子供達の行動障害

(1)。大人の義務は子供のSOS信号に気づくこと

 私は診療所の医師です。私は診療のかたわら、主として子供の登校拒否について考え、相談にのってきました。そして、大人社会の一方的な押し付けと要求(大人はそれがその子供のためになると考えてしているのだが)が子供を押しつぶし、追い込んで、身動きでくなくさせ、苦しませて、かえって子供を傷つけ動けなくしているケースをみてきました。動けなくならないまでも、無気力で自主性のない、与えられたことをだけを上手にこなす大人のためのロボットになっている子供を多くみかけます。

 このような子供の状態を良いと考える人はまずないと思います。ただ現実には、今の社会で生きるために、やむをえないと思っている人が多いのではないかと思います。そこで私は、少なくとも助けを求めてSOS信号を発している子供たちについては、大人の責任において助けの手を差し伸べるべきだとおもいます。

 言葉ではSOS信号と言っても、実際にSOS信号とは何か、まだ定説は有りません。そのために大人たちが子供たちからのこのSOS信号に気が付かないのも、やむをえないことなのかも知れません。そこで論拠は省略しますが,私は経験的にSOS信号として

1・ 原因の分からない病気(自律神経の症状


2・ 不適応行動(学校への行き渋り、いじめる、非行)

の二つをあげることができると思います。ただし、1・の病気に関しては、普通の大人には大変にその判断が難しいです。医者にかかっても病気として治療される場合が多いです。けれど追い込まれた子供たちはこの二つのSOSサインを出して、「議論はいらない。今の自分を助けてくれ」と言っています。

 登校拒否ではこれらのサインを出すことが子供の性格上の問題点として考えられています。いじめの問題は、いじめの罪悪というモラルの観点から、いじめる子供を処罰することで、解決をはかろうとされいます。ところがこれらはSOSのサインであり、決してことの本質ではありません。大人達は言葉では子供達の出すSOS信号に注目しておきながら、現実にはSOS信号を問題点そのものと解釈して子供に対応しています。

 登校拒否という行動自体、いじめるという行動自体が、子供が辛い状態にあるというSOS信号であることに気づいていません。いじめられている子供についても、いじめる側の問題点ばかりが取り上げられて、いじめられている子供を救う議論ばかりがなされています。

 もちろんいじめられている子供を助けることは絶対に必要です。しかしいじめている子供達も、そしてそのいじめている子供達さえもも大人社会の犠牲者であるということ、大人社会から傷つけられて、助けを求めても助けてもらえずに、もがきあえいでいる姿であるということを、私たちは良く知っている必要があります。私たち大人はまずこの子供たちからのSOS信号とは何かを理解することから始めなければならないと思います。

2。いじめ

 ”いじめは絶対に悪い、根絶しなければならい。”という意見を良く耳にします。ではいじめとは何でしょうか。この何年間か、子供のいじめが社会問題化しています。ではいじめとは何でしょうか?その答えは言葉の上では簡単です。ところがそれを具体的に定義するのは大変に難しいです。殴る、蹴るなどの体に傷を負わせるよう暴力によるじめはわかりやすいと思われます。

 ところが心に傷を負わせるようないじめは外からみただけではなかなかいじめかどうかわかりません。分かりやすい暴力によるいじめについても、例えばプロレスごっこを考えて見てください。男の子の間ではしばしば見られる遊びです。数人の子供達が輪になって見ています。その輪の中で二人の男の子がプロレスの技を掛けています。もちろん一方が掛ける役、他方はいつも掛けられる役となります。この程度ですと、もういじめとはわかりません。ここで一方が他方を殴るか蹴るかします。もちろんされた方の子供は大変痛がります。するとした方は「後免、後免、軽くするつもりだったのだけど、まともに当たってしまった。」といって謝る格好をします。これですとどう見ても遊びとしか見えません。 しかし、した方の子供は本気で殴ったり蹴ったりしているのです。した方の子供は他の周囲にいた子供達と相談して、「次はどんな手で行こうか、」とか「あの時はされた方の子供はどんな格好をして反応した」かとか話し合って、げらげら笑って楽しんでいるのです。これでは学校の先生方や多くの同級生には遊んでいる数人のグループとしかみえないのです。しかし暴力を受ける子供はそのグループの中の一人だけで、その子供はいじめに苦しみ続けるのです。

 これがいじめの手段として良く使われていることからいっても、遊びといじめとを区別することは大変難しいと思われます。この事実は、いじめを根絶することの難しさを表しているのではないかと思います。ある意味では根絶は不可能ではないかと思われるくらいです。

 いじめの出発点について考えてみましょう。100パーセント以下の分析が当たっているとは言いませんが、かなりの確率で当たっていると思います。すなわち、現代の子供は(少なくとも私達が子供の頃より、もちろん子供によって程度の差はありますが)忙し過ぎるのです。社会、学校、両親から能力の高い、人格の優れた人になることを要求され続けています。ある一定のパターンにはまった人間に成ることを要求され続けています。そのために、子供達は非常に息苦しさを感じています。その息苦しさのはけ口として、いじめを始めているようです。

 いじめは子供の息苦しさを発散させるために、まず遊びとして始まっています。いじめには遊びの要素が非常に大きいので、周囲には分かりにくいし、見つけ出す難いのだとおもいます。いじめを無くそうとする努力はとても大切です。しかし現実にいじめを無くせそうもなければ、いめられている子供を早く見つけて、その子供をそのいじめから隔離してあげることが、いま一番求められていることだと思います。そのためには私たち大人が良く耳を澄まして、いじめを受けている子供からのSOS信号を見落とさないようにしなければなりません。

 もう一つ重要なことは、いじめで傷ついて精魂つきてしまったこどもはSOS信号すら出せずに死を選んでいるようです。遺書すら書かずに自殺した子供の中にはこのような子供が多いのではないかと想像しています。つまりSOS信号を出している内に子供を助ける手段をこうじる必要があるといういみです。

3。いじめへの対応

 ”いじめは絶対に悪い、根絶しなければならい。”という意見を良く耳にします。政府も今年はいじめ対策に予算をだいぶ増やしたようです。このこと自体はとても良いことですが、これだけでいいのでしょうか?今までいじめに対していろいろと議論されてきているのに、どうしていじめによる自殺者までがでているのでしょうか?その原因の一番は、全ての対策が大人の立場からなされているということだと思います。いじめたり、いじめられたりしている子供達の立場からなされていないからだとおもいます。形だけの対策であったり、見かけ上の姿勢だけだったりしているのではないでしょうか。

 いじめを無くそうとする努力はとても大切です。でもいじめは子供の遊びの一部から始まる限り根絶は不可能です。しかし、死に追い込むようないじめや、心に癒すことのできない心の傷を作るいじめは無くさなければなりません。そのためには子供の立場から考えた現在の教育システムの改革が必要です。政府は教育システムしかいじられません。そのシステムの中で動く先生方やカウンセラー方の多くは、自分の生活を守るためにまたは政府の示すガイドラインに縛られて、なかなか子供達の立場からこのいじめの問題を見れていないのです。子供達と一緒に悩み苦しんでくれる人は少ないのです。子供達の悩みや苦しみを認めてくれる人は少ないのです。それは今の学校のあり方に苦しんでいるという意味です。

4。登校拒否と虐めとは紙一重の差

 あるところで調べたところ、登校拒否の原因の半分以上が、いじめめで学校に行けなくなってと発表しています。つまり子供が学校へ行き渋るようになったら、いじめを受けていないかどうか考える必要があると言うことです。今の子供達は勉強に追い立てられて大変疲れています。家に帰ってもゆっくり休むことができません。そこで学校へ行きたくないと言う情動反応が強くなり学校に行き渋るようになります。しかし親は学校へ行けと言って、子供を押しだします。先生は、学校を休んではいけないと言って子供を学校へ引っ張ります。「子供は学校に行くものだ」ということを、子供はよく知っています。その結果、子供は口では学校に行くと言いながら、頭痛、腹痛等、色々な自律神経症状を出すようになります。これが登校拒否の初期症状となります。

 ところがこの様な自律神経症状を出さない子供がいます。それらの子供は自分の精神状態を維持するために息抜きの行動をとります。それが他の子供を利用して遊ぶ、つまりいじめの始まりです。この様に学校生活の重圧に苦しむ子供の反応には大きく分けて三つ有ります。

1。割と内向きの子供は登校拒否

2。割と外向きの子供は虐め

3。割と積極性の有る子供は校内暴力

現在校内暴力は力で抑えられているので、虐めの割合が多くなっているように感じます。

5。いじめめを受けている子供は何故いじめめを口に出して言わないか。

 いじめで子供の自殺者がでる度に、何故子供はその両親にすらいじめられていたことを話さなかったのだろうという疑問が涌いてきます。某専門家などは「子供は未熟だから、死の恐ろしさを知らないためであろう」と堂々とマスコミで述べています。私にはとてもそうとは思えません。なぜなら犬猫はもちろんもっと下等な動物でも死の恐ろしさを知っているからです。自殺する子供は死ななくてはならないほど追い込まれていたと言うことです。この考え方が正しいなら、自殺をマスコミで扱うことにより自殺が流行することは有りません。ただ、子供は自殺をすれば自分の苦しみを社会に訴えられるという事実を知るでしょう。今まで私の知る限りでは、いじめで自殺した子供が自分がいじめられていた事実に触れた例は少ないようです。虐めを受けていた子供が話した理由と自殺した子供の理由とが必ずしも同じとは限らないと私は思います。自殺した子供はもっともっと追い込まれていたはですから。そこで次のようなことが推定されます。

1・仕返しが怖いと言う理由は解り易いです。しかしこれだけで自殺まで追い込まれるとは考え難いです。

2・自殺した子供は皆大人しくて優しい性格だったので、自分が虐めを受けていることを親に教えて親を悲しませたくないという理由です。これは虐めを現に受けていた子供が話したことです。しかしこれは子供が後から自分の受けたいじめを分析しての話で、子供の心の構造を考慮して分析したとき、いじめをまさに受けていた最中に、そのように考えていなかったと思われます。子供はいじめられていたとき、何も考えられなかったと思います。ただ、体の内から沸き上がる苦しみに耐えていただけだと思います。

3・子供は遊びの名人です。その子供がいじめを始めたとき、いじめの名人になるのではないでしょうか。いじめの対象が逃げ出さないように、じわりじわりといじめられている子供の意欲を奪い、動けなくしていつまでも自分達の遊びの活けにえにしておくのです。いじめられている子供を洗脳して、いじめられているのが当り前と思うようにしてしまうのです。その結果自己否定に陥り死を選ぶ可能性は十分にあると思います。

4・いじめられている子供が自分でその事を話すとき、または他人がその事に言及するとき、その子供はそのいじめを再体験することになり、大変苦しくなり、それを避けようとします。これは登校拒否の例で良くみられます。しかし遺書や日記を書くと言うことはこの理由では説明出来ないとおもいます。

5・傷ついている子供はそれだけで十分に辛い状態にあります。その上、いじめられている事を話す事により他人がそのいじめに言及すると、その子供の傷の痛みは何倍にも辛くなります。そのため子供は他人が自分の傷に触れられることをいやがります。これが理由ですと遺書、日記、留守番電話等にメモを残した事が理解できます。

 私は5の理由が一番妥当だと思います。もし私の推測が正しければ、いじめられている子供は貝のように押し黙って、体を小さくしてじっとしているはずです。いじめと言う嵐が過ぎ去って行くのをじっと待っていると思います。換言すれば、いじめを受けている子供は親にも友達にも(自分の傷に触れてこない友達は別だが)警察にもいじめ110番にも自分の虐めを打ち明けることは無いと思われます。私達親が見つけ出すしかないと思います。いじめを受けている子供がいじめ110番に電話をかけても、相手が出たら電話を切ってしまうと思います。かえって留守番電話だとそこにメモを残す事はありえます。しかし決して名前を明かさないでしょう。くれぐれも再確認して置きますが、前記の議論はいじめで自殺した子供についての推測であることをお忘れなく。他のいじめだけを受けている子供には必ずしも当てはまらないこともあると思います。

6。いじめは遊びから始まる

 いじめが起こるきっかけを子供の立場から考えてみましょう。今の子供は試験の点数によって縛られています。点数の良い子が良い子で、悪い子は取り残されていきます。校則で学校生活は息が詰まります。朝練、夕練でくたくたになって家に帰れば塾が待ています。それを終えてほっとしてテレビを見ると、親からテレビを見たり、ファミコンをする時間を制限されます。宿題も多く息抜きをする時間がほとんど有りません。特に学校では遊びが制限されており、その結果人を遊び道具とするように成ります。これがいじめの芽と言えるでしょう。

 現代の学校の内部ではいじめをしなければ子ども達の息抜きができない状態に成っているのです。いじめの対象となる子どもは弱いもの、孤立しているものが狙われ易いようです。虐めても反撃できない子どもが狙われます。虐められている子どもはますます弱まり、孤立して、いじめの対象から逃げ出すことができなくなります。虐める方でもそのあり方に変化が出てきます。虐めのグループ内の力関係が出来て来ます。その結果グループ内の力の弱いものは強いものからの虐めを恐れてより弱いものを虐めると言う構図が出来て来るように思われます。つまりこのような虐めの構図に組み込まれた子ども達は虐めから抜け出せないように仕組まれてしまいます。担任に対する不満は直接先生には向けられ無いことがあります。それはクラス委員や班長など、先生の仕事の代行を行なう生徒に向けられることが多いようです。

7。別の形の虐め

 私たちは別な形の虐めに付いて注目しています。それは登校拒否を認めて貰うための虐めという言葉で要約出来ると思います。子どもが学校内の緊張に疲れて学校へ行き難く成った場合、多くの例では色々な症状を訴えて学校へ行き渋ります。賢明な母親は、無理に学校へ行かすとかえって登校拒否を起こして、動けなくなることを知っています。そこで母親は子どもを病院に連れて行ったり、何日か休ませて、学校へ送りだします。その結果、学校へ行きづらいと言うことは変わっていないのに、病気になったのでは学校を休めないと言う状態となります。そこで子どもは学校で虐めを行います。虐めを含めて学校では好ましくないことを行って、自分から学校を拒否しなくても、学校から登校を拒否される様にするようにするのです。最近この様な虐めが増えてきているとの報告が散見されます。

8。先生による虐め

 私たちが子供の頃、登校拒否という言葉は無かったと思います。しかし振り返ってみると、今で言う登校拒否もありましたし、虐めもありました。特に登校拒否に関しては、”学校に行き渋る子供がおかしい、子供に何か病気があるのではないか、精神的な欠点が有るのではないか”と、原因を子供に求めました。確かに子供を観察して、その子供の異常行動の根拠を考えるなら、その子供の生い立ち、家庭等の生活環境等をふまえて推量し、統計学的にその推定の正しさを判定すれば良いわけです。

 極普通に行なわれるこのような方法論は一見科学的に見えますが、大きな落し穴が有ることを、多くの人が見落としています。それは対象となる子供たちは単なる物ではなくて、複雑な意識を持った人間であるということです。外からみれば似たような子供たちですが、その中身は複雑な精神構造を持ち、その感受性は大人以上のものを持っている人間なのです。外からみただけで判断するとまず間違いを起こすと考えて良いでしょう。子供はいろいろと変化に富んだ個性を持って学校に入学します。学校では先生の許容の範囲を越えた個性を異常、叉は悪いこととして、躾という名の元に子供を処罰(いい表現が見つからないのでここではこの言葉を使いました)します。

 先生方は子供のために心を鬼にして子供たちを躾ているのですから、子供たちに良いことをしていると感じています。一般にも、躾の厳しい先生が良い先生と考えられて居ることは、体罰で生徒を殺した先生がとても良い先生だったのにと報道されて、裁判でも減刑の嘆願書が父兄から出るくらいですから、間違い有りません。では子供はどう感じているでしょうか?体罰問題で報道されたものにはここでは触れません。登校拒否を起こした子供たちが後から振り返って言った言葉は”学校が恐かった。先生が虐めた。”と言うものに要約されます。そのように感じる子供が悪い、そのように育てた親が悪い、といわれる方が有ったとしたら、それは非人間的な考え方で問題外でしょう。極自然に育った子供がそのように感じるのですから、大人である先生の方が自分たちの考え方を見直すべきだと思います。

 先生は”未熟な(先生が想定しているものからはずれている)子供を教育して知識を高める(先生の想定するものにする)”ことを目標としていると思います。そして一人でも多くの子供がこの目標を達成し、かつより高い目標に近づく時、先生には良い評価が与えられています。子供たちの多くはこの目標を達成して良い生徒と言われ、より高い目標を達成した子供は秀才と言われて、多くの人からほめられています。ほとんどの子供は何故この目標を達成しなければならないのか解っては居ないと思います。両親の気持ちを汲んで、先生の気持ちを汲んで、回りの人がほめるから、いい学校に入るといい生活が待っていると言われているから、言われるままに頑張り続けています。

 子供にはいろいろな特性が有ります。たくさんいる子供達の中には先生の想定する範囲を逸脱した子供が居ます。そのことは決して悪いことでは無いのです。それがその子供の良さなのですから。ところが先生は教育、躾というなの元に子供に圧力をかけます。しかしその子供にとっては、極当り前のことで有り、少しも悪いことをしていないのに、先生に叱られる、つまり先生に虐められると感じています。罪悪感のある人を叱ることはそれなりに意味が有ります。しかし罪悪感の無い人を叱ることは全く逆効果で、反発を買うばかりです。子供でもそれと同じことが起こっています。子供はそれを虐めと感じて居るようです。

 そのようなことを言ったら、先生は生徒を叱ることができないではないかという疑問が出てきます。私は、少なくとも義務教育を行なっている学校では、先生は子供を叱るべきで無いと思います(勿論理想ですけれど)。子供の立場から言うならば、先生は子供の良いところを引き出して欲しい。先生には好ましくなくても、それがその子供には良いことが沢山有ることを忘れないで欲しい。このような意見は先生の立場を無視した意見のように見えます。しかし学校とは生徒のための物であり、先生は生徒のために有るものなのです。先生は生徒のために変わる必要が有ります。

 学校内での生徒の行動が先生の意に反するとき、指導と言う名の元に罰が下されています。この罰について良く考えて見ると、とんでもないことが学校内で起きていることに気づきます。先生が学校内で生徒に罰を下すときのことを社会の刑罰の下され方と比較して見ると良く解ります。まず、容疑者は生徒でしょう。では告訴人は?先生です。検察官は?先生です。裁判官は?先生です。では刑の執行官は?先生です。裁判は行なわれますか?先生の判断が裁決です。それもこれらの事が一人の先生でなされることが多いから、一方的な判決が下され、執行されると言う事実を忘れてはいけないと思います。

 先生方の中には、”些細な罰だから、間違っても大した事はない。我々はプロだから任して欲しい。”と言う先生が居ると思います。しかし先生から見て、些細なことでも、生徒にとっては重大なことが良くあります。この事を先生方はよく理解して欲しいと思います。登校拒否の中にはこの認識のずれが良くみられています。”先生が虐める”と言う言葉はここからきていることが多いと思います。”間違ったら謝ればいい”と言われる先生も多いと思います。本当に生徒に謝る先生はまずありません。もし謝ることで先生の方は済んでも、生徒の心に出来た傷はどの様にして癒せばいいのでしょうか。この傷で長く辛い思いをしたり、学校に行けなくなっている子供が沢山居る事を先生方はよく認識して欲しいと思います。

 先生が神様でしたらまだしも、生徒の事を良く把握してない先生(先生は忙しすぎています)がその場で下す判断は完全には正しくないと言えるでしょう。その結果、一生を駄目にされる子どもが数居る事は、大変腹立たしいことです。”疑わしきは罰せず”の原則は学校内では成立していないのです。それどころか”疑わしくても罰する”が横行しているのが現実です。先生が生徒に罰を下してはならないと感じています。子どもの犯した罪が限りなく確かであれば、それに対する罰も考えられます。

 しかしもう一つ良く考えなければならないことは、失敗と罪とは違うと思います。子どもは失敗をするのが当り前だと思います。しかし学校では失敗を罪と混同して、罰を下されています。失敗と罪との区別の出来ない先生に罰せられる生徒は本当に可愛そうだと思います。その様に考えると神様の生れ変りの先生以外、子どもを罰してはいけないように思われてならないのですが。では私に具体的に何かよい方法が有るかと言うと、特に何か有るわけではありません。私達にとって先生を非難するのは簡単です。先生方も苦悩していらっしゃることも良く解ります。しかし現実に”先生による虐め”で苦しんでいる子供をみていると、声を大にして、”生徒の立場に立った指導を行なって欲しい”と言わざるをえません。

 先生による虐めは本当にあるのでしょうか?私たちは子供の言葉を通してしか知ることが出来ませんが、登校拒否を起こした子供の中にその様な表現をしている子供が居ることは事実のようです。叉この様に言う子供が出たきたのは虐めがマスコミで騒がれ出した後の事と言う事実から言うと、その内容はそれ以前の「先生の指導が厳しい、学校に行きずらい」と言うことをさしていると思います。以前の登校拒否と同じではないかと想像されます。しかしこの表現を使うことにより、より端的に子供の感じ方を現わすことが出来るので、タイトルに使ってみました。

 今の子供は精神的にひ弱すぎると言う言葉があります。ではひ弱でないとしたら、そこに見えてくるのは以前の校内暴力、今の登校拒否(学校に行かないと言うことは、子供にとっては大変な決断なのですよ)ではないでしょうか?そうでなければ先生に従順になること、時勢に流されて行く事(我慢するにも大変な努力とエネルギーを必要としますから)。いずれにしても、昔も今も、子供はその時代時代で精いっぱい生きていると思います。子供をひ弱と考える必要は無いと思いますがいかがでしょうか?

 躾の問題が有ります。「学校へ行く前に親がしっかり躾をしておかないから」との意見が聞かれます。しかし躾をすればするほど、多様性のある個性の否定になりかねません。多様性のある個人の意欲を無くすことになりかねません。親の人権を認める限り、躾の程度は親に委ねられるべきで、躾をしないで済めばそれが良いに決まっています。東京シューレの会報を見る限りにおいては、大人が余計な口出しをしない方が、多様性のある子供同士で自分達を躾して、かえって規律正しい子供になっているとの報告あります。躾が必要だと騒ぐのは大人の勝手の様に感じますがいかがでしょうか?

 子供は元来素直です。体の成長と共に心も成長して、いろいろなものを取り込んで真っ直ぐに伸びて行きます。その過程で心を歪めてしまうのは大人のせいではないでしょうか(証明の仕様がないのですが)?躾も子供の心を歪めてしまう可能性があると言うことも、大人はよく心に留めておく必要があります。「先生による虐め」とか「生徒の立場にたった教育」とか、私たちは言っていますが、それは「子供の心、感受性を大切にして欲しい」という意味なのです。子供は一生懸命先生に付いて行こうとしています。それなのに、先生に付いて行けない子供が出ると言うことは、先生が子供の心を完全には理解していないからではないでしょうか?

 子供は多様性に富んでいます。この子ども達を完全に理解することは不可能かも知れません。しかし努力は必要です。努力とはカウンセラーとか相談所に頼むことではありません。先生が子供のレベル迄姿勢を低くして、子供がどの様に感じとっているかを知ることです。換言すれば、子供と先生との行き違いが有るのは当り前です。その原因を子供に押しつけるのではなく、一人一人の子供の心に元ずいて対処すれば、子供はきっと理解してくれると思います。子供はとても優しいものなのですよ。子供を疑ってかかる必要は無いと思います。

 子供は多様性に富んでいます。ですから家庭内の厳しい躾に対してうまく対応できて、伸びて行く子どももいます。しかし対応できずにその子供の一生を台無しにして行く子供もいます。例えば親が怒る、叩くで伸びて行く子供もいます(私の感じでは、当座はそれでうまく行って居るように見えますが、長い目でみたら子供を駄目にしているように感じられるのですが)、逆に子供に任せることにより思わぬ才能を発揮する子供もいます。同様の事が学校生活でも言えます。不幸な子供を一人でも少なくするために、私たち大人は子供一人一人に対応した知恵を働かす必要が有ります。

9。教師の体罰と虐め

 教師の体罰は学校教育法で禁止されています。しかし、未だに教師の間でも、父兄の間でも、体罰を容認する発言が見られています。その容認する理由の内の一つが”愛の鞭”です。体罰を受けた子供の中からも”おかげで目覚めた”と言う発言も聞いたことがあります。しかしその反面、教師の体罰でどれだけ多くの子供達が傷ついているのか知る必要があります。現在、教師は虐めの問題で苦慮しています。そのいじめの原因のかなりの部分がが教師の体罰にあると言うことを、教師は気ずく必要があります。体罰と言わないまでも、教師の不適当な対応が子供の心を傷つけ、教師不信を生じます。この様な不満は他の子供、特に弱い子供や教師に関連した子供(教師に気にいられている子供)に向けられることが多いようです。虐めが生じる初期には子供は教師の真似をして、教師が用いる理由で、教師のやり方で、他の子供をいじめ出します。そしてその虐めがエスカレーションしていくのです。換言するなら、虐めのモデルは教師であると言えそうです。教師による体罰は、子供の心に”暴力容認”の考え方を植え付け、それは虐めをも容認する雰囲気を作ります。

10。虐めの広がり

 ある統計によると(文部省関係では有りません)大ざっぱな数字で、重複回答を許可しているようですが、虐められた経験のある子供は約35%、虐めた経験のある子供は約40%、虐めを目撃したこどもは約60%であったそうです。叉虐めを目撃したこどもの大半は、関わりたくない、仕返しが恐いとの理由で、虐めを放置していました。皆さんはこの数字をどの様に読まれますか?もちろん統計の取り方によりこの数値は大きく異なる可能性がありますが、一応この数字を信頼して見ての話です。

 まず子供の内、なんらかの虐めに関係していない子供は殆どいないということでしょう。ほとんどの子供が虐められるか、虐めに加わるか、虐めを目撃しているかです。叉虐められたこともあり、同時に虐めに加わったこともある子供もかなり居るこが解ります。この事は、虐める側を処罰して、虐められる側を救おうと言う考え方は間違っている事を意味しています。またある統計によると、虐められたこどもの内親や先生に相談したこどもは全体の20%以下です。この事は、子供は親及び先生は問題の解決力は無いと感じていることを意味しているようです。場合によっては、子供は親や先生に相談することにより、かえって自分が傷つくと考えているのでしょう。

 ほとんどの子供は相談相手として友達を選んでいますが、その統計によると友達が問題の解決に役だった例は極少ないようです。私たち親は、自分の子供が虐めの事を話さなくても、虐めを目撃したと言うことを含めて、なんらかの虐めに関係していると考えるべきでしょう。私事ですが、私の男の子は沢山の友達を持っています。其の中にはタバコを吸うもの、盗みをしたもの、虐めをしているもの、虐められているものがいると子供は言っています。私は子供の言ったことを信じています。このようなことを教えてくれただけでも、子供は私を信頼しているからだと私は思っていますので、今度は私が子供の信頼に答えるために、子供の付き合いに全く口を挟みません。私はきっと子供がこのような難しい子供同士の付き合いの中で、子供なりの善悪を考えて、子供なりの解決法を見附だし、子供なりの生き方をしてくれるものと信じて見守って行きます。その代わり、其の中で子供が誤りを犯したとしても、私はそれを許す心積もりはできでいますし、それは親の責任だとも思っています(どの様な責任が取れるのか、その時になってみなくては分かりませんが)。

11。親も子供が見えていない

 一般に、登校拒否では親は子供を無理に学校へ行かせようとしています。それは子供は学校へ行くものとの親の常識を、子供に押し付けているのです。親という立場から子供を見るため、子供の心の中が、子供が苦しんでいることが感じ取れないので、子供の感じている辛さが解らないのです。虐めについても、親は子供は学校へ行くものという親の常識を、子供に押し付けて、学校へ子供を押しだしますから、子供は余計に虐めを受けることになります。そればかりか、子供が学校へ行っているだけで親は安心をしてしまうため、子供が虐めを受けていることに気づくことが遅れてしまいます。

 子供が登校拒否や虐めを受けていると親が気づいたときにも、親は子供を休ませてやろうとは考えません。「負けるな、頑張れ」と応援をし続けます。しかしこれは一見応援のように見えますが、実際はハンマーで子供の頭を殴り続けているのと同じなのです。八方塞がりの子供にとって身内の応援は別の意味で子供を傷つけていきます。頑張れるだけ頑張って、それでも頑張れと言われても、子供はどの様にして良いものかわかりません。それは自己否定につながります。親から見れば遊んでばかりいるように見える子供たちですが、子供の世界の中でその子なりに皆一生懸命生きています。その生き方は時代によって異なります。

 はっきりいえることは、子供は目一杯その子なりに生きています。その子供を認めてやってください。話を良く聞いてやってください。そうすれば遊んでばかりいるように見える子供でも、その子なりに精いっぱい感じて、考えて、生きていることが解ると思います。もし思えないようでしたら、それは親がまだ子供の言葉に十分耳を貸していないためだと思います。

 親は子供が学校に行っているとどうして安心をしてしまうのでしょうか?学校に行っている間は全て学校に任せっぱなしです。学校から帰ってきたら、今度は塾に任せっぱなしです。子供が家にいれば、自分たちの都合で子供を動かそうとしています。それでいて、親として一生懸命子育てをしている積もりです。ですから、子育て(平凡な人の子育てとは、子供が何かを出来るようになるのを待ってやることです。天才を、特殊な才能を育てることと混同しないでください!!!)を放棄していることに気が付きません。それは日本国内の風潮ですから、やむをえないのかも知れませんが、もう少し子供の心に目をやるようにする必要があります。親は子供が学校に行っていると安心をしています。しかし学校に行ってもおもしろくない子供、学校に行きたくない子供の内には、学校内で虐めを行ったり、学校外で非行を行い、自分の存在を訴える子供が出てきます。

12。いま学校で何ができますか?

 登校拒否に於いても、虐めに於いても、その原因の一つが生徒の先生に対する恐怖感と不信感です。このことについて、先生方はきっと「そんなはずはない。我々はこれだけ子供のことを考えて一生懸命やってきている」と言われると思います。しかし殆ど全ての登校拒否や虐めを受けた子供が先生に対する不信感を訴えていることは事実です。この認識のずれの原因は何でしょうか? それは先生の”子供の為”がこのような子供にとっては少しも”子供の為”ではないのです。先生からの押し付けと解釈してしまうからです。その結果、先生は”自分たちの誠意を理解しない子供が悪い。その子供を育てた親が悪い”と主張します。つまり先生の描く生徒像から外れた子供が悪い子供、として扱われるために、子供は先生を信頼しなくなります。

 生徒は先生の言行と先生の行動との違いを強く指摘しています。私達がよく聞くものは”自分のことは自分でしなさい”と言う先生が職員室の掃除を生徒にさせているということです。生徒には制服を着せて於きながら、自分たちは好きかってな服を着ていると言うことです。授業の中では暴力はいけないと教えながら、生徒を殴る先生です。生徒は先生の一挙一動を見ています。生徒は先生を聖職者とは見ていません。ただ単に一人の大人とだけしか見ていません。

 生徒の信頼を取り戻すことが叫ばれています。しかしなぜ未だに先生は生徒の信頼を取り戻せないのでしょうか?それは先生の気持ちで、考えで、先生は生徒の信頼を回復しようとしているからです。そしてその先生の気持ちや考えは、生徒のそれを全く反映していないからです。では先生はどうすればよいのでしょうか?その第一は、先生は自分の感情を抑えて、生徒の話をとことんまでよく聞くことです。どんなに馬鹿げた話でも、先生の意見を抜きにして聞くことです。先生が徹底的に(中途半端ですと意味がありません)聞き役に回ることです。これは先生にとっては大変に辛いことですが、絶対に必要な条件です。子供達は必ずしも先生に問題の解決を望んでいるわけではありません。子供達が先生に望んでいるのは子供の言い分を聞いて欲しい、理解してほしいと言うことです。先生が解決できないのなら、見守っていて、支えてほしいと言うことです。先生は忙しすぎます。一人の子供の話を十分に聞く時間すらありません。

 そこで私は実現可能な方法を提案したいと思います。それは学校内のあらゆる行事、例えば運動会とか歌の発表会とか学園祭などを止めたらどうでしょうか?止められないまでも、参加することを義務としないようにしたらどうでしょうか?入学式と卒業式も場合によってはいらないかもしれません。するとしたら、希望者だけにするとかすると、先生の負担はずいぶん減ると思います。形に捕らわれないで、参加する人の心を大切にするような形に変えて行く必要を感じます。

13。いま学校で何ができるか?まず、できるところから

 現在の小、中学校では、先生が忙しすぎる事が指摘されています。今に学校は土曜日が全て休みになります。先生はますます忙しくなります。その結果は、子供達の心はすさみ、親は勉強を学校に期待しなくなります。その期待しない学校へ、それでいてほぼ100%よりかかっている学校へ、子供を親は押しだして行きます。子供は塾中心の勉強になり、学校を馬鹿にする子供も出てきます。このような親の改革もいそがなければなりませんが、それと平行して学校も変わる必要があります。学校改革、義務教育のあり方が見直されかけています。しかし、その根底にある子供が学校に行くのは義務だと言う概念がぬぐい去れてはいません。義務だと言う言葉を言わなくなった人でも、その内容は「そう有るべき教育」であり、義務だと言うのとほとんど変わりがありません。子供の権利教育という呼び名に変える勇気を持っていません。

 子供のゆとりのある学校生活とはなんでしょうか?学校に学問にいくのなら、学校での授業は学問だけでよいと思います。もう一つは先生と生徒、生徒同士の人間関係を作る場所だけにしたら良いと思います。クラブ活動にしても本当に希望者だけにして、顧問の先生も希望者だけにすると良いと思います。スポーツや芸術の好きな子供にはそれらのための小中学校を作っても良いかも知れません。生徒に沿った学校を作るのであって、学校にあった生徒を作るのではないほうが良いと思います。

14。子供が親に手を上げる時(暴力)

 子供にとって親は最後の砦です。子供は、親は絶対的に自分の味方だと考えていますし、そうでなくても味方であって欲しいと思っています。子供にとって、親の存在は自分の存在と同じぐらいに重要な問題です。それなのに何故子供が親に手を上げるのでしょうか?時には刃物を突きつけることがあるのです。子供が親に手を上げる時は、子供の存在が危なくなったときです。子供の存在が危なくなったときには親が助ければ良いわけですし、子供には親しか助けてくれる人はいないのです。ところが親が子供の危機を無視するか、かえって危機に追い込むとき、子供が親に手を上げるのです。それでも親が理解しないときには子供は親に刃物をつきつけます。

 つまり、子供は親を傷つけようとして手を上げたり、刃物をもったりしているのではありません。子供は助けてくれと言っているのです。子供に手を上げられた親はその子供の気持ちが解らない親なのです。親の立場からの意識が強すぎて、子供の本当の気持ちが解らないのです。子供を助けたいと思うのでしたら、親の立場を捨てて、子供の目線に自分を合わせるか、そうできない人は、親を捨てて、子供の下に立つしかありません。

15。理想の社会で虐めは無くなるか?

 虐めが無くなることが理想です。ですから、理想社会では虐めは有りません。では理想社会はどんな社会なのでしょうか?神の国は理想社会かも知れません。しかしそこに住んでいるのは神様で人間では有りません。では人間社会の中では理想社会を作ることが出来るのでしょうか?人間が均一で有れば理想も一つに限定できますが、多様な個人を認める人間社会では、ある人には理想でも、他の人には理想ではないと言うことがしばしば見られます。つまり理想社会は人間には無いと言えると思いますが、皆さんはいかがでしょうか?

 個人を大切にすればするほど社会はまとまりが無くなります。それでも理想社会に向けた努力は絶対に必要ですが、まとまりの無い社会もそれなりに良い社会と言えると思います。「矛盾だらけの社会」とある人が私に言いました。私はこれは現時点ではやむを得ないと考えています。この狭い日本の上に1億以上の人間が住み、その各々が対等に権利を主張するなら、そしてその各々の多様性を認めるなら、一見矛盾だらけの社会が出来るのは当り前のように感じますがいかがですか?矛盾が無い社会の方が、無理やりに矛盾を押し隠して居ることの可能性が高く、かえって危険だと思います。

 この世の中に完ぺきな真理は殆ど無いと思います。あの完ぺきな数学ですら、人間が最初に仮定した範囲で真理なのです。これほど発達した自然科学ですら、ある設定、誤差の範囲で成立しているのですから、絶対とか完全な真理と言うものは現時点で人間はまだ見つけていないと言った方が良いでしょう。つまり矛盾の有るのが当り前と考えた方が我々は楽になれると思います。もちろん、理想の社会を目指すことは大切ですが、理想の社会自体は到達し得ないように思われます。

 このようにやむを得ない範囲で全てを認めようとする立場から考えるなら、先生が生徒を虐めると言う現実も事実として認めて、生徒にもその虐める先生から離れて生活をすることを認めてやれば良いと思います。つまり登校拒否を認めて欲しいと言うことです。学校に行かない子供も普通の子供であることを認めて、その将来を差別しないことだと思いますが、この意見に皆さんはどう思われますか?

  この矛盾だらけの社会の中に、子供は白紙の状態で生まれ、成長とともに心の成長もしていく。体は大きくなる方向に、心は安ぎが求められる方向に伸びていく。悪いことをする子供もその成長の過程で大人に心をねじ曲げられただけであり、子供が悪いわけでは有りません。ですから悪いことをした子供(子供の感じ方は大人と違います。子供は必ずしも悪いことをしたとは考えていないことが多いのですが)に対しては、その子供の特異性を配慮した対応が必要です。子供の多くは悪いことをしてやろうとして悪いことをしてはいません。やって仕舞ったことがたまたま社会にとって好ましくなかっただけの事が多いようです。子供の心はまだ成長するところが大人と違うところです。大人に対するのとは違った子供の将来を考えた対処の仕方が、生徒の立場に立った教育と言うことになると思います。

  

表紙へ