書き下ろし 子どもの心理
(大人の常識が間違いになる子どもの心の世界)
子どもの心分析師(心療内科医師) 赤沼侃史
$0 はじめに
人々は子ども達を秀でた人間に育てようとしています。マスコミも秀でた人間にスポットを当てて、その秀でた人間を賞賛した記事を書き続けます。人々もその秀でた人を自分たちの誇りのように扱う傾向があります。子どもを育てている親も、できたら社会に貢献できる大人を目指して、例え貢献できなくても生活が安定して、社会から非難されない大人を目指して子育てをしています。政府も法律を作り、多くの予算を投じて、優れた子どもが育つような環境作りをしていますし、大人が描く子どもの姿とは異なる子どもへの対策も、不十分ですがそれなりにしてきています。
そのような人々の努力にもかかわらず、人々が好ましいと思えないようなことをする子どもが依然として後を絶ちませんし、そればかりでなく、昔と異なった難しい問題が出てきています。それは子どもとして良い環境におかれてると人々が考えられる子どもについて、人々がびっくりするような問題行動や事件を起こすような子どもが出てきていますし、増えてきているような印象を受けます。そのような事件が起こると、人々はいろいろと原因や対処法を考えて、子ども達への対応を続けていますが、いっこうに子どもが起こす問題行動や事件が減っていないと指摘され続けています。
それだけ政府や子どもを研究している学者達などを含めた社会が子ども達のために努力しているのだから、問題行動や事件を起こす子ども達が出るはずがないというのが、社会の考え方のようです。問題行動や事件を子どもが起こしたときには、その問題行動や事件を起こした子どもが悪い、その子どもの親の子育てが悪いと、原因を問題行動や事件を起こした子どもやその親に求めています。そして子どもを矯正する、親への問題提示するだけで、終わってしまっています。子どもの事件が起きるたびに、同じ対応が取られて子どもの問題の解決になっていないことも指摘されていますが、それ以上のことがなされていません。現実にそれ以上のことができないのです。その理由を考えるのがこの本の目的です。
大人は子どもの時期を経て大人になっています。子どもだった時期の楽しかったこと、辛かったこと、自分の生き方の転機になったことなどを思い出すことができます。親は自分が子どもだった頃のことを思いだし、その記憶を参考にして子育てをしています。子どもの心を理解するときにも、自分が子どもだった頃の経験から、子どもの心を理解できると考えています。子どもが何か問題行動や事件を起こすと、大人の経験からその原因を考えて対処していきます。多くの大人は、この大人の経験から考えた原因や対処法に理解ができます。納得して子どもへの対応をしますが、その大人の経験から考えた原因や対処法に子ども達が納得できていないことを大人達は気づいていません。大人達が考えた原因や対処法に不満や反感を持つ子供達が多くなっています。その大人達への不満や反感が、新たな子ども達の問題行動や事件になっていることにも、大人達は気づいていません。
大人の体も心も、子どもの体や心を単純に延長した延長線上にあるのではないです。体に関しては思春期という体に大きな変化があるので、その体の変化がはっきりと目に見えるので、人は体という意味では大人と子どもと区別して考えることが可能です。ところが心に関しては、子どもの心と大人の心との違いが直接目に見えません。知識や運動能力などは年齢とともに増加していきます。この事実から、子どもの心はただ未熟なだけで、ただ能力が低いだけで、年齢とともに子どもの心は知識や運動能力を高めていって、成熟した大人の心になると考えています。子どもの心は知識や運動能力を高めさえすれば、大人の心になると考えています。子どもの心を大人と同じように扱ってあげることが、子どもの心を早く大人の心にする方法だと考えています。現在の学校教育はそれを目指しているようです。
私たちのように、極限状態の子ども達への対応をしていると、大人達が自分たちの経験から考える子どもの心とは、子ども達の心が大きく異なっていることに気がつきます。大人が子どもの心を理解していないけれど、子ども達が一生懸命大人の思いに合わせようとしている子どもの心がわかってきます。大人達が見ている子どもの姿とは、子どもが一生懸命大人の思いに自分を合わせようとして、合わせられているときの姿です。子どもの方では未だ余裕があって、大人の思いに子どもの心を合わせている姿を大人が見て、大人は子どもの心がわかっている、自分の子どもへの対応は間違っていないと判断しています。
子どもの方で大人の思いに子どもの心を合わせる余裕が無くなると、子どもは大人の思いを受け入れて行動しようとしてもできなくなります。大人の思いとは違った行動をするようになります。それは大人から見た問題行動になります。子どもが問題行動をしたと大人が判断したときには、大人はその子どもの問題行動を正そうとします。正そうとするという意味は、大人の思い通りに子どもを動かそうとすることです。しかし子どもは大人の思い通りに動く余裕がありません。大人の思い通りに動けない子どもに、大人が大人の思う通りに動くようにと要求しても、子どもはやはり大人の思う通りには動けません。多くの場合大人は大人の思い通りに動かない子どもを、恐怖を用いて子どもを動かそうとします。すると子どもは大人の思い通りには動けないけれど、恐怖を回避するために無理をして動きます。その子どもが恐怖を回避するために動いた姿を大人が見て、大人は正しいことをした、子どもはきちんと大人の思い通りに動けると判断します。けれど子どもは恐怖が無くなると大人の思い通りには動けなくなります。それどころか大人から受けた恐怖でますます辛くなり、ますます余裕が無くなって、ますます大人の思い通りには動けなくなります。大人はその子どもに正すべき問題があるから、大人の思い通りその子どもは動かないと判断するようになります。大人の思いと子どもの行動との間に悪循環を生じるようになります。
子どもと大人との間にしっかりとした信頼関係ができている場合には別ですが、多くの場合大人が見る子どもの姿は、大人の思いに子どもが自分自身を合わせて行動している(後に述べるよい子を演じている)姿か、大人の思いに子ども自身を合わせられなくなったための問題行動です。どちらにしても子ども自身の本当の姿ではないです。それなのに多くの大人は、大人の思いを受け入れて大人の思いに沿って行動する子どもを見て、子どもの心理を理解できたと主張しています。それが大人の間での常識になっています。しかし、子どもとしっかりとした信頼関係のある大人の前での子どもの姿、辛くて余裕がないときの子どもの姿、子ども達だけでいるときの子どもの姿、子ども一人でいるときの子どもの姿は、この大人の間で常識となっている子どもの姿とは大きく異なります。子ども本来の姿や心理は、大人が持っている常識とは大きく異なります。大人から見たら非常識な心理が子どもの本当の心理になっています。子どもの心理を知りたいなら、私たちは大人が持っている常識を捨てて、子どもの姿を素直に見て考える必要があります。
その非常識な子どもの心理として、大人の思いを子どもに伝える場合を考えてみます。多くの大人は言葉で子どもに大人の思いを伝えようとします。年長の子どもでは、言葉の上で大人の思いを理解できますが、その大人の思いで行動することはできません。幼い子どもでは、言葉の上でも大人の思いを理解することができません。子どもは言葉で伝えられた大人の思い通りに行動できません。もし、子どもが大人の思い通りの行動をしたとしたなら、そのとき子どもは大人の言葉と一緒に何かの喜びか、何かの恐怖を感じ取ったからです。その喜びとか恐怖を代償にして、子どもは大人の言葉通りに行動をしています。つまり、子どもは大人からの言葉を聞いたときに、子どもの心が作る情動(刺激を受けたとき体中に表現する反応の仕方。一種の感情)から行動をすることに、大人は気づく必要があります。
$1 ある少年
武広君は小学校五年生の男の子です。父親は公務員で、中学生の姉が居ます。武広君は学校が大好きで友達も多い、陽気なクラスの人気者と両親は説明しています。担任の教師から、授業中は落ち着いていなくて、いたずらを良くすると言われています。入学当初は担任から良く褒められていましたが、担任が替わった小学三年生の頃からそのように言われ始め現在に至っています。机にいたずら書きをしたり、同級生の鉛筆や消しゴム、ノートなどを隠したりしました。また、授業中周りの子どもに話しかけたり、整列をするときになかなか教師の指示を守らなかったりしていました。
担任の教師から、その都度注意が来るので、両親は武広君と何度も話し合ったのですが、武広君は下を向いて黙っているだけなので、多くの場合父親が激しく叱り、母親が父親をなだめて、武広君に「もうこれ以上しないように」と注意をして終わっていました。けれど武広君はすぐにまた教師から叱られることをしてしまいました。ある時などは友達の教科書にマジックでいたずら書きをしてしまいました。ある時は掃除の時に箒を振り回して、窓ガラスを割ってしまいました。その度に母親が学校に呼び出されて、タカヒロ君と一緒に注意を受けました。タカヒロ君はその場ではしっかりとした反省の言葉を言いますが、すぐにまた担任に叱られることをしてしまいます。
母親は男の子だし、反抗期も関係しているから仕方がないと思う反面、このままだと将来が心配だと思っていました。母親だけで武広君に注意をすると、カッと怒りだし、物を投げたり壊したり、壁やドアを壊したりしました。「クソババア」とか「おまえなんか死んじまえ!」「ばかやろ!」と言ったりしました。最近は武広の体が大きくなったせいか、!消えろ!担任の女性の教師から注意を受けると大声で怒鳴ったり、壁や机や椅子をけったりしています。学校内で問題児とされているようで、母親が校長から呼び出されたこともありました。そのようなときには父親が武広君を激しく叱りましたが、あまりに激しく叱るので武広君を守るために、母親が間に入らざるを得ませんでした。
そのような武広君ですが、クラス委員もやったことがあります。運動会では応援団長をしました。学芸会では積極的に主役を希望したりしました。そのような役をしているときは、とても普段の武広君が想像できないぐらいにまじめに役をこなし、積極的なリーダーシップも取ることができました。けれど一端そのような役目から離れると、すぐに教師から注意されるようなことをしてしまいます。母親はそのような武広君を育てていったらよいのか悩んでいました。父親からは武広君への育て方が悪いと言われ、母親はノイローゼ気味になっていました。
多くの人は、武広君の父親と同じように、母親の子育てが問題だと言っています。もっと厳しく育てるべきだと言っています。母親も母親なりに精一杯厳しく武広君をしつけして育てたつもりです。しかし現実は、武広君は学校で良い面と悪い面と両面を発揮して、人々の中には武広君は病気ではないかという人もいました。この武広君の心についての、武広君の立場からの説明は最後に行います。
$2 大人と違う子ども
$$1 子どもとは
私たちは大人、成人という言葉と区別して、子どもという言葉を使います。子どもという概念を必要とする理由は、大人と違う存在だからです。将来大人になるけれど、子どもは大人と同じに扱えない、大人と同じに扱ってはいけない存在だからです。子どもには大人の持つ常識が当てはまりません。子育てとは子どもの体を成熟させて大人になってもらうためにする大人の対応の他に、生きるための方法を教える、大人の持つ常識、大人が作った文化に子どもが従うようにする(教育する)という意味もあります。
子どもという言葉を使うとき、その子どもという言葉が持つ意味には次の四つがあります。
1.親から生まれたという関係。遺伝的な関係
これはわかりやすいと思います。親から生まれた子どもです。一生続く親から見た子の関係です。そこには遺伝子的な関係が存在しています。子どもの心という観点からでも、この親子関係の存在は子どもの心に大きな影響を与える場合があります。子どもの成長には信頼できる大人が必要です。その信頼できる大人として、子どもは本能的に自分を生んだ母親を選択するからです。
2.法律上の子ども
社会秩序を維持するために法律があります。その法律を幼い子どもは理解できませんから、幼い子どもに法律を当てはめることはかえって社会秩序を乱してしまいます。そこで法律ではわかりやすい年齢で大人と子どもとを区別しようとします。それが日本では20歳です。20歳で成人として扱われます。外国では国によって若干異なります。日本でも、法律によっては、または結婚しているという事実から20歳以下でも、子どもとして保護されないで、法律の適応を受けるものがあります。
養子、親権などと、法律上の親子関係もありますが、省略します。
3.肉体的な成長期にある子ども、性的成熟期前にある子ども
生まれ落ちてから、肉体的に、子どもは成長していきます。そして、思春期を迎えて、肉体的にも性的にも完成して、大人の体になります。生物的な大人になり、生物である人間としての自立が可能になり、子孫を残すことが可能になります。肉体的に成熟する時期と、性的に成熟する時期と、必ずしも等しくはないですが、一般的に同じ頃に成熟してきますから、大人から見て大人かどうかという判断はしやすいです。
4.心の成長期にある子ども
心という観点から、心の構造が未だ大人になっていないという意味での子どもです。この「子どもの心理」の中で子どもと表現したときには、この心の成長期にある子どもです。心の成長期を理解するには、次の四つの心を理解する必要があります。
$$2 四つの心
多くの人は自分の経験から、心とはこのようなものだと決めて議論をしています。つまり心というものが存在して、その心はこのようになっていると仮定して、その仮定から人間の行動を説明しています。心が人間の体とは独立した存在として考えています。精神世界を仮定して心の問題を考えるのが精神医学であり、多くの人が考えている心理学です。それを精神身体二元論といいます。
精神身体一元論があります。心とは脳の機能であるという考え方です。今まで十分に脳の機能が解明されていなかったので、現在精神身体一元論を信じる人は少ないです。ところが最近科学技術の発達で、脳科学という分野が急速に発達しました。脳科学で脳を直に調べられるようになり、脳の機能を直に画像にして見ることができるようになりました。子どもの心を理解するには、脳科学を用いた精神身体一元論から考えないと理解できません。脳科学的には心は次の四つの心から成り立っています。
思考の心・・・意識的な思考や行動を指令する心
反応の心・・・学習した行動の仕方が蓄えられている
知識の心・・・学習した記憶が蓄えられている
情動の心・・・感情を生じる心
注釈
脳科学的には、心とは脳の機能です。脳の内でも学習可能な脳について心を考えています。学習可能な脳としては大脳新皮質と大脳辺縁系です。脳幹は生命そのものといって良いと思います。大脳新皮質と大脳辺縁系はその機能から4つの部分に分けられます。
前頭前野・・・・・思考の心
知識の心の情報を利用して、認知した情報への反応を決める
(反射的な反応と、人間では意識的な反応=顕在意識がある)
運動連合野・・・反応の心
学習した、刺激への反応の仕方(学習した操作記憶)の情報が蓄えられている
(ほとんどが潜在意識の情報である)
感覚連合野・・・知識の心
学習した陳述記憶が蓄えられている
(主として顕在意識で利用されるが、潜在意識に属する場合もある)
大脳辺縁系・・・情動の心
情動反応(感情と考えて大きな間違いにならない)を起こす心
(潜在意識である)
今まで子どもという言葉を使ってきましたが、子どもと大人の違いは思考の心にあります。大人では意識的な判断や行動が大きな役割を果たします(思考判断)が、子どもではそれができないか、とても下手です。一応意識的な思考、判断に基づく反応や行動ができるのが大人であり、意識的な思考、判断ができないのが子どもであると考えられます。すなわち大人では知識の心の中にある情報と反応の心の中にある情報とを、意識的に結びつけて反応をすることができますが、子どもでは知識の心の中にある情報と反応の中にある情報とが既に連合している(前頭前野がその場所だと考えられる)場合には、知識の心の中の情報で反応や行動ができます(実際に子どもが自分で経験したこと)が、単に知識の心の中の情報だけ(知識として学んだこと)では、反応の心の中の情報を利用して反応や行動をすることができないという違いがあります。
また、子どもでは知識の心、反応の心の中の情報量が、大人の場合の知識の心や反応の心の中の情報量に比べて、少ないことが違いとしてあげられます。この知識の心、反応の心の情報量を増やすのが学習であり、また知識の心の中の情報と反応の心の中の情報を連合させるのも学習です。学校教育はこの目的のためにあるのですが、現在の学校での多くの時間は、知識の心の中の情報を増やすことだけを目的としていて、反応の心の情報量を増やすことも目的としてはいますが、そのための努力はなされていません。また、知識の心の中の情報と、反応の心の中の情報を連合(これも学習ですが)させることにはほとんど努力が払われていません。
知識の心と反応の心との関係を示す良い例に言葉があります。言葉は知識の心の情報から発せられます。言葉とその言葉による反応の仕方が連合していますと、言葉から反射的に行動が可能です。しかし、言葉に対する反応の仕方を学習していないと、言葉から反射的に行動ができません。しかし、大人では言葉を意識的にいろいろと分析して、その結果から意識的に行動することが可能ですが、子どもではそれができないから、混乱を起こしてしまいます。
知識の心は、物心が付いた頃より構造的には大人になっていますが、その中に存在する情報量はほとんどないので、成長の過程でその情報量を増やしていきます。その情報量を増やすことには際限がありません。この心は、たぶんいわゆる老化が始まるまで情報量を増やしていくのではないかと推定しています。学校では主として知識の心の情報量を増やそうとしています。勉学や経験が知識の心の情報量を増やしていきます。
反応の心は生まれ落ちてからまもなく、大人に近い構造になっていると思います。生まれ落ちてから間もなくて、情報量を増やしていきます。この心も、たぶんいわゆる老化が始まるまで情報量を増やしていくのではないかと推定しています。学校では実技がこの心の情報量を増やしていきます。日上生活の生活の仕方は、この心の中の情報です。体の動きという経験が、この心の情報になります。
情動の心は、子どもが自我を主張しだした幼年期に既に完成していて、大人も子どもも同じ機能を持っています。そして情動の心の中の情報は生まれたときからすぐ側にいる人から模倣という形で取り入れて蓄積していき、同一文化を共有する人たちの間ではほとんど同じだと言って良いです。、子どもが自我を主張しだした幼年期には完成していて、それ以後変化をすることはないと考えて間違いありません。
思考の心は、その構造が大人と同じになるには思春期ぐらいまでかかるようです。前頭前野が大人の心としてその機能を十分に発揮するのには思春期ぐらいまでかかることが推定されますし、現実に子どもが大人になって、その心が十分に大人と同じように機能するには、思春期を超えなければなりません。
また、思考の心が構造的に大人になっても、その機能が大人と同じ機能になるには、ある時間がかかります。それも人によって大きく異なるようですが、場合によっては20代の後半までかかる場合もあるように観察されます。この前頭前野の構造的な成熟と、機能的な成熟に時間的な遅れを生じる理由は、前頭前野に限っては、その構造的な成熟の後に、その前頭前野を使って、その個体に属する文化に適するように機能する練習期間が必要だからであろうと推定されます。ですから、前頭前野が成熟しても、その前頭前野を社会生活に使うように訓練していない人は、とても子どもっぽく(刺激に単純に反応してしまう。反射的に反応してしまう)感じられますし、前頭前野を社会的に使うように訓練した人は、大人っぽく(思考過程がしっかり感じられる)感じられる人になります。理性的な人になります。
心の問題を扱うには、この思考の心が成熟しているかどうか、成熟していても、日常生活に適応できるように訓練されているかどうかを、念頭に置いて考える必要があります。心という場合の子どもは、この思考の心が完成していても、日常生活ができるように十分にはまだ訓練されていない場合も、入ります。この状態の子どもは、思考の心で、情動の心を制御することが十分にできていません。
$$3 心という観点からの子どもと大人の違い
人間の場合、心に関しては、大人と子どもと大きな違いがあります。その違いの一つとして、情報の心の心の中の情報量、反応の心の中の情報量の違いがあることは、多くの人は理解できると思います。情報の心、反応の心の中の情報量は、その個体の経験の量により決まるからです。経験が多いほど、経験の機会が多いほど、これらの心の中の情報量は増えていきます。また、人為的に増やすのが、学校教育です。
人間の場合、心に関して、大人と子どもと大きな違いは、思考の心、前頭前野の機能の違いが大きいです。子どもでは、前頭前野の機能が、不十分で大人と同じように機能していないです。どの機能が不十分なのか、その点を脳科学的に解明することは現時点ではできません。そこで子どもを観察し続けた経験から、判断することになります。経験的には、子どもは大人と違って、情動の心を思考の心で調節できないという事実があります。子どもは情動行動が非常に多くて、その生じた情動行動を意識的に調節することができないか、とても下手です。
顕在意識と潜在意識という観点から大人と子どもとの違いを述べておきます。意識とは何かという問題がありますが、その議論はさしおいて、意識というものがあるとしておきます。大人の日常生活は、それまでの経験から習慣化した行動や反応で反射的に無意識に行われています。そして習慣化した行動や反応で好ましくないときには意識が働いて、状況や今までの知識から新たな行動を選択して行動をします。つまり日常の生活の多くは潜在意識からの反応であり、必要に応じて顕在意識からの反応となります。人は主として顕在意識の部分しか陳述記憶(意識的に思い出せる記憶)に残りませんから、大人はいつも自分は顕在意識から、意識的に行動していると判断しています。
子どもも日常生活の多くは習慣化した行動や反応から反射的に無意識に行われます。そして習慣化した反応や行動で好ましくないときには、意識的な行動ができないかとても下手なので、親や大人に助けを求めて解決することになります。つまり子どもの日常生活の殆ど全ては潜在意識からの反応であり、顕在意識からの反応はほとんど無い、しようとしてもできないという大人との違いがあります。
$$4 生物としての子ども
子どもは大人を小さく、未熟にしただけのものではありません。確かに、ある年齢までの子どもは、見かけ上、体は大人より小さく、大人より未熟な部分を持っています。けれど、ある年齢を超えると、子どもでも見かけ上、体が親より大きくなる場合もあり、大人顔負けの能力を発揮する場合もあります。それでも子どもは自分の親を親だと認識し、親は自分の子どもを子どもだと認識しています。
大人は、特に自分の子どもを可愛いと感じます。大人は可愛いと感じる子どもを、ペットや家畜、草花のように可愛がります。けれど、人間の子どもはペットや家畜、草花とは違います。ペットや家畜や草花のように、いつまでも大人に可愛がられたり、守られたりし続けられないです。それは成長すると、親や大人達と同等の大人にならなければならないからです。大人として自立した人間にならなければならないからです。現在の大人が次の世代を託さなくてはならない人間だからです。やがて現在の大人が逆に依存をしなければならない存在だからです。過去の事例は別として、子ども時代をペットや家畜や草花のように(過保護に、過干渉に)育てられて、子どもの自主性が育てられなかった大人が、現在の社会に不適応を起こしている事例を、私たちは現実に数多く見ることができます。
人は「ペットを家族の一員のように扱う」と言います。けれどペットは家族に従属した動物であり、絶えず家族に従順でなければなりません。それに対して、子どもは子どもが主体性を持って家族に属しています。いかなる時もペットは子どもにも従順である必要がありますが、子どもはペットや親に従順である必要がありません。子どもは家族の中や子どもの集団の中で、社会に順応して大人になるための経験をしていますから、時には自分を主張(自己主張)するために、親や子どもの集団のリーダーに逆らうこともあります。また、時には、親や子どもの集団のリーダーに逆らってまで自分を主張することが、子どもが大人になるために重要な経験でもあります。それはペットには絶対に許されないことです。ペットは家族の一員として扱えるように、徹底的に不必要な自己主張をしないように育てられ、子どもは親が許せる範囲で自己主張するように育てられます。成長と共にペットの自己主張は段々制限され、子どもの自己主張は段々広く認められて、最終的には親と同じ自己主張が認められるようになりますし、認められなければなりません。
私たちは子どもの心理が大人の心理と同じように考えがちです。子どもの心理の延長上に大人の心理があり、大人の心理を時間的に逆にたどっていけば、子どもの心理にたどり着けると考えがちです。ところが、子どもを考えるときには、子ども特有の心理(完成した脳の機能、完成中の脳の機能、まだ働いていない脳の機能)に注目しなければなりません。そして、この子ども特有の心理は大人になると忘れられてしまうという事実にも、注目しなければなりません。大人が子どものことを考えるとき、自分の子どもの頃を思い出して、自分の子どもの頃の経験を当てはめて、子どもの立場になっていると考えてしまいます。この場合、大人が子どもの立場に立っていると思っても、大人はすでに子どもの心を忘れてしまっていますから、子どもの立場に立っているのではなくて、大人の立場に立っていることになります。大人の立場から子どもを思いやっているだけで、子どもの立場からではありません。
生物としての子どもの心を考えた場合、親や教師、その他の子どもを取り巻く環境が育てた(子どもが学習させられた)部分と、子ども自身が育てた(学習した)部分とがあります。親や教師やその子どもを取り巻く環境が育てられる心の部分と、親でも、その他の大人でも、その子どもを取り巻く環境からでも育てられなくて、子ども自身が親やその他の大人や自分の周囲の環境に、主体的に関わって育っていく心の部分とがあります。また、親や教師やその他の子どもを取り巻く環境から育てられた心の部分には、親や教師やその他の子どもを取り巻く環境が育てた心の部分と、子どもの主体性を無視したために、子どもの心が傷ついた心の部分とがあります。
一般的な傾向として、親やその他の大人達や子どもを取り巻く環境が育てた子どもの心の部分は、親や大人達にはわかりやすい傾向がありますが、子ども自身が主体的に関わって作り上げた子どもの心の部分は、親を含めた大人達には分かりにくいものになっています。親やその他の大人達や子どもを取り巻く環境が育てるのに失敗した(傷ついた)子どもの心の部分は、現在の大人達には全く理解できなくて、大人達から子どもの心に問題があると考えられがちです。そのような心は病気だと考えられたり、そのような心を矯正しなければならないと考えられていて、大人達はそのような子どもを病院に連れて行って治療をしようとしたり、矯正しようとしたりします。そのような子ども達は子ども達の主体性に反した、より辛い関わりを大人達から受けることになります。
このように、親やその他の大人達から見て、その子どもの心(その子どもらしさ)には三つの部分があって、親やその他の大人達がその子どもを育てたのだから、大人達が子ども達をわかっている積もりになっていても、実際にはわかっていないという原因になっています。一般論として、特に子ども自身が育てていくその子どもの心の部分が、その人らしさを形成する(クローンでも他人であることの由縁)要因になっています。親や教師などのその他の大人達が子ども達を大人達の思うように育てようとしてもできない理由はここにあります。親や教師などの大人達の思うように育てたつもりが、実際には大人達の思うように子どもが育っていない理由がここにあります。親や教師などの大人達の思うように子どもを育てても良いのですが、それだけでは不十分な理由はここにあります。子ども達の心は、親や教師達などの大人が育てた心からだけでできているのではないです。
$$5 子どもの持つ本能
子どもは大人と違って、子ども特有の傾向(本能)を持っています。それを科学的に証明することは、現在の所できていませんか、きっと可能だと思います。多くの登校拒否、不登校、引きこもりの子どもたちを観察していて、すべての子どもに共通する傾向があります。また、その子ども特有の傾向は、ほ乳類でも見られ、特に類人猿の子どもと人間と似共通しています。それを箇条書きしてみます。
1.成長する(母親に信頼されている必要)
これはどなたも同意できると思います。子どもが肉体的に成長する際に、母親に信頼されて、母親に支えられている必要があります。母親がいない場合には、母親と子どもが認識する人に支えられている必要があります。これがないと心の成長が社会に順応できなくなり、時には肉体的な成長も不十分になります。
2.与えられた環境に順応しようとする
これは子どもが置かれた環境に順応するように子どもは成長するという意味です。両親の作る家庭に、その外にある日本文化に、順応するように成長します。決して与えられた環境に逆らうようには成長しません。もし、子どもが与えられた環境に逆らうように見えたら、それは何らかの理由で、子どもが辛い状態にあり、環境に順応しようとしてもできないという意味です。この事実は子どもの成長にとって、とても大切なことです。大人は気づいていませんが、子どもは与えられた環境に順応するように成長を続けます。
3.自然に湧き出すエネルギーが大きい
エネルギーとは意欲、動機がなくても何かをしたがる自然発生的な行動です。自分の周囲を探索する、何かに挑戦しようとする傾向です。子どもには何もしないでじっとしていることが多変に難しいです。何もすることがないと何かをしたがります。逆に子どもが何もしないでじっとしているときには、子どもが何もしないでじっとしていなければならない何らかの理由があるという意味になります。現在の日本社会では子どもにじっとすること、大人の話を何もしないで聞くことが要求されますが、それは子どもの元来あるべき姿を無視した対応なのです。
4.新しいもの(刺激)を求める
子どもは自分のしていることに満足すると、次の何かを求めます。今まで経験したことのないような物を求めて動き出します。今まで経験していたことでは飽き足らなくなります。自然発生的なエネルギーから、自分の経験しなかったことに挑戦して、挑戦に失敗すると、母親の元に戻り、自分の辛さを癒して、また新たに挑戦していきます。挑戦して成功すると、その事柄を習得して、克服して、次の新しい物に挑戦していきます。ですから、子どもがある状態に止まって動こうとしないときには、子どもには何か動けない原因がある、動けない理由があるということになります。
5.習慣化していない
子どもは今まで経験してきたことには習慣化していますが、または習慣化を続けますが、子どもの経験量は大人と比べて少ないです。子どもの経験していないことを一生懸命(夢中で)経験しようとする、経験を続けています。子どもが小さければ小さい程、子どもの行っていることは習慣化していないから、失敗も多いし、場合によってはとてつもなくすばらしいことをすることになります。子どもは、今まで経験していないことを経験して、それにその子どもなりに今までの経験に基づいて反応し、その結果をその子どもの中に生じる情動で評価して、生じた情動が接近系なら習慣化していって、生じた情動が回避系だと放棄していったりします。
6.優しい。特に、母親が喜ぶのが好き
子どもは与えられた環境に順応しようとして成長します。ですから与えられた環境を受け入れようとします。与えられた環境に優しく反応をします。特に環境として大切な母親については、子どもはとても優しいです。自分の生命と同等に大切にしようとします。ですから、母親の情動を受け入れようとしますし、母親の情動に従って反応をしようとします。
7.刺激に素直に、精一杯、反応して行動する
子どもは与えられた環境に順応使用して成長しようとします。それもできるだけ早く順応する必要があるので、子どもの能力の限りを用いて反応しています。その際に、大人のような理性を使用しません。与えられた環境から受ける刺激に対して生じる情動、与えられた環境から受けた刺激に反応した結果生じた情動に従って、反応し、行動しています。
8.知識からの行動が大変に難しい
子どもは与えられた環境に順応して成長しています。環境への反応は自分の中に生じた情動に従って行動しています。それは大人のような過去の経験を思い出して、分析して、結果を予測して、意識的に決めているのではありません。単に受けた刺激により生じた情動に従って、反応を反射的に選択して、行動しています。大人が子どもに、「よく考えてしなさい」というような、大人と同じ思考判断を求めますが、子どもは特殊な場合を除いて思考判断を大変に苦手としています。子どもが思考判断をしているように見えるときは、子どもが過去の経験を思い出して、その内でもより接近系の情動を生じる経験を行っているだけです。
9.子どもの集団を好む
子どもはその本能として子どもの集団を好みます。子どもの集団の中でその子どもなりの挑戦と経験を続けて、いろいろな社会生活に必要な能力を身につけていきます。そして辛くなったときには母親の元に帰って辛い心を癒してから、また子どもの集団の中に入っていき、その子どもなりの挑戦を繰り返します。
10.動物での反応が当てはまりやすい
子どもの心は動物の心にとても近いです。動物と違って人間の子どもは言葉を話し、大人と情報の交換をすることができますが、それ以外の子どもの心の機能は、動物の心にとても近いので、動物から得られた心の機能が、人間の心の機能によく当てはまります。それが思春期を過ぎて大人になると、人間は前頭前野の機能が優勢になって、人間的な心に急激に変化をしていきます。ただし、人間としては連続していますから、大人は子どもの時の心を思い出せる、子どもの心を理解できると判断します。大人が子どもの心を理解したつもりでも、それはあくまでも大人の立場からの子どもの心の理解であり、子どもの心は大人になったら、忘れ去られています。大人は自分が子どもであった頃を思い出して子どもを理解するのではなく、動物の心を参考にして、子どもの心を理解すべきです。
$$6 子どもの立場に立つ、子どもの心の沿うとは
子どもは大人と違って、大人のような自発的意識的な行動や反応は少ないです。多くの行動は反応の心からの反応か、情動の心からの反応です。したがって、子どもの示す反応や、情動を素直に理解して考えることが、子どもの心に沿うことになります。生物としての子どもの心を理解して考える(脳科学的に考える)必要があります。
子どもは与えられた環境に順応して成長をしようとするから、失敗はあるかも知れないが、環境に対して悪いことをしないことを意味します。もし、子どもが悪いことをしたと大人が判断した場合には、その子どもは失敗をしたのであり、失敗を失敗だと子どもに知らせることで、子どもはその失敗を繰り返さなくなります。
子どもには自然に湧き出すエネルギーが大きいという事実から、子どもはいつまでも同じ状態に止まっていないことを意味しています。たとえば、多くの親が心配することですが、子どもが不登校になったり、引きこもりになったりした場合、子どもはいつまでも不登校になりっぱなし、引きこもりっぱなしになることはない事になります。もし、子どもが不登校になりっぱなし、引きこもりになりっぱなしでいたなら、そこには子どもが不登校を続けなければならない、引きこもりを続けなければならない理由がある事になり、その理由を見つけて解決する必要があります。
子どもが新しいもの(刺激)を求めるという事実は、子どもには必ず進歩があることを意味しています。それは子どもが親の価値観に止まっていれない、その子ども特有の価値観を作り上げていき、それが親の価値観と違って良いことになります。
子どもは経験が少ないですから、子どものすることの多くは習慣化していないという特徴があります。習慣化していないと言うことは、することが上手でないと言うことになり、失敗も多いです。その結果として、思わぬ事をする。思わぬ方向に向かって動いてしまうことを意味します。
子どもはとても優しいです。特に、母親が喜ぶのが好きです。それは、子どもは親が喜ぶことを積極的に自分からすることになります。
子どもは刺激にすぐに、素直に、精一杯、反応して行動するという特徴があります。ですから、子どもには怠けやずるはないことになります。また、行動する前によく考えろと、子どもに言っても、それは無理な要求であることが言えます。
子どもは知識からの行動が大変に難しいです。経験していないことをすることは大変に下手です。子どもは経験していないことを失敗することで、うまくできるようになります。それは子どもは、親の思うようには動けないことがあると言う意味になります。子どもは意識から情動を調節することが出来ないか、大人と違って大変に下手です。
これらの事実をすべてに優先して認めて、その上で子どものことを考えることが、子どもの立場に立つ、子どもの心に沿うことになります。
$$7 思春期以前の子どもの人権
人権とは人間の間での約束事です。一人一人の人間を大切にすると言う考え方から、人間が考え出した物です。人間のあり方も、身体的な状態、心(脳)の状態により、変わります。身体も心も成熟した大人、身体は成熟しているが心は未だ成熟していない思春期以後の子ども、身体も心も成熟していない思春期以前の子どもと分けて考える必要があります。そして、これらの区別もはっきりとできる物ではありませんから、当然、これらの時期には重なり合うところがあります。
子どもの人権を考えるときの子どもとは何かの問題があります。その問題は大変に難しいでしょう。ここでは思春期以前の子どもの人権について考えてみます。この時期の子どもの特徴として、
1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない
の、三つがあげられます。
子どもの時期は親に守られて、自然淘汰に耐えうる肉体と、自然淘汰に耐えうる永久記憶を作り上げていく時期です。その子どもの内に作り上げられた肉体や永久記憶(知識)の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。これらの前記の三つの特徴は、子どもが大人に守られない限り、自然淘汰を受けやすいことを意味しています(ただし、現代の人間文明の発達により、生命を失うという形での淘汰のされ方は少なくなりましたが、心を失うという形での淘汰は以前より多く存在しています)。これらの特徴は互いに関係しあっていますから、これらの特徴を一つ一つ分けて考えることは大変に難しいです。また、これらの特徴があることによって、大人の人権とは違っていますし、違った考え方が必要です。それをあえて行ってみます。
1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
=成長
これは子どもの本能です。肉体的な欲求を含めて、子ども特有の情動反応です。情動反応ですから、潜在意識であり、私たちは子どもを観察することから知ることができます。また、他の動物にも共通していますから、他の動物で実験をすることで、より詳しく知ることが可能です。
人間を含めて全ての哺乳類は、与えられた環境に順応するように成長しようとします。人間の場合、大人が意識的にそれを阻害しようとする場合があります。それも、子どもの幸福のためと大人が考えて、子どもによかれと考えて、子どもの成長しようとする意欲を奪い去る場合があります。その現れの一つの形として、子どもの登校拒否、不登校、引きこもりと言われているものがあります。親の子供への虐待も、この子供の成長する意欲を奪う物であると考えられます。
2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
=依存
子供は自分の成長に必要なものを自分で得ることは原則としてできません。できたとしてもとてもそれには大きな危険を伴います。淘汰される可能性が極めて高くなります。子供が危険を回避して淘汰されないためには、大人によって子供は危険から守られる必要があります。また、子供も大人によって本能的に(情動から)守られようとします。
以前の社会や、物質的に貧しい社会では、家族の生活を維持するための物質的な欲望から、子どもの成長に配慮をしない子どもへの対応がなされる場合がありましたし、現実にもあります。子どもの立場から言うなら、物質的に不足していても、子どもの成長をしようとする意欲を保証してあげた方が良いです。子どもの成長の程度によっても異なりますが、子どもに必要最低限の物質が与えられて、子どもの肉体的な成長が保証されれば、その他の物質的な不足、経験の不足、能力の不足の問題は子どもの方で解決していきます。
3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない
=子どもらしさである反射的な行動
大人と子供との心の構造の違いを認めることにあります。それは子どもらしさを認めると言う意味にもなります。すなわち、人間を含めて動物の受けた刺激やそれに対しての反応は、全て脳の中に記憶されます。その記憶は強化されない限り、時間とともに消失していきます(一時記憶)。強い情動反応を伴った記憶や、強化された(繰り返し同じ情報が使われる)記憶は永久記憶となり、それ以後その記憶を利用することが出来ます。
子どもの時期は親に守られて、この永久記憶(学校の勉強を含めて)を作り上げていく時期です。それは大人も同じですが、子供の場合そのときまでにできあがった永久記憶から反射的に反応して行動します。それに対して、大人はしっかりとできあがっているいろいろな永久記憶を組み合わせたり、加工したりして新たな記憶情報を作り、その記憶情報から行動すること(思考行動)ができますが、子供にはそれが原則としてできません。子供が大人になったら、この獲得した永久記憶を選択したり、加工したりしてできあがった記憶情報から行動をするようになります。その永久記憶の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。
つまり子供は大脳辺縁系に存在する情動記憶と、大脳新皮質にある陳述記憶と操作記憶から、反射的に行動するのに対して、大人は情動記憶からの反射的な行動を押さえて、大脳新皮質にある操作記憶と、その大人なりに加工した陳述記憶から行動するという違いがあります。子供の場合、情動記憶からの行動を外力で押さえつけると、暴力的な反応を示すか、神経症状や精神症状などの病的な症状を出して、とてもつらい状態になってしまいます。
大人側からみた思春期以前の子供の人権を守るとは、子供たちの尊厳を守るとは、成長の保証、依存の保証、反射的な行動の保証を大人が与えることでしょう。これらのどれかが阻害されると、子供は心に傷を帯びる(ストレス条件反射を学習する)ことになります。一端できた心の傷を完全に治すことは、心の傷が疼かなくするのは大変に難しいです。不可能に近いです。子どもの人権を守るためには、成長、依存、反射的な行動を保証するように心がけ、子どもの心に回復が不可能な、不可能に近い心の傷を付けないことではないかと思います。ただし、子供の人権をある程度傷害(回復可能な心の傷を子供の心に帯びさる)して、それを子供がその傷害を完全に回復できたなら、それは子供にストレスについての耐性をつけることになり、条件次第(心の傷が完全に癒えたなら)では好ましいことになります。ただし、回復可能な程度の子供の人権の傷害なのか、子供の心の傷が完全に癒えたのかどうか、それは個々の子ども次第です。子供の成長の度合いや環境によっても異なります。子供の行動や表情をよく観察して、子供の潜在意識を正確に判断する必要があります。
$3 子どもの辛さ(恐怖の学習)
$$1 心の傷の概念
私たちは日常生活の中で、「心が傷つけられた」、「心が傷ついた」、「心に傷がある」と表現します。この「心が傷つけられた」という言葉を分析してみると、嫌な思いをさせられた、辛い思いをさせられた、という意味になっています。つまり嫌な刺激を受けた、辛い刺激を受けた、恐怖刺激を受けたという意味です。「心が傷ついた」とは、辛い刺激を受けた結果、現在は辛いという意味です。「心に傷がある」とは、辛かった経験を思い出すと、未だに辛くなるという意味です。いわゆるフラッシュバックの軽度な物を指しているようです。
この日常生活で使っている「心が傷つけられた」、「心が傷ついた」、「心に傷がある」とは、同一の事件について、その事件を経験した人が辛くなる場合です。このこと自体は嫌な刺激を受けたこと、辛い刺激を受けた結果辛い状態が続くこと、辛いことを思い出すと辛くなると言う単なる嫌悪刺激に対する反応と、その嫌悪刺激の記憶についての話です。敢えて体の傷に相当する、心の傷を持ち出さなくても理解できることです。
しかし、人間も生物であり、人間の心はほ乳類と共通の要素をたくさん持っています。嫌な刺激、辛い刺激、恐怖刺激を受けると、恐怖の条件刺激を学習しているはずです。その恐怖の条件刺激の役割を、私たちは日常生活の中で全く配慮していません。恐怖の条件刺激という概念を生活の中に持ち込もうとしていません。恐怖の条件反射という概念を生活の中に持ち込もうとしていません。
恐怖の条件反射を「心の傷」と理解したとき、辛い経験をしたこととは別のことで辛くなると言う、まさに病的な状況を想像させる物になります。恐怖の条件反射とは、病的と書きましたが決して病気ではなくて、神経生理学的な神経反応です。そして、子どもの心の問題を考えるときには、この心の傷を念頭に置いて考えることがとても大切です。
$$2 「心の傷」と登校拒否、不登校
「心が傷つく」とは、子どもが学校でとても辛い経験をしたことを指します。たとえば教師から体罰を受けたとか、同級生から酷いいじめを受けたとか、賊が学校に侵入して、その人から危害を受けたとかです。その際に、その子どもはその子どもの周囲にあった何かに恐怖の条件刺激を学習しています。それが学校という建物であり、学校という概念でもあった場合が現実にはとても多いです。
この「心が傷つく」場合、辛い経験をさせた先生や同級生、賊を思い出すと、そのときの情景が思い出され、当人は辛くなります。それは単に辛い経験で、その辛さが特に辛いときには、フラッシュバックといいます。登校拒否、不登校の子どもでは、自分を辛くした先生や同級生、賊を思い出してもそれほど辛くはなりません。辛くなる人もいますが、その場合には登校拒否、不登校というより、フラッシュバックとしての問題点を考えることになります。
登校拒否、不登校の場合、学校内での恐怖体験により心に傷ができます。恐怖体験を思い出すことで、そのときの辛さを思い出すことを、フラッシュバックといいます。登校拒否、不登校の場合、フラッシュバックはあまり意味を持ちません。
恐怖体験により、他の人では何でもない物、学校に対して恐怖を感じるようになっています。その他の人では何でもない物、学校に対して恐怖を表現することを、心の傷が疼くと表現でします。この他の人では何でもない学校に反応して恐怖を反応する仕組みを、「心の傷」と表現できます。つまり恐怖の条件反射を「心の傷」と定義できます。
「心の傷」とは、他の人では何でもない物に、「心の傷」を持っている人は反応して辛くなるところに意味があります。他の人では何でもない物が、恐怖刺激になっていることに意味があります。だから傷と表現できます。
登校拒否、不登校の場合、他の人では何でもない学校という刺激に、子どもが反応して恐怖を表現して辛くなるから、その子ども以外の人には、なぜその子どもが辛くなるのか分からないところに意味があります。心の傷が疼いている状態です。
登校拒否、不登校の子どもの場合、子どもに学校という刺激を与えると、子どもにより程度の差がありますが、瞬間的に表情が変わり、瞬間的にいろいろな反応や症状を出し始めます。そして、学校という刺激を取り除くと、割と短い時間で表情が明るくなり、いろいろな反応や症状が消失します。
$$3 心の傷を体の傷に対比
人の体に傷を付ける物は刃物です。刃物でなくても、尖った物、又は鋭利な物、または体の組織を破壊する大きな力です。それらを代表して刃物が体に傷つける物として表現しておきます。
人の心に傷を付ける物は嫌悪刺激です。誰かから嫌な思いをさせられる、何かの事件に巻き込まれて恐怖刺激を受ける、自分で嫌だったことを思い出して、辛くなる場合の辛い思いでなどです。
体に傷を付けられますと、血が出て痛みを感じます。出血が酷かったり、痛みが強すぎると、それに伴ったいろいろな症状が出ます。気を失ったり、痛みから動けなくなったりします。
心に傷を付けられますと、それだけで辛くなります。辛さから暴れたり、不適応行動をしたりします。周囲に対して問題行動をします。また、神経症状や精神症状を出します。
傷についての痛みは生得的な感覚のようです。それに対して辛さとは、内臓の反応の仕方をいっているようです。内臓の反応の仕方や動きが生理的でないときに、それを人の言葉で辛いと表現するような感覚を生じているようです。痛みと違って、刺激に内臓が反応することで、その反応した内臓の状況を辛さと表現される感覚を作っているようです。
体が傷つけられた場合、体に傷ができ、出血をして痛みを感じますが、心の傷の場合、心が傷つけられると、その人の周囲にあった物に反応する心の傷ができます。体の傷の場合、受傷当初は傷があることだけで痛みを感じています。その痛みも時間がたつと薄らいでいきます。ところが心の傷ができたときの辛さは、心の傷を付けた嫌悪刺激がなくなると、割と早期に消失します。ただし、その心の傷を付けた物を思い出したときには、心の辛さは続きます。
傷が痛む、傷が疼くという場合の理解がとても大切です。体に傷がある場合、その傷の側にその傷を作った刃物があっても、傷は痛んだり、疼いたりしません。ただ、傷を持っている当人がその刃物を見たときには、傷を受けた際に学習した恐怖の条件反射から、刃物に恐怖を感じます。刃物に気づかなければ、当人は恐怖を感じません。
体の傷が疼く場合とは、傷が何かで刺激される場合です。何かある物が傷触れることで、体の傷は疼きます。それは刃物とは違った物でよいです。たとえば手が触れるなどの刺激で傷が疼きます。刃物が体の傷に触れたら、その刃物が傷を刺激するという形で傷を疼かすことができます。刃物が新たな傷を作らない限り、体の傷を疼かす他の物と同じ意味合いでしかありません。そして、体の傷が何かで刺激されて疼いたときには、その刺激がなくなると、しばらくして傷の疼きもなくなります。
心に傷を付けた恐怖刺激に出くわしたときには、その恐怖から心の傷が深くなり、恐怖刺激に敏感になっていきます。心の傷を付けられたときと同じような恐怖を表現します。それは単に恐怖刺激への反応の仕方にしか過ぎません。その反応の仕方がきわめて強いとき、それがいわゆるフラッシュバックという形です。
心の傷を疼かす物は、心の傷を受けたときに、そのとき周囲にあった何かある物です。例えば登校拒否、不登校の場合、学校や教師などです。学校でいじめを受けたときには、いじめた当事者や、体罰やいじめがあった学校などです。何かの事件に巻き込まれて死ぬような思いをしたときには、その事件の関係者や、その事件の時の様子などです。
心の傷を疼かす物は、一般的に、普通の人では何でもない物か、かえって嬉しい物です。それが心に傷を持った人では、心の傷を疼かせます。恐怖の症状を出します。心の傷を疼かす物に出くわしたとき、普通の人では何でもないかうれしくなる物で、心の傷が疼く人は辛くなり、その心の傷を疼かす物から逃げようとしますし、逃げられないと暴れます。それもできないときにはいろいろな神経症状や精神症状を出します。
体の傷に包帯をすることを考えます。体の傷を治療するとは、体の傷が治癒する条件をよくして、体の傷が治癒するために悪い条件を取り除くことです。体の傷にいろいろと治療しても、それはからの傷が自然に治癒することを助けているだけで、根本的な体の傷の治癒は、体の傷が自分の能力で治癒するのを待っているだけです。その際に、体の傷に包帯をするということは、体の傷に外から刺激が加わらない、体の傷が外部からの何かで、疼かないようにしているだけです。体の傷が外部から刺激されて、傷が疼き、傷の治癒が遅れるのを防ぐだけです。
心の傷に包帯をするということは、心の傷が外からの刺激で疼くのを防ぎ、心の傷が治癒が遅れるのを防ぐという意味です。人為的に心の傷を治す方法はありません。心の傷も自然治癒しかありません。心の傷が自然治癒するのを待つ間、心の傷が外からの刺激で疼き治癒が遅れるのを防ぐために、心の傷に包帯をすることを考えなければなりません。
心の傷の具体的な包帯の仕方は、心の傷を疼かす刺激をさける対応をすることです。たとえを登校拒否、不登校にとるなら、登校拒否、不登校の子どもの心の傷を疼かすものは学校であり、学校に関するものです。この登校拒否、不登校の子どもの心の傷を疼かす学校や学校に関するものを、登校刺激と表現することにします。そうすると、登校拒否、不登校の子どもの心の傷に包帯をするということは、登校拒否、不登校の子どもに登校刺激をしないことになります。
ここの傷を治癒させる方法は自然治癒しかありません。深い心の傷はその治癒までに長い時間がかかります。何年もかかります。浅い心の傷の治癒はとても短い時間で大丈夫です。心の傷を治癒させるには、心の傷が浅いうちに心の傷に包帯をして、心の傷を早期に治癒させることが大切です。また、心の傷が浅いうちに治癒させたなら、その後その心の傷を付けた嫌悪刺激に新たに遭遇しても、又心の傷が付きにくいという性質も念頭に置いておく必要があります。いわゆる免疫作用です。
$$4 恐怖と相乗効果、慣れ
心に傷を付けた恐怖刺激に新たに出くわすと、また恐怖状態になります。その際に、最初に心に傷を付けた恐怖刺激に出くわしたときよりも、強く恐怖を生じますし、同時に強く恐怖の条件刺激を学習します。つまり、恐怖刺激を感じる閾値が低下します。同じ恐怖刺激でも、恐怖を強く感じ、恐怖を強く表現します。恐怖刺激としての機能がより強く作用します。”恐怖刺激には”相乗効果”があります。
その恐怖の”相乗効果”の度合いは、もちろん恐怖刺激の強さにもよりますが、恐怖刺激と次に来る恐怖刺激との時間的な間隔にも影響を受けます。時間的間隔が短ければ短いほど恐怖の相乗効果は強くなり、長ければ長いほど、恐怖の相乗効果は弱くなります。
あまり知られていないことですが、恐怖刺激についてとても大切なことがあります。それは”恐怖刺激には慣れがない”ことです。多くの大人は、恐怖刺激を受けた事による恐怖状態を意志で調節して、恐怖状態を乗り切ることができますから、恐怖を自分の意志で乗り切ることを主張する人、何回も恐怖刺激を受けていればそのうちに恐怖刺激になれてしまうと考えているようです。ところが子どもは自分の意志で恐怖状態を調節できません。子どもは人間以外の動物と同じで、恐怖状態を自分の意志で調節できませんし、恐怖刺激に慣れることはできないばかりか、恐怖刺激にはだんだん強く反応するようになります。
これらの恐怖刺激についての事実は恐怖の条件刺激にも当てはまります。心の傷を疼かす物は恐怖の条件刺激ですから、心の傷を疼かす物には、心の傷を疼かす物を経験すればするほど、心の傷は疼きやすくなります。それを心の傷が深くなると表現しても良いと思います。
$$5 子どもが辛い状態になったときの反応の仕方
子ども(大人でもかなり当てはまりますが)が責められたり、心の傷が疼いて辛くなったとき、どのような対応の仕方をするかを考えてみます。誰か人から嫌悪刺激(恐怖の条件刺激を含めた恐怖刺激)を受けたときの反応のしかたです。
その辛い人から、辛い場所から安全な場所に逃げて、その辛い人の所に、辛い場所に行かない、という反応をします。この時点でその辛い人から、辛い場所から安全な場所に逃げられたなら、子どもは時間をおいて、辛い人、辛い場所に再挑戦するようになります。
辛い人や場所から逃げられないとき、こどもはよい子を演じるようになります。よい子を演じながら、その辛さを解消するために、何かで遊ぶようになります。学校のような遊びが制限されている場所では、子どもは他の子どもを利用して遊ぶようになります。それがいじめに繋がります。多くの大人はいじめは悪だ、なくさなければならないと主張しますが、いじめる子どもも大人の被害者であることに気づく必要があります。大人が辛い状態の子どもの心を癒そうとしない限り、いじめはなくなりません。
辛い人から、辛い場所から安全な場所に逃げられないとき、子どもは残された場所である町に逃げて、遊ぶようになります。多くの大人は、町中に群れて遊んでいる、または一人時間を過ごしている子どもたちを見ることになります。多くの大人はこの子どもの姿を批判しますが、子どもの立場から言うなら、辛い場所から逃げるところがないから、仕方がなく町に逃げているのです。子どもたちは好きこのんで町の中をさまよっているのではないです。
町の中で遊んでも辛さが癒されないときには、子どもたちは暴走行為、不法行為、盗み、不良性行為、薬物などの不良行為をするようになります。
安全な場所にも、町にも逃げられない子どもは、辛さを癒されない子どもは、辛いと暴れます。暴れる場所は辛くなった場所です。学校内で辛くなった場合には校内暴力や学級崩壊の原因になります。家庭で暴れると、家庭内暴力になります。
上記の子どもの行動がすべて大人の力で押さえつけられたとき、子どもはいろいろな神経症状、精神症状を出すようになります。大人から見て病気の症状を出します。親や大人たちは病気ではないかと考えて、子どもを病院に連れて行きます。医者は症状から子どもに病気があるかどうかを判断しますから、恐怖から神経症状や精神症状などの病的症状を出すことを知らない医者は病気として検査や治療を始めます。医者からの薬を飲んでも、子どもが恐怖刺激にさらされていることには変わりはありません。子どもはいろいろな病的症状を出し続けます。病的症状を出せばそれに従って薬が増えます。
多くの大人は、登校拒否、不登校の子どもを考えるとき、親や子ども自身に問題があると考えます。しかしそれは違います。子どもは単に恐怖刺激にさらされているだけです。恐怖刺激から逃れようとしているだけです。学校に問題があるから、問題のない家庭に、または学校よりは問題のない家庭に、逃げてきています。家庭にも問題がある場合には、子どもは町の中に逃げていきます。そしてその子どもが受ける恐怖刺激とは、登校拒否、不登校の場合、学校を恐怖の条件刺激として学習させられた、恐怖の条件反射として生じています。
$$6 子どもが辛くなったときの症状
心の傷はあっても、疼かなければ何の反応もしません。ただ、心の傷を疼かす物に出会ったとき、心の傷は疼き出します。心の傷を持っている人に大きな影響を与えます。心に傷を付けた物はその子どもにとっての恐怖、嫌悪刺激です。心に傷を付ける物に出くわしても、それから逃げられたら、心の傷は受けないか、受けても軽く済みます。
心に傷を付ける物から逃げられないときには、その辛さから、暴れたり攻撃したりします。暴れたり攻撃することで、受ける心の傷を可能な限り少なくしようとします。暴れたり攻撃しても、心に傷を付ける物から逃げられないときには、人はその辛さからいろいろな神経症状や精神症状を出して、病気のようになってしまいます。
心の傷を疼かす物も、心の傷を持っている人には恐怖刺激です。けれど心の傷を持っていない人には恐怖刺激でないので、心の傷を持っていない人は、心の傷を疼かす物を与え続けても、少しも悪いことをしているとは感じません。また、心に傷を持っている人も、自分の心の傷を疼かす物が恐怖刺激だと気づいていない場合があります。そのような場合には、心の傷を疼かす物から逃げようとしない場合もあります。
学校で疼く心の傷を持った子供について、心の傷の症状を説明します。いわゆる登校拒否、不登校の子どもについてです。その子ども達の心の傷を疼かす物は学校ですから、学校で疼く心の傷を持っている子供は無意識に学校から逃げ出そうとします。その姿が、登校拒否、不登校の子どもの姿です。
しかし、多くの大人は学校が子どもの心の傷を疼かす物になっているとは気がつきません。学校に子どもが行けないのは子どもがかわいそう、子どもの将来のためにと考えて、子どもの心の傷を疼かす学校という刺激を子どもに与え続けます。その親や教師の対応で、子どもは心の傷を疼かす学校という刺激から逃げられなくなります。そのとき子どもは暴れて壁や家具を壊したり、親に殴りかかってきたりします。学校内で心の傷が疼いたときには学校内暴力や学級崩壊を起こします。
けれど子どもの力は大人の力で押さえつけられます。子どもは暴れることすら許されなくなります。そのときには、子どもはいろいろな病的症状を出すようになります。いわゆる自律神経失調症、鬱病、統合失調症などと医師で診断されるような症状です。いくら医者がこのような診断を下したとしても、それは間違いです。単に子どもが心の傷を疼かす物から逃げられなくて、これらの病気のような症状を出しているだけです。これらの子どもをいわゆる安全な場所に避難させてあげて、その子どもなりの成長を待てば、心の傷が癒えてきて、これらの病的症状を出さなくなります。病気としての治療はいらないと言うよりも、病気として治療をしてはいけないという意味です。
@鬱状態と鬱病
ストレス刺激を受け続けて、その結果気分の落ち込み、活力の低下を生じる状態を鬱状態と言います。鬱状態には、人を鬱状態にするに値するストレス刺激を見つけることができます。鬱病と鬱状態と症状の上では区別が不可能です。客観的な諸検査でも区別が不可能です。ただ、鬱状態でも鬱が重症化すると鬱病とされているようです。
私の経験する限り、鬱病と診断されて来る患者の全てに、鬱の状態になる理由が見つかります。その理由とは、常識ではとても人が苦しむような物ではないです。普通の人では何でもない、時には喜びに相当する物で、鬱病といわれている人は苦しんでいることがわかりした。
心の傷、脳科学的には恐怖の条件反射は、心の傷を疼かす物、恐怖の条件刺激に遭遇すると、いろいろな症状を出し、その心の傷を疼かす物、恐怖の条件刺激に遭遇し続けて逃げられないときに、鬱の症状を出し、鬱状態になっています。この心の傷を疼かす物、恐怖の条件刺激は、普通の人では何でもない物か、かえって喜びに属する物で、普通の人ではそのために苦しんだり、恐怖を感じたりする物ではないです。ですから、心の傷が疼いている人に、その心の傷を疼かす物を与え続けてしまいます。
場合によっては、鬱状態で苦しんでいる人に、その人を救うために、その人のために、その心の傷を疼かす物を与え続けています。そのために、鬱状態の人はますます鬱状態を悪化させていきます。その様子を見ている人たちは、何でもない物で辛くなる人、かえって喜びを感じる物で辛くなる人を見て、この人はおかしい、この人は病気であると判断するようになります。
鬱状態で苦しんでいる人も、他の人では何でもない物、他の人では嬉しくなる物で、自分が辛くなります。他の人では何でもない物、他の人では嬉しくなる物が自分を苦しめているとは考えられません。そのような自分がおかしい、そのような自分が病気だ、そのような自分は生きている価値がないというように判断して、自己否定に陥るようになります。
鬱病といわれている人のかなりの数の人は、医者や他の人たちが恐怖の原因ではないと判断する物に反応して、鬱の症状を出しています。その結果鬱病と診断されて治療を受けています。少なくとも若い人、20歳代またはそれ以下の若い人たちが出す鬱の症状は、他の人では恐怖だと感じられない物で、恐怖を感じて鬱の症状を出しています。鬱状態です。決して鬱病ではないです。
@心の傷と自律神経失調症、起立性調節障害
心の傷(恐怖の条件反射)は心の傷を疼かすもの(恐怖の条件刺激)に出くわすと、心の傷が疼き、心の傷を疼かすものから逃げ出したり、逃げられないときには暴れたり攻撃したりします。暴れたり攻撃できないときにはいろいろな症状、神経症状や精神症状を出します。
不登校、引きこもりの子ども達を観察していると、子ども達は頭痛、関節痛、肩こり、手足のしびれやだるさ、冷えや火照り、めまい、立ちくらみ、動悸、息切れ、腹痛、下痢、吐き気、嘔吐、微熱、呼吸困難、倦怠感、無力感、食欲不振、不眠、などをしきりと訴えます。それらの症状の出かた、それらの症状の組み合わせ、その経過にはには不自然さが見られます。それらの症状や経過は自律神経失調症そのものです。また、不登校、引きこもりの子ども達の中には、自律神経失調症、起立性調節障害という診断の元に、治療を受けている子ども達もいます。
これらの症状を出す不登校の子ども達を、登校刺激のない(親や大人は登校刺激をしていないつもりでも、子どもが登校刺激を感じている場合が多い)、安全な場所に避難させると、これらの症状が短期間に無くなることがわかります。決して病気ではなくて、何かに反応して生じている症状、心の傷を疼かすものに反応して生じている症状であることがわかります。引きこもりの子ども達についても、登校刺激や社会に出なくてはならないという刺激から子どもを守り、子どものすることをすべて認めるような対応を取ると、これらの症状は短期間になくなります。
これらの事実だけで一般化できませんが、私の経験する限り、20歳代以下の子ども達には、自律神経失調症や起立調節障害という病気はないようです。自律神経失調症や起立性調節障害と診断を受けた子ども達は、全て心の傷が疼いたから出していた症状です。親や医師が症状の原因だと考えられないようなものに反応して、それらの診断を受けるような症状を出していただけでした。医者が心の傷、恐怖の条件反射を理解して対応すれば、必要ない治療を受けなくて済んだ子ども達です。必要ない症状に苦しみ続けなくて済んだ子ども達です。大切な青春を無駄に過ごさなくて済んだ子ども達です。
登校拒否、不登校、引きこもりの子ども達へ対応をしていると、いろいろな症状で苦しんでいる子ども達に出くわします。その例として自律神経失調症や起立性調節障害です。それ以外にも低血糖、高血糖、不眠症、過敏性大腸炎、鬱病、統合失調症、解離性人格障害、と診断された子ども達です。私の経験する限り、これらの子ども達の症状は、全て心の傷の疼きから生じていました。これらの症状を出す子ども達を、私で言う安全な場所に隔離すると、これらの症状が消えて、極普通の子どもとして成長が可能でした。
心の傷が疼いたとき、その症状はきわめて多岐に及んでいます。普通の大人では予想もつかないこと、想像もできないことで、子ども達は心の傷を疼かせて、医者から見たら病気の症状を出して苦しんでいます。大人や医者から見て、原因がないと考えられても、大人や医者から見て、原因と考えられないことが、子ども達の心の傷を疼かせて、いろいろな症状を出し、医者はそれを病気として治療を行っています。病気の治療を行っても、症状は改善することはあっても、根本的な解決にならないのは、原因が他にあり、その原因から子どもを守っていないからです。
子ども自身も、自分の症状がどのような原因で生じているのか分かりません。大人の言うこと、医者の言うことを信じざるを得ません。また、理由の分からない自分の辛さが病気だと説明されると、やっぱり病気から自分は苦しんでいると信じてしまいます。一生懸命病気の治療を受けます。それは子どもが苦しんでいる原因の間違った転化になります。子どもが一生懸命治療を受けても、根本的な解決はないです。いくら一生懸命治療を受けても解決しない自分の辛さが続き、年齢が進むに連れて、焦りを生じます。自分は駄目な人間だ、生きていく価値がない人間だと判断するようになり、いわゆる自己否定を生じるようになります。
子どもが心の傷の疼きで苦しんでいて、いろいろな症状を出しています。その子どもを医者は症状から、所見から診断しています。医者としては医学常識に沿って診断治療をしていても、医者として誠意を込めて子どもを救おうとしていても、子どもの心を駄目にしている、子どもの人生を駄目にしていることになります。それが医者の責任とは現段階の医学常識からは言えませんが、道義的には子どもに対して、子どもの人権を侵害していることになります。現在、医者は心の傷を脳科学の立場から理解する必要があります。心の傷を脳科学から理解することが、医学常識になる必要があります。
$$7 よい子を演じる
人間を含めて動物が恐怖を感じると、その動物は逃げる、攻撃する(暴れる)、すくむ、のどれかの反応を示します。ところが人間では、特に頭の良い人では、「よい子を演じる」という、恐怖刺激への回避法を行います。よい子を演じるとは、仮面をかぶると表現する人もいます。その「よい子を演じる」という恐怖刺激の回避法は、子どもを一生懸命よい子に育てようとする家庭の子どもに見られやすく、子どもの日々の学習結果から生じています。特に少子化した現在では、子どもたちがよい子を演じる場合が多くて、親や教師や医者が子どもたちが辛い状態にある事実を見落とす原因になっています。
学校で教師が子どもに強いストレス刺激を与える(教師は子どものためと思って子どもに恐怖刺激を与えていますが、子どもはその教師の思いを理解しません。単純に恐怖刺激として受け取ります)と、子どもは程度の差はありますが、その教師から逃げ出そうとします。逃げ出せないときには、暴れます。暴れられないときには、いろいろな神経症状や精神症状を出します。程度の差があることを注意してください。周囲から見ても気づかない場合もあります。
子どもの場合、これらの反応をしないで、所謂良い子を演じる場合があります。傾向として、前述のように、良い子であるようにと親から育てられ、繰り返し対応されている子どもにその傾向が強いです。よい子を演じること自体は、それが教師からの恐怖刺激を回避でき、子どももよい子を演じることに無理がない限り、よい子を演じた後にそれなりの代償が得られたなら、問題ないことです。時にはよい子を演じ続けられて、そのまま大人になったときには、よい子を演じることが習慣化されて、表面的にはとても几帳面な良い人になる場合が多いです。子どもがよい子を演じることの理解として、「子どもに恐怖を与える人が、恐怖を与える必要のない子どもであると判断するように、その恐怖を与えようとする人の希望する姿を、行動を、子どもの習慣の心から反射的にしてしまう」となります。潜在意識からの回避行動と考えられます。
よい子を演じる子どもは、よい子を演じなくて良い状況では、よい子を演じません。よい子を演じることに無理があるときには、よい子を演じなくて良いときには、よい子の逆な行動をしてしまう場合があります。反社会的行動をしやすいです。これも子どもを観察した結果の、子どもの傾向です。脳科学的な説明はできません。
よい子を演じる子どもは先生や親の前ではとても行儀正しいです。模範すぎるぐらいによい子です。成績も良い場合が多いです。先生のお気に入りの子どもになります。けれど、先生や親のいないところでは、しばしば、程度の差がありますが、反社会的行動、不適応行動をとります。いじめ、物を壊す、万引きをする、などを行います。よい子を演じている子どもについて、親や先生から見たら、とてもいじめを起こすとは考えられません。その結果、先生やよい子を演じている子どもの親、大人たちは、いじめられている子どもに問題があると考えてしまいます。また、よい子を演じている子どもが反社会的な行動、問題行動を起こしたとき、なぜその子どもがそのような反社会的行動、問題行動を起こしたのか、全く理解できません。「あの子どもがなぜ?」で終わってしまい、学校が、親が子どもに恐怖刺激を与えて子どもによい子を演じさせ続けていたことには全く気づきません。
人間誰でも、自分で見聞きしたことを信じます。自分で経験しないことを信じられません。子どもがよい子を演じてしまうと、周囲の大人はことの本質が分からなくなります。ですから、科学的に考えなければならないのです。登校拒否、不登校、引きこもり問題に関わる人たちの中には、子育ての経験のない人、不登校の子どもを育てた経験のない人が結構多いです。そのような人は自分の経験の範囲で、自分の知識から、この問題を考えます。そのような人には、登校拒否、不登校、引きこもりの子どもの理解は大変に難しいです。それでいて、登校拒否、不登校、引きこもりを良く知っていると主張しています。
親や教師などの大人たちから見て、子どもがよい子だと判断されるときには、子どもが本当によい子に育っている場合と、子どもが何かの辛さからよい子を演じている場合があります。子どもが本当によい子に育っていても、家庭の中では自然体で行動します。子どもは子ども本能から、いろいろと目新しい物(新規刺激)に挑戦し、失敗もして、親から怒られることもします。ですから、家庭内で子どもがとてもよい子であるなら、その子どもは家庭内でよい子を演じている可能性が高いです。家庭内で子どもが苦しんでいる可能性があります。
教師は子どもから見たら他人ですし、成績をつけたり、子どもの管理をしますから、子どもはよい子を演じている場合が多いです。子どもが自然体で教師と関わる場合は、本当によい子か、よい子を演じ続けられなくなった子どもの場合です。つまり、子どもは教師の前では程度の差はあっても、よい子を演じていて、また、よい子を演じることを学校内では要求されています。教師は普段、子どもたちがよい子を演じている姿を見て、子どもを評価しています。成績をつけています。教師の目の前でよい子を演じている子どもの姿を(表の姿)、子どもの本当の姿だと信じて疑いません。子どもの本当の姿は教師の目の届かないところで見られて(裏の姿)います。それは子どもによっては大きく異なる場合があります。
子どもが大きな事件を起こしたとき、「学校ではそのような様子はなかった、そのようなことをする子どもでなかった」という教師が多いです。それは子どもがよい子を演じている姿しか教師が見ていないからです。辛い状態の子どもは、教師の目の届かないところでその辛さを解消(嫌悪刺激に対して攻撃をする、暴れる)しようとします。大人から見たら問題行動をしてしまう場合があります。
よい子を演じる子どもは記憶力の高い、いわゆる頭の良い子どもです。今までの知識から、上手に相手の思いを理解して、その思いに沿った反応や行動をしてしまいます。勉強なども一生懸命して、とても良い成績を取る子どももいます。けれどそれは恐怖などからの回避行動であり、周囲の大人たちからはそのようには見えなくても、子どもとしてはとても辛い状態にあります。そのうちに限界が来る場合があります。それは突然勉強や学校を放棄した姿に見えますが、実際はよい子を演じ続けて、続けられなくなった姿、辛さに耐え続けて、耐えきれなくなった姿なのです。
子どもがよい子を演じ続けるには、どこかでその辛さを解消する必要があります。それは家庭です。母親の側です。家庭で辛さを解消して、母親に癒されて、子どもは翌日に、辛い学校に行ってよい子を演じ続けることができます。そしてよい子を演じたその結果が、習慣化して、大人になってもよい子を演じていたときに身につけた反応や行動を行うことができます。しつけの行き届いた大人になります。ところが家庭で母親が学校に協力して、子どもに辛さを与え続けたなら、子どもは教師の目の届かないところで、学校の外で、家庭の外で、その辛さを解消しようとします。それ自体は子どもの自然な行動ですが、時に大人から見て問題行動になる場合があります。事件になる場合もあります。
子どもがよい子を演じているかどうかを判断する方法が必要です。少なくとも教師の前の子どもの姿は多かれ少なかれ、子どもがよい子を演じている姿です。子どもがよい子を演じているかどうかの判断として
子どもがよい子過ぎると判断されるとき
子どもが何か問題行動をしているという噂があるとき
子どもに裏表があると感じられるとき
などがあります。繰り返しますが、子どもがよい子を演じること自体は決して悪いことではないです。子どもが成長するためにはよい子を演じた方がよい場合があります。ただし、よい子を演じている子どもは、その見かけとは反対に、とても辛い状態になりますから、その辛さを解消できるような対応が必ず必要だという事実です。また、何かで辛い状態にある子どもについては、よい子を演じ続けることは大変に難しいという事実もあります。
$$8 安全な場所
日常生活の中では、社会生活をしている中では、どうしても嫌なことに出くわします。特に現代は、とても人間関係が難しくて、人間関係がぶつかり合うことが多くて、果程度の差はあっても、心の傷を受けてしまうのは仕方がないです。心の傷を受けてしまったなら、心の傷が浅い内にその心の傷を癒して治癒させて、また日常生活に、社会生活に戻る必要があります。
心の傷を癒すところ、心の傷を治すところには、その心の傷を付けた物(嫌悪刺激)があってはなりません。また、心の傷をつけた物がなくても、その心の傷を疼かす物があってはなりません。その心の傷を付けた物や、その心の傷を疼かす物がない場所のことを「安全な場所」と表現します。心の傷に包帯ができる場所という意味になります。心に傷を受けた人は、安全な場所で時間の経過を待つだけで、心の傷は癒えていき、治癒しますが、それにはかなり長い時間を要します。
安全な場所には、その心の傷を付けた物、その心の傷を疼かせる物がないばかりでなく、可能ならその心の傷を癒してあげられる物があると良いです。心の傷を積極的に癒して治癒させるためです。心の傷を癒せる物は喜びです。楽しさです。居るだけで嬉しい場所、居るだけで楽しい場所です。または何か嬉しいことが続く場所、楽しいことを続けてできる場所です。
大人でも安全な場所をどこかに作る必要があります。多くの大人はそれを自分の家の中に作ろうとします。自分の趣味や楽しみに癒しを求めます。子どもの場合、それは母親の周囲です。子どもの場合、母親との触れあい、母親との語らい、母親からの温かい食事、母親からの優しい保護は、それだけで子どもの心の傷を癒す作用がありますし、子どもの心の傷は母親の周囲にいるだけで癒えていきます。
保育園、幼稚園、学校を含めて、現在の日本社会は子ども達にとってストレス刺激に富んでいます。幼い内から社会と関わらなくてはならない日本の子ども達にとって、社会からのストレス刺激を回避することは不可能なことです。そのストレス刺激を受け続けると、子ども達は心に傷を受けてしまいます。心の傷を深くしていってしまいます。心の傷を広げていってしまいます。現在の日本の子ども達については、この心の傷を受ける機会が多いので、その心の傷を癒す場所も必要という観点からも、子ども達の安全を考える必要があります。
今まで家庭は小さな社会と考えられていました。子ども達には、家庭は社会生活の基本を学んで社会に出て行くための所だと考えられていました。しかし、それは大人の立場からの見方です。子ども達の立場から言うなら、ストレス刺激の多い学校や社会から受けた子ども達の心の傷を癒して、日本社会のストレス刺激に耐えられるようにしてくれるところが母親の周囲、家庭です。子ども達にとって、家庭は子ども達の心の傷を癒すところ、社会からの安全な場所でなければなりません。子ども達にとって、現在の家庭は社会の一部ではないです。社会から連続的に存在している所ではないです。
昔の子どもには、どのようにして社会に出て行くか、社会に出てどのように生きていくかが大切な問題でした。そのためには子どもの内からどのように社会と接していくかを学んでいく必要がありました。子どもの時期から、社会から子どもの心を傷つけられることはほとんどなかったようですし、心が傷つけられたとしても人間社会とは違う場所が子どもの周囲にあったので、子どもの心の傷をそこで癒すことができました。ところが現在の日本社会の子どもについては、子どもの心にできた傷を癒す所が家庭の外にはなくなったのです。そのような理由から、子どもにとって家庭とは、母親の愛情という頑強な城壁に守られた、子ども達にとって安全な場所でなければなりません。
$$9 子どもの出すサインとは何か?
子どもは恐怖刺激を受けて辛い状況になると逃げ出したり、暴れたり(問題行動
)、いろいろな神経症状や精神症状を出します。そこには子どもが意識的に意図した物はありません。子どもは恐怖刺激を受けて辛くなると、素直に逃げ出したり、親や大人が嫌がる反応や病的な症状を出します。ですから、子どもが逃げ出したり、親や大人が嫌がる反応や病的な症状を出しているときには、必ず子どもは恐怖刺激を受けて辛くなっています。決して子どもの性格上に問題があるのではありません。親を困らせようとしているのではないです。心の病になっているのではありません。ですからこれらの親や大人が嫌がる反応や病的な症状を出していることを、子どもが辛いと言っているサインだと言うことができます。見た目には子どもは辛そうでなくても、子どもの心が辛い状態にあるというサインです。
子どもが出すサインの中に、親に暴力をふるったり無理難題を要求する場合があります。そのために親をとても辛くします。それは決して子どもが異常になったのではなくて、「子どもが辛いよ」というサインなのですが、サインであると同時に、「子どもがこれだけ辛い状態にある、その辛さを親にも経験して分かって欲しい」というメッセージでもあります。親に暴力をふるったり、無理難題を要求する子どもを、とんでもない子どもだ、悪い子どもだ、問題のある子どもだと、親が理解したときには、子どもが親に送ったサインを、子どもが親に送ったメッセージを、親が間違って理解したことになります。子どもはどうしても分かって欲しいですから、親への暴力や無理難題を続けるばかりでなく、エスカレートさせます。親をますます信頼しなくなります。辛さの悪循環から抜け出せません。
親に暴力をふるったり、無理難題を要求する子どもを、「それだけ辛い状態にあるね」と親が理解し、暴力を受け入れ、無理難題を受け入れようとすると、子どもは暴力や無理難題を要求することを止めて、親を信頼して、親を利用して、心の良い循環にはいることができます。子どもを苦しめている問題を解決することができるようになります。常識に反しますが、このように辛い状態の子どもが親に暴力をふるったり、無理難題を要求する場合を、子どもが親の子どもへの信頼度をテストすると表現することができます。
$$10 欲求不満、葛藤状態
現代の解決を急がれる重要な問題として、物質的な豊かさと子どもの問題があります。現在の日本では、多くの大人にとって完全ではないが、衣食住は満たされています。その意味は、多くの大人にとって、衣食住に関しては少なくとも生死の問題に関わるような劣悪な状況がないという意味です。その多くの大人達の内でも、そのまた多くの人は、有り余る物質に、物に満たされて生活をしています。欲を言えばきりがないですが、その人なりの希望(家、絶えず供給されているライフライン、自動車などの乗り物、電化製品、十分な量と質の食料衣料日用品など、医療を含めて生活の安全)が一応満たされているという意味です。
それでもなお、大人達はより豊かな生活、より便利な生活を求めながら、子どもを育てています。その物質的な豊かさ生活の便利さは人間の進歩ですし、その物質的な豊かさを引き継いで、子供はより物質的に豊かな人間社会を作る大人になっていきますが、一方ではその”物質的な豊かさのために、心を傷つけられて苦しむ子どもたちを作っています”。そしてその事実を現在の大人達は全く知りません。
そのような大人に育てられている子どもは、大人の達成した豊かさの中から成長を始めます。一部の子ども達の中には、虐待を受けたり、物質的に最低線の生活から成長を始める子どももいます。けれど現在の日本の子どもの多くは(少子化の影響も加わって)、有り余る物質(食べ物、衣類、家具、おもちゃなど)や親、祖父母からの愛情に満たされて、育ってきています。乳幼児期には、子供は子供の好きなように行動し、子どもの欲しがる物は全て与えられて育っています。親から、祖父母からかわいがられ、欲しい物が全て与えられるのが当たり前の状態で成長をしてきています。何不足なく育ったところで、子供は今までの子どもを取り巻く世界とは全く異なる子どもの社会の中に出ていきます。
保育園、幼稚園、小学校と、子ども社会の中で生活しなければならなくなった子ども(これらの子ども社会に最初から恐怖を感じる子どもも居ますが、それも問題行動と大人からは理解されます。)の心は、全て認められて、何不足なく育った家庭生活の延長上にあります。子どもの欲求の赴くままに行動してしまいます。けれど子ども社会の中での子どもの要求は、自分の家庭とは違って満たされることはなく、子ども同士の間でぶつかり合います。また、子ども社会のリーダーの大人から、親とは全く違った対応を受けます。このときはじめて子どもは子ども自身の自己主張が否定されたり、制限される経験をします。今まで子ども自身の自己主張がすんなりと認められていたのが、認められて当たり前であったのが、”認められることに依存していたのが、周囲から否定されるので、子どもは欲求不満または葛藤状態になります”。
葛藤状態とは恐怖状態の一つの形です。保育園、幼稚園、小学校と、子どもの社会の中に出たときに、子ども自身から子どもの集団にうまく適応できる子どもは大丈夫なのですが、子ども自身からうまく適応できない子どもは、集団の中で自己主張をしてしまいます。その自己主張は他の子ども達や大人達から否定されることで、子どもは葛藤状態になります。葛藤状態は恐怖状態ですから、その保育園、幼稚園、小学校に、子どもの集団に、その程度は色々でしょうが、恐怖の条件刺激を学習してしまいます。その保育園、幼稚園、小学校などの子どもの集団を回避するようになりますし、その保育園や幼稚園、小学校などの子どもの集団の中に押し出されると、子どもはその集団の中で問題行動を起こすようになります。
多くの大人が誤解していることですが、”子どもは大人のように説得が効果を示しません”。説得で効果があったように見えても、その実、子どもの心の中は、大人の力で押さえ込まれています。説得されたように振る舞うように強要されています。ですから、一端子どもが子どもの集団の中で問題行動を起こすと、大人からその問題行動を起こさないように、力で押さえ込まれることになります。それは今までその子どもの主張をそのまま認められていた子どもの存在の否定になります。子どもは葛藤状態を生じて、その後より問題行動を起こし易くなります。葛藤状態の子どもが問題行動をして、それを大人が力で押さえ込み、子どもをより葛藤状態に陥れるという悪循環に入ってしまいます。
子どもの問題行動には、子どもの心の内側に向かう、内向的な問題行動と、子どもの心の外側に向かう、外向的な問題行動があります。内向的な問題行動とは、子どもの集団を恐れる、子どもの集団に入っていかない、子どもの性格が暗くなる、家の中で子どもが暴れる、チック症状、いろいろな病気を思わせる症状などがあります。外向的な問題行動として、子どもの集団の中で暴力をふるう、いじめをする、盗みをする、大人の言うことを聞かないなどがあります。
この子どもの問題行動が内向的な反応を示すか、外向的な反応を示すのか、その原因となる理由はよく分かりません。子ども自身が親から遺伝的に受け継いだもの、乳幼児の時期に親から受け入れた物(ミラーシステムの存在の可能性)、偶然の反応の結果、それが経験の中で繰り返されて強化されていったもの、などが考えられます。わからないから、大人は子どもの性格だと決めつけています。
子どもが子どもの集団の中で問題行動を起こしたとき、大人の力で押さえ込まれることの影響を考える必要があります。今までは子どもが問題行動を起こすきっかけとして、大人が言葉で子どもの自己主張や意志を否定する場合、暴力的な体罰を加える場合、子どもの存在を無視する場合、食事やおやつなどの食べ物を与えない場合、テレビやゲームなどの子どもの楽しみを取り上げる場合などがあげられると思います。
いつも親や大人達から大切にされ、子どもの意のままに行動することに依存している子どもが、その子どもの意のままの行動を否定されることで、強い葛藤を子どもに生じます。今まで体罰を受けたことがないばかりでなく、いつも親から守られかわいがられていた子どもは、強い葛藤を生じます。いつも大人の中心にいて、いつもその存在を大切にされていた子どもが突然無視されるときには、子どもが単に無視されるよりは遙かに強い葛藤を生じます。つまり、いつも親から守られていた子どもが突然辛いことに遭遇すると、とても強い葛藤を生じて、大人は気づかないけれど、子どもの心の中に傷を受けてしまいます。
家庭内の問題になりますが、いつも好きな食事が用意され、おいしいおやつが食べられることに依存している子どもが、その食事を取り上げられたり、そのおやつを取り上げられたときには、単に食事が食べられない場合とか、単におやつが食べられない場合より、遙かに強い葛藤を子どもに生じます。いつも十分にテレビを見て楽しめていた子ども、いつも十分にゲームなどの子どもの楽しみができていた子どもから、とつぜんそのテレビを見たりゲームを楽しむのを取り上げられると、単にテレビが見られない、ゲームができないという場合より、遙かに強い葛藤を子どもに生じます。つまり、今まで依存そていたものを突然取り上げられることで、大人は気づかないけれど、子どもの心の中に傷を受けてしまいます。
$$11 子どもの心は循環して発展する
子どもは子どもの持つ本能として、とても活動的です(自然に湧き出すエネルギーが大きい)。子どもはその子どもが知らない新しいものに強く興味を示します。子どもはとても素直に、その子どもの能力の限り精一杯、その新しい物を知り、挑戦し、身につけ、順応していきます。このような子供の内的な欲求は、子ども自身の喜びであり(接近系)、その子どもらしさ、子どもの心の成長力とも表現することができます(個性の輝き)。このように子どもの心が子どもの持つ本能を発揮できる状態にあると、子どもはその子どもなりに何かを求め、それを手に入れて喜び、また次の何かを求めるという、子どもの心の成長の循環に入ります。
子どもが辛い状態にあると、子どもは子どもを辛くする物に敏感に反応します。子ども特有の本能から何かを求める状態にはありません。恐怖刺激についてとても敏感になっていますから、大人から見たら何でもないような物に反応して、より辛くなっています。より辛くなると、恐怖刺激により敏感になりますから、絶えず不安状態にあります。辛さの悪循環に入っています。
子供について、楽しさには慣れがあります。辛さや恐怖には慣れがありません。ですから恐怖刺激が繰り返されると、同じ恐怖刺激でも、その恐怖を受ける度合いはより強くなります。恐怖刺激には相乗効果があり、恐怖刺激には慣れがありません。恐怖刺激には慣れがないばかりか、相乗効果がありますから、恐怖刺激が繰り返されると、そのうちに些細な恐怖刺激で、子どもは強い恐怖を感じるようになります。子どもは辛さから抜け出せなくなります。辛さの悪循環になり、心の傷を受けることになります。
大人と違って子どもには自分の力で恐怖を克服することはできません。子供は恐怖から自分を守るためには逃げるしか方法がありません。親や大人は子どもに、決して“辛いことを子どもだけで克服させようとしてはいけません”。もしどうしても子どもに恐怖を克服させたいなら、辛さを打ち消してしまう以上の喜びを子どもに与える必要があります。つまり、辛さの悪循環を断ち切るために、その辛さを打ち消してしまう以上の喜びを与えて、子どもが本能として持っている、喜びの循環に入れてあげる必要があります。
$$12 子どもの性格(刺激に対する反応の仕方)
子どもの性格は、子どもとしての本能が満たされる課程でも形成されていきます。自力で動けるようになった子どもは、本能的に何かを求めて行動を始めます。その何かを求めることが、子どもの本能を満たしてくれるときには、親が喜んでくれた経験と結びつくときには、それがうれしいこととして繰り返し、習慣化して性格を形成していきます。その何かを求めることが、子どもの本能を否定するときには、親が悲しがった経験と結びつくときには、それは嫌なこととして避けようとし、繰り返すことで習慣化して、子どもの性格を形成していきます。
子どもの性格として判断される子どもの反応の仕方は、子どもの行動の仕方は、子どもの本能がどのようにして満たされていくか、どのようにして否定されていくかで形成されるとともに、親が喜ぶか、親が嫌がるかという要素からも形成されていきます。親が喜ぶ反応の仕方、行動をその子どもなりに発展させて、親が嫌がる反応や行動をその子どもなりに放棄して、子どもの性格を形成していきます。親との関係で自分の性格を形成していく過程を別な見方をすれば、子どもとは親にとっていい子でありたいと本能的に願って育っていく姿であるとも表現できます。どの親も子育てで一生懸命で気づくことはないのですが、親から見たら、子どもは「本質的にいい子」であることになります。
このようにして母親のそばで、家庭の中で、子どもの性格の基本が形成されて、子どもは少しずつ母親や家庭から離れた場所で、新たな経験を始めるようになります。そのときまでに形成された性格、親から見たらいい子の性格から行動をして、その結果が自分の喜びを生じるか、嫌な気分を生じるかで、自分の行動を繰り返したり修正して、習慣化して、新たな性格を付け加えて成長していきます。このようにして付加された性格がそれまでの子どもとは違った子どもを作り出して、親や大人たちにとって良い場合もあり、悪い場合もあり、それらを総合してその子どもその子ども特有の性格として、理解されるようになります。
注釈 子どもの性格を構成する物
1.持って生まれたもの(本能として理解されるもの。子どもの特性で述べた)
2.親から受け入れたもの(ミラーシステムの存在から、2,3才ぐらいまで。主として母親から得た価値観)
3.真似を繰りかえしたもの(幼児期から繰り返す事による習慣化)
4.条件反射で学習したもの(心の傷以外にほとんど無い)
5.オペランド条件付けで学習し、習慣化したもの(学校での勉強。褒める、叱ることによる行動の習慣化)
$4 弱者の論理
$$1 弱者の論理、強者の論理
学校やマスコミでは、苦難を乗り越えて、目的を達成した人の例、成功を収めた例を、人間の生き方として教えたり、報道しています。そして現在社会のいろいろな事件を、これらの人の例を参考にして解決しようとしています。何か大きな障害があると、大人はその障害から逃げ出ださないで、その障害に何度も挑戦し、工夫を繰り返して、最終的にその障害を乗り越えて、克服して、目的を達成する。たしかに、大人はそれでよいのですが、子どもの場合にはそれでは間違いなる場合が多いです。
子どもの場合、何か障害があるとき、その障害から逃げないで、その障害に挑戦し、その障害を克服できる子どもと、その障害に挑戦し克服できない子どもの中には、挑戦を続けてはいけない子ども、または挑戦そのものを試みてはいけない子どもがいます。障害を克服するまで挑戦して良い子どもを、強者と呼ぶことにします。障害に挑戦してはいけない子どもを弱者と呼ぶことにします。
子どもの場合、何か障害があると、それを乗り越えられる子どもと(強者)、その障害を乗り越えられない子どもがいます。その障害が子どもの能力より少しだけ高い場合には、その障害を乗り越えられなくても、時間をおいて、子どもの成長を待って、子どもの能力がその障害の高さより高まったとき、その障害を越える子ども(強者)と、その障害が高すぎて成長を待ってもその障害を乗り越えられないために、恐怖の条件反射を学習した子ども(弱者)や、その障害が高すぎて、恐怖の条件反射を学習しないために障害に挑戦してはいけない子どもがいます。
大人では、超えられない障害を克服するためには、知識の心、習慣の心を利用します。子どもでは、超えられない障害を克服するためには、子どもの成長を待って、能力の成長を利用します。この点で、大人と子どもと、障害の克服の仕方が異なることにも注意が必要です。
強者に当てはめて良い対応の仕方を強者の論理と呼ぶjことにします。強者の論理は、多くの大人が考える考え方で、多くの人にわかりやすいです。大人に当てはめる対応の仕方をそのまま子どもに当てはめても、強者の論理が当てはめられる子どもでは、子どもの方で大人の対応に合わせてくれるからです。子どもにいろいろな試練や練習を与えることで、どんどん伸びていく子どもについての対応の仕方、論理です。
それに対して、不登校、行き渋りの子ども、引きこもり、ニート、フリーター、問題行動をする子どもへの対応の仕方を弱者の論理と呼ぶことにします。弱者の論理は子どもの生物としての心への対応の仕方になります。赤ちゃん、幼い子どもや、動物(ほ乳類)への対応の仕方と共通点が多いです。脳科学が当てはまります。弱者の論理は、大人への対応の仕方である常識に反する物が多いです。強者の論理と真反対の場合もあります。それでも生物としての心に沿った対応になりますから、全ての子どもに当てはまりますが、元気な子どもへの対応、強者の論理では考える必要がないだけなのです。
現在学校やマスコミで主張されている対応法は、強者の論理です。政府も政策として強者の論理を用いています。教育研究者の大半も、強者の論理から弱者である登校拒否不登校などの子どもたちを考えています。それは弱者について生じるいろいろな問題を解決できないことになります。この章では、弱者の論理を展開しています。決して強者の論理ではないです。強者の論理しか考えられない人には、この章は戯言のように聞こえると思います。でも、現在の社会問題になっている辛い状態の子どもたちを守り育てるには、弱者の論理が必要です。この弱者が大人になっていろいろな社会問題を起こすのを防ぐには、人々が弱者の論理に気づく必要があります。せめて、弱者には弱者の論理が必要なことを、辛い状態の子どもの親だけでも気づいて欲しいと願っています。
弱者の論理はすべての子どもに当てはまります。ですが効率が悪いから、元気な子どもへの対応、強者の論理が当てはめられる子どもには当てはめる必要がないだけです。当てはめても全く問題ないです。しかし、強者の論理を弱者に当てはめたなら、弱者はますます辛くなり、ますます弱者になってしまいます。現在の日本を含めた西欧社会では、強者の論理が行き渡り、弱者の論理が気づかれていなくて、弱者がとても辛い状態にあります。その結果弱者が大人になって、いろいろな社会問題を起こしています。この章では辛い状態にある子どもの心、弱者の論理について述べていきます。
$$2 母親の子どもへの信頼
多くの母親は、子どもに口うるさく言います。それは母親が子どもを母親の思うように動かしたいからです。しかし、子どもは親からの言葉だけでは行動できないことを知って欲しいです。子どもが親の言葉で行動するときには、親から脅しという恐怖を受けていて、その脅しという恐怖を回避するために、子どもは親の指示に従っています。つまり、子どもは絶えず親から信頼されていないと感じていきます。辛いことを平気でする人として、親を理解するようになっていきます。親と子どもとの信頼関係はどんどん壊れて、子どもは親にしゃべらなくなります。
子どもが親の言葉で行動する場合、親からの愛情というご褒美が期待できるときにも、子どもは親の指示に従って行動しています。その場合には一言で子どもは親の指示に従います。親の言葉に喜んで従うと同時に、子どもが親を信頼していきます。
思春期になると、男の子は親にしゃべらなくなります。それは男の子特有の心理だと考えている親が多いですが、本当は違います。親の勝手な理解で子どもを理解しようとするから、子どもの心と親の心がすれ違います。子どもが親に話さなくなるのは、子どもが親を信頼しなくなった姿です。ただし、年長の子どもで自分の世界をしっかりと持っている子供はまた親にしゃべらなくなりますが、一般に幼ければ幼いほど、子どもは母親にしゃべりたがります。
常識に反しますが、子どもから話しかけてこない限り、親から積極的に話しかけたり、声をかけたりする対応は必要ないです。時には悪い場合もあります。親が子どもの心を理解できているなら、親から子どもに話しかけても全く問題がありません。親が子どもを理解しないで話しかけると、子どもは話しかけられたことを嫌がります。嫌がるぐらいなら、話しかけない方がよいです。そして多くの親は子どもの心を知りません。ですから、話しかけない方がよいです。ですから子どもが辛い状態にあるときには、朝起きたときの「おはよう」の挨拶や、夜寝るときの「お休みなさい」の挨拶など、日常常識的な挨拶や声がけですら、止めた方がよいです。
だらだらとテレビを見ていたり、ゲームばかりに耽っている子どもの姿を見ることは、多くの親にとって辛いです。ついついがみがみ言ってしまいます。親が苦虫を噛んだような顔をして子どもを見ていると、子どもはテレビやゲームを楽しめません。親が側にいることがとても苦痛に感じられます。一方、親が子どもを信頼できるなら、子どもがテレビやゲームに耽っている姿を見ても、これは子どもに必要なことだからと感じられて、子どもの姿を見てもにこやかでいられます。親がにこにこして楽しそうなら、子どもは安心して自分の楽しみに耽ることができて、元気になっていきます。耽っている楽しみを卒業して、次の楽しみを見つけることが可能になります。
多くの親は、子どもを一人家に置いて外出すること嫌がります。それは親の居ない間に子どもが何をするのか心配になるからです。または、子ども一人を家に置いて寂しい思いをさせるのはかわいそうと思う親心です。勿論子どもの年齢にもよりますが、子どもの心が自立していると、親から子どもが信頼されていると、子どもは意外と一人で家にいることにも耐えられます。親が居ない間に、一人で自分なりの楽しみに没頭して、その子どもなりの生き方を確立していきます。それは子どもの心の成長にとても大切なことです。
$$3 信頼と放棄、甘え、我が儘
どの子どもも自分の親を信頼して育っています。親は全てが全て子どもを信頼していません。元気な子どもですと親が信頼していないところがあっても、子どもの方でどうにかして成長を続けます。辛い状態の子どもで親に、とくに母親に守られないで辛い状態の子どもは、その辛さを解決できなくて、問題行動を起こしたり、いろいろな病的な症状を出してしまいます。問題行動をする子ども、いろいろな病的症状を出す子どもを母親が信頼して守ると、子どもは母親に守られて、問題行動や病的症状を出すのを止めて、その子どもなりに問題を解決して、元気になって社会に出て行きます。
子どもが辛くて問題行動を起こしているとき、子どもは親に向かっていろいろな無理難題を課してきます。それを親がしないと、子どもはますます荒れます。あまりに子どもが荒れるので、親は仕方なく子どもの要求を受け入れて(子どもを放棄した状態)、子どもの無理難題を実行します。実行すると子どもはまた次の無理難題を親に課してきます。ところが子どもが無理難題を親に課したときに、親がその無理難題をにっこり笑って受け入れ実行すると、子どもは次第に親に向かって無理難題を要求しなくなり、荒れることも少なくなっていきます。この違いは何かというと、それは親の子どもへの信頼です。子どもの無理難題を、子どもが本当に必要としているのだと感じられる親は、子どものために喜んでその無理難題を解決しようとします。そうすると親の子どもへの信頼感が子どもに伝わり、子どもの心が安定してくるからです。
多くの大人は、子どもの要求をそのまま受け入れると、子どもの甘えになると考えがちです。それは子どもを信頼していないから、そのような思いが生じます。子どもを信頼していない大人の思いです。子どもがいろいろなものを要求しても、その要求を100%だけ叶えてあげる限り、甘えや依存にはなりません。その要求以上に叶えたときには甘えや依存になります。またその要求以下でしか叶えなかったときには、親への不信感を生じます。親の都合で子どもの要求を100%かなえられないときには、子どもと交渉する必要があります。子どもは優しいですから、その交渉の結果を受け入れて納得してくれます。親に対して不信感を持ちません。
子どもが何かを要求するにはそれなりの子どもとしての意味があります。ただし大人にはその意味がわかりません。子どもが要求をしてその要求を親が100%叶えることは、常識的には我が儘そのものです。しかし辛い状態の子どもは、その子どもの思いつくままの要求を親に100%叶えてもらうことで辛い心を癒し、元気が出てきて、その子どもなりに自分の問題解決を始めます。子どものその能力を、習性を、親は信頼して待っているだけで、子どもを辛くしている問題を子ども自身が解決していきます。
子どもを信頼するためには、子どもから信頼されるためには、子どもの話を丁寧に聞く必要があります。子どもの行動や反応をそのまま素直に認める必要があります。大人は一般に、子どもの行動にいろいろな理由付けをして、理解しようとします。その理由付けが正しければそれでも良いのですが、まず正しいことはないです。子どもの行動や反応の大半は、受けた刺激に反射的に反応して行動しているからです。そこには大人の考えるような理由がないからです。
$$4 スキンシップ
母親とのスキンシップは、それだけで子どもの心に安心感を与えてくれます。母親とのスキンシップで、子どもの辛い心が消失していきます。子どもが辛ければ辛いほどスキンシップが大切です。抱いてあげること、手を握ってあげること、背中をさすってあげること、一緒に寝てあげること、一緒にお風呂に入ってあげることなどが良いようです。これは母親でなくてもできることですが、母親にしてもらうとその効果はとても効果的に作用します。これは動物(ほ乳類)の子どもを観察してみると、子どもが持つ本能と考えて間違いないです。
$$5 ゲーム、テレビ、ビデオ、DC
多くの大人は、子どもがゲームやテレビ、ビデオ、CDに興じている姿を好みません。子どもは元気に遊ぶものだという理由をつけて制限をしようとします。目が悪くなる、姿勢が悪くなるという理由を挙げて制限をしようとする人もいます。子どもの方ではやりたいから、やる必要があるから、これらの物に興じています。それを親や大人達から子どもが納得できない理由で制限されると、親や大人達に不信感を持つようになります。それでもこれらの物に代わる物を持っている子供はその影響を受ける度合いが小さいですが、心が辛い状態にある子ども達では、これらの物に代わる物を持っていません。これらの物を禁止されるととても大きな影響を受けてしまいます。
辛い状態の子ども達を早く元気にするには、これらの物を子どもが求めるままにさせた方がよいです。子どもが納得するまでさせた方が早く元気になり、これらの物を卒業して、次の何かを始めます。それは子どもの辛い状態の解決になります。これらの物に子どもが耽る場合には、どうしてもお金がかかります。そのかかるお金を少なくしようとしてお金を出すのを渋ると、子どもはいつまでもこれらの物で遊ぶことを止めないから、長い目で見たら余計なお金がかかります。子どもが欲しがる物を親が喜んで与えたなら、喜ばないまでも嫌な顔をしないで与えたなら、子どもは親を信頼し始めます。自分で自分を調節して自分なりの遊び方をします。
一時期、日本でゲーム脳という言葉がしきりといわれました。ゲームに没頭していると思考の心である前頭前野が働かなくなると言うことでした。しかし、ゲームに没頭して、ゲームが上手になると、前頭前野が働かなくても良くなるという意味であって、前頭前野の働きが悪くなるという意味ではないです。ですから、ゲームに没頭している子どもでも、新しい難しいゲームになると、前頭前野が働いています。つまり、あるゲームに上達すると前頭前野が働く必要が無くなって、受けた情報から反射的に反応できるようになるという意味です。ゲームが上手になると前頭前野は働く必要がなくなるのは、ゲームに限らず、あらゆる物事に上達すると生じます。
$$6 昼夜逆転
多くの大人は、子どもは昼間活動をして、夜は眠るのが生理的で良いと考えています。元気な子どもは昼間元気に活動をして、夜眠ります。ところが何かで辛い状態の子どもは、夜活動をして、昼間眠る傾向にあります。多くの大人は辛い状態の子どもが昼間眠って夜活動をする生活を正さなければならないと考えています。医者も夜眠らないことが子どもに病気を引き起こすと考えていて、夜には薬で子どもを眠らせようとします。このようにして、大人が辛い状態の子どもの昼夜逆転した生活を正そうとすると、子どもはもっと辛くなり、暴れたり、いろいろな病的症状を出してしまいます。辛い状態からの解決を送らせています。
辛い状態の子どもは夜気持ちが楽になりますから、その子どもなりの生活が出来ます。朝になったら眠気が来ますから、昼間寝てしまいます。なぜ夜になったら気持ちが楽になるのか、正確なところは分かりません。辛くて自己否定を起こしている子どもでは、その子どもが周囲から受ける音などの刺激の多くは、その子どもが自分を否定する思いの元になってしまっていて、イライラしたり気持ちが落ち込んで辛くなってしまいます。周囲からの刺激を避けたいから引きこもりますから、少しでも周囲からの刺激を避けようとしています。それが夜になり、周囲がし〜んとすると、自己否定をする刺激がなくなりますから、とても楽になります。この事実が子どもの昼夜逆転の原因がどうか本当のところは分かりません。
子どもを観察する限り、昼夜逆転をした子どもが子どもの成長に悪い影響を与えることはないです。それどころか夜活動をして、エネルギーを貯めた子どもは、必要に応じて昼間起きて、昼間しかできないことをしてしまいます。最終的には昼夜逆転を止めて、元気に社会に出て行ってくれます。昼夜逆転をした子どもの方が早く元気になり、早く社会に出て行ってくれているようです。その意味で、辛い状態の子どもには昼夜逆転を正さない方が解決が早いです。
$$7 キレる子供
元来キレるとは、癇癪を起こしたことと同じ意味のようです。若い人達は同義語として使っています。キレるも癇癪を起こすも、嫌なことに出くわすと直ちに激しい怒りを生じて相手を攻撃することを指しています。つまり、子供だけがキレるのではなく、大人でもキレる人が少なくありません。現在に始まったのではなくて、昔からキレる人が多くいました。いわゆる昔の江戸っ子はキレてばかりいたのでしょう。
この様な調査を行わなくても、キレるを癇癪と置き換えれば、キレる子供達の様子は見えてきます。キレる子供達は、何かで心を傷つけられています。その心の傷に触れる物に出くわすと、心の傷が激しく疼いて、その心の傷に触れる物を攻撃します。この心の傷の疼きが酷くて、その結果攻撃が激しいときが、キレた、癇癪を起こしたと表現しています。そのキレる子供の心に傷を付けたのは親かも知れません。学校の先生かも知れません。私の経験では学校の先生が子どもの心に傷を付けた場合が多いように思われます。
$$8 子供の集団
子どもは本能的に子どもの集団に加わろうとします。子どもの集団の中で、その子どもなりに他の子どもとの関わり方を自分の経験から学びます。社会への順応の仕方を自分の経験から学びます。自分の経験から学ぶのですから、その子どもの置かれた集団のあり方、その子どもの関わり方で学んだ物が異なります。子ども一人一人がその子どもなりの知識を身につけていきます。それはある傾向(日本文化)はあっても、全く同じではないです。
「子供は子供の中で育つ」これは事実です。「いろいろな子供がいる学校こそ、育つ場として最高の環境」と言われていますが、最高かどうかは別として、子供達は本質的に子どもの集団である学校が好きです。また、子どもには知らないことを本能的に知る喜びがあります。学校は子どもの知る喜び(勉強)を満足(その内容には個人差が大きい)させてくれます。学校にはいろいろな子供がいることは事実です。学校には教師がいて、子ども達に知る喜びを与えると同時に、子供達を管理しています。現在の学校は管理が優先されて、子供達の子供らしさを奪っています。子供らしさを奪われた子供の集団の中で、子供の心達は素直に育たない事実に注目する必要が有ります。教師の子供を管理しようとする行為そのものが、子供達の心を傷つけてしまっている場合がしばしばあります。教師が管理する現在の学校は、子供の子供らしさ、子供の有るがままを否定する傾向にあり、子供に枠をはめて、子供の人間らしい成長を阻害させています。元気の良い子供達には、それでも大きな問題を生じませんが、既に学校が辛くなっている子供達には、”教師の立場から子どもを見て、子供の立場で子供を見ない教師が管理する学校”はとても辛い環境なっています。子どもによっては学校を地獄のように感じている子どもがいます。
この事実は子供の集団を管理している教師には認められないことでしょう。教師の立場で子供達を見ている限り、教師に都合の良いところだけしか教師には見えてきませんから。教師の前で子供達は目一杯良い子を演じています。それを見て教師は自分の対応に間違いがないと自信を持っています。けれど目一杯良い子を演じた子供は、教師の目の届かないところで、教師の前でやったことの全く逆のことをやっています。子供が他の子供を傷つけるという行為を行っています。
$$9 子どもの心は形でなく喜びが大切
子どもが問題行動をしたとき、親や教師、大人達は、子どもに始末書を書かせたり、反省文を書かせたりして、一件落着と考える場合が多いです。小さい子どもでは、ごめんなさいと謝ると許す親が多いです。このような親や大人達の対応は単に親や大人達の自己満足にしか過ぎません。子どもにとって、これらの大人の対応は何の意味もありません。子どもの心の中は納得していないからです。子どもの心は言葉に表したり、形にしただけでは納得できません。子どもが納得するには、その時存在している辛さ以上の喜びを子どもに与えてあげる必要があります。
$$10 自傷行為
蚊に刺されてかゆいとき、どうしますか?刺されたところを掻いてしまうでしょう。かゆみが強ければ強いほど、爪を立てて強く掻いてしまいます。それをかゆくないときにしてみて下さい。きっと痛みを感じられると思います。では、蚊に刺されてかゆいとき、蚊に刺されたところとは全くかけ離れたところを掻いたらどうなりますか?蚊に刺されたところを掻くよりは効果が減りますが、矢張りかゆみを軽減してくれます。蚊に刺されたとき、かゆみ止めを塗る、かゆみ止めを飲むということでも、かゆみを抑えることができます。けれどかゆみ止めが手元にないなら、かゆみを我慢するし、かゆみを我慢できないときには、掻いてしまいます。
何かで辛くて、どうにもできないときに、体をかきむしったり、頭をかきむしったりします。これは多くの人は理解できると思います。また、子どもが辛くてどうにもならなくなったときに、自分の頭を壁にぶつけたりするのを見かけた人もいらっしゃると思います。これは多くの方には理解できないでしょう。大変なことだ、どうにかしなくてはと思われると思います。外見上はとんでもないことをしているようですが、当人にとっては、どうにもできない辛さを、痛みが一時的に軽減してくれて、痛みが無くなってもある期間一時的に楽になっています。お灸や鍼が肩こりや腰痛を取ってくれるのと似ています。ただし自傷行為と同じ仕組みで辛さを軽減しているのではないです。
リストカット(所謂リスカ)やたばこの火で自分を傷つける行為(所謂根性焼き)など、自傷行為を多くの人は理解できないと思います。なぜ人が好んで自分を傷つけるのか分からないと思います。自傷行為をまともに見ることができない人も多いと思います。自傷行為をする精神状態を病気と考える人が多いと思います。自傷行為をする人は、しばしば死にたいと言います。ですから、自傷行為を自殺の前兆だと理解する人も多くて、何が何でも自傷行為を止めさせるべきだと考える人が多いと思います。確かに自傷行為で動脈を傷つけて、出血多量で死亡してしまう人もない訳ではないです。その場合には、自傷行為をする人は、辛さがとても強くて、自傷行為をしても痛みを感じていない場合です。痛みを感じるまで、血が噴き出すまで自傷行為をしますから、辛さが強くて痛みを感じにくい場合には、傷が深くなり、動脈や太い血管を傷つけることになってしまいます。
自傷行為を自分に対する虐待だと理解する人もいるようですが、虐待ではないです。自分の辛さから自分の命を守るための行動だからです。当然自分を苦しめて、それを楽しんでいるというサディズムのような物でもありません。自傷行為をする人は、本当は自傷行為をしたくはないです。しかし自傷行為をしないと辛くて辛くてどうにもできない状態にいます。その結果自傷行為を行ってしまいます。
医者も、自傷行為は異常な状態だと考えています。病気の状態だと、統合失調症だと考えているようです。ただし客観的な根拠がある訳ではありません。自傷行為を防ぐ方法を医者は持っていませんし、親や周りの人から子どもの自傷行為を止めて欲しいと要求されたら、医者はその子どもを病気としてしまい、その病気の治療のために、その子どもを拘束室に閉じこめて自傷をしないように拘束するか、病気としてその子どもに向精神薬をどっさりと投与して、脳の機能を麻痺の状態に近くするしか方法論を持っていないからです。
自傷行為のおおざっぱな仕組みを説明します。人が自傷行為をしなければならないほど辛いというときは、その辛さとは心臓や肺、胃や大腸、皮膚やホルモンなど、体中の臓器が普段にないような、非生理的な動きや反応をしています。その人に辛いと認識させるような反応しています。その時に軽度な痛み、その時の辛さ以上の、警戒信号に相当する痛みを人が受けますと、体中の臓器がそれまでの非生理的な動きを止めて、痛みに対する警戒状態に変化します。生体を守るための動きに変化します。体中の臓器は生物としてのあるべき姿に戻ることになりますから、今までの辛さが無くなって、生きているという実感を取り戻すことができます。
自傷行為を行う人は若者に多いですが、壮年の人でも行う人がいます。自傷行為を行う人は、いろいろな原因で辛くなり、解決できなくて苦しんでいます。その苦しみを薬やその他の方法でも解決できないから、自傷という行為に出ています。自傷行為を行う人の多くは、自傷行為が自分の苦しみを軽減すると言うことを、自傷行為で自分の心が楽になることを、何らかの方法で知っています。しかし自傷行為とは何かを知らなくても、苦しさのあまり無意識に、夢中で、自分の腕を刃物で傷つけた人の場合も経験しています。また、自傷行為を行うことで体に傷の跡が残りますが、苦しさから一時的でも解放されて、生き延びるために、やむを得ず自傷行為を行っています。
現在の社会一般の理解、精神医学では、自傷行為が誤解されて理解されています。自傷行為をする人はとてつもなく辛いだけであって、心に病気を持っている訳ではないです。また、自殺をしようとして自傷行為をするのではなくて、生きたいから、辛さから逃れたいから自傷行為をしています。そのために、他の人から自傷行為を止められると、ますます辛くなるから、その後ますます酷い自傷行為をするようになる場合があります。
自傷行為には体に傷を付けるという問題点の他に、時には生命に危険が及ぶという問題点があります。脳科学的な説明のところに書きましたように、心が辛ければ辛いほど、傷の痛みを感じにくくなっています。体に傷を付けても痛みを感じにくくなっています。辛くなれば辛くなるほど、傷の痛みを感じにくくなっていますから、痛みを感じるために、出血を見るために、作る傷が大きく深くなっていきます。それは自傷行為が生命に関係する組織を切断する場合があり、死に至る場合があることです。自傷行為からの死亡の場合には、必ずいくつかの浅い傷を伴った致命的な傷(ためらい傷)を持っています。それに対して、意識的に刃物で自殺をしようとした場合には、致命的な傷だけのことが考えられます。
現在、日本社会の中で行われている自傷行為を防ぐ方法とは、自傷行為を行う人を精神科病院に入院させて、拘束室で拘束状態にしてしまうことです。それと同時に、向精神薬を大量に投与して、意識を朦朧とさせて、判断力を無くしてしまうようにしています。それは自傷行為を行う人の人権を障害していますが、医者が統合失調症と診断して、自傷行為をする人の生命を守り治療をするという形にすることで、社会的に容認されてしまいます。
また、この拘束して、大量の薬で判断力をなくするという対応は、当面の自傷行為を無くすることはできますが、その自傷行為を行った人が、自傷行為を行罠蹴ればならなかった問題の、本質的な問題の解決には全く繋がりません。
$$11 小中学校の学力の低下
最近子供達の学力の低下が指摘されています。親や教師達は無くなった土曜日の分の授業時間や授業内容をどこかで補おうとしています。それが果たして子供の学力の向上になっているかどうかの問題があります。勉強をしたくて補充授業に参加している子供は殆どいません。多くの子供達は遊びたいのだけれど、親からの命令で仕方なく授業に参加しています。親としては遊んでいるよりは増しだという考えでしょうが、それが子供の親に対する不信感を増している事実があります。
補充授業では生徒を集めるために、学校の授業とは違った、魅力的な授業にする試みが行われています。それは子供達にとってとてもありがたいことですが、補充授業が有るために、遊びたくても遊べないということと比べると、やはり子供達には有って欲しくない補充授業だと思われます。補充授業の中で子供達に尋ねると「授業は楽しい」と言います。それは平素の授業より楽しいという意味かも知れません。楽しいと言わなければならないと吹き込まれているのかも知れません。そこで「本当に楽しいの?」と尋ねると「でも遊びたい」と躊躇しながら答える子供が多いことを考える必要が有ります。
小学生で学力が高いと中学受験には有利でしょう。中学で学力が高いと高校受験には有利でしょう。高校で学力が高いと大学受験に有利でしょう。けれど小学校で学力が高くても中学で学力が高くなるとは限りません。中学校で学力が高くても高校で学力が高くなるとは限りません。小中学校の学力と高校、大学、社会人として学力が必ずしも関係がありません。それよりも、小中学校の学力は優れなくても、高校、大学、社会人と学力が優れた方が、学力をより高められますし、学力を社会の中で生かすには好ましいようです。学力の応用性が高いようです。小中学校の学力を他の国のそれと比較する必要は無いと思います。
小中学校時代での学力を高めることと、小中学校時代を子供らしく楽しく過ごすことと、どちらがよいかという問題が有ります。小中学校時代に学力を高めることが好ましい子供には学力を高めるような学校のあり方が良いでしょう。小中学校時代を子供らしく楽しく過ごして、高校大学、社会人になって学力を高める方が良い子どもには、学力を高めるより小中学校を子供らしく楽しく過ごすべきです。その方が子どもは勉強をする気になって勉強をしてくれますし、勉強の遅れはすぐ取り戻して、その先すばらしく能力を伸ばしてくれるからです。実際に子ども達を観察すると、小中学校で学力を高めた方が良い人はごく一部のように感じます。多くの子供達は小中学校時代を子供らしく楽しく過ごして、勉強をする気になって、高校、大学、社会人になって必要な学力をつけて実力を発揮した方が、「個人として」は学力をより高められるように思われます。
$$12 子どもを叱ってしつけてはいけない
多くの大人は子どもを叱ることで子どもをしつけようとして、子どもにしつけられなかった経験を持っています。その際に、未だ叱り方が足りなかった、子どもを甘えさせてしまったと考えがちです。しかしそれは子どもをしつける方法が間違っていたのです。子どもを叱ったり罰を与えたりしてしつけようとしても、それはしつけになっていないことが動物実験から分かります。ここで子どもとは、一応中学生年齢までを考えて下さい。なぜ、中学生年齢までの子どもかという理由ですが、それはこの年齢までの子どもは、言葉を話しますが、その心は動物の心にとても近いからです。また、以下で言う大人とは、母親を除く大人です。父親については、子どもの本心である潜在意識が他人のように反応しています。
痛みに関するネズミの実験があります。ケージの中のネズミに電気刺激で痛みを与えた場合、ネズミは痛みから暴れます。そのケージの中にスイッチを用意します。ネズミの前肢が乗るとスイッチが切れるようなスイッチです。スイッチが切れると、ネズミを電気刺激して痛みを与えている電流が切れるようにします。するとネズミは電気刺激で痛みを受けるとすぐにすぐにスイッチを切ることを学習します。電気刺激の痛みを受けるとすぐにスイッチを切るようになります。苦痛から逃れる方法を学習します。スイッチを切ることで、痛みから逃れられることを学習したネズミは、痛みを受けた回数や期間にもよりますが、痛みがないときでも所謂不穏状態を示します。
この動物実験はネズミだけでなく、犬や猫、猿、類人猿でも同じ結果が得られます。人間の子どもでは、実験をすることができませんが、同じ結果が得られます。ただし人間の子どもでは、大脳新皮質の機能が大人ほどではないですが、他の動物以上に働きます。人間の子どもに関しては、この基本的な動物実験の事実に、人間的な大脳新皮質の機能を追加して考える必要があります。それでも基本的には、上記の動物実験のネズミを人間の子どもと書き換えても、おおむね同じ結果が得られます。この実験を人間の子どもに置き換えて書き直してみます。子どもが大人の求める行動をしない、大人がして欲しくない行動をしたことにより、大人が子どもを叱ったり罰を与えた場合です。ネズミに加えた電気刺激による痛みが、子どもを叱ったり罰を与えたことに相当しています。
子どもに叱ったり罰を与えた場合、子どもはその辛さから泣いたり暴れます。中には泣いたり暴れたりしない子どももいますが、それは既に次のよい子を演じていることになります。子どもが既に、その叱られたり罰を与えられることを回避する方法(ネズミが電気のスイッチを切るに相当する方法)を学習していると、子どもはその学習している方法を行います。例えば大人の言うことをおとなしく聞く、大人の言う通りに従うなどです。また、その大人の言うことをおとなしく聞く、大人の言うとおりに従うだけでなく、その大人の言うこととは全く関係なく、その大人が普段から喜びそうなことをすることで、大人が叱ったり罰を与えるのを回避することも、子どもはします。それが所謂よい子を演じると表現されているものです。ただし、叱られたり罰を受けることを回避できたとしても、子どもはその大人に対して警戒することを学習しています。ネズミでの所謂不穏状態に相当します。
この子どもがその大人を警戒している状態は、その子どもにとってとてもつらい状態です。その辛さを解消する必要があります。その結果、子どもはその子どもなりの楽しみに耽り出します。その子ども達の姿も、多くの大人には良くない姿だと判断されやすいです。その大人達の判断が子どもに伝わると、子どもは大人の嫌がる行動を無意識にやってしまいます。それが時には犯罪になる場合もあります。ただしこの事実は、つらい状態の子ども達を観察した結果から分かってきたことです。
子どもを叱ることでしつけることは、見かけ上、子どもが大人の希望する行動をするようになり、子どものためにも良いことのように大人は考えますが、子どもの立場から言うなら、それは大人からの恐怖を回避するための行動であり、大人からの恐怖が無くなったら、基本的にその行動をしません。何度も叱って、子どもに大人の希望する行動を習慣化しようとしても、習慣化しません。子どもの方から進んで、その大人の希望する行動をするようにはなりません。見かけ上習慣化したようにして大人の希望する行動をしていたとしても、それは大人からの恐怖を感じていたからです。何かの理由でたまたま、その大人の希望する行動を子どもがしたとしても、その行動をした時、子どもはその大人から感じた恐怖も思い出すことになり、その大人の希望する行動を行う際に、子どもは子ども自身も理解できない辛さを感じてしまいます。とても辛くなります。
$$13 心の教育の仕方
知識を増やす教育の仕方ではなくて、心の教育のような反応の仕方を問題にする教育は、子どもの場合、体育などの実技と同じように、反応の心に情報として蓄積させなければなりません。知識の心の情報と、反応の心の情報が連合(既に結びついていて、反射的に反応できる)している場合には、知識からすぐに行動が可能です。知識の心の情報と反応の心の情報が連合していない場合には、思考の心が働いて、知識の心の情報と反応の心の情報を連合させる必要があります(思考行動)。大人は思考行動が可能ですが、子どもは思考行動ができないか大変に下手ですから、知識だけ与えられても、その知識から行動することが出来ません。知識だけ与えられた子どもが、その知識から行動するようにと言われても、子どもはできませんから子どもは葛藤状態になってしまいます。
子どもの場合の心の教育は、まず行動で教えるべきです。行動で教えれば、必要な状況になったときに、反射的に教えられた行動で反応するからです。そして、行動が習慣化すれば、その次に言葉で知識の心の情報として教えると、知識の心の情報が反射的に反応の心の行動と結びつきます。
子どもに行動で教える場合、現実に経験させることが一番良い方法です(実験を含めて)。その次によい方法が劇などのロールプレイングゲームです。模擬体験でも十分に良い反応の心の情報になります。ゲーム感覚で楽しみながら行うと、早く習慣化します。ヴァーチャルな世界での経験も反応の心の情報になります。テレビゲーム感覚や、映画、ビデオ、などで実際に見せることは、文字や言葉だけで教える知識より遙かに効果的です。それは動物には真似をする能力(ミラーシステムという)があるからです。子どもは赤ちゃんの時から、見て、真似をして(ミラーシステムがあるから真似ができる)、人間としての行動様式を確立してきています。
視覚から反応の心の情報を蓄積するという意味では、親や先生の嫌がる漫画もそれなりの効果があります。動物(ほ乳類)にはミラーシステムという学習の仕方がありますから、少なくとも文字や言葉だけから教える心の教育よりは遙かに、反応の心の情報として蓄積されます。必要なときには反射的に思い出されて反応することができます。子どもの場合、文字や言葉だけからの知識の心への情報は、試験などの文字や言葉としての反応には効果的ですが、実際の行動には役立たないのです。
$5 子どものいじめについて
$$1 いじめる、いじめられる
いじめには、いじめる人と、いじめられる人とがあります。また、いじめる人であり同時にいじめられる人の場合もありますが、ある瞬間ではいじめる人であり、別のある瞬間ではいじめられる人という意味です。
子どもの場合のいじめるとは、”一人、または複数の子どもが、他の子どもに一方的に関わり、その子どもを辛くする”ことです。いじめられるとは、”子どもが他の子どもによって辛くされる”ことです。子どもの間でのいじめが問題になるときとは、いじめが長期にわたって行われ、その結果いじめられた子どもが、身体的な外傷を受けてしまうという場合ばかりでなく、いじめられた子どもが、いじめられることにより、恐怖の条件刺激を学習してしまうことです。恐怖の条件反射を生じるようになっている場合です。
$$2 いじめる子どもについての要因
いじめる子どもはいじめをしようとして他の子どもをいじめているのではないです。いじめることを意識していません。いじめる子どもは楽しく遊んでいるだけです。いじめる子どもが、自分がいじめをしたと認識するときは、大人が強くいじめをしたと、子どもを責めたときです。大人から指摘されて、自分のしたことがいじめと表現されるのだなと学習します。ただし、それが大人のいうようないじめであり、悪いことだとは感じていません。
子どもが辛い状態になったとき、その辛くなったことを楽しく遊ぼうとして解消しようとします。たとえば不登校や引きこもりの子どもが、テレビや漫画、ゲームで時間をつぶすのはそのためです。辛ければ辛いほど、楽しいことに没頭しないと、子どもはその辛さを解消できません。
楽しさ、辛さとは感情であり、情動です。潜在意識の反応です。基本的には意識に登りませんが、子どもでも自分の情動が体に表現された物を感じ取り理解できる子どももいます。子どもが他の子どもをいじめている場合、大人と違って、子どもは意識的に他の子どもをいじめてはいません。他の子どもをいじめることで、いじめる子どもは快感を感じて、自分の辛さを解消しようとしています。いじめられる子どもが辛くなればなるほど、いじめる子どもは快感を感じるようになります。
学校を恐怖の条件刺激として学習した子どもが、無理矢理に学校に行かされると、子どもはそれだけで辛くなり、学校から逃げ出そうとしたり、学校内で暴れたり、いろいろな病気の症状を出します。そのような子どもの中で、学校での辛さを遊ぶことで解消しようとする子どもたちがいます。その遊ぶことが、校庭で鬼ごっこや縄跳び、鉄棒などと、学校で許されている範囲の物で遊んで解消できる子どもなら良いのですが、それらで解消できない子どもが出てきます。
現在の多くの学校では、子どもが遊び道具を持って行けない場合が多いです。そのようなとき学校で辛くなる子どもが何で遊ぶようになるかというと、それは友達です。友達をからかうことで、楽しくなり、自分の辛さを解消しようとします。しかし、子どもの辛さを他の子どもをからかうぐらいでは解消できないときには、もっと酷くからかう形で、遊ぶ形で、他の子どもを苦しめ始めます。それがいじめです。
子どもが他の子どもをからかう時には、必ずしもいじめる要素はありません。辛くしようとする相手が関わりにくい相手だと、その相手を辛くできません。相手が関わりやすい相手、すなわち弱い立場にある人、反撃しないような人でないとからかえません。いじめ(る)とは、この後者の場合の、その程度が酷い場合です。いじめ(る)とは、他の子どもをからかう場合で、そのからかう程度が酷くて、からかわれた相手が酷く辛くなる場合です。からかわれた子どもが酷く辛くなる(いじめられる)場合です。ですから、からかうことと、いじめることの間には明確な境界線はありません。からかわれた子どもが、やり過ごせるようでしたら、からかわれたことになります。からかわれた子どもが辛くなり、やり過ごせないようだと、いじめられになります。からかった子どもがいじめたことになります。
$$3 いじめられる子どもについての要因
いじめる子どもが、他の子どもをいじめることで、いじめられた子どもが生じます。いじめられた子どもがいじめられたと言葉で言った場合や、言葉では表現しないけれど行動や表情で表現する場合(外見からは分からないけれど、心に傷を帯びた場合)、身体的な外傷を受けた場合にいじめとなります。いじめとはいじめられた子どもが辛くなることがいじめとして必要な要素であり、周囲の大人がいじめだと判断することが必要な要素ではないです。
いじめた子どもから反撃されたら、いじめにはなりません。いじめる子どもは、相手をいじめるために、自分より弱い子どもをいじめます。自分より強い子どもをいじめる場合には、集団を作っていじめることで、いじめを可能にします。いじめの場所では、いじめられる子どもはいじめる子どもよりも弱い立場にあります。
いじめられる子どもは、他の子どもとはちょっと違ったものを持っていて、いじめる子どもから目をつけやすくなっています。その他の子どもと違っていることを指摘することで、いじめる子どもが楽しくなるようなものを持っています。それは身体的なもの、性格的なもの、行動的なものなどがあります。いじめる子どもからからかわれやすい状況にあるばかりでなく、おとなしくて、素直で、孤立している子どもがいじめを受けやすくなっています。
いじめられる子どもが逃げ出しても、いじめは続きません。いじめを続ける場合には、いじめの場所から逃げられない様な子どもが、最終的にいじめられることになります。しかしいじめは一日中続くわけではありません。いじめが終わると、いじめられた子どもはいじめの場所から逃げられます。けれど逃げて家庭に帰っても、またその両親によっていじめの場所に押し出されるから、いじめが続くことになります。
いじめられた子どもが家庭に逃げ帰ったらいじめられなくなるのですが、家庭に帰ってその両親にいじめられている事を訴えても、そのいじめられていることを親から認められないか、認められたとしても解決をいじめられた子どもに求められたなら、いじめられた子どもはいじめの場所に行かざるを得ません。いじめの場所に行けばいじめが繰り返されます。
また、いじめられた子どもがいじめを親に訴えて、教師に訴えて、いじめをなくする対応を取った場合、親や教師はいじめる子どもに力でいじめをなくそうとします。そうするといじめは親の前、教師の前ではなくなります。一見いじめが解決したように見えますが、親や教師のいない場所で、より強いいじめをいじめられる子どもは受けます。その結果、いじめらている子どもは、いじめを訴えることでより辛くなることを学習して、いじめを受けている事実を訴えなくなります。自分はいじめられていないと表現するようになります。
いじめられている子どもはいじめている子どもの前では、とても従順です。いじめる子どもを喜ばそうとします。逆らうと激しいいじめを受けるからです。無意識にいじめによる辛さを回避するための行動に出るようになります。それは子どもが意識して、考えて、行っている行動ではありません。いじめられることでいじめる相手や場所に、恐怖の条件刺激を学習しているから、恐怖の条件刺激を回避するための行動になります。恐怖の条件刺激を回避するために、暴行という形を受け入れ、いわゆるぱしりをし、いわゆるかつ上げを受け、社会的にも問題行動をしてしまいます。それだけ苦しんでも、いじめられている子どもはそのいじめの場所から逃げ出そうとはしなくなります。
$$4 いじめられる子どもがいじめる子どもに
いじめられる子どもの中で、いじめられっぱなしではなくて、いじめられた辛さを何かで遊ぶことで解消しようとする子どもが出てきます。それはいじめる子どもが自分の辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするのと同じです。いじめられた子どもがその辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするとき、その遊ぶ道具がなくて、他の子どもで遊ぶ、他の子どもをからかうことで遊ぶ子どもが出てきます。
いじめられていた子どもの辛さはとても大きい場合が多いです。ですからそのいじめられていた子どもが他の子どもで遊ぶ場合、その遊び方はからかうという程度を越えて、いじめになっている場合が多いです。新たにいじめられる子どもが出てきます。
そこで「いじめる子ども」、「そのいじめる子どもにいじめられているが、同時に他の子どもをいじめる子ども」、「そのいじめられていたが、他の子どもをいじめる子どもにいじめられる子ども」という、いじめ、いじめられの子どもの集団ができてきて、その集団の中に、階層構造ができてきます。その集団の中では、基本的にはいじめる子どもが一人(いじめの頂点)、いじめられっぱなしの子どもが一人(いじめの底辺)、いじめられるのを避けるためにいじめる子どもが何人(中間のいじめ)かという子どもの集団です。
このいじめられるのを避けるためにいじめる子どもたちは、絶えず自分がいじめる相手を逃がさないようにしています。自分がいじめる相手を逃がすと、自分がいじめられとても辛くなるからです。それはいじめられっぱなしの子ども(いじめの底辺)がいじめから逃げ出せないように、いじめる子ども達からあらゆる事をされることになります。
このいじめ、いじめられの集団は、部外者から見たら遊び仲間に見えます。とても仲良く遊んでいる子どもたちのグループに見えます。とてもいじめが行われているとは見えません。その楽しく遊んでいる子ども達の姿に、同級生などの周囲の子どもたちが巻き込まれ、時には教師などの大人も巻き込まれて、遊びが行われます。それはますますいじめる子どもたちを楽しくして、いじめられている子どもは一見楽しそうに遊ばれていますが、心の奥底では辛さに一生懸命耐えて、遊ばれている時間を乗り切ろうとしています。
このいじめ、いじめられのグループに、何か大きなストレス刺激が加わった子どもが出てくると、その階層構造の下にいる子どもを酷くいじめることになります。それが最下位にいるいじめられっぱなしの子どもを酷くいじめることになり、周囲にいる子どもたちもいじめではないかと気づくようになります。それでもやはり、遊びの形でいじめが行われますから、いじめではないかと気づいても、いじめだとはっきりと分かりません。また、いじめいじめられのグループの側にいた子どもの内で、いじめではないかと気づいて、先生などの大人に連絡しようとした子どもについては、その大人に通報した子どもがこのいじめのグループから嫌がらせを受けたり受ける可能性を感じられて、先生などの大人になかなか通報できない場合が多いです。通報しても、先生などの大人はいじめだと分からないことが多いです。
いじめにより大きな事件や自殺者が出ると、いじめが問題になって、いじめている子どもが見つけ出されて、処罰を受けています。その際に気をつけなければならないことは、そのいじめている子どもとして処罰を受けた子どもの中に、実際はいじめのグループの最下位近くにいて、いじめの責任を全て負わされている子供がいます。つまり、いじめ事件の全ての責任を負わされていて、または実際のいじめには関わっていなくてもいじめの首謀者として、濡れ衣を着せられている子どもです。実際のいじめ事件の首謀者が別にいる場合です。
いじめ事件が発覚すると、教師や大人は子どもたちに聞き回り、アンケートという形でいじめの関係者を調べます。そこでいじめのグループでは、いじめの首謀者を仕立て上げるのです。それはいじめグループの最下位に近い子どもが選ばれます。そのようにしていじめの首謀者として選ばれた子どもも、その後のいじめをおそれて、いじめの首謀者でないと反論をしない場合が多いです。いじめの首謀者として選ばれた子どもが、処分を受けることになってしまって、自分ではないと反論しても、聞き入れられない場合があります。またはそのまま処分を受けてしまう場合があります。
先生や大人たちは、いじめ事件が調べられて、首謀者が見つけられて、処分されて、それでそのいじめ事件は一件落着と考えます。それ以上いじめ事件を調べようとはしません。先生や大人たちの、きわめて単純な発想、いじめる子どもが悪い。悪い子どもたちを守る必要はないという発想なのです。ところが実際のいじめはきわめて巧妙に行われていて、きわめて単純に発想している大人たちにはその全体像が見えなくなっています。先生や大人たちは、「いじめは悪い、いじめる子どもが悪い」とだけ考えて、そのいじめやいじめる子どもを作り出す学校は少しも悪くないと学校を擁護して、いじめを生み出す学校の問題点を探そうとはしないのです。いじめは一部の問題がある子どもが行っていることであり、その子どもたちを処分したら、それ以上いじめの問題は起こらないと考えようとしています。いじめの原因を見つけようとも、いじめに本気で向かい合おうともしません。いじめの問題を本気で考えたなら、教師が責任を取ることになり、教師の素質が問われ、その学校が崩壊し、学校制度が崩壊する可能性があるからです。
いじめられた子どもは学校制度の被害者であり、いじめたとして処分された子どもも学校制度の被害者であり、いじめのグループの子ども達も学校制度の被害者です。大人社会の被害者なのです。
$$5 いじめいじめられグループの傍観者
いじめる子どもがいじめられる子どもをいじめて楽しむとき、より楽しくいじめを楽しむには、観客が多い方がおもしろいです。いじめがいじめだと知られていないときには、いじめは多くの傍観者の前で行われるようになります。傍観者が一緒に楽しむことで、いじめの効果がより出てきて、いじめる子どもはより楽しくなり、いじめられる子どもはより辛くなります。
このいじめを傍観する際に、いじめを傍観している子どもの心理を考えてみる必要があります。いじめを傍観している子ども達は、直接的にいじめに加わりません。いじめる子どもと一緒にいじめを楽しんでいますが、いじめとは認識していません。その楽しみ方の程度は、その傍観している子どもに何か辛いことがあって、その辛さを何かで発散する必要がある子どもは、積極的にいじめのグループの外からいじめに関係しようとします。つまりはやし立てる子ども達です。それに対して特に辛いことがない子どもはいじめに殆ど関係しないか、いじめを無視して傍観者にはなりません。
いじめを傍観している子ども達は、いじめをしたいのではないです。いじめにも関係するつもりはないです。自分の辛さを解消するために、学校内で何か楽しいことを求めています。そのときたまたま他の子ども達が楽しいことをしていたなら、その子ども達が楽しんでいることを一緒に楽しんでいるだけです。そこにはいじめに加担しているという意識は全くありません。学校内に楽しいことがないから、たまたま見つけた楽しいことに、一緒になって楽しんだだけです。それがいじめだと分かるなら、傍観するのを止める子ども達です。
いじめを傍観している子ども達の多くは、自分たちが見ているいじめをいじめと気がつきません。それはいじめる子ども達と一緒にいじめを楽しんでいるために、傍観している楽しさだけしか分からないからです。それに対して、いじめを傍観していても、少し離れていじめを傍観している子どもやいじめに加わっていない子ども達は、そこでなされている遊び方から、その程度が過ぎている、つまりいじめではないかと疑い出す子どもが出てきます。ただし、いじめではないかと疑っても、いじめだというはっきりとした証拠はないです。いじめられた子どもも、いじめられたことを苦にしている様子を示しない場合が多いですから、いじめが行われると、先生や大人達に伝えることができません。
$$6 しかと
子ども達の間で「しかと(無視をするという意味)」といういじめの仕方があります。大人から見たら、「他の子どもに無視されても気にするな。そんな些細なことでめそめそするな。」と思われると思います。大人では、誰かに無視されても、他の何かでその無視された思いを補うことができます。ところが子どもはそれができません。大人でできることを子どもができないことに、多くの大人は理解できないのです。
子どもがクラスの中で、友達関係の中で、ある状態を維持していたとき、その維持していた状態が突然なくなったとき、その子どもは辛くなります。それが「しかと」です。「しかと」された子どもはクラスの中で、友達関係の中で、ある状態を維持してきていて、それが続くことを期待していたのですが、それが裏切られたのですから、欲求不満の状態になります。その結果、心の中は恐怖状態になり、体中に恐怖の表現をすることになります。
ある子どもが殴られる蹴られるということから生じる恐怖状態があります。ある子どもが「しかと」をされることで生じる恐怖状態があります。その恐怖状態の表現は子どもによって異なるでしょうが、子どもの心の中は恐怖状態であることに変わりがありません。その結果「しかと」された子どもは大変に辛くなりますし、「しかと」をする子ども達は苦しむ「しかと」された子どもを見て、楽しんでいます。
大人も無視をされることで辛くなりますが、その辛い場所から逃げ出して、他の楽しいことでその辛さを補うことができます。ところが子どもには、その「しかと」されて辛い場所から逃げ出すことができません。「しかと」されることを繰り返すことで、「しかと」された子どもはとても辛くなり、学校に対して恐怖の条件刺激を学習して、学校に対して反応する恐怖の条件反射が生じるようになり、学校に行けなくなります。
$$7 いじめ自殺について
現在子ども達のいじめ(られ)自殺が、社会問題になっています。子ども達がなぜ自殺をするのか、その議論がなされています。命の大切さを学校は子ども達に説明していますし、子ども達に自殺しないようにとの呼びかけがメディアを通してなされてます。電話相談も全国規模でなされています。それが果たして、子ども達を自殺から守ってくれているかどうか、その評価は大変に難しいです。評価する根拠がないからです。また、このような対応が社会的になされているのに、依然として子どもの自殺が報道されています。
人間を含めた全ての生物には、自分から生きようとする能力を持っています。その能力は自然淘汰という形で、その生物の生きようとする能力を高めてきています。より確実に生きる能力を獲得しています。けれど、人間を含めたあらゆる生物には、老化以外にその個体を死なせようとする能力は持っていません。ですから、基本的には人間以外には自殺をする生物はいません。ただ、生物の中には、集団を守るために、その種を守るために、一部の個体を犠牲にする行動、一種の自殺行為をする場合もあります。その場合も、その個体が死ぬためにそのような自殺行為をするのではなくて、生きようとするために、一部の個体が自殺に相当するような結果になっているだけです。
人間の自殺には大きく分けて、大人的な自殺と、子ども的な自殺の二つの形があります。大人的な自殺とは、その人の死んでやろうという意志から自殺する場合です。昔の切腹がそれの代表例でしょう。そこにはいろいろな意味での打算があります。死ぬ事への恐怖を意志で押し切って、自殺をしています。
子ども的な自殺とは、その子どもがとても辛くて、その辛さを回避するために発作的に結果として死に繋がる行動をしてしまっている場合です。そこには死んでやろうという意志はありません。知識としては、その行動をすると死ぬことを知っている場合が多いです。しかし、実際にその行動を選択するときには、結果的に死ぬことを考えていません。辛くて、辛くて、その辛さからの逃避法、回避法がなくて、発作的にその行動を取っています。死ぬ事への恐怖を感じていないです。
子どもの自殺予告は、子どもが死ぬほど辛い状態にあるというサインです。子どもの自殺予告は自殺をすることを意味していません。自殺予告がどれだけ大人に影響を与えるかを知っていて、自殺予告という知識を手段として用いて訴えるという余裕がある子どもです。大人と違って、子どもではこの段階での自殺はできません。死の恐怖の方が現実に受けている辛さより遙かに大きいからです。
例外的に自殺予告をして、実際に自殺をしてしまう場合があります。その場合には、自殺予告通りに自殺行為を演出して、自分が死ぬほど辛いと言うことを、行動で示そうとした場合です。ただ、子どもとしては死ぬつもりはなかったのですが、その自殺行為の演出の経過の中で、子どもにとって予期しないことが生じて、事故として死んでしまう場合があります。
自殺をする子どもは、死ぬに相当するぐらいに辛い状態にあります。自分を守り、維持するだけで精一杯ですから、自殺を訴える余裕すらなくなっています。もちろん周囲からの自殺をするなという言葉は聞こえていません。もし聞こえていたら、その自殺をするなという言葉は、死ぬことと同じくらいに辛い子どもの心を無視した言葉になっているからです。死ぬに相当するぐらいに辛い状態にある子どもを否定することになり、ますますその子どもを辛くしてしまいます。それだけでも自殺をしてしまう可能性を秘めています。
子どもが遺書を書いた場合、その遺書が目立った場所で、すぐに人目につくところでしたら、その遺書は死にたいぐらいに辛いという子どもの自殺予告です。誰にも気づかれないで自殺してしまう子どもは、遺書を目立つところに置きません。その遺書も自分が辛いと言うことを表現しただけの物です。同じ遺書でも、子どもがどこに遺書を置くかと言うことで、子どもの心の中の辛さを推測することができます。
リスカを自殺の前兆と考える人や医者が多いです。リスカは自分の辛さを自分の痛みに置き換えて、解消しようとする行動です。リスカ自体は自殺予告を示すサインではないです。辛いときにいろいろな薬を多量に飲んでしまうのと同じ意味合いです。穿った表現をするなら、自殺行為の演出と考えても大きな間違いではないです。リスカについては、その子の辛さがとても強いと、リスカしても痛みを感じにくくなっています。痛みを感じるまでリスカをしてしまいます。それはリスカする傷が深くなることになります。そして太い血管を傷つけてしまったときには、出血多量で命を落としてしまう場合もあります。
$6 子どもによる問題行動
$$1 親の嫌がることをする子ども
あるところで、子どもの問題行動についての話し合いがありました。その際にある人が「大体、子どもなんて、何をやらかすかわからない」と発言しました。この発言はとんでもない間違いです。子どものことを全く知らない人の発言です。私が経験する限り、大人こそ、その人自身だけの利益を考えて、その人自身の欲望から、何をしだすか分かりません。
元気な子どもたちは(辛い状態にない子どもたちは)、自分の属する、与えられた環境に順応しようとして成長します。元気な子どもの行動は、一部の大人たちにとって好ましくない場合もありますが、多くの大人たちにとって問題だと感じるような行動を、子どもは好んでとることはありません。基本的には、親の嫌がるようなことをしません。子どもたちはその子どもなりに、失敗や誤りを犯すでしょうが、それらの失敗や誤りを自分で修正して成長をしていき、最終的には自分の属する社会に順応してしまいます。
子どもが親の嫌がる行動をするのにはそれなりの理由があります。その理由とは、その子どもが耐えられないぐらいに辛い状態にあるという、子どもの側からの訴えです。辛くでどうにもできないから、助けてくれと言う子どもからの訴えです。もっと正確に言うと、子どもがその辛さを回避するための、回避行動です。その事実を知らないで、大人が辛い状態の子どもが起こした問題に関与されたら、子ども達がかわいそうです。多くの大人は認めないでしょうが、”どの子どもも、その子どもなりに、一生懸命生きている”のですから。
多くの大人は認めようとはしませんが、子どもは原則として親の嫌がる行動をすることはありません。子どもが、親の嫌がる行動をしたときには、その子どもが何か辛い状態にあることを意味しています。子どもが辛くて、「辛いよ」と言っても、親が子どもたちの辛さを理解できない場合が多くあります。親にとって辛くないことは、子どもにも辛くないと判断するからです。親は、「こんなこと、少しも辛いことではない」と言います。親は、「こんなことで辛いと言って逃げ出してはいけない。がんばれ」と言って、子どもたちの辛さを解消しようとはしません。またある子どもについては、子どもが言葉にしようとしても、なぜ自分が辛いのか分からないから、子どもが言葉にしようとしても、できなかったという事実もあります。
その子どもの辛さから、子どもを守ってあげたなら、子どもが辛いと表現するようなことから子どもを守ってあげたなら、子どもは親の嫌がる行動をしようとはしません。子どもが元気になったときには、親が子どもの行動に関与しなくても、子どもは親や大人の思いを感じ取って、社会に順応する行動をとるようになります。親や子どもに関与している人は、子どもが行った問題行動ばかりを見ないで、子どもがなぜそのような行動に出なければならなかったかという、その子どもの心の中をのぞいて上げてください。
$$2 いわゆる心が歪んだ子ども
既に心の歪んだ子供(心の傷が激しく疼く子ども)によって、他の子供が登校拒否、不登校に追い込まれる場合があります。既に心の歪んだ子供によって、他の子供が問題行動に巻きこまれる場合が有ります。現在学校や教師は、これらの既に心の歪んだ子供への対応に苦慮しています。時にはこれらの既に心の歪んだ子供を正そうとすればするほど、これらの既に心の歪んだ子供達が問題行動を起こす場合があるからです。既に心が歪んでいるために、学校側の対応で、子どもの心が登校拒否、不登校になると、学校が主張する場合です。
親が親の勝手な欲望や快楽を満たすことばかりをして、殆ど子どもとの関わりなしに子どもを育てたり、周囲の目ばかりを気にして子どもに沿った子育てをしなかったり、子どもの問題の責任を他に転嫁して全てを学校任せにする親がいます。それらによりひどく心が歪んだ子供達が現実に存在しています。これらの親に責任がある場合の子どもの問題まで学校側が責任をとれというのはおかしいという学校側の意見です。
誰に子どもの責任があるかという責任論という意味からでは、学校側のこの主張は正しいでしょう。けれど既に心の歪んだ子供達の立場から言うなら、この主張は責任の擦り合いにすぎません。既に心の歪んだ子供達の立場から言うなら、教育が上手に出来ないということに関する学校側の親への責任転嫁にしかすぎません。どちらにしても被害者は既に心の歪んだ子供達です。
どの子どもも与えられた環境の下で一生懸命生きて成長しています。その結果周囲の大人達によってその子どもの心が歪められたとしても、それは子どもの責任ではありません。心が歪められた子どもは被害者です。心が歪められた子どもは救済されなければなりません。子どもも本能的に救いを学校に求めています。その被害者である心を歪められた子どもを救済するのが教育の役目の一つです。子どもの心を歪めたものが何であれ、学校は子供達の学力を伸ばすばかりでなく、これらの被害者である心を歪められた子どもを助けるのも役目もあるはずです。少なくとも子供達はそのように判断しています。それなのに自分たちで教育しやすい子供達だけを教育し、自分たちに不都合な子供達の教育や救済を放棄して、ますますその子供達の心を傷つけておいて、その子供達の心を傷つけた責任を子供達の親に求めるなら、心を歪められた子供達は救われません。そのようにして学校から傷つけられたら、心を歪められた子供達は激しい怒りと学校にぶつけるようになります。
既に心が歪められた子供達は自分たちの親にも激しい怒りを感じています。けれどそのような子どもたちでも子供達は自分の親には優しいです。いくら親が自分を苦しめていても、親には必要以上に怒りを向けません(子供達は万引きなどの不適応行動を取る場合や、いろいろな神経症状や精神症状を出す場合があります)。けれど学校には違います。そのような子供達の怒りが学校へ向けられた場合、校内暴力や学級崩壊と呼ばれている物になっています。
$$3 子どもの問題行動について
問題行動とは、万引きなどの盗みや、傷害事件などの、法に触れるような非行と呼ばれるものから、他の子どもとのケンカやいたずらなど、親から見て、社会から見て、好ましくない行動を指します。子どもがこれらの問題行動を起こしたときには、子どもを罰し、注意し、説得して、子どもに二度とこのような行動をさせないようにするのが常識的な対応でしょう。そして、子どもが大事件を起こしたときには、社会や多くの大人は、親が子どもを十分に罰しなかったからとか、注意の仕方が不十分だとか、説得をもっと強くするべきだったと言います。親は親なりに十分に子どもを罰し、注意し、説得していますが、現実には問題行動を続ける子どもがいます。大事件と思える問題行動をする場合もあります。いろいろな病気の症状を出すような子どもも出てきます。中には自殺してしまう子どもも出てきます。
問題行動を起こした子どもを罰したり、注意をしたり、説得することで、該当する問題行動を起こさなくなる場合も多いですが、中には、見かけ上問題行動を起こさなくなった代わりに、親や大人の気づかないような問題行動を起こしている場合も多いです。ただし親や大人が気づかないから、親や大人は子どもを罰した効果、注意をした効果、説得した効果を強調することになります。また、子どもの方でも、成長して大人になってしまうと、問題行動を起こした頃の辛さを忘れてしまいますから、「あのときの罰が、注意が、説得が、良かった」と振り返ることになります。
子どもの問題行動には、偶然の事故として問題行動を起こしてしまう場合と、子どもがストレス状態にあり、その辛さからの回避行動として、問題行動を起こしてしまう場合があります。この二つの問題行動を外見的に区別することは大変に難しいです。経験的には、子どもの問題行動の多くは、辛さからの回避行動として成されている場合が多いようです。ここでは、子どもがストレス状態にあり、その辛さからの回避行動としての、子どもの問題行動について、考えてみます。
子どもは本質的に、これらの問題行動をしたくてしていません。何か辛いストレス状態にあって、そのストレス状態から抜け出すために、何かをしようとして、その手段として、問題行動を起こしています(何かをしようとしない子どもは、神経症状や精神症状を出して、病気のようになり、動けなくなります)。そのストレス状態の子どもが何かをしようとするのは、決して意識的に行っているのではありません。ストレス刺激への回避行動として、潜在意識から行っています。
その何かをする手段として、今までの経験から行った行動が、結果としてたまたま問題行動になっています(勿論問題行動にならなければ一番良いのであり、また、問題行動として気づかれて、騒がれることもなくなります)。つまり、何かしようとすること、その何かをするための手段として行った行動も、情動反応の回避行動として、今までに経験したことを発作的に行っています。それは当然、当人には意図的な意味がないので、罪悪感がありません。現実にしたという感じもありません。周囲から指摘されても、大人の感じ方とは違って、「本当に自分がしたのかなあ」という感じ方、他人事のようです。
このような状態の子どもについて、子どもの問題行動を責めても、大人のような後悔はありません。反省もありません。それどころか無実の罪で責められているように感じ取ります。子どもの問題行動を責めても、それは反省にも、後悔にもならないだけでなく、子どもは自分への否定と感じ、子どもへの新たなストレス刺激となってしまいます。今までのストレス状態がより悪化します。それはその子どもの回避行動をより強めます。より強く何かをしようとします。そのためにより強く、何かをするための手段を行使して、新たな、またはより問題となる問題行動を行ってしまいます。ストレス状態と問題行動の悪循環を生じています。
このような子どもの問題行動を解決するには、このストレス状態と問題行動との悪循環を断ち切る対応をする必要があります。その第一は大本の子どものストレス状態を解消するために、子どもに加わっているストレス刺激を断ち切ることでしょう。このストレス刺激を断ち切れたなら、これ以下の議論は全く不要になります。子どもが行った問題行動を放置しておいても、子どもはそれ以上問題行動を行わなくなります。しかし、現実にはこのストレス刺激を見つけるのは大変に難しいです。常識では当たり前のこと、日常生活の中で普通なことが、子どもにはストレス刺激になっている場合が多いからです。例えば学校に行くこととか、勉強をすることとか、家の外に出ることとか、就職することとか、親にとっても、社会にとってもごく当たり前のことが、子どもによっては大きなストレス刺激になっています。これらのことが、親や社会も子どもへのストレス刺激となっているとは考えていませんから、親や社会は子どもにストレス刺激を与え続けることになりますし、子どもはストレス刺激から解放されることはないです。
次に考えなければならないことは、このストレス状態と問題行動との悪循環を断ち切るために、子どもがストレス状態を回避するために何かをしようとすることを許可してあげることです。そうすれば、何かをしたいために、物を盗むとか、お金を盗むとかの、子どもの問題行動は無くなります。例えばゲームをしたいとか、CDを聞きたいとか、何かを買いたいというようなときには、可能な限りそれを親が認めて実現させてあげることが大切です。勿論親の可能な範囲でよいですが、可能な限りの最大限です。お金が勿体ないという気持ちから、親が子どもの要求を制限すると、それは買ってあげないのと同じ意味合いになってしまいます。どこまでが可能な限りなのかを、子どもと相談する必要がありますが、その可能な限りを親が子どもに押しつけたときにも、それも相談したことの意味が全く無くなってしまいます。また、この対応によって、子どもの問題行動が無くなったとしても、子どもが依然として辛い状態にあることには変わりありません。子どもの問題行動の根本的な解決ではなくなるからです。
子どもを罰したり、注意したり、説得して、親や大人の恐怖で子どもの問題行動を起こさせないようにする場合、そのときに加えた恐怖以上の喜びを、同時に与えてあげると、子どもは問題行動を起こさなくなります。しかし、辛い状態にある子どもでは、依然として辛い状態にいるのには、変わりありません。また、未だそれほど辛くない子どもの場合、親や大人が気づかない方法や場所で、その子なりの辛さを解消してしまう場合もあります。これも親や大人の目の前の問題行動は消失しますが、長い目で見ると、やはり好ましくありません。どのような子どもの場合でも、子どもを罰したり、注意したり、説得するときには、その際に子どもが感じる辛さを打ち消すほどの喜び刺激を耐える必要があります。その意味で、子どもは家の外では罰せられても、家の中ではその罰以上の喜び刺激を与えられるようにするか、父親からは罰せられても、母親からはその罰以上の喜び刺激を得られるような対応が好ましいです。
子どもの問題行動を子どもが辛いというサインだと考えて、子どもを辛くする刺激から子どもを守ってあげると、子どもの問題行動を正そうとしなくても、子どもは問題行動をしなくなります。子どもを辛くする刺激から子どもを守らないで、子どもの問題行動を放置しておくと、子どもは問題行動を繰り返して習慣化していきます。それは問題行動を起こす環境的な条件がそろえば、子どもの辛さとは関係なく問題行動を起こすようになってしまいます。問題行動の習慣化です。ですから、子どもを辛くする刺激から子どもを守れないなら、子どもの問題行動が習慣化するのを防ぐために、子どもの問題行動は罰するなどの対応を受けなければなりません。ただし、繰り返しますが、ただ罰するのではなくて、それ以上の喜び刺激を同時に子どもに与える必要があります。ただ罰するだけでは問題が多いことを親は明記しておく必要があります。ストレス状態と問題行動との悪循環に入ってしまうからです。
$$4 不良行為をする子ども、家出をする子ども
子どもの身なりや言葉や行動が乱れたり、子どもが家出をしてしまった場合、家出と言えないまでも、家を出たきりに何日も家もに帰らないで、盛り場をほっつき歩いたり、知り合った仲間の家に泊まったりする場合、親は大変に心配になります。犯罪に巻き込まれないか、危害を加えられないか、親として心配が続きます。そこで子どもを叱ったり注意すると、子どもは激しく反発して、また家を出ていってしまいます。親としてどうして良いか分からなくなります。どうしてこんな子どもになってしまったのか、親の子供への不信と怒りが尽きません。配偶者がもっとしっかりと子どもの監督をしないから、学校が子どもをしっかりとしつけないからと親や大人達は考えがちです。
学校から見れば、授業にもろくに出ないで、学校の風紀を壊して、教師の言うことを聞かないばかりでなく時には反発する子ども、所謂不良の生徒に困り果てている現実があります。親が子供を放任している、親の育て方が悪い、親がきちんと躾をしてこなかったからこのような子どもを生じたと、学校は考えているようです。ところがこのような子供の多くは、小さいときにはとても良い子だった場合が多いです。これらのとても良い子だった子どもたちがあるときから突然その行動がおかしくなっています。親がその子供の行動を正そうと、規制しようとしても、逆に子どもは反発して親を無視したり、家を出ていってしまうから、親としても手の打ちようがなくなってしまいます。親が力ずくでも子どもの行動を変えようとしても、子どもはますます問題行動をエスカレートしていくからです。
このような子どもたちの問題を考えるとき、2つの前提条件があります。一つは「子どもは本能的に親が好きだし、自分の家が大好きである」という事実があります。もう一つは「動物は辛い状況になると逃げ出す。逃げ出せないときには攻撃する。攻撃できないときにはすくんでしまう。人間の場合には知識が有るから、辛い状態になって逃げ出せないときには、自分から強い刺激を求めようとする行動を取る場合がある」と言う事実があります。この場合強い刺激として、感覚的に強い刺激の場合もあるし、価値観としての強い刺激もあります。価値観としての強い刺激としては酷くほめられるような刺激と、逆に酷く嫌がられるような刺激が有ります。酷く誉められるような刺激として、所謂子どもは良い子を演じてしまう場合があります。酷く嫌がられるような刺激として、子どもは所謂不良行為をしてしまう場合です。
子どもの言葉や身なり行動が乱れるのは、子どもが辛い状態にあり、それから逃れられないからです。これは人間の本能的な潜在意識からの行動です。しかし親や周囲の大人から見て「子どもが辛い状態にないのに子どもの言葉や身なり行動が乱れる場合がある」と言われるかもしれません。けれどその子どもが辛い状態にないという判断は、その親や大人たちが子どもをよく知らないからする判断です。それらの人の気づかないところで子どもは苦しんでいるのです。大人が子どもは苦しんでいるはずはないと言っても、当の子どもは苦しんでいるのが、親や大人には分からないだけなのです。
子どもの生活の場は家庭か学校が大半である。だから子どもが辛くなる場所は学校であることが多いです。学校で辛くなると子どもは学校を拒否して、学校へ行こうとしなくなります。けれど子どもが学校に行かないことは、親にも教師にも許せないことです。子どもを無理矢理に学校へ行かせてしまうから、子どもは学校内で辛さから逃げられなくなります。そこで子どもは学校内での辛さを解消しようとして、言葉や身なり、行動が荒れてくるようになります。子どもの言葉や身なり行動が荒れると親は心配になり、それを正そうとして子どもに働きかけます。元来子どもがその辛さを解消する所は家庭です。その家庭にいても子どもは楽にならないばかりか、新たな辛さを経験することになってしまいます。家庭が辛くなり、子どもの居場所が無くなってしまうから、子どもは家庭から出て行って帰ってこなくなります。それが子どもの家出です。
不良行為を行う子ども、家出をする子どもの問題を解決するには、なぜ子どもがこれらの行動に出なければならないかを考える必要があります。辛い学校に行かなくて済む。家の中で安心して過ごせる子どもの居場所がある。この二つが有りさえすれば子どもは家を出ていきません。家を出て行っていても、安心して過ごせる居場所が家にあると分かると、子どもは家に帰って来ます。子どもは安心して過ごせる家庭にいる限り、言葉や身なり行動が荒れる必要が無くなるし、犯罪や事件に巻き込まれることもなくなります。ただしその安心して過ごせる居場所とは、子どもの判断で安心して過ごせる場所であり、親の判断での安心して過ごせる場所でないことに注意をする必要があります。
$7 再度、ある少年
武広君は小学校五年生の男の子です。父親は公務員で、中学生の姉が居ます。武広君は学校が大好きで友達も多い、陽気なクラスの人気者と両親は説明しています(この事実から、武広君は素直で、明るく、外向的な性格であることがわかります)。担任の教師から、授業中は落ち着いていなくて、いたずらを良くすると言われています(それは既に学校で疼く心の傷を持っていますが、外向的な性格から、その心の傷の疼きを外に向けて出しているようです)。入学当初は担任から良く褒められていました(入学当初は心に傷を持っていなかったことがわかります)が、担任が替わった小学三年生の頃からそのように言われ始め(小学三年生の時には既に心に傷を持っていて、その傷が疼き出しています)現在に至っています。机にいたずら書きをしたり、同級生の鉛筆や消しゴム、ノートなどを隠したりしました(常識的には問題児と考えられますが、心の傷の疼きがこのような行動に走らせているのです)。また、授業中周りの子どもに話しかけたり、整列をするときになかなか教師の指示を守らなかったりしていました(これも心の傷の症状です。武広君の辛さを表現しています)。
担任の教師から、その都度注意が来る(教師は常識的に武広君が悪いから正さなければならないと考えて対応をしていますが、武広君の立場から言うなら、心の傷の疼きを自分ではどうにも出来ません。心の傷が疼かないようにすると、武広君は教師から注意されるような行動を取りません)ので、両親は武広君と何度も話し合った(武広君はなぜ自分がそのような行動を取ってしまうのか理解していません。それを指摘されて、正せと言われても、子どもは親や教師の言葉通りに行動できません。両親は武広君にとって無理なことを要求していますから、武広君は家でも辛くなり、家でも問題行動を始める可能性を秘めています)のですが、武広君は下を向いて黙っているだけ(武広君には叱られている意味がわからないという意味です)なので、多くの場合父親が激しく叱り(武広君はますます学校で問題行動をしてしまいます)、母親が父親をなだめて(これは武広君の辛い心をを癒す作用があります)、武広君に「もうこれ以上しないように」と注意をして終わって(子どもは形式ではないです。武広君の心が辛くならないような対応を考えない限り解決にはなりません)いました。けれど武広君はすぐにまた教師から叱られることをして(武広君の心の傷が疼き続けています)しまいました。ある時などは友達の教科書にマジックでいたずら書きをしてしまいました。ある時は掃除の時に箒を振り回して、窓ガラスを割ってしまいました(武広君の心の傷が疼き続けています)。その度に母親が学校に呼び出されて、タカヒロ君と一緒に注意を受けました(それは武広君には逆効果です。タカヒロ君は学校でますます辛くなってしまいます)。武広君はその場ではしっかりとした反省の言葉を言います(子どもは言葉や文章などの形ではないです。武広君の心に沿った対応をしない限り解決はないです)が、すぐにまた担任に叱られることをしてしまいます。
母親は男の子だし、反抗期も関係しているから仕方がないと思う(原因が分からないので、原因の転化をしています。それでは武広君の心を理解できません)反面、このままだと将来が心配だと思っていました。母親だけで武広君に注意をすると、カッと怒りだし、物を投げたり壊したり、壁やドアを壊したりしました。「クソババア」とか「おまえなんか死んじまえ!」「ばかやろ!」と言ったりしました(武広君は自分が問題行動をすることを知っていますが、その問題行動を止めることが出来ません。その武広君が一番辛いところに母親が触れたので、武広君は激しく反応しています)。最近は武広の体が大きくなったせいか、!消えろ!担任の女性の教師から注意を受けると大声で怒鳴ったり、壁や机や椅子をけったりしています(いわゆるキレた状態になっています。それは心の傷が激しく疼いたからです)。学校内で問題児とされているようで、母親が校長から呼び出されたこともありました。そのようなときには父親が武広君を激しく叱りましたが、あまりに激しく叱るので武広君を守るために、母親が間に入らざるを得ませんでした。
そのような武広君ですが、クラス委員もやったことがあります。運動会では応援団長をしました。学芸会では積極的に主役を希望したりしました(武広君はとても性格の良い子どもです)。そのような役をしているときは、とても普段の武広君が想像できないぐらいにまじめに役をこなし、積極的なリーダーシップも取ることができました(武広君が楽しいと、楽しさや喜びが心の傷の疼きを押さえてくれます)。けれど一端そのような役目から離れると、すぐに教師から注意されるようなことをしてしまいます。母親はそのような武広君を育てていったらよいのか悩んでいました(母親が常識的な考えから武広君に対応をしているから、武広君の本当の心が見えてきていません)。父親からは武広君への育て方が悪いと言われ、母親はノイローゼ気味になっていました。
多くの人は、武広君の父親と同じように、母親の子育てが問題だと言っています。もっと厳しく育てるべきだと言っています(これはますます武広君を問題行動に走らせてしまいます。そのうちに何をし出すか想像も出来ません)。母親も母親なりに精一杯厳しく武広君をしつけして育てたつもりです。しかし現実は、武広君は学校で良い面と悪い面と両面を発揮して、人々の中には武広君は病気(常識で理解できないと、人々は病気ではないかと考えがちです。それは武広君の問題をわからなくさせてしまいます)ではないかという人もいました(心の傷を知らないと、子どもをとんでもない理由をつけて苦しめ、子どもの一生を台無しにしてしまいます)。