温かい布団(登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子についての例え)

 寒い冬の朝、目が覚めても、私たち大人は寒さを我慢して、服を着替えて働き出すより、暖かい布団の中でうとうととしていたいものです。後五分、後一分と、時計を気にしながら、暖かい布団の中で、許されるぎりぎりまで過ごして、時間がきたら仕方なく起きて、身支度をして、動き出します。ところが幼い子どもは大人と少し違います。子どもは目が覚めると、暖かい布団の中で遊びだして、遊びに飽きたら、寒くても自分から起き出してきます。眠っている幼い子どもにとって、暖かい布団は絶対に必要ですが、目が覚めた子どもには、暖かい布団だけでは不満足なのです。

 登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が、家に引きこもって、家の中で好き勝手に生活をしていることを、温かい布団の子どもに例えると、「なるほどうまいことを言うなあ」と思う人が多いでしょう。そして、暖かい布団にくるまれていることからの問題点を指摘されると、納得する人もいるでしょう。しかし実際の子どもは、暖かい布団の中ですら大人とは違うことは、上記の通りです。暖かい布団のなかの大人の姿を用いて、暖かい布団の中の子どもの姿を説明することは間違いですし、登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が、暖かい布団に例えられた温かい家庭で過ごす姿を、暖かい布団の中の大人の姿で説明することも間違いです。

 登校拒否、不登校にしろ、高校中退、大学中退、出社拒否からの引きこもりやニートと呼ばれる子ども達にしろ、子どもの逃げて行けるところは、少なくとも学校や社会と比べて暖かいはずの家庭です。暖かい布団に例えられる家庭です。けれど、これらの子ども達が逃げていった家庭が本当に暖かい布団に例えられるでしょうか?子ども達の家庭で、自分の部屋で、暖かい布団にくるまれて時間を過ごせていると例えられるような子どもはどれだけいるでしょうか?これらの子ども達がくるまっていると例えられる布団は、必ずしも温かくはない、必ずしも居心地の良くない布団ではないかと私は思います。これらの子ども達が生きる家庭が温かくて、居心地が良かったなら、それは暖かい布団の中で目覚めた子ども達のように、子どもは家庭の中でつらい症状を出す心の傷をゆっくりと癒して、その子どもなりに動き出すと思います。その子どもなりの生き方を見つけられると思います。

 ところが多くの登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達の逃げていけるところは、これらの子ども達を待っているものは、針のむしろ、冷たい家庭です。親や大人達は、子ども達にとって温かい家庭のつもりでしょうが、子どもにとっては、違うように感じ取っています。無言の拷問のある居心地の悪い家庭だと思っています。布団に例えるなら、冷たくて居心地の悪い布団だと思います。そうであっても、これらの子ども達には、自分の家庭にしか逃げていく場所がないです。学校へ行っているよりは、職場や社会に居て心が傷つくよりは、冷たくて居心地が悪くても、生まれ育った家庭の方がまだましですから、そこにうずくまって辛さに耐えていなければなりません。それは依然として、子どもにとって不自然なことですから、子どもには辛くて、好ましくないことですから、子どもは病気と間違えられるいろいろな症状を出してきます。逆に言うなら、子どもがいろいろな症状を出しているときは、その子どもは温かい家庭の中にいない、布団に例えるなら、温かい布団の中にはいないと考えて良いと思います。

 登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が逃げて、閉じ込もっているところが温かい家庭でないとしたら、そこで子どもは自分のつらい症状を出す心の傷を癒すことができません。場合によってはその心の傷をより悪化させてしまうこともあります。そこで、子どもは辛さに耐えかねて、親に助けてくれと訴えます。それは言葉で表現することもありますが、多くの場合、言葉で表現しても通じないことが経験からわかっていますから、子どもは暴力という形や、病的な症状でで訴えることになります。布団に例えるなら、今掛けている布団は寒くてつらいから、寒すぎて我慢の限界を超えているから、もっと暖かい布団に換えてくれと言っています。そして、子どもが暴力や病的な症状を出しているときには、その子どもに問題があるのではなくて、その子どもにとって家庭が温かくないことを示唆しています。親にとって温かい家庭だと判断されても、その子どもの心に沿った温かい家庭に、親が変える必要が借ります。その子どもに合った暖かい布団に換える必要があります。

 言葉で子どもの辛さが親や大人に通じるぐらいなら、子どもは引きこもる必要はありません。何度も言葉で子どもの辛さを親や大人に、子ども達は伝えてきています。その言葉を親や大人が聞いたとき、それは子どもが悪いとか、もっとがんばれとか言って、子どもの訴えを素直に聞いてくれません。そこで子ども達は言葉で訴えるのをやめています。辛くて引きこもっていても、親が理解してくれなけれなくて、子どもを責めれば、「子どもがどれだけ辛いか、その辛さを親は気付いてくれ」と言う意味で、親の大切にしているものを選んで子どもは壊します。それでも気が付かないときには、親に対して暴力を振るいます。または、親のものを壊したり、親に対して暴力をふるう代わりに、子どもは辛いいろいろな病気のような症状を出すようになります。

 それでも親の思いから、親の都合から、子どもの行動や症状をみていると、それは子どもの心を素直にみていないという意味で、色眼鏡を通してみていると表現されますが、その色眼鏡をかけて子どもをみている親には、子どもの訴えが全くわかりません。色眼鏡を通して子どもをみている親には、いつまでも暖かい布団の中で、好き勝手に過ごす、途方もない子どもと理解することになります。親は親を犠牲にして、これだけ子どものために尽くしてあげているのに、子どもが言葉を使うこともなく、子どもが何かと暴力をふるうことより、子どもが異常だと考えます。病気だと考えます。それでは子どもはますます苦しくなるばかりです。子どもの辛く感じている本当の心を、色眼鏡をはずして、子どもの心に沿って、親は知ろうとすべきです。子どもに本当に暖かい布団にくるませてあげて、子どもがその暖かい布団の中で動き出して、やがて暖かい布団に満足できなくなって、子ども自身で布団から出ていくのを待ってあげてください。

表紙へ戻る