温かい布団

 登校拒否、不登校、引きこもりを温かい布団の例えとして聞いたとき、「なるほどうまいことを言うなあ」と思いました。しかし、一方で「どことなく違うなあ」とも感じました。その違うと感じるところを書いてみたいと思います。

 登校拒否にしろ、高校中退にしろ、大学中退にしろ、出社拒否にしろ、子供の逃げて行けるところは、少なくとも学校や社会と比べて暖かいはずの家庭です。その逃げていった家庭の自分の部屋で、暖かい布団にくるまれて時間を過ごせている子供はどれだけいるでしょうか?彼らのくるまっている布団は、必ずしも温かい、居心地の良い布団ではないと私は思います。温かくて、居心地が良かったら、子供はそこでゆっくりと心の傷を癒して、自分自身を、自分自身の人生を見つけられると思います。
 ところが多くの子供の待っているものは、針のむしろ、冷たい布団、拷問または無言の拷問のある布団だと思います。そうだと解っていても、学校へ行って職場や社会に居て、傷つくよりはまだましですから、そこにうずくまっていなければなりません。それは依然として、不自然なことですから、子供には好ましくないことですから、子供はいろいろな自律神経症状を出してきます。逆に言うなら、子供が自律神経症状を出しているときは、その子供は温かい布団の中にはいないと考えて良いと思います。


 子供が閉じ込もっているところが温かい布団の中でないとしたら、そこで子供は自分の心の傷を治すことが出来ないと思います。場合によってはその心の傷をより悪化させてしまうこともあります。そこで、子供は辛さに耐えかねて、親に助けてくれと訴えます。それは言葉ではありません。言葉では既に訴えてもだめだと経験しているからです。その結果、子供は暴力という形で訴えるという形を取ります。

 言葉で通じるぐらいなら引きこもる必要はありません。引きこもっても親が理解してくれなければ、「子供の辛さを気が付いてくれ」と、親の大切にしているものを選んで子供は壊します。それでも気が付かないときには、親に対して暴力を振るいます。この様な経過は子供同士の喧嘩や、夫婦喧嘩にも見られる、極普通の成行きなのですが、色眼鏡(子供の立場を考えずに、親の都合だけで子供を見ている)を通してみている親には全く解りません。


 親は、子供が言葉を使わないでいること、子供が暴力をふるうことより、子供が異常だと考えます。これでは子供は苦しくなるばかりです。子供の辛く感じている本当の心を、親は知ろうとすべきです。

表紙へ