子ども論

将来の世界を作る子どもを守ろうとしている親や、子どもたちへ対応をしている大人への解説書です。

 心が元気な子どもへの対応は、今まで大人達が持っている知識で対応できます。この本を読む必要がないです。

 心が辛い子どもを守る対応は、子どもが発する言葉からでなく、潜在意識にある子どもの本心を理解して行う必要があります。ここに書かれている事実から対応をする必要があります。


序章 はじめに

 子どもとは大人を小さくして、その能力を未熟にした物と大人は考えています。子育てとは子どもの体を大きくして、未熟な子どもの能力を大人の能力に近づけることと考えています。確かに子どもの体は大人の体と違って未熟で成長の段階にあります。そのため子どもの能力に限界を生じています。しかし心に関して子ども特有の一点を除いて、子どもの心は既に大人と同じか大人以上の能力を持っています。心は大人並みでも、その体が未熟なために、また子どもの年齢からくる社会経験の不足から、子どもの心は未熟と大人には感じられるようです。

 子どもの心について、子ども特有の一点とは、子どもは子ども自らの意思で、言葉通りに行動することができないか、大変に下手な事実($4大人とは違う子どもの心の特徴を参照)です。子供はある状況下で反射的に過去の経験から行動するか、その行動で親に褒められて嬉しくなるから行動するか、または自分を苦しめている辛さから逃る情動からその行動をしています。子どもが発する言葉は子どもがそれまでに学んだ知識であり、子どもの行動は子どもの習慣や、大人が感情と考えている情動(それまで身につけた性格)から生じています。でも実際に子どもは子どもの言葉通りに行動ができます。大人が気づいていないけれど、それは親から喜びを得ようとするか、辛さを回避しようとした結果です。または行動がたまたま言葉と一致しただけです。子どもは知識である言葉と情動を伴わない行動とを結びつける過程にいます。性格($12子どもの性格を参照)の形成過程にいます。

 多くの子どもは心が元気です。心が元気な子どもについて、大人が子どもの心を理解しなくても、子どもは成長して大人になり、親から自立して社会へ出て行ってくれます。大人は心が元気な子どもについてその子育てを議論していますが、子どもの心が元気である限り、大人のどのような子育ての議論でも、子どもに当てはまります。それは議論が正しいのではなくて、心が元気な子どもでは子どもの方で大人に合わせてくれるから、どのような議論も可能なのです。この理由から心が元気な子どもについて、ここでは配慮しないでおきます。但し心が辛い子どもへの考え方や対応を心が元気な子どもに用いても良いです。一見効率が悪いように思われますが、結果的に子どもにとても良い子育てになります(「頭が良い子に育つ」赤沼侃史著風詠社を参照ください)。

 心が元気に見える子どもの中に、心は辛いけれど心が元気そうに振る舞っている子どもがいます。よい子を演じる子ども($10よい子を演じるを参照)です。よい子を演じる子どもは多くの心が元気な子ども以上にその能力を発揮しますから、大人はよい子を演じる子どもを見分けられません。心が元気な子どもとして対応します。子どもは可能な限りよい子を演じ続けて、耐えきれなくなって突然動けなくなってしまいます。よい子を演じる子どもへは、心が辛い子どもへの対応が必要なのですが、大人は心が元気な子どもへの対応をしてしまいます。

 心が辛い子どもは子どもの内でも少数です。心が辛い子どもは、子どもの方で大人に合わせられません。大人の間で常識になっている子育ての議論は、心が辛い子どもには当てはまらないのです。それどころか心が辛い子どもは常識で苦しんでいる場合が多いので、常識とは逆な対応が効果的な場合が多いです。心が辛い子どもは大人の持つ常識の外にいるのです。

 近年、心が辛い子どもを元気にする対応法がいろいろと主張され、有効であったと報告されています。その報告例を分析してみると、対応法が有効であったと報告されている例でも、それは一時的で、一見有効であったと思えた(子どもの方で大人に無理をして合わせただけ、良い子を演じた)だけであり、それ以後も元気な社会人となって、社会に出て行っていません。しきりに主張されている対応法は、大人が持つ知識や常識からの対応法です。それらの対応法は心が元気な子どもへの対応には当てはまるでしょう。けれどそれらの対応法は、心が辛い子どもの心に沿っていません。大人が一生懸命対応をしても、子どもが元気にならない場合が多いし、かえって子どもがより辛くなってしまっている場合も見られます。

 心が辛い子どもへの対応は、子どもの本心(情動)に沿っている必要が($3情動とはを参照)あります。子どもの本心は大人の本心と異なります。心が辛い子どもへの対応法は、常識や大人が持つ知識が全く当てはまりません。子どもの心、特に本心を知るには、脳科学的な心の理解が必要です。母親は子どもの内から自然と湧いてくるものから判断し、素直に対応をする必要があります。子どもの本心は潜在意識にありますから、例え当人でも言葉で正確に表現できません。

 元来子どもは心が元気です。心が辛い子どもの出現は子どもを苦しめることから始まります。子どもを苦しめるものは親であり、子どもの周囲の大人であり、社会制度であり、自然です。親が子どもを苦しめる場合はいわゆる家庭内虐待であり、子どもが乳幼児の段階から親が嫌がるような行動や問題を生じ、症状を出します。多くの心が辛い子どもは幼稚園や学校などの子ども社会に、子どもが出て行って苦しむようになっています($5学習した辛さを生じる刺激を参照)。子どもの周囲の大人や社会制度、自然が子どもを苦しめるときには、親が子どもを守ることで、子どもは辛さを生じる条件刺激を学習しません。親に子どもが守られている限り、子どもの辛さは一時的ですし、子どもが克服できる辛さを経験することは、子どもが喜びを経験する契機にもなります。子どもの心が元気に成長できます。子どもが克服できる辛さをがんばって克服させるのは良いですが、克服できない辛さに対して子どもをがんばらして克服させようとしてはいけないのです。

 心が辛い子どもを生じるようになるのは、子どもが幼稚園や学校に関わりだした時期が圧倒的に多いです。それは幼稚園や学校が子どもを辛くして(今の幼稚園や学校が好ましい子どもが多いですが、好ましくない子どももいるという意味です)も、親が辛くなった子どもを守ろうとしないで、幼稚園や学校のあり方を優先するからです。それでも心が辛い子どもは必死でよい子を演じて、幼稚園や学校に子ども自身を合わせて親を喜ばせようとします。それができなくなったとき、子どもは幼稚園や学校を拒否したり、問題行動を生じたり、病気の症状を出すようになります。子どもがこのような状態になっても親は幼稚園や学校が子どもを苦しめていると理解しないで、子どもに問題があると考えて、親が考える問題点を解決して、子どもを苦しめている幼稚園や学校に行かせようとします。親としては良いことをしているつもりでも、子どもはますます苦しんでしまい、ますます心が辛くなっていっています。


第一章 大人が知らない子どもについての基本知識

$1 言葉の説明 (読み飛ばして下さい)

1、大人とは
 心について大人とは、思春期以後の人で、心理的に、経済的に、親または親に相当する人に依存をしていない人を指します。もちろん例外もあります。

2、子どもとは
 心について子どもとは、大人以外の人を指します。

3、心とは
 大昔から人は心についていろいろな思いを持ってきました。心とは何か、いろいろなところでいろいろな議論がなされてきています。それらの多くが、人が主観的に意識をし、経験できる概念上の心(心身二元論)を議論しています。人の意識活動がその人の心(精神世界)だと信じられています。現在でも多くの人が、人が主観的に意識経験できる領域を心(精神)といっています。人には心があって(人間以外の動植物や無生物までに心の存在を信じている人がいます)その心が脳に作用を及ぼして人は反応したり行動したりしていると考えられています。人の意識活動そのものがその人の心(精神世界)だと信じられています。大人は意識的に行動が可能ですから、このような考え方が定着しています。意識活動の範囲(精神世界)が心であると考えています。意識活動以外の人の反応の仕方(潜在意識)を人が持つ性格として、または感情として理解しています。

 大人は自分たちが持っている心の概念を子どもに当てはめて、子どもの心を理解しようとしています。しかし大人の持っている心の概念を修正して子どもに当てはめても、その大人の持っている心の概念で子どもの心を説明するのは大変に難しいです。それでも多くの大人は子どもの心を理解したつもりで子どもに関わっていますし、問題行動を起こした子どもたちへもこの大人の心からの対応法を子どもに押しつけています。大人の対応法はは子ども達に当てはまらないので、子ども達をますます苦しめています。

 子どもには大人のような思考判断や思考行動はできないか大変に難しいです。子どもは受けた刺激に単純に反応しているだけです。一見大人がする思考行動のような反応をする場合がありますが、それもその子どもがそのときまでに経験した反応の仕方を繰り返したにすぎません。子どもが受けた刺激を処理して反応する方法を決定する所は子どもの脳です。ですから子どもの心を理解したいなら、その子どもの脳の中にある情報と脳の働き方を理解して考える必要があります。ここでは脳科学で子どもの心を考える必要から、心とは脳の機能(心身一元論)と考えることにします。また脳の機能の範囲で心を考えることで、子どもの心を理解することが可能です。心を脳の機能を考えるとき、四カ所の脳の機能に注目する必要があります。それは前頭前野、運動野および運動連合野、側頭葉および頭頂葉と大脳辺縁系です。

*意識とは、少なくとも、言葉で表現できる記憶(陳述記憶)ができること。
*思考とは、永久記憶(潜在意識も含む)の中から最適な記憶を選び出すこと(追憶)。
*意識的思考とは、言葉で表現できる記憶を追憶して加工すること。
*意志とは、記憶を追憶してその記憶(潜在意識も含む)に基づいて行動したり、行動しようとすること。
*意識的意思とは、追憶された言葉で表現できる記憶に基づいて行動をすること。脳内では最初に情動が陳述記憶を追憶し、その記憶を加工して、情動が一番安定する記憶を作り出す。その記憶に基づいて行動をする。意志が働くためには情動が安定していなければならない。
*潜在意識とは意識を伴わない脳内の活動。心という意味では情動(情動を意識すると感情という)と習慣(からの知識と動作。言葉で表現可能な習慣、意識的な動作もあるがそれらは除く)。
*判断とは、追憶した記憶の中で、情動が一番安定するものを選択すること。
*意識的判断とは、言葉で表現できる記憶の中で、情動が一番安定するものを選択すること。
*説明とは、判断結果を他の人を納得させるために選ばれた記憶を言葉で表現すること。
*記憶(知識)には記憶の持続時間から一時記憶(時間がたつと消失する)と永久記憶(時間がたっても消失しない)がある。その表現方法から陳述記憶と動作記憶がある。

$2 心の仕組み (読み飛ばして下さい)

*知識の心(頭頂葉から側頭葉にかけて)

 必要に応じて言葉(音を含む)や文字(絵を含む)で表現できる記憶(陳述記憶、宣言的記憶)、知的な情報が蓄えられています。意識に上らない記憶に支えられて、意識に上る情報が蓄えられています。学校の勉強や経験で得た知識が蓄えられています。学校の勉強は主としてこの心の情報を増やすことを目的にしています。当然子どもは大人に比べてこの心の情報が少ないです。

*反応の心(運動連合野)

 刺激を受けたときの刺激によって体がどのように反応するのかその反応の仕方の情報が蓄えられています。基本的な体の動かし方の情報は経験で増えていきますが、子どもでもかなり大人に近い情報量を持っているように思われます。子どもと大人との違いは主として反応の心の情報を表現する骨格の大きさや筋力の違いから生じているように思われます。反応の心にある情報は子どもの場合、反射や情動により表出されます。大人のような意識的に表出されることはまずないと考えて間違いないです。

 習慣行動やスポーツ、芸術などを表現する体の動きなどもこの心に情報として蓄えられます。大人が考えるしつけや作法もこの心の情報です。これらの文化的な価値を含んだ情報について、子どもでは情報不足という状態が存在します。訓練や練習で成長と共に急激に情報量が蓄積されていきます。思春期以後の子どもでは社会生活をするのに十分な情報が要求されます。

*思考の心(前頭前野)

 いくつかの陳述記憶を加工して新たな情報を作り記憶するとともに、反応の心にある反応の仕方と結びつけて(思考活動)、実際に行動するための脳です。大人の脳と子どもの脳との大きな違いはこの思考の心にあります。子どもではこの脳が十分に機能していません。子どもでは既に知識の心にある情報と反応の心にある情報とが結びついている(連合している)情報は、知識の心の情報から反応が可能ですが、知識の心にある情報を加工したり、知識の心にある情報を新たに反応の心にある情報と結びつけることはできません。それができるようになるには前頭前野の成熟を待って前頭前野を思考活動に使う練習をする必要があります。前頭前野の成熟は思春期を超えた頃になるようです。成熟した前頭前野を用いて思考活動を繰り返し練習することで、大人としての思考から行動が可能になってきます。それは早くても二十歳過ぎ、遅い人では二十歳代の後半になる場合もあります。

*情動の心(大脳辺縁系)

 受けた刺激に対して生命を守るための脳です。大脳の中心部にあり、大脳新皮質で覆われています。その反応は不随意筋や自律神経、ホルモンに影響を与えます。表情やとっさの行動は情動の心からの反応である場合が多いです。感情として理解されるものは情動反応の一つです。子どもは主として情動の心で反応して行動をしています。

 情動の心は生まれてから自我が成立する三、四歳ぐらいまでに、主として母親を真似することでできあがっていきます。その時期を超えると情動の心の中の情報を変えることは大変に難しいです。子どもについて、情動の心ができあがってから情動の心にある情報が変更されてしまう場合とは、辛さを生じる条件刺激を学習した場合だけのようです。

 私たちは感情をいろいろな言葉で表現できますが、それらの言葉で表現される感情をもっと突き詰めて考えると、喜びを伴った行動や反応(接近系)と、辛さを伴った行動や反応(回避系)の二つに分けられます。喜びを伴った行動や反応は、より喜びを得ようとする行動になりますから、発展性があります。辛さを伴った行動や反応は辛さから逃げる行動や反応、暴力行動、病的症状を現します(これらの行動や反応を総合して回避行動と言います)。情動からの反射的な行動ですから、行動に発展性がありません。

 辛さを生じる刺激(嫌悪刺激)が強ければ強いほど、回避行動はより逃避的になったり、破壊的になったり、病的になったりします。逆に逃避行動や暴力行動や病的な症状などの回避行動の強さは、その人が受けている嫌悪刺激の強さに比例します。同じ嫌悪刺激でも人によって刺激される程度は異なります。その受ける嫌悪刺激の強度は、その人が表現する回避行動の強さに比例します。その人が表現する回避行動の強さで計られます。

 嫌悪刺激が無くなったら回避行動もなくなりますが、しばらくの間嫌悪刺激に敏感になっています。その程度は時間と共に消失していきます。繰り返す辛さを生じる嫌悪刺激は後に続く嫌悪刺激に敏感にします。嫌悪刺激の閾値を下げると表現します。それに対して繰り返す喜びを生じる刺激は後の刺激の感度を下げます。慣れを生じてしまいます。

 心が元気な子ども(情動の心において接近系が強く働いている子ども)は大人の思いを押しつけても、その大人の思いを子どもは受け入れて成長してくれます。よい子を演じていても、その辛さ以上の喜びを得ていますから、子どもはよい子を演じ続けられます。(心が元気な状態の子どもの論理、強者の論理)

 心が辛い子ども(情動の心において回避系が強く働いている子ども)に大人の思いを押しつけたら、子どもはますます回避行動を強くして、接近系の行動が出てこなくなります。子どもの心を守られません。回避行動を起こすような子どもを守るには、その子どもを辛くする刺激をさけて、その子どもの自然発生的な意欲が湧くようにする(心のエネルギーを高める)必要があります。(心が辛い子どもの論理、弱者の論理)


$3 情動とは

 子どもの心を理解するには、情動という脳(動物の脳と共通な大脳辺縁系)の機能を理解する必要があります。情動の心には”接近系”と”回避系”があります。それはとても抽象的な概念ですが、以下のように考えてください。

*接近系
 何かを得ようとする行動であり、その何かを求める度合いをエネルギー、行動の動機といいます。主として接近系が働いている子どもを心が元気な子ども、エネルギーがある子どもと評価します。接近系を働かせるには、子どもが欲しがるものを与えればよいです。しかし同じものを与えようとすると、接近系の働きが弱くなります。同じ物を与え続けると、最終的には接近系が働かなくなります。つまり接近系の刺激(喜び、楽しさなど)には慣れがあります。接近系を働かせ続けようとするなら、子どもが欲しがる別のものを与える必要があります。

 子どもは大人と違って、自然に湧き出す接近系の反応があります。目的が無くても子どもの方から動き出す反応の仕方です。動き出した中で目的を見つけて、その目的に向かって行動しようとします。つまり子どもには自然に学習する能力があります。

*回避系
 何かから逃げようとする行動です。その逃げようとする行動を回避行動といいます。回避系の刺激(嫌悪刺激)を受けたときどのような回避行動を取るのか、それは本能と経験に依存しています。その回避行動にいくら物理的なエネルギーを使っても、その状態を心の意味でのエネルギーがあるとは言いません。それは単なる反応であり、一時的な回避行動であり、将来子どもの能力を伸ばす行動を生じる動機ではないからです。破壊的であり、または病的であり、建設的な発展性が無いからです。

 回避系の刺激を受けると、子どもはその回避系の刺激の強さに応じて、回避行動を取ります。回避系の刺激を受けた後、同一の回避系の刺激を受けると、次の回避行動はより強くなります。同一の回避系の刺激でも、より強い回避系の刺激として作用をします。つまり回避系の刺激(辛さ)には慣れが無くて、後から加わる回避系の刺激(辛さ)に加重作用があります。

 接近系の刺激と回避系の刺激と同時に受けたとき、接近系の刺激と回避系の刺激は互いに打ち消し合う作用があります。互いに打ち消しあって残った分だけが接近系または回避系の刺激として作用をします。子どもが回避系の刺激を受けて苦しんでいる場合、子どもに接近系の刺激を与えることで、子どもの辛さを軽減できたり、解消できたりします。

 情動は絶えず接近系ばかり、絶えず回避系ばかり働いているのではないです。接近系が働いている時間がありますし、回避系が働いている時間があります。またどちらも働いていない時間もあります。総和として接近系が働いているか回避系が働いているかという事実がとても大切です。


$4 大人とは違う子どもの心の特徴

 大人は思考の心で情動の心を抑えつけたり調節したりして、つまり意識的に感情を抑えて、その時まで持っていた知識の心の中の情報を加工して(思考して)、その加工した知識を用いて(いろいろと思考して分析した結果から)反応の心の中の情報を選んで(行動の仕方を考えて)行動を行うことができます。それ故に思考の心で情動の心を抑えられない人は感情的とか、子どもっぽいと感じられる大人になります。思考の心で情動の心を上手に抑えられる人は理性的とかしっかりした大人として理解されます。

 子どもの場合、思考や知識で意識的に感情を抑えられません。また思考も下手で、反応の心にある情報(体の動かし方)と結びついていない(連合していない)知識の心にある情報(子どもの知識)から行動ができません。子どもは受けた刺激と結びついた反応の心にある情報から(刺激に連合した反応の仕方から)反射的に行動する(過去の経験と同じように行動する)か、受けた刺激から生じた情動と結びついた反応の心の情報(感情的な行動)から反応して行動をします。受けた刺激に素直に反応します。

 心が元気な状態の子どもであろうと、心が辛い子どもであろうと、その両方の要素を持った子どもであろうと、子どもの心に沿った対応をするには、子どもの心に沿って(子どもが持っている脳の機能や脳内の情報に沿って)理解する必要があります。具体的な子どもの心に沿った対応はそれぞれの子どもによって異なります。

 子どもの持つ四つの心について、その特徴を記載しておきます。

 情動の心は既に大人と同じ機能をしています。情動の心の状態が子どもの心の状態を決める大きな要素です。大人の心との違いになります。情動の心により受けた刺激に対して反応が決まることが多いからです。受けた刺激は情動で処理されて、反応の心の中にある経験からの反応の仕方が選択されて、実際の行動になります。一見子どもの思考反応のように思われるますが、情動反応からの反応や行動です。

 大人に比べて子どもは知識の心の情報が少ないです。それは経験量が大人に比べて子どもは少ないからであり、大人は理解できる事実です。この知識の心の情報を増やすために、子どもは学校で勉強をすることを要求されています。

 子どもの経験量は大人に比べて少ないです。反応の心の情報が大人に比べて子どもは少ないはずです。子どもを観察する限り、子どもは大人に近い反応の心の情報量を持っています。ただし反応の心の情報を表現するための体力が大人に比べて劣っているから、大人のような表現ができないようです。子どもによっては、大人に近い能力を持っている場合がありますし、時に大人以上の能力を発揮する場合もあります。

 思考の心は子どもでは働いていないか働きが悪いと考えられます。この思考の心の機能が大人の心との大きな違いと考えると、子どもの行動や反応をよく説明できます。また子どもが思考の心から反応して行動したように見える場合もありますが、その行動ですら同一環境下での子どもの経験が選択されただけであり、それがあたかも思考のように理解される場合です。


$5 学習した辛さを生じる刺激(嫌悪刺激)

 辛さを表現させるような刺激を嫌悪刺激と呼びます。嫌悪刺激を受けると、その刺激は大脳辺縁系で評価されて(受けた刺激に対して、反応の仕方が決定されること)回避行動を取ります。本能的な嫌悪刺激の代表は、痛みや強すぎる感覚刺激です。これらの嫌悪刺激を受けて辛くなっている場合には、辛さの原因が分かる場合が多いです。それに対して学習した嫌悪刺激は原因を見つけにくいです。辛くなる原因があるのですが、原因だと思えなくて、その原因から逃げ出すような、逃避行動を取ることができない場合が多いです。その様な場合の辛さは、体の奥底から湧いてくるような、何とも表現できない辛さです。原因が分からないことから、病気と考えられがちです。

 動物が死ぬような辛い経験をすると、その動物の周囲にある物を辛さを生じる条件刺激(嫌悪刺激)として学習します。それ以後その学習した辛さを生じる条件刺激(学習した嫌悪刺激)を経験すると、辛さを表現するようになります。これを”辛さを生じる条件反射”と言います。この辛さを生じる条件刺激を学習する事実は人間にも当てはまります。辛さを生じる条件反射は潜在意識の反応であり、その人特有な反応の仕方ですから、その人自身も意識しできませんし、その他の人も理解できません。現在の医者などの専門家もこの事実を知りません。辛さを生じる条件刺激を学習した人は、性格がおかしい人、心に病を持った人として理解されてしまいます。

 その例として登校拒否(登校拒否の結果実際に学校に行かない場合を不登校と言います)があります。登校拒否とは、学校内でとても辛い経験をした子どもが、学校を見たり意識したりするととても辛くなり、学校に行こうとしても、体の奥底から湧いてくる辛さで、学校に行けなくなります。この場合はその子どもにとって、学校が辛さを生じる条件刺激になっています。しかし多くの大人は、学校が子どもを辛くしているとはとても考えられません。そこで学校に行こうとしない子どもがおかしいから、その子どもの学校に行こうとしない反応の仕方を正そうとします。無理矢理に学校へ行かそうとします。それはその子どもをとても辛くして、その子どもの周囲に存在している人に対して辛さを生じる条件刺激を学習してしまいます。いわゆる”対人恐怖症”を生じてしまいます。

 このように学習した”辛さを生じる条件刺激”から、次の”辛さを生じる条件刺激を学習すること”を、辛さを生じる条件刺激の”汎化”と言います。辛さを生じる条件刺激の汎化を起こしてしまうと、辛さを経験している当人も、周囲の大人も、なぜその人が苦しんでいるのか全く分からなくなります。辛さを経験している当人も、周囲の大人も、原因が無くて、辛さを表現しているからその子どもがおかしい、病気だと考えてしまい、辛さを生じる条件刺激から子どもを守る対応が取られなくなります。子どもは辛さから逃られなくなります。


$6 辛い刺激への反応の仕方

 動物は体内外の状況を感覚器で感じ取って、その感じ取った情報について反応して行動します。感覚器で感じ取れる体内外の状況を刺激といいます。その刺激について子どもは大人と違って子ども特有の反応の仕方をします。子どもは刺激を受けると、その刺激に対してその時までに子どもが作り上げた性格に基づいて、無意識に反射的に反応して行動しています。大人にも子どもと同じような反射的に反応して行う行動がたくさんありますが、意識に上らないので気づきません。大人は刺激を認識して、意識的に反応したことだけを覚えています。大人は子どももが刺激を認識して、意識的に反応できると考えています。子どもには難しいかできないことを子どもにもできると信じ込んでいますから、大人は子どもの心がわからないのです。大人の思いを子どもに押しつけようとしています。

 子どもは刺激に素直に反応して行動します。子どもが刺激を受けた場合、その刺激を求めて子どもなりに納得しようとする場合と、その刺激から逃げようとする場合があります。またある人には刺激でも、その子どもには無反応な刺激もあります。そのような無反応の刺激の場合は、その子どもにとって刺激とは言わないです。

 子どもが刺激を受けて、その刺激を求めて納得しようとする行動には喜びがあり、発展性があります。その刺激を求めてその子どもなりに納得できたなら、子どもは次の刺激を求めて行動するからです。その刺激が求めて納得できないときには、その子どもなりの工夫をしてその刺激を求めてその子どもなりに納得しようとしますから、その子どもなりの納得しようとする工夫が子どもの知識となり、子どもの能力を高めます。

 子どもに喜びを生じるような刺激は、子どもに加わっている辛さを薄める効果があります。心が辛い子どもへの対応法として、その子どもが喜びを感じるようなことをさせてあげると、その子どもの辛さが軽減します。心が辛い子ども達がゲームなどに没頭するのは、この理由からです。また、子ども達が子ども同士の遊びやゲーム、テレビ、DVDなどに興じているときに考えなくてはならないことは、子ども達が喜びだけを求めてこれらの遊びをしている場合と、大人達では理解できない辛さから子ども達が逃れるために、これらの遊びに没頭している場合の可能性を考える必要があります。

 子どもにとって辛い刺激を受けたときについて考えてみます。子どもは子どもの本能から、自分を守るためにその辛い刺激から逃げ出そうとします。その辛い刺激から逃げられたら子どもの心にトラウマを受ける(辛さを生じる条件刺激を学習する)ことはありません。その辛い刺激から子どもが逃げられないときには、子どもはその本能から、暴れたり、大人から見て問題行動を取ります。子どもが辛い刺激から逃げられなくて、また暴れられないときには、子どもは辛い病気の症状を出します。これらの子どもが辛い刺激について示す反応はほ乳類の動物と共通です。

 子どもにとって辛い刺激が大人からもたらされるとき、そしてその大人からその子どもが逃げられないとき、子どもはいわゆるよい子を演じます。よい子を演じるとは、大人から辛い刺激を受けたとき、その子どもらしい反応からの行動をしないで、辛い刺激を与える大人の希望に添って行動をすることをいいます。一見意識的な行動のように見えますが、子どもがそれまでに学習した行動を回避行動として、無意識に行っています。大人から見たら好ましい行動をするので、大人はその子どもに良いことをしていると判断しますが、子どもは無理をしてよい子の行動をしています。その無理をその大人がいなくなったときに子どもは何かの形で埋め合わせようとします。何かの形で埋め合わせようとするとき、その子どもは自分に辛い刺激を与えた大人が嫌がるような行動をする場合が多いです。社会的に問題になるような行動になってしまう場合もあります。

 子どもの反応の仕方を子どもの辛さの程度に沿って順番にまとめます。

1)子どもが辛くなるとまずその辛さから逃げようとします。

2)その辛さから逃げられないときにはよい子を演じます。

3)その辛さから逃げられなくて、よい子を演じていたのによい子も演じられなくなると、子どもは暴れたり、問題行動を起こすようになります。子どもによっては自律神経症状を出します。

4)その辛さから逃げられなくて、よい子を演じられなくなって、暴れたり問題行動もできないときには、子どもはいわゆる自律神経症状を出します。それでも辛さが解消できないときには精神症状を出します。

 子どもが嫌悪刺激を受けて、その嫌悪刺激から逃げられたら、子どもはそれ以後辛さを感じません。嫌悪刺激を回避する学習になります。子どもがよい子を演じている段階では、大人は子どもが辛い状態にあると気づきません。それどころか子どもが好ましい状態にあると判断する場合が多いです。しかし子どもの心の中では不安状態が続いています。
 子どもがよい子を演じていて、それ以上よい子を演じられなくなって、子どもが暴れたり問題行動を起こした段階で大人は子どもの異常に気づきます。多くの大人は暴れる子どもが問題だ、問題行動を起こした子どもに問題があると考えます。子どもが辛くて、その辛さから逃げられなくて、よい子も演じられなくなって、どうにもできなくて暴れたのだ(恐怖を回避する反応、怒り)と、問題行動を起こしたのだとは考えません。

 大人の力が強くて子どもが暴れられない場合、子どもの性格から問題行動をできない場合、子どもは頭痛や腹痛などの自律神経の症状を出します。この場合も多くの大人は子どもが辛い状態(心の中は不安)にあるとは考えません。子どもが病気ではないかと考えて子どもを病院に連れて行きます。この段階ですと医者も子どもが病気でないことに気づくことが多いです。子どもがもっと辛くなってしまうと、この自律神経の症状と一緒に気分が落ち込んで鬱状態になるとか、見えない物が見えたり、聞こえない音が聞こえたりするようになります。この状態になると医者も精神病だと誤診するようになります。親が子どもの辛い状態を心の病だと理解したときには、子どもを辛くしている刺激から子どもを守ろうとしないで、医者の言う病気を一生懸命治そうとします。それは子どもの訴えとは異なったことになり、ますます子どもは辛くなり病気の症状を強くしていきます。子どもを守ることができなくなります。

 この辛さに対する反応の仕方の逆も成立しますから、常識を捨てて、子どもの心が辛い状態であることを理解する必要があります。

1、ある場所から逃げてきて、その場所に戻ろうとしないとき、その場所に子どもを辛くする物があると考える必要があります。
2、子どもがよい子を演じているかどうかを見極めることは大変に難しいが、子どもがよい子を演じていると判断される場所に、その子どもを苦しめる物があると考える必要があります。
3、子どもに元気がない、子どもが暴れる、子どもが問題行動を行う場合、それは子どもに問題があるのではなくて、子どもを辛くするものがあると考える必要があります。
4、子どもが病気の症状を出しているとき、子どもが病気だと考えてはいけません。死にたくなる程に子どもを辛くするものがあると考える必要があります。


$7 子どもの言葉と心

 子どもは言葉を話します。大人は子どもの言葉から子どもの心を知ろうとします。大人では大人の言葉は大人の心を反映しています。けれど子どもの言葉は子どもの知識や経験を反映しているだけで、子どもの本心を反映していません。子どもが発する言葉はそのときまでに子どもが学んだ知識です。その子どものあり方を知識から表現している、つまり子どものあり方の建前を言っているだけです。子どもの行動は子どもの本心(情動)から行われます。

 子どもの本心は潜在意識にある情動です。潜在意識にあるので子ども自身も知ることができません。心が元気な子どもは子どもの言葉と子どもの本心とが一致しなくても、得られた喜びから言葉通りに行動ができます。心が辛い子どもは子どもの言葉と本心とが異なっています。言葉で表現することと、行動とが異なることが多いです。大人は言葉と行動が一致しないことで子どもを責めますが、それは大人が子どもの心を知らないからです。大人から責められた子どもはますます辛くなり、子ども自身が自分自身を許せなくなります。葛藤状態になり、自己否定の状態になります。ますます子どもは辛くなります。

 子どもは自分の辛さの原因を表現するのが難しいです。辛さを生じるのは潜在意識ですから、子どもはなぜ辛くなっているのか分からないからです。たとえば学校に行きづらい子どもの辛さは、子どもが辛さを学習した学校なのですが、子どもは学校が辛いことを知りません。そこで意地悪をする友達がいるとか、怖い先生がいるとかと、自分の持っている知識からの言葉で自分の辛さを表現します。

 子どもが辛さに耐えられなくなると、子どもは「死にたい」というようになります。子どもが言う「死にたい」の言葉は、決して子どもが自殺をするという意味ではありません。子どもの中には自殺サイトを見たりする子どももいますが、それでも自殺をするという意味ではないです。親や大人に辛くて辛くて耐えられない、自殺をしたいぐらいに辛いという意味を表現しています。しかし大人は子どもが自殺をするのではないかと心配をします。医者も子どもが心の病気だと言って入院をさせます。それはそれは一見子どもを守る対応のように見えますが、子どもの訴えを否定することになります。ますます子どもを辛くします。

 子どもの辛さの度合いを敢えて子どもの言葉で表現するなら(大人なら辛さを具体的に嫌だ、悲しい、痛い、腹が立つなどと表現できますし、その程度も言葉で表現できます)
1)軽い辛さなら子どもなりに具体的な言葉で表現します。
2)辛いに相当する症状や行動で表現します。
3)とても辛いときには「死にたい」と表現します


$8 心が辛い子どもとは

 学校に行き渋っている子ども、良い子を演じている子ども、不登校の子ども、引きこもりの子ども、問題行動をする子ども、心の病気の症状を出す子どもなどを心が辛い子ども達と表現しておきます。心が辛い子どもは、心が辛くてその辛さを自分で解決できないから、親や大人たちから守られる必要があります。子どもに対応をしている親や大人達は、対応をしている子どもが心が辛い子どもなのか、心が元気な子どもなのか、見分ける必要があります。

 子どもはある状況下で大人とは違った反応や行動の仕方をします。その子どもへの対応の仕方には大きく分けて二通りの方法があります。積極的で心が元気な状態の子どもには、親や大人が今まで持っている知識や経験から対応してよいです。心が辛い状態で元気のない子どもには、今の大人が知らない子ども特有の対応の仕方があります。心が辛い子どもを守り育てるためには、心が辛い子どもの子どもに特有な対応の仕方を親や大人達は理解する必要があります。それがこの本の目的です。

 心が辛い子どもへの対応法を、心が元気な子どもにも当てはめてよいですが、子育てという観点から効率が悪くなります。元気な状態の子どもには大人が持っている常識で対応できますし、その方が子どもの能力をよりいっそう高めることができる場合があります。今の学校のあり方は、心が元気な子どもへの対応の仕方が行われていて、心が辛い子どもの概念を持ち合わせていませんから、心が辛い子どもについて心が元気な子どもへの対応に若干の配慮を加えた対応が行われています。

 心は辛いのに、外見からは心が元気な子どもと見られてしまう子ども達がいます。それらの子どもは良い子を演じている子ども達です。良い子を演じる子どもについて、$10よい子を演じる、を読まれて下さい。


$9 心が元気になるとは

 心の元気さを計る尺度はありません。心の辛さは、辛いところから逃げる、よい子を演じる、破壊行動や犯罪行動などの問題行動をする、色々な病気の症状を出すことで表現されます。心が元気になるとは、これらの辛さの表現が無くなることです。つまり、積極的な自発的な、何かを得ようとする行動が多くなる、素直な自分で行動をする、問題行動や辛い症状が無くなる、などです。

 外見的には、表情や行動が生き生きしています。生きようとするエネルギーを感覚的に感じます。今まで動きが少なかったのが、活動的になってきます。これらのことで、心の元気さを感じ取ることができます。しかし生き生きしているから、活動的だから、その子どもの心が元気だとは言えない場合があります。それは”よい子を演じ”ている場合です。今まで動きが少なかった子どもが、生き生きして活動的になった場合には、その子どもの心が元気になってきたと判断できます。


$10 よい子を演じる

 よい子を演じる子どもとは、心が辛い子どもがする回避行動の一つです。子どもは辛くなると辛くなる場所から逃げようとします。辛くなる場所から逃げられないとき、よい子を演じる子どもが多いです。よい子を演じるとは、自分を辛くする相手に対して相手が求める行動をして、相手からそれ以上に辛くされないようにする行動です。よい子を演じる子どもの見た目はとても元気な子どもに見えて、心が辛い子どもには思えません。心が元気に見える子ども達の中に、心は辛いけれどよい子を演じている子どもがいる事実に注意する必要があります。

 よい子を演じるには、子どもがどのようにしたら相手が求める行動ができるかわからなければなりません。よい子を演じる子どもは相手が何を求めるのか感じ取る頭がよい子です。また感じ取ったことを実行するだけの経験を持っていて、それを思い出せるだけの能力がなければなりません。親から勉強を求められている子どもは、勉強を一生懸命やっているように見える場合もあります。とても良い成績を取る場合もあります。あまりによい成績を取るので、よりいっそうの勉強を求められて動けなくなる子どもがいます。

 よい子を演じる子どもは見かけはとても元気ですが、心の中は辛い状態です。自分からの素直な行動でないので、とても無理をしています。よい子を演じなくてよい時になったら、自分の辛さを、無理をし続けていたことを何かで解消する必要があります。大人の目が届かないところでいじめをしたり、ものを壊したり、万引きなどをする子どもがいます。あんなによい子どもが何でそんなことを?と不思議がられる子どもの場合です。

 よい子を演じる子どもは、心が元気な子ども以上にその能力を発揮しますから、大人はよい子を演じる子どもを見分けられません。その見かけから心が元気な子どもとして対応します。よい子だからもっとよい子を求めて、ついつい過剰な要求をしてしまいます。子どもは可能な限りよい子を演じ続けて、耐えきれなくなって突然動けなくなってしまいます。よい子を演じる子どもへは、心が辛い子どもへの対応が必要です。大人は子どもが素直によい子なのか、よい子を演じているのか見分ける必要があります。

 よい子を演じている子どもは、勉強ができすぎる、しつけが行き届いているなどと、よい子過ぎる場合が多いです。子どもがよい子過ぎる場合には、子どもがよい子を演じている可能性を大人は念頭に置いて対応をする必要があります。また、よい子を演じている子どもは大人の目が届かないところでいじめや盗みなどの問題行動をしている場合があります。よい子なのに問題行動の噂がある場合には、子どもがよい子を演じている可能性を考えて、大人は対応をする必要があります。

$11 心が辛い子どもと関わるときの原則

 心が辛い子どもは、否定されるとますます辛くなります。心が元気になれません。心が辛い子どもを元気にするには、親や大人が目の前の子どもをそれでよいと考えてあげる必要があります。今、目の前の子どもが大人の希望する姿と違っていても、必ずこの子どもは元気になって、大人の希望を叶えてくれると信じてあげる必要があります。子どもを信頼し続ける必要があります。

 ただし親や大人が心が辛い子どもを信頼していると思っていても、子どもの方で信頼されていると感じない限り、子どもを信頼したことにはなりません。心が辛い子どもへの対応は常識が当てはまらない場合が多いです。親や大人は心が辛い子どもを信頼しているつもりでいても、実際には常識から対応をしてしまい、心が辛い子どもからは親や大人から信頼されていないと思われてしまう場合が多いです。心が辛い子どもへの対応には非常識な対応が多いです。心が辛い子どもへ具体的にどのようにして親からの信頼感を表現すのか、多くの大人は迷っています。

 親や大人達が心が辛い子ども達と関わるのに、ありのままの子どもを知る必要があります。それには先入観や常識を捨てて、子どもの話を聞くことから始まります。その際の注意点を箇条書きにしておきます。

@子どもの話を制限時間なしに聞く。その際に共感のみを示して、大人の思いや判断を述べない。大人の理由を付けて理解しようとしない。

 子どもは男の子でも、女の子でも自分の思いを信頼できる人に話したがります。話を聞き出そうとする必要はありません。子どもに信頼感を与える一つの要素として、子どもの話を聞こうとする大人の態度が大切です。話を聞き出そうとすると、子どもは自分をガードしようとします。よい子を演じて素直に自分の思いを話そうとはしなくなります。子どもに自分の思いを素直に話して貰うには、子どもの話を遮らないようにしなければなりません。そのために子どもの思いに共感だけを示して、聞いている大人の思いを出さないようにする必要があります。子どもは受けた刺激に素直に反応して行動していますから、そこには大人の考えるような理由はありません。ありのままの子どもの行動を子どもはそうせざるを得なかったという形で理解してください。

A子どもの話を聞く際に生じた無言の時間を大切にする。決して会話を促さない。親や大人が聞きたい話を聞き出そうとはしない。子どもから話してくるのを時間をかけて待つ

 子どもは自分の思いを信頼できる人に話したがります。子どもが話すのを止めたらそれは話すことがなくなったのか、相手の大人を警戒して話すのを止めたのか、そのどちらかです。話すことがなくなったのに、会話を促されると子どもは責められたと感じます。また子どもが相手の大人を警戒しているときには、ますます警戒を強めてしまいます。子どもはよい子を演じて、子どもの思いを素直に話さなくなります。

B子どもの話や行動を考えるときに、全てに優先して子どもが持つ子ども特有の本能($12子どもの本能)や性格($11子どもの性格)を基本にして考える

 大人と違って子どもは受けた刺激に素直に反応して行動します。その反応の仕方は子どもが親からの遺伝として受け継いだもの(本能)、自我が成立するまで(3,4歳頃まで)に持って生まれた反応の仕方で、主としてまねをすることで母親から受け継いだもの、その子どもの年齢までに社会生活をして、親からの遺伝や主として母親から受け継いだものを用いて反応した結果の経験から反応しています。この事実から子どもが反応し行動する要因の一番の根底にある子どもの本能を最優先して考える必要があります。

C子どもの今の姿を肯定して、決して否定しない。子どもの生い立ち、性格や習性も問題点を指摘することなく、そのまま認める。

 Bで指摘しましたように子どもの反応の仕方は親から遺伝として受け継いだ本能から、その本能を用いて主として母親から受け継いだもの、それらを用いて社会生活をした経験からできています。そこには子ども自身の意図はありません。遺伝と環境とでできあがっていて、子ども自身にはどうにもできないのです。それを否定されたら子どもは葛藤状態になり、とても辛くなり、回避行動を起こしてしまいます。子どもが身につけている反応の仕方を肯定されると、子どもは子どもの持っている本能から周囲に、社会に順応するように反応するようになります。つまり子どもの問題点を子ども自身が自分から解決してくれるのです。

D子どもの話や行動に問題点を感じたなら、子どもがそのような問題点を持つようになる外因があると考える

 子どもは周囲から受ける刺激に素直に反応して行動しています。一見子どもの意志のように見えるときもありますが、それすら今まで子ども自身が経験の中で作り上げてきた反応の仕方に沿って反射的に反応しているだけです。つまり普段から問題行動をしていない子どもが突然問題行動を起こすようになったなら、子どもが問題行動を起こさなくてはならない何かの刺激を受けてその結果問題行動をしてしまっていると考えられます。子どもには大人のような善悪などの価値判断を伴った意図的な行動はないです。子ども自身に問題があって子どもが問題行動を起こしたと考えたなら、その辛い子どもを守ることができなくなります。

 それは問題行動ばかりでなく、子どもが出す病気を思わすような症状についても同じように考えられます。子どもに心の病気はないです。子どもが心の病気を思わせるような症状を出したときには、子どもがその病的な症状を出さなくてはならない何かの刺激をうけて、その結果病気を思わせるような症状を出していると考えられます。子どもに病気があると考えると子どもを病院に連れて行くことになります。医者は病気の症状があると病気だと診断してしまいます。医者が病気だというと親や大人はその子どもが病気だと信じ込んでしまって、その子どもが苦しんでいる原因が見えなくなってしまいます。その子どもが病気の症状を出すほど辛い状態にあることがわからなくなり、その辛い子どもを守ることができなくなります。


$12 子どもの性格

 大人と違って、子どもは子ども特有の性格から反応し行動します。
第一に子どもの持つ本能から、
第二に母親の情動を真似て作り上げた情動(2,3歳ぐらいまでにできあがる)から、
第三に自分の本能と母親から受け継いだ情動で社会生活をして身につけた経験から、
第四に学習した辛さから、
反応したり行動したりします。

 子どもの心を考えるときには、この子どもの持つ本能を第一に考えていく必要があります。子どもは大人と違って、子ども特有の本能を持っています。その子ども特有の本能があるので、大人には子どもをなかなか理解できないのです。大人が子どもになったつもりで子どものことを考えても、自分が子どもだったときのことを思い出して考えても、それは依然として大人の考えであり、子どもの感じ方、反応の仕方、行動の仕方ではないです。

子どもの本能を含めて、子どもがどのように子ども自身の性格を形成していくかを箇条書きにしてみます。

1)胎児期  遺伝的な性格、胎内での経験=>性格となる

2)新生児期 胎児期の性格と新たな経験=>性格となる

3)乳幼児期 新生児期までの性格と移動により新たな経験が増える=>性格となる

4)学童期  乳幼児期までの性格と新たな経験と言語からの情動経験 =>性格となる

5)思春期  学童期までの性格と新たな経験と思考行動からの経験=>性格となる

6)思春期以後は性格としてできあがっているので性格を変えるのが難しい

 心が辛い子どもの性格形成は上記の性格形成と少し異なります。心が辛い子どもはある刺激について辛さを学習して(辛さを生じる条件反射)いて、その辛さを生じる刺激から逃げられない状態にいます。その辛さを生じる刺激から逃げられたときには、それまで形成してきた性格から素直に反応します。それは周囲の大人には自然な反応だと理解される反応の仕方です。しかしその辛さを生じる刺激から逃げられないときには、それまで形成してきた性格から、荒れる、問題行動をする、病気の症状を出すなどの反応をします。その反応をする姿が尋常でないので、周囲の大人は性格が変わったと判断しますが、その子どもが辛い刺激に反応してその子どもの性格から回避行動を示しているだけであり、性格が変わったのではありません。

 辛さを生じる刺激から逃げられないで、長く辛さを生じる刺激を受け続けていると、子どもはその間長く回避行動を示し続けます。その子どもが長く続く自分の回避行動を意識するようになると、回避行動を示す自分自身を許せなくなります。いわゆる自己否定に陥ってしまい、ますます辛い症状を出すという悪循環に入ってしまいます。辛さを生じる刺激が無くなっても、自己否定から辛い症状を出し続けるようになります。また、辛さには相乗効果がありますから、辛さにとても敏感になっています。自己否定の辛さから絶えず辛さに敏感に反応するようになっていますから、周囲の大人から見たら、性格が変わったと理解されやすいです。

 乳幼児期までに性格の異常を生じていない子どもが、学童期以後に性格の異常を生じた場合、大人が子どもの性格に異常を生じたと認識した場合、子どもが死ぬほど辛い経験をした場所は家庭の外です。なぜなら家庭内で子どもが死ぬほど辛い経験をするなら、すでに乳幼児時期までに性格の異常を生じているからです。家庭の外で子どもが一番長く時間を過ごすところは学校です。学校内で死ぬほど辛い経験をしたこと、その辛さを家で癒せなかったことが繰り返すと、子どもの性格変化を生じています。決して家庭に原因があるのではなくて、ほぼ例外なく学校内に原因があって子どもが辛くなり、その辛くなった子どもの心を家庭が癒せなかったことが繰り返したのです。この事実を多くの大人は認められないでしょう。

 多くの大人は問題を生じた子どもが悪い、そのような性格の子どもを育てた親が悪いと考えたいでしょう。学校は子ども達のより良い成長のために作られています。多くの人が子どもをより良い子どもにするため働いています。その子どものために作られた学校が子ども達の一部を苦しめている事実を認めたくないでしょう。しかしこの事実を認めない限り、心が辛い子ども達を幾世代となく繰り返し作り続けることになります。子どもの問題を解決できません。


$13 子どもの本能

 子どもの性格の基礎を作り上げる本能について箇条書きにしてみます。

@「成長する(母親に信頼されている必要 )」

A「与えられた環境に順応しようとする」

 子どもが心身共に成長段階にあることはどの人も認めるところです。ただし放っておいても食べ物さえあれば一応体は育ちますが、心は育ちません。子どもの体と心が素直に育つには子どもが母親だと信頼する大人が必要です。子どもは信頼する母親に守られていると、子どもは本能的に自分自身が属している環境に順応するように、体も心も育っていきます。

B「自然に湧き出すエネルギーが大きい」

C「新しいもの(刺激)を求める(子どもの集団を好む)」

D「刺激に素直に、精一杯、反応して行動する」

 大人は何も刺激がないと、じっとしていれます。子どもは何も刺激がないと、何かを求めて動き出します。子どもは大人と違ってじっとしていれないです。絶えず何かを求めて動き回っています。その何かを求めて動き回ることをエネルギーがあると表現します。心についてのエネルギーとは、何かを求めて何かをしようとする動機を言います。子どもには内部自然発生的なエネルギーがあります。それが大人との違いの一つです。

 子どもは何かを求めて絶えず動き回っています。その求めている物は子どもにとって目新しい物です。すでに見慣れた物は子どもにとって刺激となっていないからです。そして何か目新しい物があったときには、その目新しい物に全力を挙げて挑戦していきます。そして新しい経験をしていきます。子どもなりの成長をしていきます。

E「優しい。特に、母親が喜ぶのが好き」

 子どもは自分の母親が大好きです。自分の母親に優しいです。自分の母親が喜ぶのが大好きです。子どもは自分の母親が喜ぶようにその子どものできる範囲で行動しようとします。自分の母親が喜ぶように行動を繰り返すことで、その子どもなりの性格を作っていきます。母親が喜ぶように子どもが行動をすることは、子どもが他の兄弟姉妹にも優しいことを意味しています。母親がそれを求めているからです。いくら兄弟姉妹の間で喧嘩をしても、基本的にはとても兄弟姉妹に優しいです。対外的にそして母親に何か問題を生じると兄弟姉妹は団結して兄弟姉妹や母親を守ろうとします。


$14 子どもの心に沿って考えるとは

 大人は主として思考からと、それまでその大人が経験したことを基に行動しています。子どもは第一に子どもの持つ本能(心という意味では情動に属します)から、第二に既に母親を真似することで学習した情動から、第三にその子どもがそれまでに経験したことから、反射的に反応して行動します。大人のような思考行動はほとんどありません。ですから子どもの心を理解しようとするなら、
第一に子どもの本能に沿って
第二に子どもが既に学習した情動(感情、感性)に沿って
第三に子どもがそのときまでに学んだ経験に沿って
第四に学習した辛さに沿って
考える必要があります。個々の子どもの性格に沿って対応をする必要があります。

 子どもはその時までに学んだ経験に反して行動することはできます。しかし本能や情動に逆らって行動することは基本的にできません。子どもの本能や情動に逆らった行動を求められたときには、子どもは大変に辛い状態になります。子どもの本能や情動に逆らった行動を求めるには、その辛さの代償として子どもにその辛さ以上の大きな喜び刺激(それを報償と表現しておきます)を与える必要があります。

 そこで「子どもの本能」に沿って考えてみます。子どもの本能に沿って考えることが、子どもを信頼することにもなります。

 @「成長する(母親に信頼されている必要)」とは、子どもが成長することを前提に子どもを考えるのはどの大人もしています。子どもが成長をする際に母親に信頼されている必要があることを知っている大人は少ないです。子どもの成長を考えるときには、その根底で母親から信頼を得られているかどうかを必ず考える必要があります。

 A「与えられた環境に順応しようとする」とは、子どもは失敗があるかも知れないけれど、決して自分からは悪いことをしないと言う意味になります。自分の家庭、自分の学校、自分が属する社会、自分が属する国や文化に順応するように成長します。ですから、子どもが自分の家庭、学校、社会、国や文化に対して問題行動を起こしたなら、それは子どもに何か辛い刺激が加わっていて、子どもが素直に成長できない状態にあると考えられます。

 B「自然に湧き出すエネルギーが大きい」とは、子どもは大人のように何もしないでじっとしていれないです。一人にしておいても何かをしだすと言う意味になります。何もすることがなくて退屈になると、自分で何か遊びや目的を作って動きまわります。その遊びに退屈すると次の遊びや目的を求めてもっと動き回ります。

 C「新しいもの(刺激)を求める」とは、子どもは新しい物を回避することもありますが、多くの新しい物に興味を持ち、新しい経験をどんどんしようとします。それは子どもには必ず進歩があることになります。子どもは新しい物に出くわすと、その新しいことは今まで経験していませんから、当然その反応の仕方に習慣化していません。その新しいことについて大人では想像もできないようなことをして克服します。失敗も多くします。その失敗を重ねて、子どもはその新しい経験を上手に使いこなすようになります。そのようにして子どもが身につけた反応の仕方や生き方はその子ども特有な物ですから、親の価値観と違って良いということになります。

 E「優しい。特に、母親が喜ぶのが好き」とは、子どもは特に指導しなくても、子どもの方から親が喜ぶことをするという意味です。子どもと母親の間に信頼関係がしっかりとできている限り、子どもについて母親は基本的にしつけをしたり、勉強を要求する必要がないです。子どもの方から母親が喜ぶ行為をしますし、勉強をするからです。

 D「子どもは刺激に素直に、精一杯、反応して行動する」とは、子どもには怠けやずるがありません。子どもはその瞬間瞬間について、受けた刺激にめいっぱい反応しています。子どもはその瞬間瞬間をその子どもなりに能力の限りを尽くして反応し、行動していることになります。

 その行動の仕方は刺激に反射的な反応行動です。子どもには意識的な行動ができないか大変に下手ですから、大人が子どもに「何かするときにはもっと考えて行動しなさい」と言っても、それは子どもにとって無理な要求になります。子どもは教えられた知識からの行動がとても難しいです。子どもは理屈や理性から行動できないです。親や大人の思うように動けないです。


$15 子どもを信頼する

 子どもはある状況下で大人とは違った反応や行動の仕方をします。その子どもへの対応の仕方には大きく分けて二通りの方法があります。積極的で元気な状態の子どもには、今まで親や大人が持っている知識や経験から対応してよいです。心が辛くて元気がない子どもには、今の大人が知らない子ども特有の対応の仕方があります。心が辛い子どもを守り育てるためには、心が辛い子ども特有の対応の仕方を親や大人達は理解する必要があります。

 心が辛い子どもへの対応法は、心が辛い幼稚園、小学校、中学校の子どもに当てはまります。また心が元気な子どもにも当てはめてよいですが、子育てという観点から効率が悪くなります。心が元気な子どもには大人が持っている常識で対応できますし、その方が子どもの能力をよりいっそう高めることができる場合があります。

 心が辛い子どもへの対応は子どもへの信頼から始まると言っても過言ではないです。親や大人が心が辛い子どもを徹底的に信頼するという意味です。ただし親や大人が心が辛い子どもを信頼していると思っていても、子どもの方で信頼されていると感じない限り、子どもを信頼したことにはなりません。心が辛い子どもへの対応は常識が当てはまらない場合が多いです。親や大人は心が辛い子どもを信頼しているつもりでいても、実際には常識から対応をしてしまい、心が辛い子どもからは親や大人から信頼されていないと思われてしまう場合が多いです。心が辛い子どもへの対応には非常識な対応が多いです。心が辛い子どもへ具体的にどのように信頼を表現すのか、多くの大人は迷っています。ここでは心が辛い子どもへの信頼とは何かについて述べてみます。

 この場合の心とは一応常識的な心でよいです。一般社会で通用している心とは精神世界(精神身体二元論)をさします。私が子どもの心について提案をしているときの心とは子どもの脳の機能(精神身体一元論)です。その理由は、子どもでは精神世界という概念からの反応や行動がないからです。子どもの反応や行動は殆ど全て受けた刺激に素直に反応をしているからです。

 辛いについても説明しておきます。心が辛い子どもは現在の社会の中で理由もなく辛くなっているのではないです。他の人では何でもない物、場合によっては楽しく感じられる物で、辛くなる子どもでは、それを見たり意識するととても辛くなるのです(例えば不登校の子どもについて、学校が辛い刺激になっています)。この場合の辛さは現在の所脳の中で辛さができているという証拠はないです。辛い子どもではその子どもの情動が働いて、消化器官や循環器官、呼吸器官などの体中の臓器に、異常な機能を呼び起こしています。その状態を子どもは五感で感じ取って、辛いと表現しています。

 心が辛い子どもは、自分を辛くする物から自分を守られない場合が多いです。その事実を親や大人が理解して、心が辛い子どもを辛くする物から守る必要があります。子どもは自分を辛くする辛い刺激から守られると、つまり辛さが無くなると、子どもの本能として持っている脳内部からの自然発生的な行動の動機=心のエネルギーから、自分の置かれている環境に、社会に順応するように、子どもの方から動き出します。

 子どもは受けた刺激に素直に反応しています。子どもが成長すると、思春期を過ぎると、脳の前頭前野が解剖学的に完成(完全に完成するには20歳代の後半と言われています)をしてきて、大人と同じように意識的な、知識を用いた反応や行動が可能になります。しかしすぐにできるのではなく、前頭前野の機能を使うという経験にかなりの時間を要します。

 前頭前野を大人のように機能させて反応や行動ができるようになるには、活動的で既に社会に順応している元気な子どもでも、早くても20歳前後です。心が辛い子どもでは普段情動が主として働いていて、前頭前野が機能する経験が少ないので、20歳代の中頃から後半までかかります。そのためにも心が辛い子どもでは、辛い刺激から子どもを守り、情動を安定させて、前頭前野の機能が働く機会を高めた方が、子どもが自立して社会に出て行くために良いです。

 家庭内虐待がある家庭は別にして、多くの家庭では母親と子どもの間に信頼関係があります。母親は子どもを守り育てようとしますし、子どもは本能的に母親を信頼して、母親に守られようとします。それは昔も今も同じです。ところが日本が貧しかった頃の家庭は子だくさんでしたし、生活を維持するために母親は家事に明け暮れて、一人一人の子どもに多くの手をかけられませんでした。そのために子どもの事故も多かったけれど、子どもは子ども社会の中でいろいろな経験ができました。その子どもなりに多くの楽しい経験をしましたし、辛い経験をしたときには母親の元に戻って母親にその辛さを癒されました。それは子どもが幼い内から辛い経験を克服する能力を高めました。

 現在の物質的に豊かな時代では、子どもの数が少なくて、母親も多くの知識と子育てに費やす十分な時間がありますから、子どもを母親の希望する姿に育てようとしています。その際に母親の希望する姿から子どもの姿がずれると、母親は子どもの心を配慮しないで子どもの姿を母親の希望する姿に合わせようとします。学校も子どもの能力を伸ばすために、次から次と子どもに要求を続けます。親も教師も子どもの心が辛くなっているのに気づきません。心が辛くなった子どもは親を信頼できなくなって、問題行動をするようになります。一見心が辛い子どもが親の信頼を裏切るように見えますが、母親が子どもに無理な要求をし続けて子どもの心を辛くしているので、助けて欲しいと母親に訴えているだけなのです。母親が子どもからの信頼を裏切っている姿なのです。心が辛くなった子どもとの信頼関係を取り戻すには、$20心が辛い子どもが求める物を参照して下さい。


$16 子どもの行動の動機としつけ

 子どもの行動は内的な欲求から起こす行動と、受けた刺激に反応して起こす行動とがあります。子どもの場合大人と同じような思考活動からの行動はほとんどみられません。特に心が辛い子どもの場合、子どもの行動のほとんどすべてが受けた刺激に反応して起こしていると考えて間違いありません。

 子どもは言葉を話しますが、その心はとても動物の心に近いです。刺激を受けたときの子どもの行動も動物の行動から得られた知識で理解が可能です。子どもがある刺激を受けたとき、その刺激を求めようとするかその刺激から逃げようとするか、またその行動の強さはどうなるかの行動式を示してみます。

「子どもの行動の動機の強さ」=「性格」+「大人の期待(母親、父親、その他の大人)」
大人の期待とは、大人が期待する方向へ子どもに圧力をかけることです。

性格=刺激が持つ魅力ー刺激が持つ辛さ+内発的な欲求+過去の経験
 性格は子ども自身内で生じる動機の強さであり、魅力が強く働いたときには、周囲の人がエネルギーがある、活力があると感じます。辛さが強く働くと、逃げる、問題行動をする、病気の症状を出すなどの回避行動が強くでます。大人と違って子どもには内発的な欲求からの行動があります。この内発的な欲求が心が辛い子どもを元気にするのに役立ちます。

 受けた刺激に子どもがその時点で強い魅力を感じているときにはその刺激に近づいていき、その刺激を得てその子どもなりに納得しようとします。例えばお菓子のような物を考えてください。受けた刺激が子どもに辛さを与える物でしたら、子どもはその刺激から逃げようとします。例えば蛇のような物を考えてください。子どもにとって魅力的な刺激であり、また同時に辛い刺激という物があります。例えば不登校の子どもについての学校です。学校は子どもにとってとても魅力的な物です。けれど不登校の子どもは学校を見たり意識したりするととても辛くなります。不登校の子どもは学校という刺激が魅力以上に辛いから学校に行こうとしません。

 子どもが過去にその刺激に対してどのような反応仕方をしたかという経験を意識はしないけれど思い出して行動しようともします。例えばお風呂に入るときに、子どもはすぐに真っ裸になります。当たり前といえば当たり前ですが、風呂にはいるときにはいつも裸になっていたから、子どもは裸になって風呂に入ります。不登校の子どもについては、学校が辛くなっていますから学校に行けないのですが、今まで毎朝学校に行く習慣を身につけていますから、学校が辛くても学校に行こうとします。

 子どもが刺激を受けたとき、その刺激について自分に影響を与える大人の思いや期待を感じて行動しようとします。例えば子どもが手伝いをしたとき、その手伝いを褒められるとそれ以後ますますその手伝いをするようになります。不登校の子どもは学校が辛くて学校には行けないのですが、親が学校に行って欲しいと願っている思いを感じ取って、無理をして学校に行こうとします。このようなとき子どもへの影響の大きさで一番大きいのは母親です。父親は母親と比べて影響が少ないですが、心が辛い子どもは受けた刺激の内容によって父親に強制力を持った圧力を感じる場合があります。実際には強制されていないのですが、子どもは強制されているように感じてしまいます。その他の大人は子どもにはそれほどの影響を与えませんが、既に人について辛い思いを感じるようになった子どもは、その他の大人についても影響を強く受けるようになります。学校の先生はその他の大人に属しますが、母親を通して子どもに影響を強く与えます。

 性格の式を見てください。子どもでは過去の経験がない場合が多いです。子どもでは内発的な欲求が強い場合が多いです。刺激が持つ魅力が大きいと、子どもは親が予想もしない動きをしてしまいます。その行動が親が希望するものと一致するのなら子どもは親に認められてその行動をし続けます。行動式の大人の期待がプラスに働きます。その行動が大人の希望しないものなら、大人は行動式の大人の期待をマイナスに働かせます。子どもの行動を押さえるためです。この大人の期待をマイナスに働かせることを具体的に言うと、子どもをしかる、罰を与える等です。子どもが受けた刺激について大人の期待をプラスにしたり、マイナスにしたりして子どもの行動に方向性をつけるのをしつけと言います。

 子どもは内的な欲求から、親が予想をしなかった行動をしてしまいます。多くの親は子どもに大きな恐怖を与えて、辛い思いをさせて、親が希望しないことをさせないようにします。特に子どもに危険を伴うような行動をさせないために、体罰などの強い恐怖を与える場合があります。その辛い思いは子どもに辛さを感じる条件刺激を学習する可能性があります。子どもに強い恐怖を与えたときには、その後でその恐怖を薄めてあげる必要があります。子どもがその恐怖を癒せる場所に行かせるとか、子どもの好きなものを与えるとか、母親の愛情を与える必要があります。特に母親の愛情は子どもの辛さを癒すのにとても効果的ですから、子どもを強く叱ったときには、必ずその後で母親の共感の言葉とスキンシップが必要です。

$17 成長とは

 大人と違って、子どもは日々成長しています。20歳代でも脳はまだ成長していると考えられています。具体的な成長を箇条書きにしてみます。

1)身体的な成長、体力を増やす
2)知識の心(記憶)、反応の心(上手になる)の情報量を増やす。
3)知識の心の情報と反応の心の情報を連合させる(経験をする、経験させる)
4)情動の心(子どもの本心)が情報の心と反応の心を結びつける結び付け方(情操教育)を確立させる

 子どもでは知識の心の中の情報を増やすことはできます。また反応の心の中の情報を増やすこともできます。けれど大人と違って子どもは思考の心が情報の心と反応の心を結びつけることができないか難しいです。つまり子どもでは考えただけ、思い出しただけでは行動ができません。考えたり思い出したりして行動するためには、そのための経験や練習が必要です。大人では考えたり思いついただけで行動ができますから、子どももそれができると考えがちです。子どもに無理な要求をしがちになります。


$18 基本的な大人の関わり

 心が元気な状態の子どもの子どもへの大人の関わりは、大人の良心から、大人の常識から対応をしてよいです。しかし現在の大人は心が辛い子どもの概念を持っていません。心が辛い子どもへの対応を大人の良心や常識から対応したときには、心が辛い子どもがより辛くなる場合があります。大人の良心から、大人の常識から対応したときに、その大人の対応に答えてくれる心が辛い子どももいますが、それはその子どもがよい子を演じているのであり、いずれよい子を演じる限界がきて、子どもが荒れたり、問題行動をしたり、病気の症状を出すようになります。大変に辛くなります。心が辛い子どもへの基本的な対応は、辛さの原因から子どもを守るか、辛い心を癒してあげるか、心が辛い子どもを信頼して待ってあげるしかありません。それ以外の方法は、心が辛い子どもをますます辛くしてしまいます。

 母親以外の大人を心が辛い子どもは単に自分を取り巻く環境としてしか受け止めません。親以外の大人が心が辛い子どもに関わるときには、基本的に恐怖刺激についての回避行動と同じような反応の仕方をします。現在心が辛い子どもへの理解の仕方をほとんどの大人は知りませんから、大人が心が辛い子どもへ常識的な対応をすることはやむを得ないですし、その大人の対応に対して子どもが回避行動を取ることもやむを得ないことでしょう。今後子どもへの対応をしようとする大人は、少なくとも心が辛い子どもの存在、向かい合っている子どもが心が辛い子どもである可能性を配慮した対応をする必要があります。

 辛いの子どもが父親について持つ感じ方は、ほとんど全ての例で心が辛い子ども自身を責める存在として感じています。それはほとんど全ての父親が社会で経済活動をしていますから、その経済活動は大人の常識だけから成り立っていますから、その経済活動の常識を家庭に持ち込んで子どもと向かい合ってしまうからです。そのような父親の立場を変えることは大変に難しいので、父親は心が辛い子どもへの対応をしない方がよいです。父親は心が辛い子どもへの対応をしないで、家庭外の悪影響から家庭を守る役割をした方がよいです。母親に心が辛い子どもの論理(母性)が働くような環境作りに関わると良いです。

 母親だけが心が辛い子どもに直接関われる大人です。子どもも母親だけに自分の問題の解決を求めています。それ故に辛いの子どもの問題を解決するには母親の子どもの心に沿った対応が要求されますし、また母親はそれを行う能力を持っています。それを母性といいます。母性の存在を強調するとそれは性差別だと判断する人も多いようです。しかし心が辛い子どもの心に沿った対応を理性で考えて行っても心が辛い子どもはますます辛くなる現実があります。心が辛い子どもへの対応を、母親が常識を捨てて母親の中からわき出す感情で対応をしたとき、子どもが少しずつ元気を出してくるという現実があります。

 心が辛い子どもには母親が常識を捨てて、母親が子どもに感じる思いに素直に反応する必要があります。現在の常識は心が元気な子どもに当てはまりますが、心が辛い子どもには当てはまらないからです。つまり心が辛い子どもの心に沿うには、生物としての子どもの心に沿った対応をする必要があります。人間の母親には生物としての子どもの心に沿って対応できる能力を持っています。

 その母親の生物としての子どもの心に沿った対応を可能にする能力を十分に発揮させるには、心が辛い子どもを持つ母親はあらゆる常識や母親の持つ知識を捨てる必要があります。他の人から見たら好ましくない状態の子どもを信頼できて、母親の全てをなげうって子どもを守ろうとする対応が自然とできてくるようになります。その母親の子どもを守ろうとする対応を観察していると以下の三点にまとめられます。

1)子どもを辛くする物から先回りをして守る
2)子どもの要求(本能をふくめて)を100%かなえる
3)子どもの要求以外のことをしない


$19 親は心が辛い子どもに気づこう

 心が辛い子どもが元気になるためには、心に安全な場所が必要です。心に安全な場所を子ども一人で作れません。子どもの心が元気になってもらうために、親は子どもの心が安心できて、生活を楽しめる場所を作る必要があります。それは子ども自身の部屋であり、子どもの心が元気になってくると家の中、特に居間です。

 心が辛い子どもの心が安心できる場所には、子どもを苦しめる物があってはなりません。子どもを苦しめるような物から親は子どもを守ってあげる必要があります。それでも心が辛い子どもの心が辛くなることがありますから、その辛くなった心を癒すために、必要に応じて母親の存在が必要です(子どもが問題行動をしたり、病気の症状を出しているときは、母親は先回りをして子どもの辛さに共感し、スキンシップをする必要があります)。常識的な人から見て、引きこもっていて、母親に甘えている子どもと理解されるぐらいがよいです。

 生活を楽しめる場所として、子どもが納得がいくまで楽しめる遊び道具が必要です。ゲームやテレビ、DVD、漫画などす。周囲から幼稚と理解されるかも知れませんが、子どもが耽っている遊びを、とことんさせる必要があります。子どもの心が元気になると、子どもは必ずこれらの遊びを卒業します。子どもがこれらの楽しみを卒業しない場合、子どもの心がまだ元気になっていない、子どもにとって辛いことがあると考えられます。また同年代の子どもが既に社会で働いているなどと親が考えると、親自身も辛くなるし、その親の思いを感じ取った子どもがより辛くなります。

 心が辛い子どもの見つけ方です。子どもの心が辛くなると、子どもはその辛くなる場所から逃げようとします。ある場所から逃げて、別のある場所に子どもが行ったなら、逃げてきた場所に子どもを辛くした物があり、逃げていった場所には子どもを辛くする物がないか、子どもを辛くする物があっても、逃げてきた場所の辛さより辛くないという意味になります。逃げていく場所として家庭が子どもを楽にします。しかし家庭に居場所がないと、つまり両親が子どもの心の辛さを理解しないと、子どもは家庭に逃げないで、町中とか、親から見て好ましくないところに逃げてしまいます。家出をして町の中をふらつく子どもは、子どもが悪いのではなくて、心が辛い子どもを親が理解していない姿です。気性が激しい子ども、引っ込み思案な子どもは、程度は軽いですが、既に心が辛い子どもの可能性を考える必要があります。です。

 心が辛くなる場所から子どもが逃げられないとき、子どもはよい子を演じます。子どもがよい子を演じているのか、本当によい子なのか、その区別は大変に難しいです。殆ど全ての大人は、子どもがよい子を演じていても、大人の対応が受け入れられていると判断して、子どもを辛くしている対応を続けてしまいます。子どもはよい子を演じ続けなければならなくなります。よい子を演じるにはとても大きな努力を必要としますから、子どもの心は大変に疲れ(意欲を失い)ます。

 よい子を演じる限界に達しますと、またはよい子を演じられないと、子どもは暴れたり、問題行動をします。子どもの家庭内暴力、万引きや盗み、暴走行為などの犯罪行為、不純異性行為、薬物などは、子どもが悪いのではなくて、心が辛い子どもを親が理解していないという姿です。子どもが暴れたり、問題行動をするときは、常識的に子どもが問題であるとか、その問題行動を正す必要があると考えるのではなくて、子どもの心が辛いのだと親は理解する必要があります。

 子どもが辛い場所から逃げられなくて、又は逃げられたとしてもその逃げた場所が辛くて、よい子を演じる限界を超えていて、暴れようとしても力で押さえつけられたり、心が優しくて暴れたり悪いことができない子どもでは、いろいろな神経症状や精神症状など、病気の症状を出すようになります。頭が痛い、お腹が痛い、胸が痛い、めまいがする、動悸がする、息苦しい、気持ちが悪い、嘔吐する、下痢をする、血便が出る、歩けなくなる、手が動かなくなる、手足が震える、夜眠られなくなる、眠っていても目が直ぐ覚める、こだわりが強くなる、儀式をする、食欲が無くなる、食欲が過剰にある、幻聴がある、幻覚があるなどの、ありとあらゆる症状を出します。病院に連れて行くと病気として治療をされますが、辛さから逃げられないときには病気と全く区別ができないこれらの症状を出します。病気と信じて治療を受けると、心が辛いところに加えて、辛い治療を受けることになりますから、子どもはますます辛くなります。場合によっては症状が悪化します。また、心が辛くてこれらの症状を出しているのですから、それを病気と考えてしまうと、辛い心を癒す対応を取ることができなくなり、子どもの問題解決の機会を失ってしまいます。子どもには心の病気はないと親は考えてください。

 心が辛い子どもを常識で判断すると、人間的にも社会的にも好ましくない子どもと理解されます。それは常識が間違っているのであり、心が辛い子どもを見つけて、守り、元気にして行くには、常識がじゃまをします。常識を捨てて、心が辛い子どもの心に沿った対応が必要です。それは大人の経験から知ることはできません。一般常識から心が辛い子どもへの対応をする人は、心が辛い子どもの心を知らない人です。一般常識を心が辛い子どもに押しつけることになり、ますます心が辛い子どもを苦しめてしまいます。

 心が辛い子どもの心を子どもの言葉から完全に知ることはできません。心の辛さを生じる刺激は潜在意識で処理されて、体中に辛さを表現しますから、子ども自身も、周囲の人も、心の辛さを生じる刺激を知ることはできません。生物としての人間の心を脳科学的に解析して初めて分かります。また、辛さを生じる刺激が心が辛い子どもの外から加わっているとは限らないです。心が辛い子ども自身が作っている場合もあります。親は心を辛くする刺激を、原因を捜そうとしない方が良いです。常識を捨てて、心が辛い子どもの心を癒し(母親が共感してスキンシップをする)、子どもを信頼して待つしか、解決法がない場合も多いです。


$20 心が辛い子どもが求めるもの

 辛い子どもの立場から母親に求めている物を観察してまとめてみます。

 第一に心が辛い子どもは母親に自分を辛くする物から先回りをして守ってもらうことを要求しています。荒波から船を守る防波堤のように考えて下さい。子どもを辛くする物から子どもが守られたら、子どもは辛くなくなり、その子どもなりに成長をすることが可能だからです。

 第二に子どもは辛い自分の心を癒す対応を母親に要求します。その対応ができるのは母親だけで、母親以外ではできないようです。特に酷く荒れたり問題行動をしている子ども、病気の症状を出している子どもは、子どもを辛くする物から守られていませんから、死ぬほど心が辛いにあります。その辛さを癒すために、母親に共感とスキンシップを求めています。荒れたり問題行動をしている子ども、病気の症状を出している子どもには、母親が先回りをしてでも、積極的に子どもの辛さを癒す対応が必要です。それは母親の共感とスキンシップです。

心が辛い子どもは母親にいろいろな物を求めます。それには母親で解決可能な物と、母親にとって無理な物とがあります。子どもの心が辛いと言うことは、子どもを辛くする物から子どもが守られていないと子どもは潜在意識で反応しています。母親が子どもを守ろうとするかどうかを無意識に見極めようとします。母親の子どもへの信頼度のテストをしようとします。母親が子どもから信頼されるにはこのテストに合格する必要があります。母親は子どもの要求を笑顔で直ちに実現する必要があります。母親にとって無理難題であっても、それを実現しようとする姿が必要です。

 子どもは自分の要求がすぐに100%満たされると、母親を信頼しようとします。自分で自分の問題を解決しようとする動きが出てきます。100%以下の対応だと母親に不信感を持つようになります。母親に怒りをぶつけるようになります。100%以上の対応だと、先回りをした対応があると、子どもは自分から自分の問題を解決しようとしなくなります。母親に依存を始めて、いわゆる甘えの状態になります。母親に下心を感じて、母親を疑い出す子どももいます。

 辛い子どもは、母親が子どもを辛くする物から子どもを守り、子どもの要求を100%かなえてくれるなら、子どもの心は辛さが無くなってとても楽になり、母親の存在をそれほど必要としなくなります。心が辛い子どもがこの段階になったとき、母親は積極的に子どもから離れた方が、子どものためにも母親のためにも良いです。子どもは自分の中にたまったエネルギーからその子どもなりに心の成長を始めているし、その成長をどんどん伸ばして行けるからです。

 心が辛い子どもがこの段階になると、母親は子どもを辛くする物から子どもを守る要領も不完全ながら心得られてきています。子どもの要求を100%かなえる要領も不完全ながら心得られてきています。完璧が必要ないことは経験すればすぐにわかります。子どもは母親にとても優しいから、少しぐらいの母親の失敗を許してくれるからです。

 これらのことをふまえて、子どもが少しでもエネルギーを蓄えてその子どもなりの動きが出てきたときには、母親は 「見ない、言わない、笑顔」 を守るだけでよいです。「見ない」とは必要ない限り子どもを見ないという意味です。母親は積極的に家の外で母親なりに楽しみを見つけてください。「言わない」とは子どもの質問に対する答え以外には言わないという意味です。子どもとの会話が全くなくても大丈夫です。心が通じていますから。「笑顔」とは母親が絶えず笑顔で家の中にいるという意味です。母親の笑顔は子どもの全てを母親が認めていると子どもが本能的に判断するからです。


第二章 心が辛い子どもについて各論

$1 登校拒否

 学校内のある場所で子どもが死ぬほど辛い経験をしたとき、それ程辛くなくても辛い経験を繰り返したとき、学校内のある場所を条件刺激とする辛さを生じる条件反射を学習します($5学習した辛さを生じる刺激を参照)。この状態で子どもが学校に行って、その辛い場所に行ったり、意識することを繰り返すと、辛さを生じる条件刺激の汎化を生じて、学校の建物や学校という概念に辛さを生じるようになります。この心の状態を登校拒否と言います。

 登校拒否とは学校を見たり意識すると体の奥底から辛い物が湧き上がって、学校に行こうとしなくなる心の状態です。登校を拒否していても学校へ押される力が強くて、学校に行っている場合もありますし、学校を拒否する力が学校へ押す力よりも強くて、学校に行かない場合(不登校)の場合も($16子どもの行動の動機としつけを参照)あります。

 登校拒否の状態で子どもが学校に行き続けると、ますます辛さを生じる条件刺激の汎化が起こります。学校に関する物に、例えば教師や友達、勉強、勉強道具に辛さを生じる条件刺激を学習してしまいます。学校ばかりでなく、教師や友達、勉強、勉強道具を見たり意識をすると辛くなり、拒否反応をするようになります。この学校や学校に関する物を拒否する反応は子どもの潜在意識の反応ですから、子ども自身もその事実を認識しません。

 それでも子どもが学校に行かされる(親や大人達は学校は子ども達のために作られていると考えていますから、学校が子どもを辛くしているはずはないと考えています。学校に行こうとしない子どもに問題があると考えます。無理をしても学校に行かそうとします)ことで行き続けると、子どもは近所の建物や、近所の人、一般の人など、他の人では全く理解できない物に辛さを生じる条件刺激を学習してしまいます。子どもの辛さの原因が全く分からなくなり、辛さから子どもを守る対応ができなくなります。つまり現在の心が辛い子どもが生じる辛さの大元は登校拒否から始まっていると言っても間違いでないようです。学校から子どもを守る対応を続けますと子どもの問題が解決します。

$2 不登校、教室からの逃亡、家出

 登校拒否の子どもの学校を拒否する力が、学校へ押す力より大きくなって、子どもが学校に行かなくなった状態が不登校です。

 登校拒否の子どもで学校を拒否する力より学校へ押す力が強い子どもは学校に行ってしまいます。学校に行っても多くの登校拒否の子どもでは、教室内は一番辛い場所になっています。そこで教室よりは少しでも楽な保健室や図書館、空き教室などに逃げようとします。少しでも楽なこれらの場所で時間を過ごして帰ろうとします。ですから子どもが好んでこれらの場所に来ているのではありません。やむを得ずこれらの場所に来ていることに気づいてあげて下さい。これらの場所で必死に耐えているので、その辛さから辛さを生じる条件刺激の汎化を起こし続けているのです。何に辛さを生じる条件刺激の汎化を起こしているのか、それは子どもによりいろいろで、知りようが無くなっています。

 不登校をしていても、登校刺激(学校に行くように促されること)を受け続けると、子どもは家の中で辛い思いをし続けます。学校をますます拒否してしまいます。それに反して、不登校をしていても、登校刺激を受けないなら、安心して不登校を続けられるなら、子どもは何かをしたいというエネルギーを高めていきます。表情も明るくなり、その子どもなりの挑戦を始めます。明るい不登校と呼ばれる子ども達です。明るい不登校をしている子ども達は、学校に行っていると経験できないいろいろな社会経験をしています。社会で強く生きる生き方を学んでいます。子どもが必要を感じたら学校に行くようにもなります。学校にただ体を運んでいる子ども達より、遙かに素晴らしい生き方をするようになってくれます。

 教室が辛くて、保健室や図書館、空き教室なども辛い子どもは、子どもを教室にとどめる力が弱いと教室から教室の外に逃げ出します。一般に校庭なども辛い場所ですから、学校の外に逃げ出すことが多いです。学校外で子どもに何かあると教師が困るので、逃げ出す子どもに監視役の子どもをつけることが多いです。一見子ども同士で問題解決ができるように大人は考えますが、監視役にされた子どもにはとても大きな負担がかかります。それでも良い子を演じて教師の期待に応えようとする監視役の子どもにも、教室内が地獄になってしまいます。教師や親が気づかないうちに、教室や学校に対して拒否反応を生じるようになります。

 登校拒否の子どもで、学校を拒否する力が学校へ押す力より大きいと、子どもは学校に行きません。子どもが家にいようとする力より親からの子どもを学校に押し出そうとする力が大きいと、子どもは家に居れません。子どもは家の外で時間を過ごすことになります。町で過ごす経験を持っている子どもは町へ出てしまいます。それがない子どもは家の近くで過ごすことになります。学校に行かないために家にいることが辛くなった子どもは、家に帰らなくなります。家出と理解されます。

$3 引きこもり

 不登校の子どもの多くは、家の近所や人に心が辛くなる条件刺激を学習しています。家の外に行こうとしなくなります。この状態の全ての年齢の子どもについて、引きこもりと表現される子ども達です。義務教育が終わって進学しないなら、子どもは不登校でなくなりますが、引きこもりの状態が続きます。

 親から引きこもりが認められた子どもは、家の中でその子どもなりの楽しみをして、何かをしたいというエネルギーを貯めて心が元気になっていきます。親から登校刺激が加わっている子どもは、家の中で荒れます。親に攻撃をする場合もあります。子どもの中には病的な症状を出す子どももいます。親を拒否して自分の部屋の中に閉じこもります。只閉じこもるだけでなく、ドアに鍵をかけたり、雨戸を閉めっぱなしにする場合が多いです。

 引きこもりにも二種類の引きこもりがあります。一つは、心が安全な場所に引きこもってエネルギーをためて、やがて引きこもりを止めて学校や社会へ出て行く準備段階の引きこもりです。心が辛い子どもはこの段階を経た方が確実に安全に社会へ出て行けます。もう一つは辛さから自分を守るために引きこもっている引きこもりです。引きこもっても引きこもった場所が安全でないために、自分を守るために精一杯の状態です。この二つの引きこもりは見た目には同じですがその意味は大きく違います。

$4 ニート、フリーター

 義務教育を終えた子どもで、引き籠もっていた子どもが引きこもりを止めたけれど、学校や社会組織に参加していない子どもをニートと言います。ニートには親から家の外に押し出されている子どもがいます。親の押し出す力が弱くなると、子どもは再び引きこもります。フリーターとは家の外での活動が可能で、無理をしてけいざいかつどうにさんかしています(お小遣いを稼ぐ程度)すが、本心から社会組織に参加するほど意欲を持ち合わせていない子ども達です。子どもの生活の主たる物は全て親に依存をしている場合です。ニートもフリーターも、安心して引きこもらせてあげると、元気な大人になって社会へ出て行けるのです。

 ニート、フリーターとして生きることは決して間違った生き方ではないです。子どもがそのような生き方を求めるなら、親や大人は不本意でも、その子どもなりのニート、フリーターの生き方を認める必要があります。子どもが納得した生き方を生き続けるために、ニート、フリーターとして生きていく過程で、その子どもなりの生き方を決めていく必要があります。

$5 家庭内暴力

 不登校の子どもが親により登校刺激を受けるととても辛くなります。その辛さの回避法として子どもが自分を辛くする物を攻撃する場合があります。子どもを辛くする親に暴力を振るう場合、子どもを辛くする親が大切な物を壊す場合があります。母親が登校刺激を与えると、子どもは母親に向かって暴力を振るいます。父親が登校刺激を与えると、父親に直に暴力を振るう場合がありますが、多くは父親の方が力が強いので、父親が大切にしている物、例えば家のガラスや壁、ドアなどを壊す場合があります。

$6 学級崩壊

 登校拒否の子どもが教室内で辛くなると、子どもを辛くする教室内で暴れたり、教師に暴力を振るいます。子どもが辛くなる時間は授業中ですから、教室内で子どもが荒れることで、授業が成り立たなくなります。教師や大人は子どもに問題があるから、力で押さえつけて、子どもの性格を矯正しようと考えますが、それはかえって子どもを辛くして反応を強めて、学級崩壊を強めます。主として小学校の子どもについて学級崩壊という言葉を使っているようです。

$7 学校内暴力

 学級崩壊とほぼ同じ意味ですが、見かけが異なっています。子どもの腕力が強くなると教師の力で押さえられません。登校拒否の子どもが学校で辛くなると、教室内や教室外で暴れて学校の備品やガラス、壁を壊す場合があります。押さえつけるには警察を用いるしかなくなります。

$8 万引き、自転車泥棒、公共物を壊す

 登校拒否の子どもが親によって学校に行き続けさせられていると、学校では良い子を演じているけれど、学校外でその辛さを解消するために、違法行為をしてスリルを求める場合があります。万引きをするスリル、自転車を盗むスリル、町の中の物を壊すスリルを求めて、これらの行動をしてしまいます。但し多くの場合、最初はスリルを求めてこれらをしていません。学校での辛さから、気がつかないうちにふとこれらの行動をしてしまいます。その結果が社会から罰せられないと、これらの行動を繰り返すことになり、スリルを感じるようになり、スリルからますますこれらの行動を繰り返すことになります。それでも社会から罰せられないと、子どものこれらの行動は習慣化して、スリルを求める必要が無くても、手慣れた手法でこれらの行動をしてしまうようになります。これらの行動が習慣化してしまい止められなくなります。

$9 OD、自傷行為

 ODや自傷行為は大人または年長の子どもで見られる行為です。精神疾患として治療を受けている人がその辛さに耐えかねて、発作的に許可されている薬の何倍もの量の薬を飲んでしまう場合をODと言います。大人では自殺目的でODをする場合がありますが、子どもでは辛さに耐えかねて無意識に発作的にODをしています。外見上から自殺を試みたように理解されますし、死に至る場合もありますが、子どもは決して死のうとしてODをしたのではありません。子どものODを防ぎたかったら、親は子どもの辛さを理解して受け取る必要があります。

 リスカなどの自傷行為も、辛さに耐えかねて行う行為です。辛さに耐えかねている人が痛みを感じると痛みを感じた分だけ辛さが減ります。生きている実感がするように感じます。心が辛いときには痛みを感じにくくなっています。辛ければ辛いほど自傷行為が多くなり、傷も深くなっていきます。その際に大きな血管を傷つけたときには出血多量で死に至る場合もあります。

 親は子どもの自傷行為を見ると、体に傷が残るからかわいそうだと思ったり、自殺をするのではないかと思って、自傷行為をやめさせようとします。子どもの自傷行為をやめさせようとすると、子どもはますます自傷行為をする傾向にあります。医者に相談すると、医者は子どもが心の病気だからと言って大量に薬を投与します。または入院させて、危険な物を全て取り上げます。それはそのときの自傷行為を防げますが、後々ますますひどい自傷行為をする原因になります。

 子どもは決して自殺をしようとして自傷行為をしたのではありません。どうにもできない辛さを解消しようとして、発作的に行っています。親が子どもの自傷行為を心配するのなら、自傷行為をやめさせようとしないで、自傷行為をしなくてはならない子どもの辛さから子どもを守ろうとする必要があります。

$10 酒、たばこ、シンナー、麻薬

 子どもが辛さに耐えかねているとき、親が嫌がるような行為や違法行為をすることで楽になろうとする場合があります。違法行為だけでは十分に楽にならないとき、薬理作用とあるものを使用します。お酒には精神安定作用があります。たばこやシンナー、麻薬から受ける薬理作用で辛さを癒やそうとします。

$11 集団不良行為、集団暴走行為

 子どもが辛さに耐えかねているとき、違法行為をすることで楽になろうとする場合があります。校則違反は学校で子どもが辛くなっているというサインです。決して子どもに問題はありません。心が辛い子どもが辛さに耐えかねると法律違反を犯して楽になろうとする場合があります。個人ではできないと集団となって法律違反をして楽になろうとする場合があります。。

$12 不純異性行為

 子どもが辛さに耐え兼ねているとき、性的な刺激で辛さを軽減しようとする場合があります。性的刺激は強い快楽感を生じます。また性行為は脳内で麻薬の作用に似ていますから、依存性を生じてしまいます。解決が難しくなります。

$13 いじめ、いじめられ

 子どもが辛くなったとき、遊びで辛さを解消しようとします。他の人に迷惑がかからないようなもので遊ぶなら、それは子どもとして自然な行動です。ところが子どもの行動が厳しく制限をされている場所や学校では、子どもは遊び道具がないので、人で遊ぶようになります。遊ばれた人も楽しければいじめにはなりません。また心が辛い子どもでは遊びになりません。子どもは遊ばれた人が苦しむように遊ぼうとします。それがいじめです。

 いじめは遊びの形をとりますから、いじめる子どもはいじめをしているとは感じていません。いじめられた子どもも辛くなりますが、初めの内はいじめだと感じません。周囲の子どもたちもいじめが酷くなると、どこか遊びと違うと感じるようになる場合もありますが、基本的にはいじめに気づかないです。いじめはいじめられる子どもが逃げ出さないように巧みに行われ、段々酷くなっていきます。

 いじめを力でやめさせるのは不可能に近いです。その場でのいじめはなくなりますが、他の目立たないところでよりひどいいじめが行われます。いじめる子どもはいじめを止めるととても辛くなるから、それ間の経験からいじめを止められないです。他のことで自分の辛さを解消しようとする経験をしていないからです。

 いじめられる子どもは遊んでおもしろい何かがある子どもが選ばれます。遊ばれても逃げないような子どもが選ばれます。すでに学校で辛い思いをしていて、何かをしようとするエネルギーが少ない子どもが選ばれます。ですからいじめられている子どもはいじめを自分で解決できません。大人がいじめられている子どもをいじめの場所から隔離してあげる必要があります。そうすることでその子どもはいじめから守られますが、その代わりに他の子どもが新たないじめの対象になります。

 いじめられる子どもの中には、柔道が出来る子ども、空手が出来る子どもがいます。多くのいじめは、いじめから逃げられないように、柔道や空手などで反撃されないように行われます。いじめから逃げられたら、柔道や空手で反撃されたら、それ以上いじめができないからです。いじめられている子どもの中には、子どもによって理由はいろいろですが、いじめから逃げようとしたり、力の強い人に関わってもらったり、柔道や空手を使いいじめを解決できた子どもがいます。そのような子どもはいじめられている子どものほんの一部であり、多くのいじめは卒業などで子ども同士が離れてしまってなくなっている場合が多いです。


$14 昼夜逆転

 不登校、引きこもりの子どもは昼間起きているのが辛いです。昼間起きていると周囲からの登校刺激で子どもが辛くなるからです。夜ですと周囲からの刺激が少なくなります。子ども自身も周囲が暗いために自分を責めるものを感じなくなります。自分だけがスポットを浴びているようで、安心して自分がしたいことをできるようになるからです。安心して自分がしたいことをして、何かをしたいというエネルギーを蓄えていき、最終的に昼間にそのやりたいことをするようになります。昼夜逆転を自分で解決します。

 強制的に昼夜逆転を正そうとすると、それだけで子どもが辛くなります。安心して自分がしたいことをできないので、何かをしたいというエネルギーが貯まりません。心を元気にしません。昼夜逆転を正そうとしても正せなくなります。つまり自分に素直に昼夜逆転をしているのと、昼夜逆転を正さなくてはならないと思いながら昼夜逆転をしているのでは、周囲から見た子どもの姿は同じでも、その結果は真反対になります。

$15 我が儘

 我が儘とは親の思いを無視して子どもの要求を通し続ける子どもの姿です。子どもが好き勝手なことをして過ごしている姿です。周囲の人から見て子どもが我が儘と感じられる子どもの状態には二つあります。一つは子どもの心がだんだん元気になっていき、子どものやりたいことをどんどんして、何かをしたいというエネルギーを蓄積して言っている姿です。親にとて負担がかかります。何かをしたいというエネルギーが蓄積しますと、今度は自分だけでどんどん動き出します。不登校、引きこもりをしなかった子ども以上に心が元気な子どもになっていきます。心が元気になって学校に戻ったり、社会へ出て行ったります。不登校引きこもりの解決をするためにはどうしても経なくてはならない子どもの姿です。

 もう一つは子どもの心が辛くてその辛さを解消するために、親にいろいろなことを要求している姿です。自分の辛さを親にぶつけることで、その結果親を苦しめることで少しでも子どもが楽になろうとしています。心が楽になるまで我が儘をし続けます。その姿はエネルギーが蓄積してきた子どもの我が儘と区別できません。対応も異なるし、その結果も全く逆です。

$16 自己否定

 何かをしなくてはならないという思いが強いけれど、トラウマが疼き続けて、とても辛くて、動けない場合があります。そのとき知識の心では何かをしなくてはならないという思いと、何もできない現実を認識します。この知識と現実のずれを感じたときに葛藤状態(欲求不満とも表現できます)になります。情動が回避系の反応を体中に生じて、とても辛くなります。そのとき、「それでも仕方がないこれでよい」と思えたなら、葛藤状態は解消していきます。そのとき何もできない現実は悪い、どうにかしなくてはならないと知識の心が判断しても、意識の心から行動できない場合、意識の心ではどうにかしなくてはならないという思いとどうにもできない現実を認識して、情動の心に新たな葛藤を生じます。より辛くなります。この葛藤状態を知識の心で認識して「このような自分はだめだ、生きていてもしょうがない」と判断するようになります。この状態を自己否定と言います。自己否定から生じる情動はますます自己否定を強めて、自己否定と辛さの悪循環を生じてしまいます。どうにもできない辛さの極限を作ってしまいます。学校に行かなくてはならない年齢の心が辛い子どもの辛さの根源は学校ですが、学校を終えた年齢の心が辛い子どもの辛さの根源は自己否定です。自己否定で苦しむと病気の症状を出すようになります。子どものあるがままを認めると、子どもは自己否定をやめて元気になっていきます。

$17 ゲーム、テレビ、漫画、ネット漬け

 心が辛い子どもはとても辛くてほかの子どもで普通のことをできません。ほかの子どもでの楽しいことをして、辛さを薄めて、やっと自分を維持しています。ですからこれらの楽しみを取り上げられると、子どもはひどく荒れたり、病気の症状を出して、対応が大変に難しくなります。解決が難しくなります。

$18 散らかし、不潔

 部屋の散らかしや風呂に入らないなどの不潔は、心が元気な人の感じ方です。心が辛くて心に余裕がない子どもは片付ける余裕がありません。散らかっていても汚いとは感じません。大人が不潔だと感じることも、子どもにとっては自然なことであり、大人が考えるような不潔とは感じません。今の自分が精一杯ですから、敢えて大人が清潔と考えるようにしようとはしません。

$19 偏食、拒食、過食

 あるものを食べると不安になる、あるものを食べないと不安になるという不安を持っている子どもはいわゆる偏食をします。食べると扶南になる子どもはいわゆる拒食をします。食べないと不安がとれない子どもは食べ続けて過食になります。食べないと不安になるし、食べても不安になる子どもは過食をして自分から嘔吐をするようになります。その際に子どもは食べると罪悪感を感じるから自分から吐こうとすると表現することが多いようです。なぜ食べ物と辛さに関連ができる理由は以下の「安全な場所」を参照してください。

$19 こだわり、儀式

 こだわりや儀式も不安を解消する手段です。その行動をしないとわき出してきた不安が解消できないからです。不安が強ければ強いほどこだわりや儀式が強くなります。なぜ不安とこだわりや儀式が結びつくのか、以下の「安全な場所」を参照してください。」

$20 子どもの心の病

 心が辛くて、その辛さから逃げ出せないときに、子どもは荒れるなどの問題行動を行ったり病的な症状(初期には自律神経症状、時間を経ると鬱病や統合失調症、発達障害の症状、拒食、過食)を出します。子どもが問題行動をしたり病的な症状を出しているとき、大人は子どもが出す問題行動や病的な症状にだけ注目して、子どもが何かに反応して辛くなり、病的な症状を出していると考えません。多くの常識的な親は、子どもが問題行動をしたり病的な症状を出しているから、子どもが病気だと考えて病院に子どもを連れて行きます。今の医学では、子どもが問題行動をしたり病的な症状を出していると、それだけで医者の主観から病気だと診断されます。親は子どもが病気なら、治療を医者に任せて、病気さえ治せばよいと考え安心します。子どもが何かに反応して辛くなっていることに気づかなくなります。子どもの心の辛さを解決する機会を失います。精神疾患を持った子どもとして一生を過ごすようになってしまいます。

 多くの心が辛い子どもは、親が子どもが病気だと考えるとますます荒れるなどの問題行動をしたり、病気の症状を出してしまいます。しかし長年病的な症状で苦しんでいる子どもは、解決しない辛さについて少しでも楽になりたいので、自分が病気だから病的な症状を出していると理解するようになります。親と同じように病気を治せば良いと考えて、安心してしまいます。薬を飲み続けるようになります。それは子どもが出す症状の固定化に繋がってしまいます。

 詳しくは赤沼侃史著「子どもの心の病」を読まれて下さい。

$21 安全な場所、居場所

 心が辛い子どもは、理由もなく体の奥底から湧いてくる辛さに苦しんでいます。理解できなくてどうにもできない不安を、最初に子どもにもたらすのは学校です。子どもが登校拒否になることから始まっています。登校拒否になっても不登校にならずに学校に行き続けると、子どもの不安がだんだん強くなっていきます。その不安が強くなったところに新たな辛い経験をしたときに、その辛い経験をした場所にあった物に新たな辛さを感じるようになります。辛さを生じる条件刺激の汎化を生じます。その汎化が偏食、拒食、過食、こだわり、儀式、などになります。その結果子どもの問題行動になったり、病気の症状になったりします。

 心が辛い子どもにとって安全な場所、居場所とは、辛さから子どもを守る場所でなければなりません。心が辛い子どもを辛くする物を、子ども自身もその親も気づいていませんが、ほとんどすべての子どもで学校であり、学校に関する物です。それ以外に辛さを生じる条件刺激の汎化から子どもを辛くする物もありますが、一つの例外を除いて、その程度は学校や学校に関する物ほど強くありません。その一つとは自己否定です。自己否定は繰り返された頻度が高いので、場合によっては学校や学校に関する物以上に子どもを辛くする場合があります。以上の理由から、安全な場所、子どもの居場所には、少なくとも学校および学校に関する物があってはならないし、子どもが自己否定をするような対応があってはなりません。

 安全な場所、居場所には楽しさがなくてはなりません。その楽しさも楽しいだろうとか、楽しいはずだとかという他人の判断ではなく、そこにいる子どもが楽しく感じなければ意味がありません。子どもは楽しさで辛い心を癒やして、心が元気になっていきます。


$ 22 家庭内虐待

 家庭が原因で子どもの心が辛くなるのは、親による子どもへの虐待かネグレクトがあった場合です。子どもの反応の仕方として、親から叱られるなど辛くされると良い子を演じて親の指示に従います。決して心底自分が悪かったと反省して親の指示に従ったのではありません。叱るのを止めて貰うために、親の指示に従ったのです。しかし子どもが良い子を演じるのにも限界が来ます。限界が来たら良い子を演じなくなって、無意識に親が嫌がるような反応をし始めます。

 子どもの親が嫌がるような行動に親はますます子どもが親の指示に従うように強く叱るなどの子どもが辛くなるように関わります。親の指示に従ったら辛くするのを止めるから、親の指示に従いなさいと言う意味です。それはますます親が嫌がるような反応を子どもにさせるようになります。悪循環に陥ってしまいます。それでも母親に母性が働くと、母親の方でこの悪循環を断ち切ろうとします。けれど母親自体の心が辛いと、母親の母性が働かなくなって、子どもの辛さから子どもを守られなくて、子どもは子どもの周囲にある物を辛さを生じる条件刺激として学習してしまいます。

 子どもは親に依存をしていますから、親の元から逃げ出せません。親から虐待やネグレクトという形で辛い思いをさせられても、子どもはその本能から、親を信頼し続けます。親から逃げだそうとはしません。親から受ける辛さから辛さを生じる条件刺激を学習してしまいます。辛さを生じる条件反射が生じると、子どもは親が嫌がることをしてしまいます。けれど母親自体は子どもにとって喜びの存在ですから、母親から虐待を受けても母親に辛さを生じる条件刺激を学習する子どもは少ないです。

第三章 心が辛い中学年齢以下の子ども

$1 幼稚園児への対応

 幼稚園児について一番大きな問題は、子どもが幼稚園を嫌がり、行き渋ることでしょう。保育士は、強引に幼稚園に連れてくるとその内に慣れて来られるようになると言います。しかし子どもの辛さに慣れがないです。慣れがないばかりか、辛さに過敏になり、些細な辛さにも反応して、ますます幼稚園に行きたがらなくなります。心にトラウマを帯びてしまいます。解決が難しくなります。

 子どもが幼稚園に行きたがらない原因として、三つの要因が考えられます。その一つは子どもの能力が未だ集団生活に順応できるように十分に発達していない場合です。この場合に子どもは母親の側で集団生活に順応できるまで、心の発達を待つ必要があります。集団生活に順応できるまで心が発達すると、子どもは喜んで集団の中に入っていきます。幼稚園に積極的に行こうとします。

 子どもが幼稚園や保育園に行きたがらない原因として、幼稚園内に子どもにとって嫌な物がある場合です。保育士が厳しい対応をする、幼稚園の管理が厳しい、いじめる子どもがいる、お昼寝が嫌だなどです。子どもが訴える内容を理解してあげる必要があります。

 子どもが幼稚園に行きたがらない原因のもう一つは、子どもの心が既に幼稚園で反応するトラウマを持っている場合です。この場合も子どもは母親の側で楽しく過ごして、トラウマの反応が消失するのを待つ必要があります。多くの場合このトラウマは消失しやすい傾向にあります。

 どちらの場合でも、第一章$16、行動式の大人の期待が大きく働きますから、子どもは幼稚園に行ってしまいます。幼稚園に行って良い子を演じる子ども、いじめや荒れる子ども、泣き騒ぐ子ども、チックなどの病的な症状を出す子どもがいます。また、幼稚園でこれらの行動や反応をする子どもを見つけたら、子どもに問題あると考えないで、子どもをどうにかしようとするのではなくて、子どもが幼稚園に行きづらい心の問題があると考える必要があります。

$2 小学生への対応

 小学校入学時からの不登校には、幼稚園の不登校と同じように考えられます。

 小学校入学以後の不登校は、その原因は何であれ、学校で反応するトラウマを持っています。学校が第一章$16、行動式の「刺激が持つ辛さ」になります。小学校低学年の場合、「刺激が持つ辛さ」の作用は未だそれ程強くないです。「過去の経験」の作用もそれ程強くないです。「大人の期待」が大きく作用して、子どもは学校に行ってしまいます。学校に行った子どもは良い子を演じる場合が多いから、教師も親も子どもが学校に反応するトラウマを持っていることに気づきません。それはトラウマを強めてしまうことになります。

 「大人の期待」が大きくないと、子どもはそれだけ早く学校を拒否し始めます。不登校になります。不登校になってもトラウマが学校を拒否する力がそれ程大きくないので、時間と共にトラウマの学校を拒否する力が弱くなり、学校に行けるようになります。

 「大人の期待」が大きいと、子どもは良い子を演じて学校に行きます。学校を拒否する力が大きくなり、「大人の期待」よりも拒否をする力が大きくなると、子どもは登校を嫌がったり、自律神経症状を出して、不登校になります。不登校になる時期が遅れますが、その分学校を拒否する力がおおきく(トラウマの反応が強く)なり、不登校問題の解決が難しくなります。大まかに言うなら、低学年からの不登校は子どもが不登校問題を解決して再登校するようになる可能性が高くなりますし、高学年での不登校は再登校が難しくなります。中学生になっても不登校が続く場合が多いです。

 小学生は問題行動や病気の症状を出すこともありますが、小学生という体格上の問題から問題行動は大人の力で簡単に押さえつけられてしまいます。病気の症状としては、辛さを生じる条件刺激にさらされている時間が短い場合が多いことや、親や大人が子どもとしての配慮をしようとする場合が多いので、一般に軽度です。自律神経症状を出している場合が多いです。それでも子ども達はいろいろな問題を引き起こします。

 学級崩壊、教室からの逃亡、いじめ、万引きなどは基本的に同じような子どもの心の仕組みから生じます。子どもがこれらの問題行動をすると、多くの親や教師、大人達は子どもが悪いから、子どもを矯正してそれらの問題行動をしないようにしようとします。しかしこれらの問題行動を起こすようになる前の子どもはとても良い子です。学校に行きだしてからこれらの問題行動をするようになっています。学校に行きだしてから子どもの性格が変化してきたのです。多くの教師や大人は、子どもの育て方が悪いと考え、学校に問題があるとは考えません。学校は子どものために作られていて、教師も子どものために一生懸命働いているから、学校が原因で子どもがこれらの問題行動をするようにはならないと考えています。

 学校は子どもの本能から楽しい場所です。子どもの方から行きたがる場所です。その学校で子どもが辛い経験をして、その辛い経験が繰り返されると、子どもはその辛い経験をしなくても、学校が辛くなっています(学校を辛さを生じる条件刺激として学習をしている)。その事実を親も、教師も、大人達も気づいていません。学校が辛なった子どもが学校に行くのを拒否(登校拒否)して不登校になってくれたなら、このような問題行動を子どもはしません。程度の差がありますが、学校に行き渋る子どもを親はがんばれと言って学校へ押し出します。教師も学校に来なければ子どもの将来がないと言って、子どもに学校へ来させる対応を取ります。子どもは学校内で良い子を演じて、子どもが理解できない辛さに耐えようとします。しかし辛さがますます強くなっていき(辛さを生じる条件反射が強くなる)、子どもはその辛さを無意識に何かで解消しようとします。

 辛さを外に向かって表現しようとする性格の子どもは、辛くなると辛くする相手に攻撃をし始めます。子どもを辛くする相手とは教師ですから、教師に向かってまたは教師に関連する物に暴力を振るいます。それが学級崩壊です。学級崩壊を起こす子どもと大人の力で押さえつけようとしますと、子どもはますます攻撃的になります。学級崩壊を起こす子どもを教室内で楽しく過ごさせられると、その子どもは教師や教師に関する物に攻撃をしないですみます。実際に行なってみれば分かります。

 辛さから逃げ出そうとする性格が強い子どもでは、教室内で辛くなると教室から逃げ出します。教師は逃げ出さないように監視役として他の子どもをつけます。それは教育としてとても良いように理解されますが、監視役の子どもをとても辛くします。一生懸命教師の期待に応えようとして良い子を演じますが、応えきれなくなるとその監視役の子どもも学校を拒否するようになります。監視役の子どもにはとても迷惑な話なのです。


$3 中学生への対応

 中学生になると、不登校や問題行動を起こす子ども、病気の症状を出す子どもの割合が大きくなります。その要因としていくつかの要因が挙げられます。

 その大きな理由の一つは小学校から中学校が変わるという子どもにとって環境の変化です。環境が変わるという変化は心が辛い子どもにとって、ますます心を辛くするからです(新奇刺激。見知らぬ物に興味を示して近づいて行くけれど、ある程度近づくとそれから遠ざかろうとする。心が元気な子どもは近づこうとする傾向が強くなるけれど、心が辛い子どもは遠ざかろうとする傾向が強くなる)。

 二つめは、子どもの主体性を尊重するという理由で、中学校のあり方が子どもへ要求を強めて、子どもの心を配慮する度合いが少なくなるからです。小学校の教師は子どもが辛くなることを避けようとしますが、中学校は子どもが辛くなることを避けようとする度合いが低くなります。それは心が元気な子どもは自分の能力を伸ばすのに好ましいですが、心が辛い子どもには、辛い心を癒せなくなり、辛さが高じていきます。

 中学生になると思春期に入っていきます。力が強くなって、親の力では動かせなくなってきます。第一章$16の行動式の拒否反応が強くなり、大人が押す力が弱くなりますから、学校を拒否する行動が強くなります。それでも親が学校へ押す力を強くすると、子どもは荒れたり問題行動の方向へ行動が変化します。荒れたり問題行動が親の力によって押さえつけられたり、または荒れたり問題行動をする性格を持ち合わせていない子どもは、病気の症状を出すようになります。

 中学生になって、辛さを生じる条件刺激を学習する(第一章$5学習した辛さを生じる刺激)子どもがいます。しかし多くの子どもは小学校時代に辛さを生じる条件刺激を学習しています。辛さを生じる条件刺激から学校を拒否反応は大人の力で押さえつけられ続けてきていて、子どもはよい子を演じ続けてきていて、中学校になってよい子を演じきれなくなって不登校や問題行動、病気の症状を出すようになっています。小学生と比べて長い時間辛さを生じる条件刺激に晒され続けて、拒否反応が強くなっていますから、中学生になってからの不登校や問題行動、病気の症状を出すことの程度はそれだけ大きくなっています。解決は難しくなっていきます。中学生の内に不登校や問題行動、病気の症状を出すことの解決が難しい場合が多いです。

 中学三年生になると進学の問題があります。親は一応不登校を認められても、子どもが高校へ進学して欲しくなります。親に焦りが出てきます。親が意識しなくても、その思いは子どもに伝わります。子どもも「このままではいけない、高校には絶対に行く」と言い出すようになります。子どもの心が不安定になって、荒れる場合があります。母親だけは子どもの高校進学の思いを(子どもの本心は拒否をしている)否定する必要があります。

 中学校が義務教育だという事実も配慮する必要があります。義務教育だから学校に行かなくてはならないという思いを子ども達は強く持っています。その思いは辛さを生じる条件刺激を思い出させますから、それだけで辛さを生じる条件反射を生じて、心が辛くなります。辛さを生じる条件刺激を親が取り除いたつもりでいても、心が辛い子どもは不登校や問題行動、病気の症状を強めていきます。義務教育という概念は不登校の子どもをますます辛くします。現在義務教育という概念から、中学校に一日も登校しなくても、中学校は卒業できる傾向になっています。親は中学校を卒業させるための対応をしなくても大丈夫ですです。この事実を知らないで、子どもが中学校を卒業するために、行けない学校に無理矢理に子どもを登校させている親がいることも事実です。教師も義務教育という理由で、苦しんでいる子どもを無理矢理に学校に来させようとする場合が多いです。

 中学校が義務教育だという事実は、学校に反応する子どもを辛くしますが、中学卒業の時期が来たら中学校を卒業できますし、中学校を卒業すると義務教育でなくなったという思いは心が辛い子どもを楽にします。心が楽になった子どもは子どもが持つ本能から、その子どもなりの動きが出てきて、社会へ出て行こうとするようになります。けれど親が高校への進学を強く希望するとき、それは子どもを辛くします。高校という子どもの心を辛くする物に子どもが晒され続けるからです。子どもはよい子を演じて高校受験の準備をするか、問題行動や病気の症状をより強めていきます。

 心が辛くて学校に行けなくなり、フリースペースやフリースクールに行く子どもがいます。その場合、子どもの心が元気になってきてそれらの場所を求めているのか、子どもが良い子を演じたり、親から押されて行っているかで、その結果が大きく異なります。心が元気になった子どもはそれ以後の自分の生き方を自分で見つけて成長をしていきます。高認試験を受けて大学に進む子ども、そのまま社会へ出て行ってしまう子どもなどがいます。それ以外の子どもは親も子どもも気づかないけれど、子どもの心を辛くする物に晒され続けることになります。心がなかなか元気になれません。

 辛くて家に引き籠もっている場合、子どもはゲームや漫画、テレビなどに時間の多くを費やします。それは学校を意識するとどこからともなく辛さが湧き上がってきて、その辛さを打ち消すために、これらの楽しみに没頭する必要があります。学校に行かないことが認められると、学校を意識しても辛くなくなり、これらの楽しみに没頭する必要が無くなります。子どもは家の中で積極的に動き出し、その後家の外にも出られるようになります。家の外に出られても学校に行けるという意味ではないです。

 中学生の問題行動が大きな騒動になったり、犯罪になる場合もあります。中学生になると、問題を起こした子どもに問題があると親や多くの大人は考えて、子どもを矯正をしようとします。子どもは辛いから問題行動を起こしたのに、その問題行動を起こさないように強く矯正しようとします。その対応はますます子どもを辛くして、問題行動を強めて事件に発展したり、病気の症状を出すようになります。子どもの将来に悪影響を与えるようになります。


$4 就学している高校生への対応

 高校生の不登校は、不登校になるきっかけが高校にあったことは事実です。高校生の不登校の多くは、入学時に既に登校拒否になっています。中学校で心の中は不登校状態なのに無理をして進学してきたと考えられる場合がほとんど全てです。長い日数無理をして登校し続けてきていますから、高校生で不登校になった場合には、再登校はほとんど不可能です。目安として欠席日数が全出席すべき日数の三分の一を超えると留年になります。留年しても学校に行けるようになりませんから、心を早く元気にするために、退学をした方が得です。

 高校生の問題行動や病気の症状は、大人と同じように扱われる場合が多いです。子どもの心が苦しくて問題行動を起こしたり、病気の症状を出していると考える人はいません。子どもはすでに長い時間苦しんでいるので、解決まで時間がかかる場合が多いです。それでも親に守られて、安心して引きこもられたら、解決が速まります。しかし現実は多くの親が発想の転換をしないので、その後も子どもは長期間問題行動を続けたり、病気の症状で苦しむことになります。


$5 心が元気な子ども、心が辛い子ども

 大人の目から見た子どもの姿を大きく二つのグループに分けることができます。

 一つのグループは元気な、大人の常識から見て子どもらしい(心が元気な)子どものグループです。自発的に活動し、積極的に何かを求めて、与えられた環境に順応しながら成長していく子ども達です。現在の大人が持っている常識的な子育て(心が元気な子どもの論理、強者の論理)が可能な子ども達です。

 もう一つのグループは心が辛い(心が辛い子ども)の子どものグループです。何かから逃げようとしても逃げられなくて動けなくなっている子ども達です。現在の大人が持っている常識的な子育てをしたらかえって辛くなり、問題行動を起こしてしまう子ども達です。心が辛い子ども達は大人達によって守られる必要があります。大人達、特に親によって守られて、その子どもの本心(情動の心)に沿った対応を受けて、その子どもなりの成長が認められる必要(心が辛い子どもの論理、弱者の論理)があります。心が辛い子ども達はその子どもなりの成長が認められて、心が元気な状態の子どもに変わっていけます。元気な大人として社会に出て行けます。

 大人から見た子どもの姿を大きく二つのグループに概念的に分類しました。けれど実際は心が元気な子ども、心が辛い子どもとはっきりと分けられない場合があります。心が元気な子どもの要素も持ち、それでいて心が辛い子どもの要素も持った子ども達がいます。このような子どもは心が辛い子どもとして対応をした方が、それ以上その子どもを心が辛い子どもにすることなく、心が元気な子どもに変わってもらうことができます。

 よい子を演じている子ども達がいます。大人の目から見たら心が元気な子どもに見えますが、それは子どもが自分の辛さから逃れるために大人の前では心が元気な子どもの姿を演じているのであり、心の中が辛い子どもです。よい子を演じている子どもと気づかないで、よい子を演じている子どもに心が元気な状態の子どもの論理からの対応を行うと、よい子を演じている子どもは大人のいないところで問題行動を起こすようになります。だんだんよい子を演じられなくなって、絶えず心が辛い子どもになってしまいます。


$6 子どもから見た大人とは

 親以外の大人、例えば祖父母、親戚、教師、塾の教師、習い事の教師、近所の人、友達、その他の人について、子どもがどのように感じ反応するかを考えてみます。多くの子どもを観察してみますと、子どもは自分の親以外の人は単に自分を取り巻く人的な環境として反応しています。そこには子どもが母親に求めるような癒しの要素はありません。

 子どもの母親以外の大人がその子どもの親や母親の積もりになって対応をしてみても、自分の母親が存在しているかぎり、子どもは母親以外の人を母親として認めようとはしません。しかし子どもの母親が母親の機能をしていないときには、子どもは他の大人に母親の機能を求めます。

 学校の先生が子どもの親や母親になったつもりでクラスの生徒の対応をしても、子どもは自分の母親がいるかぎり母親とは認めません。ただし先生の場合、子どもは先生の後ろに母親の姿を見ています。子どもが先生と関わった結果は母親に伝えられ評価されますから、子どもは先生に特別な反応、よい子を演じる場合が多いです。

 父親が子どもに及ぼす影響はとても大きいです。元気な子どもは父親から大きなエネルギーをもらって、子どもが飛躍できます。心が辛い子どもは父親から強い恐怖を感じます。心が辛い子どもには大きな重石のような影響を父親は与えて、子どもを辛くして動けなくすることが多いです。基本的に心が辛い子どもは父親を回避しようとします。心が辛い子どもについて、基本的に父親は関わらない方がよいし、その姿すら見せない方がよい場合が多いです。

 母親が子どもの体や心の成長に及ぼす影響はとても大きいです。特に心が辛い子どもでは母親しかその辛い心を癒すことができません。心が辛い子どもは母親に守られて、母親に癒されて、エネルギーを貯めていき、元気な状態の子どもに変わっていけます。母親がいない心が辛い子どもについては、その子どもが自分の母親と認識する大人がどうしても必要になります。



第四章 心が辛い高校生年齢以上の若者

$1 若者の特徴

 若者とは思春期以後の人を指すこととします。思春期以後の若者は、見かけ上大人と区別ができません。しかし思考の心である脳の前頭前野の機能が完成したばかりで十分に機能をしていません。この事実があっても、心が元気な若者は大人と同じように考えて良く、大人への対応と同じで良いです。大人に求めることと同じことを若者に求めて良いです。心が辛いの若者では、その反応の仕方が子どもにとても近いです。子どもへの対応と同じ対応が必要な場合が多いです。

 思春期以後から二十歳代の若者では、前頭前野の機能が不十分です。心が辛い若者では大脳辺縁系が反応しやすくて、問題行動や病気の症状を出しやすいです。しかし若者が辛くなるような刺激から守られると、大脳辺縁系の自発的な何かを求める行動が働いて(心のエネルギーが湧いてきて)、自発的に、その若者なりの何かを求めて動き出します。その何かを求めて動き出す行動が、若者が辛くて苦しんでいる問題の解決にとても良い効果を与えます。

 三十歳代の若者では、若者が辛くなるようなことから守られたとしても、何かを求めて動き出す動きが弱くなっていきます(心のエネルギーが減少してきます)。四十歳代の若者では何かを求めて動き出す動きがより弱くなっていきます。年齢が高くなると自発的に何かを求めて動き出す動きが弱くなりますが、それに反して前頭前野の機能が強くなって、自分の意志で自分の行動を決めることが可能になります。大脳辺縁系から生じる辛さを、自分の意志で調節できるようになります。カウンセリングや作業療法の効果が期待できるようになっています。

 心が辛い若者を考えるとき、若者が置かれている環境と若者の関係を考える必要があります。思春期以後の心が辛い若者は親から学校に行くことを求められていますし、学校に行けないなら働くことを求められている場合が多いです。しかし現実には学校にも行けないし、働くこともできません。そのように親の期待に応えられないと認識することや、若者が知識として持っている、あるべき自分の姿として自分が持っている自分の姿と、現実の自分の姿の違いを認識することから、情動が葛藤状態になってしまいます。いわゆる自己否定を生じて一層辛くなっています。

 年齢が高くなると、学校に行くことを要求されなくなりますが、働くことをより強く要求されます。働くことを要求されなくても、自分で働かなければならないと感じて、実際に働けない自分を認識すると、情動が葛藤状態になってしまいます。その葛藤状態が、自己否定が、年長の若者を辛くする一番大きな要素になっています。

現実に心が辛い若者への対応を続けていますと、若者が辛くなった原因を見つけて解決しようとしたり、若者が言葉で訴える原因を解決しようとしても、若者を元気にできないことが分かります。それは若者を辛くする原因を見つけられないか、若者を辛くする原因を見つけたと思っても違っているからです。また、若者を辛くする原因が一つだけでない場合が多いので、一つの原因を解決しても他の原因が解決されないで残っているので、若者の辛さには変わりないからです。それよりも若者が陥っている葛藤状態、いわゆる自己否定をなくして、自己肯定感を持てるように対応をすると、若者が辛くなった原因を解決しなくても、若者がだんだん元気になっていくのが分かります。

 心が辛い若者の前頭前野が機能をし出したとき、若者が病識を持つと、対応が大変に難しくなります。解決が大変に難しくなります。病的な症状を出している若者の多くは病院で投薬などの治療を受けています。薬を飲むと自分の問題は解決すると信じるようになります。しかし薬は心の問題を解決しません。多くの薬は病的な症状を軽減するだけです。薬ではその病的な症状を出す原因を解決できません。病的な症状を出せば出す程、心が辛い若者は自己否定から病的な症状を強めてしまいます。自己否定から若者を守ろうとしないで、薬で症状を抑えようとするのですから、若者は元気になれません。若者の心が元気になる機会を失ってしまいます。たとえ薬で病的な症状が軽減しても、薬を止めたら元の症状が出てしまい、薬を止められなくなります。もちろん薬を飲みながら一生を過ごす生き方も間違いではないですが、飲む必要がなかった薬を飲み続け、その若者らしい心が元気な生き方を生きられないのですから、可能なら若者が納得する生き方をさせてあげたいです。

 参考までに、年代により心がどのように変わってくるのかをまとめてみます。

*幼児
 本能と真似と情動で反応し、行動をして、その経験が習慣化していきます。それが基本的な性格になります。

*思春期以前の子ども
 その時までに得た経験が習慣になって行動をするか、真似や感情からの反応や行動が全てです。知識からの行動はできないか大変に難しいです。

*若者
 その年齢までに身につけた知識や習慣で反応や行動をします。その際に生じる感情を抑えることができますが、大人程上手にできません。心が十分に穏やかなときには、心が元気な若者では、理性的な行動が可能です。しかし感情が強く働くと、理性的な行動ができなくなります。理性で感情を大人程上手に調節できませんから、大人と比較して感情からの反応や行動を起こしやすいです。特に普段から心が辛いの若者では、理性的な行動は大変に難しく、感情的な行動(情動行動)が大半になります。

*大人
 その年齢までに身につけた知識や習慣で反応や行動をして、その際に生じる感情を抑えることができます。理性的な行動が可能です。感情を抑えられないときには感情的になったと表現しています。感情的になることを大人げないと、否定的に考えます。


$2 心が辛い若者に大人が対応するとき

 大人は知識から、意識的な行動が可能です。大人が発する言葉通りに行動が可能です。この大人の心の機能を、若者も大人と同じように持っていると大人は考えがちです。大人と同じように、全ての若者は意識的に、理性的に行動が可能だと大人は考えています。

 心が元気な若者は大人の対応を受け入れて、若者なりの理性的な行動を可能にします。心が元気な若者への対応はそれでよいですが、心が辛い若者には、とても辛い対応になってしまいます。大人には若者が怠けているようにしか見えないですが、心が辛い若者はやっとの思いで自分を維持しています。大人からのいろいろな要求を伴った対応を、受け入れたいけれど受け入れる余裕がないから、受け入れられません。それだけでなく、大人からの要求を受け入れられないことで、心が辛い若者は葛藤状態になり、ますます心が辛くなってしまいます。大人の要求を受け入れられない自分を否定(自己否定)するようになります。

 参考のために、思春期以前の子どもの反応や行動の仕方に触れておきます。子どもは無意識に(潜在意識から)、本能や感情(情動)、真似からと、それまでの経験で習慣化した反応の仕方で反応し、行動しています。ですから理性的な行動は皆無に近いです。子どもの言葉は、子どもの持っている知識を表現しているだけで、その知識から反応したり、行動できません。子どもが持っている知識から行動をさせるには、子どもが喜ぶような報償をあげる(母親の喜び、物を与えるなど)か、子どもへ嫌悪刺激を与える(叱るなど)必要があります。

 心が辛い若者への対応を親や大人が行うとき、大人への対応と同じ対応をしてしまいます。その大人へと同じ対応は心が元気な若者の能力を高めますが、心が辛い若者では、若者をますます辛くしてしまいます。心が辛い若者への対応を行うときには、心が辛い子どもへの対応と同じような対応が必要になります。つまり言葉は心が辛い若者の知識を表しているだけで、言葉通りには行動ができないこと。情動から行動していから、大人について行う分析と同じ分析が当てはまらないこと。母親から心が辛い若者の心を癒す対応を受ける必要があることがあげられます。

 人はいつでも知的な行動、理性的な行動ができると考えられている理由に触れておきます。意識には陳述記憶が必要です。陳述記憶を持っているのは人間だけです。人は同時に色々な刺激を受けています。その内で意識に登った刺激が陳述記憶として記憶され、意識に登らなかったけれど、潜在意識で反応した刺激は反応記憶や情動記憶として記憶されます。人が反応しなかった刺激は、記憶に残りませんから、なかったと同じです。そこで人は意識に残った刺激(陳述記憶)が現実に経験したことであり、無意識に反応した刺激や全く反応しなかった刺激は無かったと考えてしまいます。また、自分の感情を自分の意識で調節して反応や行動をしていますから、全て意識的に反応し、行動していると、全て理性で解決できると考えてしまいます。けれど人の周囲には意識に登らなかった刺激がたくさんあります。人が意識した周囲の情報は、氷山の一角なのです。

高校生年齢の子ども
 もともと心が元気な高校生年齢の子どもは高校に行きます。高校に行くのが当たり前だと大人も子どもも考えているからです。学校が辛くて高校に行けなかった子どもの心が元気になった場合、高校へ行こうとする子ども、定時制高校や通信高校、予備校、専門学校に行こうとする子どもがいます。心が元気になった子どもは子どもの要求を満たしてあげてよいです。注意しなければならないことは、子どもが良い子を演じて学校に行こうとしようとする場合です。良い子を演じて学校に行った場合には、せっかく貯まりかけたエネルギーを浪費して強い、子どもの心をより辛くしてしまいます。フリースペースのような居場所に子どもが通う場合でも、その居場所に学校の要素があるか、子どもが良い子を演じているかなどで、その先子どもの心が元気になるか、ニート、フリーターの形で生きていくのか、又引きこもってしまうのか、子どもの将来が変わってきます。ただし、子どものニート、フリーター、引きこもりの生き方が悪いという意味ではないです。子どもの心のエネルギーという観点から、区別をしています。

大学生、大学生年齢以上の子ども
 この年齢の一番の問題点は、長い期間辛さに耐えてきて、大元の若者を辛くした刺激ではもう辛くならなくなっているのに、絶えず辛さがどこからともなく湧き上がってきて、若者は辛さに苦しんでいます。その原因の主な物は自己否定です。辛さと自己否定の悪循環を生じています。若者が自己否定に陥っていること、辛さで苦しんでいることを親は解決しようとしないで、親が若者をそのままそれでよいと認め続けると、若者は辛さと自己否定の悪循環を断ち切れます。子どもとして持っているエネルギーがどんどん貯まってきて、その若者なりに社会と関わろうとし出します。

三十歳以上の子ども
 この年代の若者への対応も大学生年齢の子どもへの対応と同じですが、若者の方で子どもとして持っているエネルギーが湧きにくいという事実があります。それはなかなか社会へ若者が出て行けない状況を作ります。その若者はすぐに社会に出ないで、家で生きていく方法(例えば自然を相手にした生活の仕方)を考えた方が、解決が早くなります。


$3 心が辛い若者が元気になるとは

 心が元気になるとは、今まで嫌悪刺激として回避行動を取っていたのが、その同一の刺激に対する反応が無くなる(嫌悪刺激が嫌悪刺激でなくなっている)か、有っても直ぐに消失する状態です。すなわち何かから逃げようとする反応が無くて、周囲から見ても素直な心で反応し、何かを求めて行動している姿です。見た目にも生き生きとした表情です。積極的な、自発的な行動が中心になります。しかし、生き生きとしているから、活動的だから、元気だといえない場合があります。それはよい子を演じている場合です。

 大人と違って、若者を含めた子どもは、嫌悪刺激がないと、それだけで元気になっていきます。心が辛い子どもは嫌悪刺激がないと心が楽になり、子どもの本能から心が元気になっていきます。基本的に心が辛い子どもを大人が元気にしようとする必要がありません。心が辛い子どもを元気にしようとすると、ほぼ間違いなく心が辛い子どもの心に沿わない対応をしてしまうので、かえって心が辛い子どもの元気を奪ってしまいます。

 大人ができる心が辛い子どもへの対応とは、心が辛い子どもをその子どもを辛くする嫌悪刺激から守ってあげる対応です。それだけで心が辛い子どもは心が楽になり、元気になります。見た目は心が元気な子どもと同じになります。しかし心が元気な子どもでは辛くならないもので、心が辛い子どもは辛くなってしまうという違いがあります。心が辛い子どもは、親によってその心を辛くする物から守られて、心が辛くならない生活を続けていますと、いつの間にかその心を辛くする物があっても、辛くならなくなってしまいます。その子どもにとって、嫌悪刺激がいつの間にか嫌悪刺激で無くなってしまいます。心が辛い子どもでなくなってしまいます。

 心が辛い子どもは、親によってその心を辛くする物から守られて、心が辛くならない生活をするだけでなく、その子どもとして楽しいこと(例えばゲームや漫画、テレビ、ビデオ、音楽、その他の趣味。常識的な親や大人は、子どもがこのような物に没頭すると、一生続くように考えますが、子どもは必ずこれらの楽しみから卒業をします。卒業しないときには、子どもがこれらの楽しみで十分に楽しみを得られない場合です。安心してこれらの楽しみに没頭できない場合です)に没頭していますと、子どもの心にエネルギーが貯まってきます。その子どもなりに何かしたい物ができてきます。その子どもなりに何かしたい物をしようとすることで、その子どもの嫌悪刺激が嫌悪刺激でなくなっていきます。その子どもなりに楽しいことに没頭することで、積極的に嫌悪刺激を無くすることができます。心が辛い子どもが、より早くその心を元気にできます。

 心が辛い若者が辛くなる原因の一番大きな物は”自己否定”です。現実の自分の姿と自分が期待する自分の姿との間に差が大きいと、それだけで葛藤状態になり辛くなります。辛くなるとますます自分が期待する姿から遠ざかりますから、ますます辛い自分を許せなくて、ますます葛藤状態になります。辛くなります。悪循環に入ってしまいます。心が辛い若者とはこの悪循環からの自己否定に陥っています。だから他人から見たら辛くなる原因が何もないのに若者が辛くなっていると思えます。

 心が辛い若者を元気にするには、若者が自己肯定感を持てるようにする必要があります。過去に若者を辛くした原因を解決しなくても、この自己否定の悪循環を断ち切るだけで、心が辛い若者は自己肯定感を持てて、心が元気になります。心が辛い若者の辛さを解決して、元気な大人にするには、この自己否定の問題を解決するが大切であり、一番の近道であり、全てであると言って大丈夫でしょう。

 心が辛い若者が、自分で自己否定の悪循環を断ち切るには、自己説得法がよいです。心が辛い自分をそれでよいと受け入れる自己説得をするのですが、ある程度年齢が進まないと難しいです。心が辛すぎて自己説得する余裕のない若者には無理な方法ですから、自己説得の効果を期待すると自己説得の効果がなくなります。

 心が辛い若者の辛さを解決しようとしないで、親、特に母親によって、心が辛い若者をそれでよいと認めようとする対応が一番効果的です。心が辛い若者は、心が辛いままでよいという母親の対応に、初めのうちは怒り出しますが、その内に心が辛い若者は心が楽になり、怒らなくなります。心が辛い若者でなくなります。自分の意志でその子どもなりに動き出します。子どもの周囲にある子どもを辛くした物についても、自分で解決して社会へ出て行きます。

 荒れて親を悩ませている若者でも、親は荒れて良いと子どもに言い続け、子どもを荒れるままにしておく必要があります。親、特に母親は荒れる子どもを抱きしめて、「辛いね」と辛さに共感する必要があります。そうすると子どもは荒れる必要が無くなり、落ち着いてきます。

 病気の症状を出している若者は、自分が病気だと思うことで楽になろうとします。親も子どもの出す症状が病気だと思うと楽になりますから、一生懸命若者に薬を飲まそうとします。病気だと思うことで楽になる、薬を飲むことで楽になることは事実です。現在の常識でも、病気の症状を出すと心の病気だと考えて、病院にかかり、薬を飲み出します。

 若者の辛さは自己否定を含めて、何かに反応して病気の症状を出しているのですから、自分を病気だと考えたり薬を飲むことは、心が辛い若者にとって何かに反応して病気の症状を出してはいけないという意味になります。何かに反応して病気の症状を出している若者自身を否定することになります。それは心を葛藤状態にして、新たな辛さの原因になります。心の辛さを解決できないことになりますし、薬を止められなくなります。


$4 若者がいつまで経っても働いてくれない

 年長の若者がいつまで経っても働かない(いわゆるニート)で、または自分の小遣い程度しか働かなくて(フリーター)、ゲームなどの親から見て享楽的な遊びに耽っていますと、両親に焦を生じます。自分たちの老後の生活が成り立たなくなるのではないかと心配します。両親は年齢を感じて、自分たちや若者の将来に不安を感じます。父親の定年が迫ってきています。または既に定年になって、収入が少なくなっています。その様な両親の不安が若者に伝わると、若者も焦りを感じるようになります。若者は自己否定をして辛くなります。その辛さを癒すために、ますますゲームなどの快楽に耽ってしまいます。

 現実に定年などで収入が減っても、家族はどうにか生活ができます。若者の心が落ち着いていたら、若者の方で無理な要求を親にしてきません。社会的には就職が難しくなってくる年齢ですが、その若者らしい仕事を見つけたり、自分で個人事業を起こして働くようになります。そればかりでなく親との関係がよいと、親の介護をしてくれます。一番安くて確実な介護を親は保証されたことになります。これほど親にとって安心なことはないですが、親はどうしても同年代の大人と比較してしまいます。

 親の多くは自分たちがいなくなったとき、子どもがホームレスになってしまうのではないかと心配します。年長の若者は親がいなくなったら自己否定をしなくなり楽になってきます。心が落ち着けば自分から何かをして働こうとします。働かなくても出費を控えて、生活を維持しようとします。親は年長の若者に何か仕事を見つけさせて働かそうとするのでなくて、自分から仕事を探そうとするまで、徹底的に家の中に引きこもらせて、好きな遊びをさせて、楽しませるのがよいです。無理をして働かせると、直ぐに仕事ができなくなるか、できてもフリーターのような働き方で、それ以上の発展性がありません。自分からもっと働こうとする意欲が湧いてきません。それこそ財産を使い果たして、ホームレスになってしまう可能性が出てきます。


$5 心が元気な若者と辛い若者の違い

 心が元気な若者は、大人の要求に若者が従うことができます。また、若者の方で社会に順応しようとしますから、大人の持つ知識から、常識から若者への対応が可能です。若者の方で大人を上手に利用して、成長をしていってくれます。

 心が辛い若者は、大人の目からは怠けているように見えます。心が辛い若者は、その現状で精一杯であり、それ以上のことができません。心が辛い若者を無理矢理に動かそう(学校に行かそうとする、働かそうとする)と、若者はよい子を演じるか、荒れるか、病気の症状を出します。心をますます辛くしてしまい動けなくなります。

 若者がよい子を演じたときは、若者は大人の要求を受け入れて行動をしますが、その行動はその時限りです。大人が居なくなったときには、若者は大人が求めたことの逆の行動をします。大人が若者を動かして習慣づけるには、要求と一緒に、要求することで生じる辛さ以上の喜びを若者に与える必要があります。現実に多くの心が辛い若者は、親や大人から大きな力で無理矢理に動かされ続けてきていますから、今の常識的な対応では、若者を動かして習慣づけることを期待できません。心が辛い若者は自分で納得して行動する必要があります。若者の本心に沿って動く必要があります。心が辛い若者でも若者にとって大きな喜びがあると、その分大人の要求を受け入れられて、行動し習慣づけることができます。


$6 心が辛い若者について、大人が陥りやすい間違い

 心が辛い若者について、常識上の間違いがあります。不登校、引きこもり、ニート、対人恐怖、忍耐力欠如、家庭内の荒れや暴力、犯罪行動、不良行為、自律神経症状、精神症状(いわゆる発達障害などを含む)などは、若者に問題があり、若者を矯正したり、治療をしなくてはならないと大人は考えます。また対応する機関や病院も、若者に問題があり、その問題を正そうと対応します。けれどこれらの若者の反応や行動は、若者が嫌悪刺激を受けて反応し、辛い状態にあると言う意味しか有りません。その際に若者が発する言葉は、若者がその言葉のように認識している、理解しているという意味であり、若者の本当の姿(本心)を現していません。若者の発する言葉通りに理解すると、大きな間違いになりやすいです。

 特に若者がこれらの症状を出すときには、若者が発する言葉の内容が重要ではなくて、若者が陥っている”辛さと自己否定の悪循環”、すなわち”辛くて何もできない自分を認識することでその様な自分を許せないで否定する(自己否定)。自分のあり方を否定するとますます辛くなってこれらの症状を出す”という悪循環に陥っていることが一番の重要な問題点です。若者がその時までに辛くなった大元の原因を解決する意味が無くなっています。

 若者の心が辛くなった原因を捜しても見つからないし、見つかったと思っても違っていることが多いし、また本当の原因が見つかったとしても、その原因を解決することに意味はなくて、若者が陥っている”辛さと自己否定の悪循環”を断ち切れるようにしてあげる、つまり自己肯定感を持てるように対応するのが、心が辛い若者を元気にする最も良い方法になります。

 心が辛い若者の多くは長い期間自己否定からの辛さに苦しんできています。ことあるごとに葛藤状態になり、自己否定をする性格を作り上げています。この自己否定をする性格は時間とともに強化されていきます。親の対応が良くなっても若者がなかなか元気になれない理由は、この習慣化からの性格の変化と固定化に起因します。年齢が高くなると習慣化した自己否定を自己肯定感に持って行くのは大変に難しくなります。


$7 なぜ心が辛い若者への対応に特別の注意が必要なのか

 心が辛いの若者を元気にするのは、大変に難しいです。常識からの対応が心が辛い若者を苦しめますし、常識とは逆の対応が効果的な場合が多いです。

 心が辛い若者にとって、辛さの原因の主な部分は若者自身が自己を否定をしていることから生じています。しかし若者自身も、親や周りの大人も、若者の過去のことに拘って、若者を辛くした原因を見つけて、その原因を解決して、若者を元気にしようとします。多くの場合、若者を辛くした原因を見つけられませんし、見つけられてもその原因を解決したと考えられても、若者は元気になりません。

 言葉は若者の持つ知識、自分や周囲の状況を観察してそれを表現(学校に行きたい、働きたい、友達が欲しい、嬉しい、辛い)しているのであり、必ずしも若者の本心を表現していません。若者の本心とはその若者の情動であり、それは潜在意識ですから、若者自身も知ることができません。心が辛い若者が一番苦しんでいる原因は、若者自身がありのままの自分を許せなくて、自分を否定していること(自己否定)から生じています。過去の辛い思い出を思い出す、めまいがしたりして体の調子が悪い、人に会うと苦しくなる、幻聴や幻覚があるなどの症状を解決しないと元気になれないように、多くの人は考えます。私の経験的には、心が辛い若者が自己否定をしているのに対して、自己肯定感を持たせてあげると、若者を辛くしている原因を解決しようとしなくても、心が辛い若者が元気になっていきます。


$8 心が辛い若者と母親

 子どもの本能として、子どもは母親に守られようとします。母親に無条件の依存を求めます。一方、母親は母性から、子どもを守ろうとします。無条件の依存を許そうとします。その事実から、哺乳類が地上に現れてから二億年以上、哺乳類は進化し続けて、人間が地球上に繁栄できています。しかし最近の人間は、知識から子どもへの対応を考える傾向が強いので、母性が機能しない場合があります。子どもが苦しんでいるのに母親が気づかなかったり、苦しんでいる子どもの姿を誤解してしまっている場合が有ります。母親の知識からの対応により、子どもが苦しむ原因になっています。

 心が辛い子どもが元気になるには、その辛くてどうにもできない心を母親によって癒される必要があります。それは母親の共感の言葉とスキンシップです。それ以外には子どもが求めた要求を100%叶えることです。それにより辛い心を母親で癒された子どもは、辛さが軽くなると自分から動き出します。そうなると母親は子どもを信頼して待つだけでよいです。

 この子どもへの母親の対応は、心が辛い若者にもそのまま当てはまります。心が辛い若者を元気にできるのは母親だけです。決して医者でも、カウンセラーでも、専門家でもありません。若者も自分を守ってくれる人を母親だけに求めます。決して母親以外の人に求めません。母親以外の人に対応を期待するときには、母親が母親の機能をしていない場合です。心の辛い若者が母親に対応を求めないと気付いたときには、母親は自分の対応を考え直して、若者から対応を期待されるような母親になる必要があります。


$9 心が辛い子どもの論理(心が辛い若者の場合)

 心が辛い若者は、絶えず辛さに晒されています。その原因は、若者を辛くする条件刺激(物の場合もあるけれど、若者が持っている知識が辛さを生じる条件刺激になっている)が身の回りに絶えずあるけれど、若者も周りの大人達もその事実に気づかないからです。心が辛い若者が一番苦しむのは、自己否定です。若者は自分があるべき姿をしっかりと持っています。しかし現実の自分がそれより大きく異なっていることを認識すると、「こんな自分ではだめだ」と自己否定を始めます。その際に葛藤状態になり、体の奥底から何とも癒えない辛さが沸いてきて、若者をますます自己否定状態にさせてしまいます。

 心が辛い若者が一番苦しむのは自己否定です。心が辛い若者を守るためには自己肯定感を親や周囲の大人が与える必要があります。自己肯定感を与えるために、心が辛い若者の全てを認める必要があります。常識から考えて明らかに間違っていても、心が辛い若者の言葉や行動をそれでよいと認める必要があります。それでよいと認めてあげると、若者はその”常識から考えて間違っていること”をしません。それでよいと認めないと、その”常識から考えて間違っていること”をしてしまいます。若者はますます辛い状態に追い込まれて解決から遠ざかってしまいます。この事実は常識に反しますが、心が辛い子どもには当てはまります。

 大人にはその様に思えませんが、心が辛い子どもは自分を維持することで精一杯です。心が辛い子どもは、大人の要求を受け入れる心の余裕はありません。心が辛い子どもは、人間と言うよりも哺乳類の子どもとして、反応を示し行動します。ですから、その対応はほ乳類の子どもの心に沿った物でなければなりません。この事実は子ども特有の心理であり、大人の持つ常識で理解できません。心が元気な子どものように、子どもの能力を伸ばす子育ては、心が辛い子どもにできません。子どもの辛い心を癒して、元気にする対応が最優先されます。母親は子どもの要求を可能な限り即座に、笑顔で、100%叶える必要があります。100%以上だと子どもが母親に依存をして、子どもが自立できなくなります。100%以下ですと子どもは母親に不信感を感じ続けます。

 基本的に心が辛い子どもは、辛さから逃げて、その子どもなりの成長をする必要があります。その子どもなりの成長とは、子どもにより千差万別です。どのような形で成長するのか、それは子どもに任せる必要があります。

 母親だけは子どもの辛さから子どもを守る必要があります。基本的に母親は子どもを守ればよいですが、子どもが辛いという症状を出しているときには、辛い子どもの心を母親が積極的に癒す(母親の共感とスキンシップ)必要があります。子どもはより早く元気になれます。あくまでも可能な範囲です。子どもが辛い症状を出さなくなって、子どもの心を積極的に癒す必要がなくなったら、母親は子どもを信頼して待つ必要があります。母親が子どもへの信頼感を伝えるには、

1、母親が子どもの姿を見ない
2、子どもが話しかけてこない限り、子どもに話しかけない
3、母親の笑顔

を実行する必要があります。この対応は一見子どもへの対応を放棄しているように思えますが、母親の笑顔がある限り、子どもは母親に信頼されていると理解します。子どもなりに何かを求めて動き出します。自分の心の辛さを自分で解決してくれます。子どもと母親との関係は、他人が子どもと母親の姿を見たとき、同じ屋根の下に住む他人同士のように感じるぐらいがよいです。

 心が辛い子どもへの対応が出来ないと感じる母親がいます。子どもの姿を見ると葛藤状態になって、その辛さに耐えきれないで、対応を放棄してしまう場合です。心が辛い子どもは無意識に母親に助けを求めていますから、母親が対応を放棄してしまうとますます母親に辛い行動や症状を出してしまいます。母親が医者や相談機関に子どもへの対応を委ねてしまっても、子どもは母親に助けを求めて、母親に辛い行動や症状を出し続けます。心が辛い子どもへの対応は、母親以外の代役は効果がありません。

 心が辛い子どもの姿を受け入れられなくなった母親がいます。母親自身が葛藤状態になって辛くなり、病的な症状を出してしまう場合があります。この場合の母親も辛さから自分を維持するので精一杯になっていて、母親が子どもの辛さを認められません。その時はまず母親の辛さを吐き出させてくれる親の会に参加するなり、カウンセリングを何回も行う必要があります。辛さを吐き出すことにより母親の心が楽になってくると、母親も子どもの辛さを理解できるようになります。母親が子どもを守ろうとし出します。