てきたのである。
 登校拒否など不適応行動を示す子どもの問題点を解決して、子どもを学校に来させるのが教師としての任務であると考えることが、常識的な考え方である。けれどこの考え方は子どもの立場を考慮していない。その理由は、「子どもに問題点があって、その結果登校拒否、不登校になっている」と、教師が考えていることにある。本当に子どもだけの問題点だけで子どもが学校に行かないのなら、子どもの問題点を解決して、子どもを学校へ来させようとする教師の対応は間違っていない。しかし、登校拒否、不登校の場合、子どもに問題点が有るから子どもが学校に行かないのではなくて、何か学校に問題点があり、その問題点のために子どもに新たな別の問題点を生じて、子どもが学校に行けなくなっている。このことに教師が気づいていないから子どもの立場を無視していると結論づけられる。この事実に教師が気づいていないから、教師の対応が却って子どもを苦しめることになる。子どもの問題点を解決しようとしても、学校内の問題点が解決しない限り、子どもの問題点は解決しないばかりか、解決できない問題点を無理矢理に解決しようとする教師の対応が、かえって子どもを苦しめる問題点となってしまい、事態をさらに悪くする可能性を秘めている。登校拒否などの不適応行動を示す子どもの問題を難しくしている。
 登校拒否、不登校に関して、教師といっても小学校、中学校、高等学校の教師について、その考え方が少しづつ異なる。それは対応しなくてはならない子どもたちの状態が年齢によりかなり異なるからである。
 小学校の場合、学校の問題点の多くは担任の教師の学級運営である。教師がその学級運営を変えれば、意外と簡単に登校拒否、不登校の問題の解決を見ることがある。教師が教師の思いで学級運営をするのでなく、個々の子どもの欲求に合わせた学級運営をすればこの様な問題は起き難くなる。問題のある子どもについても、その子どもの欲求に合わせた部分を取り入れた学級運営を考えれば、その子どもはそれ以上傷つかないで学校生活を送れるようだ。小学校の低、中学年では知的な勉強の割合が少ないので、この様な対応はやさしい。小学校の高学年では、学力や体力に差が生じてくる。その結果それらに基づく問題点が生じてくる。それらを担任の教師がいかに解決するかが大切である。子どもにとって魅力的な学級運営をすれば、これらの差による問題点は解決すると考えられるし、実際に実践し成功した例も経験している。ただし、今まで教師の間で行われている魅力ある学級運営の例の大半はクラスの大多数に標準を合わせたものであり、最近増えてきた、既に問題のある子ども、問題を抱え込みそうな子どもに対する配慮はされていないことが多い。これらの既に問題のある子ども、問題を抱え込みそうな子どもが無視されていて、クラス内の問題が知らない内に大きくなっているようである。
 中学生になっても基本的には、生徒に対する教師の対応は同じである。生徒は、体力や腕力は大人並であるのに、心は子どもという状態である。それは小学校とは違った対応が必要になる。生徒の方でも既に大きな心の傷を持っている子どももいる一方で、勉学やスポーツに優秀な子どももおり、多くの生徒を一人の教師でまとめていくことがますます難しくなる。教師と生徒の関係も薄くなっていき、どうしても教師の腕力で子どもを押さえつけるような形を取ることが多くなる。それはますます子どもの問題点を大きくしていく。
 教師は子どもの能力を伸ばす必要が有る。子どもの能力を伸ばすスキルが叫ばれている。多くの子どもはそれにより能力を伸ばしていることも事実である。しかし、一方で、教師が子どもに良かれとしてすることで、一部の子どもは傷ついている。その一部の子どもについていうなら、子どもを傷つけるぐらいなら、それをしない方がよい事は理解できると思う。つまり、全く逆なことが同時に起きているわけである。その事を教師は絶えず頭に入れて子どもへの対応を行う必要がある。傷ついた子どもを見つけたなら、その子どもに問題があると解釈せずに、傷ついた子どもを、傷が浅い内にいかに癒すかを考える必要がある。心の傷に関する研究を教師はもっとすべきである。心の傷が深くなったら、教師に子どもの心の傷を癒すことが原則としてできなくなるからである。深い子どもの心の傷の癒しは親の機能にゆだねなければなる。親の大変難しい対応を必要とすることになる。
 これらのことを理解するには、今までの児童心理学などの、教師の方が学ばれてきたものでは不十分である。子どもと向かい合うとき、子どもは大人を小さくしたもの、単に大人の未熟なものとは考えてはならない。子どもとは大人とは違う心の仕組みを持っており、それが大人の心になるのは思春期以後と考えた方が間違いがない。子どもとは動物の子どもと非常に共通点が有る。教師は動物の子どもの飼い主の役割に近いようである。ただ違うのは、子どもは言葉を話し、人間特有の知識を取り入れる。成長して教師と同じ大人になり、人間社会を構成するようになる。決して動物のように人間に従うのではなくて、全く経験したことのない状況下で自分の意志で行動し、人間を指導する立場になることを考慮すべきである。
 子どもの言葉も大人と同じように解釈できない場合がある。子どもの言葉は、それまでに経験した、その場にあった表現を経験的に発しているだけである。子どもの発する言葉が子どもの心を反映していると考えると、大きな間違いになる場合がある。子どもが自分の意志に基づいた言葉を発するときは、情動が安定しているときだけである。この点が子どもに対応するときの、大人と違っていて注意を要する重要な要素でもある。
 子どもは自分の持っている知識から実際の生活をする事は大変に難しい。情動が安定しているときしかできない。何かの刺激を受けると、その刺激に反応するという形で行動をしてしまう。子どもが自分の知識で意識的に行動できるのは、子どもの情動が安定しているときか、子どもが思春期を過ぎてからのようである。子どもは知識を持っていても、その場その場で、その時受けた刺激に、その時までに経験した事を繰り返しているだけ、行動を繰り返しているだけである。子どもは情動が安定している時を除いて、潜在意識下で反射的に行動する。
 子どもにはこのような事実があるから、親が、教師が、躾のような子どもに無理矢理にある行動をさせるためには、恐怖で条件づける必要があります。それが子どもを大変辛くして、子どもに問題行動を起こさせる原因になっている。


{教師と登校拒否、不登校}
 心の傷とはストレス刺激で条件づけられた反応である。恐怖や不安を受けたとき(恐怖や不安を生じる無条件刺激)、その時周囲にあった物で恐怖や不安を生じる(無関刺激が条件刺激内なった、即ち感作された)ようになっている。新たにストレスを生じている対象が、ストレスの条件刺激であり、心の傷を疼かせる物である。その例として登校拒否、不登校があげられる。前述したように、子どもは意識的に、思考を巡らせて行動することはほとんどない。登校拒否、不登校をする子どもは、決して学校を怠けてやろうとか、勉強が面白くないから休んでやろうとか、考えて行動しているわけではない。学校や、教師、友達、学校関連の物を見ただけ、想像しただけで恐怖や不安を生じている。恐怖を生じる学校や教師、友達、学校関連の物を潜在意識下で拒否している。登校拒否の場合、子どものストレスを生じる条件刺激はこの様にある程度見当がつく。しかし多くの登校拒否、不登校の子どもの場合、何が恐怖や不安の条件刺激として作用しているのか解らないことが多い。原因が分からないから、その子どもがおかしい、病気だという事になってしまいがちになる。子どもは恐怖や不安を感じる物が有るから、潜在意識下でその恐怖や不安から逃げ出そうとします。逃げ出せないときにはいろいろな神経や精神症状を出して苦しんでいる。これらの心の動きは子どもの意識に登ることが無いことにも注目する必要がある。
 子どもの問題を考えるとき、子どもの言葉は知識を表しており、子どもの行動や表情は心の中身(情動)を表現していると考えると間違いが無いようである。子どもには知識で行動をすることはほとんどできない。その時加わった刺激に、情動が安定している時を除いて、その時までに経験した行動を繰り返しているだけである。子どもの言った言葉は、子どもがその行動をすると言うことを示していない。教師は子どもの言葉を子どもの知識として理解し、子どもの表情や行動が、子どもの潜在意識にある心を表していると理解しなければならない。子どもは大人と違って、理性的な行動は原則として(情動が安定している時を除く)できないものであることを心に留めておく必要が有る。
 これらを参考にして、登校拒否、不登校の生徒を持つ教師の対応を考えてみる。小学校の教師では、登校拒否、不登校の子どもの問題点が自分にあることが理解できて、自分の学級運営を変えることができ、その事実を子どもに示すことができる教師は、登校刺激をして、子どもを学校に来させる意味はある。そうでないなら、子どもを学校に来させようとする対応(登校刺激)は登校拒否、不登校の子どもを大変に苦しめる。子どもの心の傷を深めていく。中学校の教師の場合、子どもが登校拒否、不登校をしたときに、その生徒への対応は不可能に近い。多くの例で、子どもの心の傷は深くて、担任の教師では癒すことが不可能だからである。
 特に小学校では、登校拒否、不登校の子どもの中には登校刺激により簡単に学校へ行くような子どもがいる。それは心の傷が浅くて、簡単に心の傷の症状が抑えられるからである。それを問題が解決したと解釈したときには、子どもの心の傷は深まっていき、登校拒否、不登校問題を難しくしていきく。解決が不可能になっていく。それは別室登校にも当てはまる。原則として、別室登校は子どもの心の傷を深くしていくことが多い。別室登校により、子どもの心が癒されない限り、別室登校は害が有っても有効な解決法ではない。子どもに別室登校をさせるにはそれなりの、子どもの心を癒すような教師の側の配慮が絶対に必要である。
 登校拒否、不登校とは学校に対するストレス条件反射である。登校拒否、不登校の子どもは教師や教室など、学校に関する物で子どもが反射的に恐怖や不安を感じている。学校または学校に関する物で子どもが反射的に恐怖や不安を感じなくなったとき、子どもの心の傷が癒えた事になる。そのことは、教師のような学校関係者が登校拒否、不登校の子どもの問題を解決することは大変に難しいことをしめしている。
 教師として子どもの親への対応も必須の物である。登校拒否、不登校が子どもの心の傷だと親へ説明をすべきである。子どもがいろいろな病的症状を出していても、子どもを医者でなく、登校拒否、不登校関係の対応する機関や親の会へ紹介すべきであろう。医者が登校拒否、不登校が原因で出す子どもの症状を、病気として治療してしまう傾向があるからだ。まだ多くの親は登校拒否や不登校の意味を知らない。誤って解釈している親も多い。その親たちを納得させるには、現実に教師の立場では大変に難しい。登校拒否、不登校の問題を扱っている組織と協力して行う必要が有る。養護教諭、スクールカウンセラー、適応指導教室、登校拒否を考える親の会などと密接な提携を行う必要がある。ただし、これらの組織にいる人たちが、子どもの登校拒否、不登校問題を、子どもに問題があると考えて対応する人たちだと、それは逆効果になってしまう。その点をふまえて、教師の方でも誰と協力してこの問題を解決するべきか、良く検討しておく必要がある。

{野生児}
*アベロンの野生児
 南フランスで発見され、医師イタールにより教育された。6年間(1801〜1807)の記録がある。感覚と社会性は発達したが、言語の習得はなかった。
*ミドナプールの野生児
 インドで発見された二人の野生児。A.L.シングが1920年報告。少女カマラ(推定8歳)はまもなく死亡。少女アマラ(推定15歳)1929年死亡。少女の性格は全くオオカミと同じであった。この性格はなかなか消えなかったと報告されている。
 野生児の存在は、人間でも乳幼児の時の経験から、その性格がオオカミになりうることを示している。

{登校拒否、不登校、引きこもり}
  私たち平均的な大人は、子ども(思春期以前の)は大人を小さくしたもの、経験不足から不十分ではあるが、大人と同じように考えたり感じたりしていると考えがちである。確かに大人と向かい合っている子どもは、その子どもなりに一生懸命思考を働かせて応えてくいるように見える。「子どもも大人と同じように思考を働かせて生きている、行動している」と、大人が考えるのもやむを得ないことなのかも知れない。心の専門家を含めて多くの大人が「子どもはこういう時にはこのように考えて行動している」と、子どもの心を分析し、子どもの思考判断の結果として、子どもの行動を捕らえようとするのもやむを得ないことであろう。ところが実際は、子ども一人だけのときの行動では、子どもだけの集団の中での行動では、子どもの思考判断はほとんど働いていない。子どもは思考判断の結果から行動していない。大人の目からは、思考判断による行動のように見えても、子どもは周囲からの刺激に、ただ単に反応して行動しているだけ、反射的な行動の連続として行動しているだけである。実際にその様に考えて子どもの行動を分析した方が、子どもの行動を正しく把握でき、分析でき、予想でき、対応もより好ましくできる。そのような子どもたちの普通に見せる反応の仕方を情動行動と言う。勿論大人にも情動による行動もあるが、大人では思考で情動を調節して、行動をしている。子どもでは思考自体が未熟なためと、思考で情動を調節する能力が未発達なために、思考も情動の強い影響を受けてしまっている。子どもの行動のほとんどすべては情動の赴くままになされてしまいると考えられる。大人でも思考の未熟な人は、刺激に対して情動からの行動をする場合が見られる。いわゆる感情的な人である。
 子どもが登校拒否を起こしたとき、多くの大人は子どもにとって、「学校の教師が怖いから」、「いじめる友達がいるから」、「学校の授業がおもしろくないから」、「怠けたいから」、などと理由を考えて、その結果「学校へ行くのをやめてやろう」と子どもが考えて、登校拒否という行動に出たと考えがちである。しかし本当はそうではない。ただ、学校を見たり、友達を見たり、教科書やノートを見ただけで、子どもは胸が苦しくなり、足が動かなくなり、気分が落ち込んでくるのである。そこには多くの心の専門家や大人達の考えるような理屈はない。理屈抜きに、自然にそうなってしまう。現在の心理分析では扱えない領域の問題である。それなのに大人から、怠けだ、意欲がない、弱虫だ、頑張れなどと言われても、子どもにはどうにもできない領域の生理反応なのである。登校拒否は決して子どもの意思による拒否行動ではない。それどころか子どもの言葉では、学校へ行こう、学校へは行かなくてはならないと表現する場合がおおい(これは子どもの意志ではない。習慣の心からの、知識としての表現である)。しかしそう思っただけで体の内から沸き上がるつらさや怒り、恐怖、体の硬直した動きから、子どもの言葉による表現に反して、学校を避ける行動をとってしまいる。子どもの学校を拒否する行動は、子どもが成長の過程で、学校生活の中で獲得したいわゆる性格であり、生理反応であり、その事実は子どもの思考や意志ではどうにもできないものなのである。そのような自分の知識に反した生理反応のために、そのとき子どもは大変に辛い葛藤状態にある。
 登校拒否を考えるとき、情動はどのようにして形成されるのかを考える必要がある。情動は辺縁系という脳で、五感からの刺激が評価され、脳幹で具体的な情報にされて、体全体に表現される。その刺激に対する判断の仕方は、ほ乳類ではほぼ共通しており、条件反射という情動学習により形成される。登校拒否とは、学校内で子どもが大変に辛い経験をしたために、子ども自身が学習した、学校に対して、学校に関するものに対して、それを回避しようとする条件反射によって生じる行動である。条件反射に関する研究はパバロフ以来多くの研究がなされているが、登校拒否に当てはまる条件反射は、恐怖や不安から学習する条件反射である。その研究結果は、登校拒否の子どもを持つ親がその経験の中で気づいたことを、とてもよく説明し、支持してくれる。
 登校拒否の子どもの心理を、子どもの医者嫌いで説明してみる。もともと医者は大人にも子どもにも恐い存在ではない。ほとんどの子どもは注射などの痛い思いをするまでは、医者に対して普通の大人に対するのと同じ行動をとる。ところが注射などで何回か痛い思いをさせられた子どもは、その時周囲にあった物、例えば注射器、医者およびその白衣、病院を恐怖や不安を生じる条件刺激として学習する。子どもにより何を条件刺激として学習するのか異なるが、一般的に幼い子どもでは白衣や病院といった大ざっぱなものが条件反射として学習されている。年長児になってくると注射器そのものというように、条件刺激がもっと具体的な物になってくる。条件刺激を学習すると、子どもは注射器、医者や白衣、病院で恐怖や不安を生じるようになり、これらを反射的に避ける行動をとる。
 医者嫌いでは、恐怖を生じる無条件刺激は痛みである。その痛みを受けたとき、周囲にあった無関刺激の注射器や医者、白衣、病院を恐怖や不安を生じる条件刺激として子どもが学習する。学習が成立すると以後、子どもがこれらの条件刺激に遭遇したときに、子どもはその条件刺激を避けようと回避行動をとる。子どもは恐怖に関する行動、すなわち声で恐怖を表現し、逃避、攻撃、すくみ(欝状態)の行動、または不安を表現し、いろいろな神経症状を訴える。
 この事実を登校拒否に当てはめてみる。恐怖を生じる無条件刺激は例えば学校の教師による体罰や、友達のいじめによる暴行の痛みである(登校拒否の場合は痛みだけが恐怖の原因ではないが、ここでは痛みだけに限定しする)。その結果無関刺激の教師や友達、教室、学校、教科書など学校に関連した物を恐怖や不安を生じる条件刺激として学習する。それ以後、その条件刺激に子どもが出くわしたとき、子どもは学校への回避行動をとる。学校への行こうとしない行動である。しかし大人はそれを理解できないから許さない。そこで子どもは学校に対する恐怖を表現し続ける。それが学校への行き渋りや、ひきこもり、暴れる、いろいろな病的症状を出すなどの、登校拒否の際に親がみる子どもの行動や症状である。これらの行動は子どもの意志とは全く関係ない、子どもではどうにもできない生理的な反応である。
 ただ医者嫌いと登校拒否との間には大きな相違点がある。医者嫌いは大人も子どものとる行動を理解でき、それなりの優しい対応がとれる。ところが現在の多くの大人は登校拒否を経験していない。学校が恐怖を生じるところとは考えることができない。学校へは毎日行ってもらわなくてはならない。学校へ行こうとしない、学校を恐がる子どもをおかしいと、異常であると、大人は考えてしまう。子どもの正常な生理的な反応とは考えることができない。そこで子どもを病院や心の相談所に連れて行く。それは正常に反応できる子どもを異常な子どもとして扱い、正常でない反応を取るように強制することになる。それは子どもをより一層強く回避行動を取らすことになり、恐怖を起こす条件刺激の汎化になる。つまり恐怖を起こす条件刺激とは異なるもの、例えば親などの子どもを追いつめるものや恐怖を生じる条件刺激の概念だけで、恐怖を生じるようになる。こうなると大人は子どもの登校拒否の本質を全く見きわめられなくなる。登校拒否にはいろいろな形があると言う専門家が出てくることになる。
 登校拒否とは、学校または学校に関する物に条件刺激を学習して、その条件刺激に出あうと恐怖や不安を生じ、学校へ行けなくなる状態である。その際に生じた恐怖や不安が弱い場合には、登校拒否の子どもは力が弱いために、周囲の親の力で学校に行っている場合がある。登校拒否の子どもで、条件刺激に出あった際に生じた恐怖や不安が強いと、いろいろな神経症状や精神症状を出して、子どもは大人の力を用いても学校へは行かなくなるし、大人も行かさなくなる。不登校状態になる。不登校状態になっても、条件刺激に出あい続けると、子どもは自分の周囲にある物や人に恐怖や不安の条件刺激を学習して、自分の家から、自分の部屋から出られなくなる。引きこもりの状態になる。

{登校拒否と不登校の時間的経過}
 ここで登校拒否と不登校の時間的経過を示しておく。
 子どもは元来、元気が良く素直で協力的で、何かを求めて成長している。ところが主として学校内で辛い経験を繰り返すことで、子どもは性格の変化を生じてくる。その結果、恐怖を感じやすくなったり、いじめを受けやすくなったりする。その状態で辛い経験を繰り返すと、辛くする相手に対して回避行動、学校内で辛い経験をすると学校を回避するようになる。学校へ行き渋るようになる。この状態が登校拒否の始まりである。それでも学校で辛い経験を続けると、腹痛、頭痛、吐き気など、自律神経の症状を出してくる。そして、ついには学校へ行けなくなる。この学校へ行けなくなった状態が不登校の状態である。つまり不登校とは、登校拒否の内で学校に行けなくなった状態を言うことになる。精神症状は子どもによって異なるが、自律神経症状に遅れて、いろいろな形で出てくる。

{子どもに勉強をさせる方法}
 小学生でも、中学生でも当てはまることである。子どもは自分の好きなこと、自分のしたいことについては自分から進んでする。自分の嫌なことについては、それをしないか逃げ出す。これは子どもの自然な姿である。この事実が大人とは異なることを、まず第一に考慮する必要がある。多くの子どもについて、子どもの好きなことと勉強とは一致しない。多くの子どもについて学校は好きだが、学校の勉強を好まない。
 勉強(躾についても言えることだが)が子どもにとって楽しい物であれば、子どもは自分から勉強をする。しかし、多くの子どもにとって、勉強は楽しい物(楽しくすることは大変に難しいです)ではない。子どもによってもその程度は異なるが、学校の勉強が楽しくないから、子どもは自分から勉強をしない。親が子どもに勉強をする習慣を付けたいと思っても、子どもにとって嫌なことをする習慣を、親が子どもに付けることはできない。子どもが自分から勉強をしていると親が思っている場合でも、子どもは自分の部屋で勉強以外の別なことをしていることが大半である。自分の部屋で勉強をする子どもも、宿題とか、試験の範囲としか、要求された範囲でしかしない。その場合には、親が怒るからとか、自分にとって嫌なことを回避するために、勉強をしているだけである。その結果、その時には、子どもが良い成績を取ることもある。親としては、子どもに良いことをしたように感じられるが、そこには子どもにとっての発展性がない。その様な勉強の仕方では、子どもは将来行き詰まることになる。そればかりでなく、親子の信頼関係を損ねて、親が気がつかない内に、子どもの心を傷つけてしまう。多くの勉強のできる子どもが中学高校で挫折する原因の一つである。大切なことは発展性のある勉強の仕方である。必要なときに自分の意志で、勉強など必要な知識を得る能力を持たせてあげることである。必要なときに必要な勉強をして、良い成績を取ってくれればもっと良いのだが、成績とは多くの場合子ども同士の比較であり、必ずしも子どものあり方の実体を示していない。初め成績が良くても、その後伸びなくては何にもならないし、初め成績が悪くても、必要なときに伸びてくれれば良いわけである。
 子どもが勉強をするのは親が喜ぶから、ご褒美を貰えるから、勉強をする場合と、親に叱られるから、やむを得ず勉強をする場合が有る。多くの場合親に叱られるからやむを得ず勉強をしている場合が多いようだ。それに対して、ご褒美を貰えるから勉強をする場合、ご褒美がないと勉強ができない。その為には勉強をしたらご褒美が貰えるというやり方あを繰り返すことで、勉強することを習慣的にさせることができる。その時、何をご褒美とするかを考えてみる必要がある。物をご褒美として与えるとき(時に物を与えるのは効果的だが)、物を与え続けることは現実的に不可能である。そこで子どもも絶えず喜んで受け取り、親も絶えず与えることができる物を考える必要がある。それは親の愛、特に母親の愛情は、子どもにとってとても大きなご褒美になる。親の愛情表現の仕方はそれぞれの子ども(勿論兄弟についても、それぞれ異なる)と親との間で異なるから、具体的にはっきりとその方法論を示すことはできない(母親は本能的に子どもに愛情を注ぐ能力を持っているようです)。兄や姉でうまくいった方法が次の子どもにうまく行くとも限らない。母親がご褒美だと思っても、子どもがご褒美だと思わないときには、ご褒美にはならない。ご褒美だと判断するのは子どもだからである。基本的には、親が子どもなりのやり方を認め、その成長を喜ぶ姿が、子どもには大変に大きなご褒美になっている。
 勿論、子どもが本当に勉強が好きならば、この様な配慮はいらないのだが、全ての教科学科を好きになることはまず不可能である。たった一つの学科だけでも、その学科を本当に好きな子どもはおおくはない。子どもがある学科を好きだと言った場合、それは他の教科よりも好きだという意味で、決して自分から勉強をしたいと思うほど好きではないと考えた方が良い。
勉強も躾もそうだが、親や教師が命令してやれと言った場合、子どもは親や教師のいないところではそれを絶対にしない。命令ではなくて、何かの代償、特に愛情を代償とすることが、子どもを親や教師が希望する方向へ行動させるのにとても大切である。また、目の前の結果でなく、子どもが自分の意志で何かを求めて勉強をする、行動をする事がとても大切であることを強調しておきたい。

{親と子どもとの関係}
 親と子どもとの関係に、「親が親としてどうあるべき」という発想を用いると、親が子どもの心を無視することになる。多くの子どもに関して、このような発想での親子関係が問題になることはない。けれど辛い立場の子どもたちに関して、このような発想での親子関係は、子どもを大変に辛くする。親としてあるべき姿を全面に出すのでなく、子どもが何を親に求めているかを親が考えるようにすると、親の子どもへの対応に間違いが無くなる。子どもが親に何を求めるのか、それは子どもの心が動物の心ととても近い関係にあることから知ることができる。子どもの心は動物から学ぶべきであり、特に霊長類の親と子の関係は大変に参考になる。霊長類の子どもを参考にして、人間の子どもに当てはまるものを説明したいと思う。
 子どもは小さければ小さいほど、辛い状態に有れば有るほど、母親を求める。霊長類での母親を求める傾向は人間以上に強くて、ほとんど父親を求めることはない。人間の子どもも、父親が存在が無くても母親さえ存在していれば、心身の成長は十分に可能である。人間の子どもが父親の存在を求めるときは、理性的な行動ができるようになってからのようである。つまり思春期を越えてからのようである。子どもの立場から見るなら、子どもを支える母親と、その母親を支える父親の存在が子どもの成長に効果的である。母親を支える父親の存在が子どもには必要であり、母親を支えない父親の存在は子どもにとって意味がない。それどころか、母親を苦しめる、または子どもの心を傷つける父親の存在は、子どもにとっては害になる場合が多い。子どもにとって離婚した方が良いと考えられる場合もある。子どもも両親の離婚を本能的に望む場合がある。子どもは母親の離婚による経済的な貧しさに十分に耐えられる。それどころか、納得できる貧しさは子どもの強い心を作るのにも役立つ。大切なのは母親と子どもとの優しい心の交流であり、物質的な豊かさ貧しさの問題ではない。
 酒を飲んで暴れるなど家庭をかえりみない父親の姿は、多くの場合父親の存在を子どもに拒否させる。その事実をふまえて、母親は夫婦の継続を決定すべきである。父親から子どもが守れて、経済的な意味も含めて母親自身も維持していけるなら、離婚しない方が良い。そうでなければ生活保護を受けてでも、離婚をした方が子どもの立場から言うなら、好ましい。また、母親(妻)の父親(夫)への依存は、夫の妻への虐待の際によく見られる。父親の、時としては母親も含めた子どもへの虐待の際に、よく見られる。子育てにおける母親が夫に支えられていな場合、母親の機能(母性)が十分に発揮できない。母親が夫に支えられていないとき、母親を害するとき、母親の機能には夫がいない方が好ましい。父親がいなくても母性の働く母親がいれば、子どもは十分に育つ。
 家庭をかえりみない父親を見て、子どもがそれを真似するかどうかの問題がある。子どもは意識的に父親を真似することはない。子どもは与えられた環境の中で、子どもなりに一生懸命生きている。子どもが学校へ行こうとしないことと、父親が家庭を省みないととを関係づける意見があるが、直接的な関連はない。子どもが学校へ行こうとしないのは既に子どもの心に傷が有る。その心の傷を癒さなければ、子どもは結果的に家に引きこもり続けて、父親のような生き方になる可能性がある。それは決して父親を真似したのではなくて、心の傷の結果そのようになっただけである。逆に元気な子どもはこの父親の姿を否定することで、自分をのばす。要は子どもの心の中の傷の問題である。母親がいかに子どもの心の傷を癒すことができるかの問題である。父親に問題が有るとき、母親が夫との関係で辛くなり、子どもの心を癒す余裕がなくなるので、何かで傷ついた子どもの心をいやせない、その結果もっと子どもの心が傷つきやすくなっているという事実がある。
 この様に述べると、母親に大きな責任があり、母親はとても大変なように聞こえる。しかし、どの母親にも母性が有る。その母性が素直に発揮されると、これらのことは自然となされる。逆に意識的に母性を発揮しようとすると、無理を生じて、母親が大変になり、辛くなる。母親が欲を捨てありのままの子どもを認めようとすれば、子どもへの母親の母性が働き、子どもを取り巻く問題が解決される。

{いじめについて}
 いじめを一回受けたからと言って、子どもはそのいじめから大きな影響を受けることはない。親にしっかり支えられている子どもはいじめを受けても、その子どもなりに解決が可能である。しかし現実には、親にしっかりと支えられた子どもは少ない。現実の多くの子どもの場合、子どもがいじめを受けたと言葉で言ったとき、または親が子どものいじめに気づいたとき、その時点で既に子どもは何度もいじめを受け続けている。既にいじめによる大きな心の傷を子どもは受けている。いじめを受けている子どもは、心の傷のためにいろいろなこと(ストレッサー)に過敏になっている。その結果、親や教師が「こんな些細なこと」と思われるようなことでも、大きな影響を受けて、大変に苦しくなっている。いじめを受けている子どもと、親や教師との感じ方に大きな格差を生じている。このストレッサーに対する感受性に、いじめを受けている子どもと周囲の大人との間に格差があることを前提として、いじめを考える必要がある。
 いじめを受けている子どもに、強くなれと言っても無理な話である。子どもには自分のストレス状態を克服して、ストレッサーと立ち向かうことはできない。それができるようになるのは大人になってからの話である。いじめの対処を自分でできるくらいなら、子どもはいじめられ続けない。いじめられている子どもは、いじめから逃れられない状態にある。多くのいじめられ続けている子どもはいじめから逃げようとして、逆に激しいいじめを受けて、いじめから逃げられないことを、既に経験(学習)しているからである。
 いじめられている子どもをいじめから守るにはどうしても大人の対応が必要である。いじめの場所(学校や学校の行き帰の道中)に子どもを押し出しているのは親である。学校へ来るようにと指導しているのは教師である。親や教師が子どものいじめを知ったなら、そのいじめをなくそうとするのでなく、いじめの場所からいじめられている子どもを隔離することが一番確実な方法である。親にできることは、子どもを学校へ行かさないことである。教師にできることは、いじめられている子どもを教師の目の届くところに絶えず置くことである。しかしいじめられている子どもを目立って特別扱いすると、かえって教師の目の届かないところ、例えば通学の道筋で激しいいじめを受けやすくなる。
 いじめている子ども達も、自分たちが受けているストレスからいじめに走っている。いじめがあると解ったら、学校側ではいじめる子どもへの対応も必要である。いじめる子どもへの対応は学校側の問題である。いじめる子どもはいじめられている子どもがいなくなると、次のいじめられる子どもを見つけるからである。いじめる子どもを指導して、説得や力でいじめを止めさせるのではなく(ストレスが加わっている限り、いじめている子どもは何らかの形で不適応行動をとるからである)、いじめている子どもに加わっているストレスをいかに取るかを考える必要がある。
 いじめの現場を取り巻いて見ている子どもの問題があると言う人がいる。人前でのいじめは巧みに遊びの形を取る。それを見ている子ども達にはいじめと思えない場合が多い。それを見ていた子どもたちがいじめだと感じても、それをいじめと断定することは大変に難しい。いじめを解決しようとして子どもが下手に手を出すと、今度は手を出した子どもがいじめの対象になる可能性を、子どもは肌で感じ取っている。これらの事実から、大人がいじめを取り巻いて見ている子どもたちを非難することは責任の転嫁である。教師ですら目の前で行われているいじめを、また報告されたいじめを、遊びと解釈してしまうことは良くあることである。目の前でいじめが行われていても、それを見ている子どもたちはどうにもできない。大人の感覚で子どもを見ていると、いじめを見ている子どもたちの立場は理解できない。

{子どもが落ち着く年齢的な目安}
 子どもは受けた刺激に反応して行動する。情動的からの行動が中心になる。理性的な行動、思考に基づく行動はできないか、大変に苦手である。子どもを説得しても、その効果がない理由である。理性的な行動を求めてもできない理由である。ところが大人になると、受けた刺激を自分なりに理性的に処理して、自分の情動を抑えて行動をすることができる。いわゆる理知的な行動ができるようになる。人間が丸くなると表現されるものでもある。思考に基づく理性的な行動ができるようになるのは思春期以後である。大まかな目安は男の子で25才ぐらい、女の子で20才ぐらいであると考えられる。それもその時期になると直ぐにできるわけではない。それなりの訓練を生活の中でしなくてはならない。多くの人について、生活の中で自然と訓練をしている。ところがストレスに晒されていると、日常生活の中での行動が、ストレスに対する回避行動が中心になってしまい、自分の情動を調節する訓練ができていない。そのような人の場合、思春期以後もストレスから守られていなければ、理性的な行動の準備や訓練ができない。ストレスにさらされている子どもは、家庭内で親に守られて、その子どもなりにその子どもの意志が尊重された生活の仕方が保証されていなければならない。
 脳科学的には、思春期頃に思考の脳である前頭葉の神経繊維の髄鞘化が完成する。その時期と、前頭葉が(思考)辺縁系(情動)を調節可能になる時期(子どもの反応が落ち着いてくる)と一致していると考えられる。

{母親の子育てに対する不安が子どもに影響して、子どもが不安になりやすいか?}
 母親や父親の不安に陥りやすい遺伝的な因子が有れば、それは子どもに遺伝的な影響を与える。動物実験では恐怖や不安に陥りやすい血統というものがある。人間にもきっと有ると思われる。もしあったとしたなら、それはどうにもならないことである。しかし人間には生後の対応により、その遺伝の影響を最小限にすることができる。
 子どもの情動はほぼ3才ぐらいで確立する。それまでは母親から情動反応の仕方を移入する。母親の情動反応をそのまま取り入れて、子ども自身の情動反応を確立している。その詳しい仕組みは未だ良く解っていない。情動反応が確立すると、ほとんど全ての刺激に対して、子どもは母親から受け入れた情動反応の仕方で反応をして、思春期まで成長していく。一端確立した子どもの情動を変えることは大変に難しい。およそ3才以後の情動学習は、新たな条件反射を学習することで、新たな情動反応の要素が加わるだけであり、基本的には大きく変わることはない。つまり子どもの基本的な性格が母親の性格を受け入れるという形でおよそ3才ぐらいで決まってしまうことになる。このような意味で、小さな子どもを持つ母親はいろいろな意味で守られなくてはならない。母親の情動反応を安定させるのは父親の役目である。
恐怖や不安に陥りやすい子どもがいることは事実である。それだからと言って、その母親や父親を攻めて良いわけではない。一生懸命子育てを行った結果であるから、親に責任が有るわけではない。親がそのように反応しなくてはならないようにした、親を取り巻く環境に問題が有ったわけである。その環境を形成しているのは私達人間である。人間文化である。私達が恩恵を受けている人間文化で、苦しまなければならなくなった親やその子どもを守るのは私達人間文化を作っている大人達である。私達が人間文化で苦しんでいる人たちを守らなくてはならない。ところが多くの大人たちは自分のこと自分の子どものことで精一杯である。他の人のことを考える余裕がない。
 恐怖や不安に陥りやすい子ども、即ち心が傷つきやすい子どもを私達大人は守る必要がある。決して辛い状態にある子どもたちを責めてはいけない。子どもに落ち度はないのだから。親も精一杯育てたと言う点で落ち度はない。辛い状態にある子どもたちの問題を解決するには、子どもたちの過去を問題にしても解決はない。子どもたちの将来を見据えて、子どもたちを守るだけでよい。子どもたちは大人に守られた中で成長して、自分が大人になったときに、自分で傷つきやすい心を強くすることがでる。大人になると自分の情動、即ち反応の仕方を自分の意志で調整して、問題の解決を図ることができるようになる。
 親が不安に陥りやすくなくても、何度も子どもがいろいろな恐怖に遭遇すると、不安に陥りやすくなります。その事は人間以外のほ乳類でも同様である。その程度は、不安を感じやすい性格を持っているとより強くなる。しかし、不安を感じやすい性格を持っていても、不安になる原因が無いと、不安を感じやすい子どもも不安を感じない。それ故に、子どもの生活の場である家庭や、学校内に不安を生じる原因があってはならない。もし学校内に、ある子どもを不安にする原因があったなら、その子どもにはその不安の原因を他の不安をもたらさない形にする必要がある。学校内に子どもの不安の原因があるのに、それを棚に上げて、子どもの不安を感じやすい性格を非難することは、教師として許されない。子どもは自分の不安を自分で解消できないからである。

{子どもにはストレッサーを加えない方が良いということに関して}
 大人はストレッサーを受けても、自分の情動を押さえて、その間に他のご褒美(強い接近系の刺激)を自分で見つけて、そのストレス(状態)に立ち向かい、解決することができる。その大人でも自分で自分の情動を押さえきらない程の、強いストレッサーには、心が傷ついて(ストレス条件反射を学習)しまう。
 子どもには自分で自分の情動を押さえる能力が無いか非常に弱いから、受けたストレッサーにそのまま反応するしかない。ストレスに立ち向かうことはできない。子どもにご褒美を与えることでストレスに立ち向かわせることができる。ストレスを克服できないときには、大きな心の傷を受けてしまうことは大人と同じである。
 親が、大人が、子どもにご褒美を与えたつもりでストレスに立ち向かわせても、子どもにとって与えられた物がご褒美と感じられないとき(これは学校の教師でしばしば見られることである。教師としては子どものためと思って対応を行っても、その子どもには自分のためとは感じられないことが多い)、子どもはストレッサーのために大きな心の傷を受けてしまう。一般論から言うなら、子どもには子どもが克服できないストレスを与えない方が良い。ストレスから守ってあげた方が良いと言うことになる。
 母親が子どもを支える行動は間違いなく、子どもにとってのご褒美である。母親に支えられた子どもはストレスを受けても、母親からの支えがご褒美になり、その子どもなりにそのストレスを克服しようとする。それは子どもの心を大変に強くする。自分の情動を調節する訓練になる。子どもで克服できるストレッサーは与えてかまわないが、与えた方が良いかどうかは子どもの状態による。

{登校拒否をする子どもは性格の良い子である}
 学校で生じる恐怖を回避するための、子どもの行動として登校拒否の他に、校内暴力、いじめ、非行行為、不良行為などがあげられる。登校拒否の子どもはこれらの人に迷惑をかけるような不適応行動を取ることができないから、登校拒否という形で学校を回避します。人に迷惑をかねないと言う意味で、親にとって良い子どもである。また、一般に登校拒否をする子どもは心が優しくて、学業ができる子どもが多い。そのような意味でも、登校拒否をする子どもは一般に良い子である。ただ、学校という物で、子どもの心が傷ついたのであり、学校を取り除いてあげれば、子どもは良い子どもとして成長していける。このことは経験的な事実であり、例外もないわけではない。母親だけは自分の子どもがよいこであることを信じてあげることが大切である。心が傷ついて動けない子どもを見ていることは大変に辛いことだ。将来が見通せなくて親としても不安が募る。引きこもっていた子どもが犯罪を起こしたニュースを聞くと、親としてとても不安である。しかし、親のその不安は子どもを信頼していないことになる。親に信頼されない子どもはよりどころがなくなり、大変に辛く、不安が強くなる。自分の心の傷を癒すことができない。
 登校拒否をしている子どもたちは、学校で傷ついた心を持っていると言う点で、それまでの子どもたちと違う。傷ついた心が疼かない限り、学校と関わらないという点を除いて、子どもたちは普通に成長できる。今までの登校拒否を起こした子どもたちも、多くの方が成長して普通の大人になっている。社会でその人なりに活動をしている。親としてその事実を信じられるかどうかが、登校拒否を起こした子どもの将来を大きく左右している。親に心配や不安の念が生じたときには、親はそれを振り払って、子どもを信じようと努力すると、それは必ず報われている。

{ADHD及びLD}
 学校生活に不適応を生じるある種の子どもたちを、いわゆるADHDやLDとして、区別している。その子どもたちの脳に何か病的な変化があり、そのために学校生活に不適応を起こしているのか、それとも単にその子どもの刺激に対する反応形式なのか、まだわかっていない。
 いわゆるADHDやLDと言われている子どもたちも、日常生活はできる。それは大脳新皮質の機能が正常に働いていることを示している。これらの子どもたちが問題になるのは情動反応である。興味の示し方である。その結果としての子どもの行動様式である。新生児、乳児の時期には特に目立った変化はないが、幼児期になると他の子どもと違っているという印象を親に持たせるようになる。それだからと言って、それらの子どもたちが全ていわゆるADHDやLDと呼ばれる子どもたちになるのではない。その内のごく一部がいわゆるADHDやLDと呼ばれる子どもになる。そこには親との関係で、何か学習した結果がある可能性がある。
 いわゆるADHDやLDと言われている子どもたちの中には、子宮内で、分娩中に、何か脳障害を受けて、その結果学校生活に不適応を生じるようになった子どももあるかもしれない。もしそうだとしたなら、大脳新皮質の場合、その欠落した機能は、成長の過程で脳の他の部分で補われて良いはずである。辺縁系がいわゆるADHDやLDと呼ばれる子どもたちを作っていると考えられるが、参考になる情報がほとんどないために、これ以上議論することができない。
 遺伝的な素因によるものかどうかに関しては、性格の大半は学習によるものであるから、可能性はきわめて低いと考えられる。
 成長の過程での情動の学習結果だと考えるなら、それは可能性がある。情動の学習結果であるなら、子どもの大脳新皮質が成熟して、大人の大脳新皮質と同じ機能を持ったとき、いわゆるADHDやLDと呼ばれている子どもたちの特異と考えられている反応の形式は消失させることができる。

{学級崩壊}
 学級崩壊とは、一般的に正常だと考えられる授業が、児童生徒の不適応行動の結果、何日間かに渡り成り立たないことです。
 学級崩壊を起こさせる子どもの立場として
1.成長して有る年齢になり、その結果学校へ来てみたら辛くなった。
2.学級に適応しようとするのだが、学級に魅力が無くて、我慢の限界を超えてしまう。
3.必ずしも学習能力が低い訳ではない。
4.学級崩壊を起こさせるものとして、刺激を求める探査行動と、嫌悪刺激に対する回避行動とがある。
5.学級内で認めあられると、周囲から見ての問題行動を示さなくなる。

2000年代の子どもがなぜ学校に魅力を感じなくなっているのか、その要因を考えてみよう。
いわゆる学級崩壊を起こす子どもの立場から見て、学校の魅力を無くする因子
1.学校側の子どもへの徹底した管理主義と詰め込み教育を良しとすること。これらは大人の思いであり、子どもの立場を無視している。
2.子どもたちは学校以外で、特に家庭内で十分に楽しめるから、学校での楽しみを求める必要がない。積極的に求めない。(子どもは子どもの集団を求める。子どもが子どもの集団を求めないのは、それなりの理由がある。)
3.教師の気持ちからの子どもたちへの対応であり、目的達成のために恐怖が用いられる。命令や罰と言う形で子どもたちが動かされている。
4.学校から逃避しようとしても、義務として行かされるため、余計に魅力がなくなる。

いわゆる学級崩壊を起こさせる子ども側の因子をあげてみる。
1.学級に魅力がない。
2.多動。ほとんどが幼稚園や小学低学年で見られる。
3.回避行動。幼稚園児や小学低学年でも見られるが、それ以上の年齢の子どもたちの学級崩壊の原因をなすものである。
 教師の学級運営のまずさから、子どもたちが授業に興味を持たない場合がある。それは学級全体で興味を持たない場合と、一部の子どもたちが興味を持たない場合とが有る。一部の子どもたちの場合には、授業が理解できなくて興味を持てない場合と、既に理解していてつまらなくて興味を持てない場合とがある(後者の場合でも、子どもは本質的に学校生活を楽しもうとします。子どもが理解していることを理由に授業に興味を持たないのにはそれなりの理由がある)。
 多動は生得的な接近系の反応の強い、探索行動の強い行動である。学級のあり方に満足できない子どもであり、それ自体は異常ではない。多動を阻止すると、それは恐怖として子どもに作用して、子どもにストレス条件反射を生じるようになる。成長して大人になれば大脳新皮質の機能で行動を抑制できるようになる。学級のあり方を子どもに合わせられたら、多動の行動はおさまる。
 回避行動による行動は、一見、突然子どもが問題行動を起こすように見えるが、実際はストレス条件反射の結果子どもが問題行動を起こしているだけである。その際の条件刺激は平凡すぎて解らないことがほとんどである。問題行動は辺縁系で生じている。成長して大人になれば、大脳新皮質の機能でこの回避行動は起こらなくなる。また、辺縁系の接近系の条件反射でも、起こらなくすることができる。

{仮面を被った子供達(小、中学生に限定する)}
*仮面を被るとは、良い子を演じるとは
仮面を被る(良い子を演じると同じ意味)は、子どもが嫌悪刺激(その子どもにとっていやな刺激)を受けたとき、見かけ上、情動反応(情動の心=大脳辺縁系)からの動物的な回避行動(その刺激から逃げ出そうとする行動)や、不適応行動(人間で言えることであり、置かれた環境にそぐわない行動)を示さないで、それまでに学習た知識を無意識に用いて(習慣の心=大脳新皮質)、反射的に周囲の大人に受け入れられるように反応することである。見かけ上は、大人の求める理想に近い反応や行動をする子どもの反応の仕方である。時にはその反応が大人びていて、子どもらしさが無いように感じられる。
 仮面を被るには、過去に仮面を被るための知識を学習していなければならない。それだけの学習をしておくためには、子どもはかなり知的に高くなければならない。本来良い子供(その子どもが属す文化で良いと考えられている)で、知的にも優れている子どもが、辛い状態になると、仮面を被るようになる。
 仮面を被ること自体は、子どもにとって辛いことでも、努力を要することでもない。子どもは受けた刺激に反射的に習慣の心の中の知識から反応しているだけである。けれど同時に情動の心が反応して、辛い症状が体中に出ている。子どもはその辛い症状に耐えている(耐えられなくなったときに仮面を取っている)。子どもが仮面を被った状態は、大人の目から見たら、子どもが受け入れてくれて、大人の対応には問題がないと考えられやすいで状態だから、大人はその子どものためと思って、結果的に子どもに見かけと違って、辛い思いをさせ続けることになる。大人からは、とてもそのようなことはあり得ないと思える状態の子どもが、その心の中で辛さを感じ、辛さに耐え続けている。
*子ども達の心の状態からの概念的な分類
 どのような子どもたちが大人の前で仮面を被るかを知るには、子どもたちと学校との関係を知る必要がある。現在の子ども(小中学)たちの心に大きな影響を与えているのは学校であるから。子どもたちは学校との関係で心を成長させている。学校との関係で子どもたちの心を見ることで、実際上子どもたちの心を知ることができるし、そうすることで問題を生じることはない。
 現在の子どもたちを学校との関係で見るなら、子どもたちは概念的に、考え方として、大きく三つに分けられる。ただし正確ではない。その三つの子供達の区別の仕方は、
1)学校へ問題なく行っている子ども、
2)学校へ行き渋る子ども(登校拒否)
3)学校へ行こうとしない子ども、行くことができない子ども(不登校)
とで、区別できる。子供の心が傷ついて、元気を失っていくと、1)から2)、3)と子供の心は変化していく。
2)の学校へ行き渋る子どもと、3)の学校へ行こうとしない、行くことができない子どもとの区別はさほど難しくない。1)の学校へ問題なく行っている子どもと、2)の学校へ行き渋っている子どもの区別は大変に難しい。
 子どもが仮面を被る、良い子を演じるという意味では、1)の学校へ問題なく行っている子どもはありのままの自分で仮面を被らないか、即ち子どもの本心から良い子である場合か、良い意味で仮面を被る、良い子を演じて、それを自分の経験や知識として、心を成長していっている場合である。多くの子どもがこれに属する。
2)の学校へ行き渋る子どもは、辛い刺激を受けなければ、仮面を被らないで、即ちありのままの自分で良い子で行動する。辛い刺激を受けたときには、元来ならありのままの自分で反応して不適応行動を取るのだが、相手を選んで仮面を被り、良い子を演じてしまう。そこには理由はない。単なる反応の仕方である。仮面を被った行動を取る理由は、子どもが嫌悪刺激に対して、自分を守る方法として学習しているからである。情動反応の表現として、これらの行動が選択されているだけである。最近、この状態(仮面を被った、良い子を演じる)の子どもの数が増えてきている。
3)の子どもは仮面を被る余裕がない。良い子を演じる余裕がない。辛い刺激を受けたら(辛い刺激は自分の中で作られることもあります)、ありのままの自分で反応して、不適応行動を取ってしまう。ただし、辛い刺激が無ければ、ありのままの自分で、良い子で行動できる。辛い刺激がなければ、不適応行動を取ることはない。いわゆる不登校、引きこもり、不良行為(万引き、盗み、薬物、集団暴走、暴行、不良性行動)をする子どもたちを指している。
 ここで注意しなければならないことは、不良行為が習慣化した子どもたちと3)の嫌悪刺激を受けると仮面を被らないで不良行為をしてしまう子どもたちとを、私たち大人が混同することでである。万引きを繰り返す子ども、その他の不良行為、犯罪行為を繰り返す子どもがいる。これらの子どもたちはもともと万引きなどの不良行為をしていたのではない。最初はとても辛い状態にあって、嫌悪刺激を受けたとき、その回避行動として不良行為をしてしまいた。けれどその不良行為をやめさせるような対応が取られなかったために、嫌悪刺激を受けるたびに、不良行為を繰り返すようになっている。不良行為を繰り返した結果、不良行為が習慣化して、嫌悪刺激がなくても不良行為をするようになっている。そこには罪悪感がない。
 不良行為が習慣化した子どもたちと、3)の嫌悪刺激を受けたら不良行為を行う子どもとの区別は大変に難しい。例外もあるかもしれないが、小中学生では、不良行為が習慣化した子どもはないと考えて、実際上は良いようである。
*教師と子ども
 多くの子どもたちは、学校の教師の前で、その子どもなりに素直に反応している。けれどある数の子供達は、教師の前では仮面を被って、良い子を演じている。子供達は親からも、教師からも良い子であることを求め続けられて育ってきている。そのために、子供達は教師の求める形になろうと、習慣の心から無意識に反応している。ある数の子どもが、教師方から見た子どもの姿が、その子供の本来の姿ではない場合がある。それらの子どもは、受けた刺激(子どもが置かれている周囲からの関わり)に素直に反応することなく、過去に学習した知識で周囲の大人に喜ばれるように反応している。それらの子どもについて、子どもが自分の知識から振る舞っている姿を、その子どもの本当の姿だと判断している教師が多いようである。「あんないい子が?」と教師は言う。子どもが習慣の心から反射的に良い子を演じている姿を子どもの本当の姿だと思っている教師の大きな落とし穴である。子どもの本当の姿は教師の居ないところで見られる。ある意味では、教師と言う立場からでは、子どもの本当の姿は見ることはできない場合があると考えても過言ではない。ただし、その良い子を演じている子どもが、その演技が子どもの本当の性格に移行(習慣として身に付く)すればそれは教育の成果であるし、また、多くの子どもがそれをしている。学校へ問題なく行ける子どもたちはそれをしている。けれど、良い子を演じられなくなったとき、いろいろな問題を生じる子どもとして気づかれることになる。辛くて仮面を被り続けることができなくなった子供達である。
 多くの教師は、子どもが良い子を演じるのを、それが子どもの本当の姿だと判断している。子どもが良い子を演じるのを止めたとき、教師はこんなはずではなかった、子どもが問題だと考える。子どもは周囲の環境に順応しようとして、無意識だが、精一杯成長している。その成長の過程で子どもの心が傷ついて、仮面を被ることすらできなくなり、不適応行動を起こしたとしても、それについて子どもには全く責任がない。子どもに責任を求めることは間違いである。
*親と子ども
 本質的には教師と子どもとの関係と同じだが、親と子どもには生まれ落ちてからそのときまでの親子の信頼関係がある。親子の信頼関係が強ければ子どもはありのままの自分で成長できる。よい子を演じる必要がない。信頼関係がないと子どもは親の前でも仮面を被る、よい子を演じなければならなくなる。



{感覚}
*感覚情報の伝達
                    ┌→前頭葉(認知)
感覚器→視床→感覚野→感覚連合野
                     └→扁桃体→脳幹→体(情動)
*感情
体に現れた情動→感覚器→視床→感覚野→感覚連合野→前頭葉(認知)

{行動}
*情動行動
                     ┌→前頭葉→運動連合野→運動野→体(習慣的運動)
感覚器→視床→感覚野→感覚連合野
                     └→扁桃体→中心灰白質→体(情動的運動)
*習慣的行動
感覚器→視床→感覚野→感覚連合野→運動連合野→運動野→体(習慣的運動)
*意識的行動(子どもでは自発的行動)
大脳辺縁系前部→前頭葉→運動連合野→運動野→体(意識的運動)