怒りの人格 2007/7/10
子ども(大人なでも当てはまるかもしれませんが、私の専門外なので)がいわゆるキレた状態になったとき、そのキレたときの状態を覚えていない場合があります。そのキレた時の子どもの心の状態を説明します。キレたときの子どもは決してキレたときの行動を意識的にしたのではないです。キレたときの記憶が残っていないのも、自分を守るために嘘を言っているのではないです。
 その子どもは度重なる辛い経験から、子どもの心に大きな傷を受けています。心的外傷の状態です。その大きな心の傷を持っている状態で新たな酷く辛い経験をしたとき、激しく心の傷が疼いて、一時的な解離性同一障害を起こして問題行動を起こしていました。つまり問題行動を起こしたのはその子どもの通常の人格とは違う全く別の怒りの人格がその子どもを支配していて、その怒りの人格が問題行動を起こしています。子どもが通常の人格に戻ったとき、子どもの人格は怒りの人格とは直接関係しない別の人格なので、子どもはキレたときに起こした問題行動を基本的に思い出しません。
 子どもが普段の人格に戻ったとき、その子どもは自分が行った問題行動の結果を目で見て、周囲の人から説明されて知ります。そこで普段の人格の子どもは、自分がキレていたときにしたことを知ります。自分がしたことと納得します。子どもの普段の人格からみたら、記憶にないことを記憶していたと誤解することになります。
 しかし子どもによっては、普段の人格で記憶にないことに気づく子どももいます。そのような子どもはキレていたときに行った問題行動を自分はしていないと表現してしまいます。そしてその子どもの普段の人格から言うなら、自分はしていないと表現することが正しい表現なのです。自分がしたと表現する場合には、自分がしたと教え込まれた知識を言葉で表現しているのです。

発達障害・自閉症・自閉症スペクトラム・トゥーレット症候群・ADHDという概念について

 発達障害と理解される子どもの状態はあります。けれどそれを親や大人が病気として理解すると、問題だとして対応されると、子どもはとても辛くなります。その子どもなりの成長を阻害します。親や周囲の大人としては、発達障害と理解される子どもを普通の子どもにしたいと考えるのは、その大人なりの優しさなのでしょうが、発達障害と理解されてしまう子どもにはとても迷惑な話なのです。
 発達障害と理解される状態はあっても、発達障害と客観的に示すことが出来る脳内の変化は見つかっていません。それは現在の脳科学が証明するのに十分なほどには未発達なのか 、それとも脳内にそのような変化が全くないのか、それは分かりません。現時点では脳内に発達障害に相当する変化がないから、発達障害という症候群として考えられています。
 ここで大切なことは、発達障害と理解された子どもが、現在の精神医学による発達障害の対応を受けて(発達障害として対応を受けたための変化がある場合があるが、それに対し ても薬が効果を示すという客観的な証拠もない。いわゆる専門家が発達障害という物があると、薬が効くと信じているだけ)大変に辛い状態になり、辛い子ども時代を過ごしてい るという事実です。その結果も、(私の知る限り)大人になって依然として社会に順応できなくて、辛い一生を送り続けている点です。(私の経験する限り)発達障害と理解され ても(私の経験の中には、精神科医からあまりにも酷い発達障害だと見放された子どももいる)、それはその子どもの性格の特徴として、その子どもなりの成長を認めた対応を続 けていけば、その子どもなりに社会に順応し、職業を得て、その子どもなりに結婚もして、子どももも育てて、極普通の大人になっていることです。
 現在社会に都合の悪い子どもを、その子どものためといって、その子どもを社会に都合の良いように変えるといって、その子どもを苦しめて、その子どもの一生を辛い物にしている現在の医学が公然と存在しています。その子どものためというなら、現在社会に不都合でも、時間がかかっても、その子どもの心と成長に添って、その子どもらしさを育てるこ とが、その結果として社会に順応できる大人になってもらうことが、現在社会に都合の悪い子どもを育てる方法だと、私は主張します。

反抗期2007/8/14
 反抗期とは親の希望や要求に反抗して子供が行動する時期を指しています。時期として子供が3,4歳の頃や子供が思春期に入った頃にみられることが多いので、3,4歳頃の子供の反抗を第一反抗期、思春期頃の反抗を第二反抗期と呼ぶ傾向があります。しかし3,4歳頃の子供はその子供の意志で親の要求や希望に反抗することはないです。3,4歳頃の子供の中にはその子供なりの反応の仕方ができあがっていて、その子供なりの反応、自己主張ができるようになった子供がいます。そのような子供がその子供なりに反応をしたとき、自己主張をしたとき、その自己主張が親の要求や希望と異なった場合に、親がその子供が反抗期に入ったと判断しています。
 一般論として、思春期の反抗期、第二反抗期を子どもの自然な姿だと解釈されていますが、それは間違いです。第二反抗期とは子どもが与えられた環境、多くは学校について、または親の対応について、辛いよと子供が出すサインです。子供たちにとって主とした生活の場は家庭であり学校です。多くの場合子供にとって家庭は喜びの場所です。両親の対応がよほど悪くない限り、子供は思春期前後の時期に急に親に反抗をしません。子供の思春期前後に急激に変わり子供に負担を押しつけてくるのは学校です。ですから、子供たちの第二反抗期の多くは学校が辛いよという子供たちからのサインです。学校が辛くて苦しんでいる子供への両親からの対応が悪いという子供たちからのサインです。
 多くの親にとって、子供の将来の幸せを考えて、子供には学校に行って欲しいです。受験戦争に勝って、良い高校や大学に進学して、条件が良い就職をして、経済的に豊かな生活を子供にして欲しいものです。思春期前後の子供に受験に打ち勝つ勉強をして良い成績を取って欲しいものです。子供の立場からいうなら、小学校の勉強は進み方もゆっくりで、内容もまだわかることが多いですから勉強について行けた子供が、中学校になると勉強はどんどん進んでいくし、わかりにくくなりますから、勉強が辛くなっていきます。先生方も中学校になると威圧的になってきますから、学校内での勉強や生活がだんだん辛くなっていきます。
 その辛さが家庭で癒されると子供はその子供なりに学校とつきあおうとしますが、その辛さが家庭で癒されないと、子供は家庭内で親が求めるような生活の仕方をしなくなります。それでも「子供は勉強するのが当たり前、規則だたし衣生活をするのが当たり前」と親は考えて、子供にそれを求め続けます。それはますます子供を辛くしますから、子供は耐えきれなくなって、問題行動を起こすようになってしまいます。その姿を親は第二反抗期と考えているようです。
 このように、思春期前後の子どもに大人が考えるような「思春期だから生じる反抗期」はないです。思春期前後の学校生活を楽しめている子供には、第二反抗期はありません。思春期前後の学校生活が楽しめない子供について、親が追い打ちをかけて子供を苦しめてしまうときに、大人が第二反抗期と判断してしまうような反応の仕方を子供がしてしまいます。「学校が辛いのに親がその子に追い打ちをかけて辛くしている」という子どもからのサインを大人が勝手に反抗期だと理解しています。ですから大人が反抗期と理解したときには、子どもは学校が辛いしその辛さに親が追い打ちをかけているというサインを出しているのだと判断されます。
 繰り返しますが、「辛い学校がある学校に行き続けるように」と対応を続ける親に対して、子供は「親の対応が悪いよ」というサインとして親が嫌がるような問題行動を起こします。子供が親の嫌がる問題行動を起こしたとき、親が反抗期という理由をつけて子供の辛さを解消しようとしなかったなら、子供は親の嫌がる問題行動を強めていきます。そこで親は子供がますます反抗を強めてきた、ますます反抗期になってきた。困ったものだ。この反抗期をどうにかしなければ子供の将来が思いやられると考えたり、思春期が終われば子供の問題行動は自然と解決されると考えたりします。子供が学校生活の辛さ、その辛さに追い打ちをかけてやめようとしない親の問題点が、反抗期の解消という問題点のすり替えになってしまい、子供は辛さから解放されなくなります。
 それでも中学生活の中で、高校生活の中で、運良くその子供なりの楽しみを見つけられて、学校生活の辛さが軽減した子供は親の嫌がる問題行動をする必要がなくなり、やめてしまいます。そこで親はやはり思春期だったから反抗期を生じたと、親なりの結論を主張し続けることになります。しかし多くの子供たちは辛い中学生活を続け、苦しみながら高校生活を続け、不登校になる子供が出てきます。犯罪や事件を起こす子供が出てきます。やっとの思いで大学に入学しても、開放的な大学生活では全く勉強に興味が持てないで、快楽にうつつを抜かしてしまう子供が多くなります。子供の人生を大損してしまいます。
 子どもは動物にとても近いです。大人のように意識的な行動をすることが大変に難しいです。他の動物が恐怖刺激を受けたときに、その恐怖刺激を回避するような回避行動を取るのと同じように、子どもは学校が辛いと無意識に、潜在意識から学校を回避する行動を取ります。それは意識的ではなくて、潜在意識の反応ですから、子ども自身も気づいていない場合が多いです。その程度はとても弱くて、その子どもの学校を回避しようとする行動は学校に行かせようとする人(行かせようとしていないかも知れませんが、今までの習慣として行かせ続けていた親)に反抗という形で感じられるような行動を取るようになっています。
 思春期前後の子供はすでにその子供なりにしっかりとした価値観を持っています。その価値観について子供は意識している場合もありますし、意識していない場合もあります。その価値観のうちで親と異なった価値観を持っているときに、その親とは違った価値観について親の価値観を子供に親が押しつけたとき、子供は親に反抗をします。そのときは「親とは違っている価値観の部分について、親の価値観を押しつけないで、子供自身が持っている価値観を認めてくれ」と親に訴えているだけです。そして現在のほとんどすべての子供について、親と子供との価値観の違いの部分は、親が子供に学校に行って欲しい、勉強をして欲しいという部分と子供には学校が辛い、勉強が辛くてできないという部分の違いです。

我が儘か?2007/8/24
 子どもの要求が子どもの我が儘かどうかを判断するのには、基本的に子どもの心を知らなければなりません。子どもの要求を子どもの心から考える必要があります。子どもの立場に立つ、子どもの心の沿って考えることになります。大人が大人の判断で、これで100%だと決めても意味がないです。つまり子どもの要求が親や大人にとって我が儘だ、甘えだと理解する前に、子どもの心はどのようにして要求をしているのかを知る必要があります。子どもの心から子どもの要求を考えるなら、次のようなことを考える必要があります。
 子どもの行動は反応の心からの反応か、情動の心からの反応であるから、大人から見て甘えだ、我が儘だと感じられても、子どもの要求は何かに素直に反応して生じています。子どもの心からは甘えだ我が儘だという反応の仕方はないです。
 子どもは与えられた環境に順応して成長をしようとするから、大人から甘えだ我が儘だと判断される子どもの要求も、子どもの心から言うなら、与えられた環境に順応して成長するために必要な要求であるという事実です。
 この二つの条件から、子どもの要求に添って子どもの要求を満たしてあげる限り(受容)、決して甘えでも我が儘でもないです。そのとき子どもの要求を十分に満たさなければ、子どもは葛藤状態になり、親に対して信頼感を失います。また子どもの要求以上のことをすると、それは子どもの要求以上の事柄に依存を生じて、それ以後のいわゆる甘えや我が儘の原因になります。
 親や大人が子どもの要求が甘えだ我が儘だと感じられるときには、
1 子どもを信頼していないこと=子どもの心から子どもを見られないこと
2 既に子どもが親や大人に依存状態になっていること
3 子どもが親を信頼できるかどうかテストしている(ここでは述べません)
のどれかになっています。
 例えば子どもが**を買ってと強く主張する(親や大人からだだをこねる姿)のは、子どもにそれが必要だが、親や大人にそれが理解できない場合、子どもが親や大人に依存関係になっていて親や大人の先回りの対応がないことに不平を言っている場合、親が信頼できるかどうかを子どもがテストしている場合があります。この三つの内のどれに相当するかで親や大人の対応が異なってきます。
 幼い子どもの場合では、親や大人が子どもの心の立場に立っていなくて、親や大人の立場から自分たちに都合の悪いことを甘えだ、我が儘だと理解している場合が多いです。大きい子どもでは依存関係の場合が見られます。程度は何とも言えません。辛い状態の子どもでは、その辛さを解消する親の心をテストしている場合が多いです。
 年長の子どもについて、子どもの要求が甘えだ我が儘だと親が感じられる場合、それが依存による物か、それとも子どもの素直な要求か、親をテストしているのか、その判断は大変に難しいです。子どもの心の立場から長年経験して判断するしかないです。ただし辛い状態の子どもからの要求なら、例え親が甘えだ我が儘だと判断しても、それは親をテストしていることが多いです。

坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い2007/8/28
 この言葉の意味は、何かの理由で本来ならありがたいお坊さんが、人によっては憎いお坊さんになってしまうばかりでなく、その憎くなったお坊さんを連想するもの、袈裟も憎くなってしまうと言う意味です。この場合の袈裟は、最初は憎くなったお坊さんとの強い連想という関係にあります。しかしすぐにお坊さんとの関連が無くなり、袈裟への憎い思いが独立して生じるようになります。お坊さんを見なくても、お坊さんを連想しなくても、袈裟を見ただけで、思い出しただけで、その人はどこからともなくわき出す袈裟への憎い思いをするようになります。
 「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」はことわざですから、それ以上の意味はありませんが、坊主がいない状態で袈裟だけ見て憎さを表現するような人がいたとしたら、多くの人は袈裟を見て憎さを表現する人をおかしな人、病気ではないかと感じるようになってしまうと推測されます。
 「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざの文字通りのことが現実にあった事かどうかは知りません。もしあったとしたら、このお坊さんへの憎さが、袈裟への憎さに移行する仕組みは条件反射から生じます。条件反射については、多くの人が既にご存じだと思いますから、くわしく述べません。あるお坊さんに何かの理由で強い憎しみを感じるようになったときに、その時にそのお坊さんの側に同時に存在して、そのお坊さんを強く連想させる物、袈裟やその他のそのお坊さんの持ち物に強い憎しみを感じるようになるのです。この条件反射はほぼ全ての動物に存在する生理的な学習の仕方です。人間の子どもにも存在します。
 言葉の「憎い」は、その状況によって「辛い」とか、「嫌だ」とか、「不愉快だ」とか、「怖い」という言葉にも置き換えられます。子どもが学校内で教師から体罰を受けたり、教師の学級運営などで嫌な思いをさせられ続けたとき、教師から納得のいかない対応を受けて辛い思いを続けたとき、その他何か嫌な思いをさせられ続けたとき、子どもは教師に「嫌な思い」をするようになります。場合によっては「憎い」と表現されるような感情を生じるようになります。それと同時にその教師の周囲にあり、その教師を強く連想するような物、学校や教室、時には勉強道具に「嫌な思い」を生じるようになります。子どもが教師に「嫌な思い」を感じたときに、その教師の周囲にあって、その教師を強く連想するような物に生じる「嫌な思い」は、その教師から受けた「嫌な思い」とほぼ同等の「嫌な思い」なのです。「教師が憎けりゃ学校まで憎い」になってしまっているのです。
 その内に教師が存在しなくても、学校や教室、時には勉強道具を見ただけで、思い出しただけで、その子どもはそれらの物に「嫌な思い」を生じるようになります。学校や教室、勉強道具について、殆ど全ての人は「嫌な思い」を感じません。子どもにとって嫌な教師が居ないところで、子どもが学校や教室、勉強道具を見ただけで「嫌な思い」を表現したなら、子どもが学校や教室、勉強道具を思い出しただけで「嫌な思い」を表現したなら、その子どもはおかしいのではないか、病気ではないかと大人は考えてしまいます。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」の坊主が憎いが忘れ去られて、「袈裟まで憎い」が一人歩きを始めてしまうようになります。
 子どもを辛くする教師と学校や教室、勉強道具が関連して考えられる場合には、大人は辛さを表現している子どもが特別におかしいとは感じません。子どもを辛くする教師の問題を解決して、子どもを学校に行けるようにしてやろうと、大人は考えてそれなりの対応を始めますが、子どもを辛くする教師に関係なく、学校や教室、勉強道具、友達などに子どもが「嫌な思い」を感じ表現するようになると、大人は辛さを表現している子どもを、子どもを辛くする教師と関係なく考えるようになり、その辛さを表現している子どもがおかしいのではないか、病気ではないかと考えるようになってしまいます。殆ど全ての大人は学校の建物や学校という概念との関係で子どもが辛さを表現していることを理解できなくて、子ども自身に学校に行けない原因を求めてしまいます。
 これと同じ事が子ども同士のいじめでも生じます。学校内で子どもが辛いいじめに遭うと、子どもはそのいじめとほぼ同等の「嫌な思い」を、いじめる子どもの周囲にあった物で感じ表現するようになります。「嫌な思い」を生じるような条件反射の条件刺激を学習します。学校内でのいじめなら、いじめる子どもの周囲にあった物とは教室であり、学校であり、教師であり、勉強道具です。いじめられている子どもはいじめる子どもについて「嫌な思い」を感じるばかりでなく、その内に学校や教室、教師、勉強道具にも「嫌な思い」を感じるようになります。「いじめた子どもが憎けりゃ学校まで憎い」になっています。
 それでもいじめる子どもと学校や教室、教師、勉強道具が関連して考えられる場合には、大人はいじめられている子どもが特別におかしいとは感じません。いじめを解決して子どもを学校に行けるようにしてやろうと、大人は考えてそれなりの対応を始めますが、いじめる子どもに関係なく学校や教室、教師、勉強道具、友達などに「嫌な思い」を子どもが感じ表現するようになると、大人はいじめられた結果学校の建物や学校という概念に辛さを表現している子どもを、いじめと関係なく考えるようになり、その子どもはおかしいのではないか、病気ではないかと考えるようになってしまいます。殆ど全ての大人は学校との関係で子どもが辛さを表現していることを理解できなくて、子ども自身に子どもが学校に行けない原因を求めてしまいます。
 学校で辛い経験を続けて、学校や教室、教師、友達などに辛い思いを感じるようになったとき、多くの大人は子どもが学校や教室、教師、友達に辛い思いを表現する子どもを、その子どもがおかしい、問題だ、病気ではないかと考えます。その子どもに辛い思いをさせ続けた教師ですら、自分がその子どもに辛い思いをさせ続けたことには気づかないで、その辛い症状を表現する子どもに問題があると考えてしまいます。その子どもを正す必要がある、治療する必要があると考えてしまいます。殆ど全ての大人は、子どもが学校から辛さを受けるようになっていて、その辛さを表現していることを理解できません。その辛さを表現している子どもに問題があると理解してしまいます。学校との関連で子どもが辛さを表現しているとは夢にも考えないのです。
 子どもが学校や教室、教師や友達に辛さを表現する仕方として、子どもが辛くなるとまず「よい子」を演じます。子どもが「よい子」を演じていると、大人は子どもが辛い状態にあるとは考えません。子どもは好ましい状態にあると考えて、大人達はその子どもを苦しめる対応を続けてしまいます。子ども達の多くは「よい子」を演じ続けて、辛い時をやり過ごすようにして辛さを乗り切りますが、「よい子」を演じきれなくなってしまう子どもが出てきてしまいます。
 「よい子」を演じきれなくなった子どもは、その辛い学校から逃げ出したり(不登校)、暴れる(校内暴力、家庭内暴力)などの問題行動を起こしたり、いろいろな病気の症状(精神疾患と診断されるが病気ではない)を出すようになります。この時期になって、親ははじめて子どもの問題を意識するようになりますが、多くの親や殆ど全ての大人は子どもが学校から逃げ出したり、学校内で暴れたり、病気の症状を出す原因を子どもに求めてしまいます。子どもが大人の理解できない理由により、子どもが学校から受ける辛さから学校から逃げ出したり、学校内で暴れたり、病気の症状を出すことに気づく人はありません。 

信頼関係
 娘を信頼して(具体的には触れません)ただ待っていた母親からの手紙です。
 娘は今春、高校に入学し楽しく学校生活を送っています。娘は「中学校は本当につまらなかったなぁ。なのにこんなに高校が楽しくていいのかな?誰か高校がつまらない人がいたら申し訳ないな。私ばかりが楽しくて罪悪感すら感じる。」と言っています。
 高校入学後すぐにアルバイトを始め、彼女なりに世間の厳しさお金を稼ぐことの大変さを感じているようです。また、色々な高校の方たちとも触れ合い、仕事が出来ることと勉強の成績は関係ないことを感じ取り、本当に大きく成長したようです。
 中学校では一時期不登校になり、家であんなに荒れていたのに今ではうそのように穏やかに過ごしています。先日も中学校の時のお友達から連絡があり、「ゆかたの帯を貸して」と言われ、まだ自分も一回使ってない新品の帯を貸してあげました。「断りきれなかったんだ。私も使ってないのに貸すのはちょっと嫌だけどいいんだ。だってあの子は私が久しぶりに学校に行った時に一番先に声をかけてくれる子だったから」と。今日は娘が浴衣を着て、少しよれよれになった帯を締めニコニコとお祭りに出かけました。
 言葉使いも優しくなり、「ありがとう」の言葉をたくさん言ってくれる娘に、今度は私が取り残された気分になってしまいました。私はずっと気を張って過ごしていましたからここにきて、娘がすっと遠くに行ってしまったような喪失感です。本当は喜んでいいはずなのに寂しくて・・・・
 あの時、娘が荒れていた時、***会のキッチンで**先生にお話を聞いていただいた事に本当に感謝します。「主人が頼りにならない」と訴えた時も、「それがいいんですよ。変に夫婦で反対の意見を持つならば無関心でいてくれたほうがよっぽどいい。」とおっしゃられた時は嬉しかった。あんなに嫌いだった主人に感謝すらするようになりました。

あるいじめられ2007/9/11
 中学二年生になって間もなくのこと仲間が無人の神社で集まっていて、その中で少年Aがたばこを吸っていたので警察に補導されました。Aは学校から一週間の自宅謹慎を言い渡されました。両親はAを責めて今後たばこを吸わないようにと強く叱ったので、Aは両親と全く口をきかなくなってしまいまた。両親は一生懸命よい子に育てようと努力してきましたから、この現実にぶつかって混乱していました。小学校時代のAは元気な勉強も出来るよい子でしたが、中学校に入学してからだんだん元気を失っていきました。両親はその原因が分からないで困っていたのです。この事件以後Aは学校に行き渋るようになったので、両親はAを激励して学校に押し出していました。Aは渋々学校に行く日々が続いていました。
 両親はいくつかの相談機関と相談してAが休まないで学校に行くよう対応しましたが、Aはますます学校へ行きづらくなり、それでいて夜遊びをするようになりました。困り果てた両親が最後にかかった相談機関で思わぬ事実を知ることになりまた。それはAが中学校に入ってから仲間に取り込まれていじめられていた事実でした。Aがいじめられているという事実を相談機関から指摘されたとき、両親はその話をとても信じられなかったのです。両親はAがたばこを吸ったのはAに問題があるからだと信じていました。Aが学校に行こうとしないのはAに問題があると信じていたからです。いろいろと説明を受けて、今まで大きな怪我ではないがAが何回も怪我をして帰ったり、母親の財布の小金が無くなったりした理由が両親には腑に落ちました。
 警察の調書は、仲間で集まってAが率先してたばこを買に行き、自分で吸って、B、C、Dが無理矢理につきあわされたことになっていましたが、実際はBがAにたばこを買いに行かせ、仲間でたばこを吸って、Aにも無理矢理に吸わせて、煙で苦しむAを見て楽しんでいたようでした。警察に見つかったとき、主犯はAで、たばこを買いに行ったのも、たばこを吸ったのもAにされて、Aもそれをそうだと認めたのです。つまりたばこを吸った全責任をAが取らされたのです。
 この事件以後Aは仲間からますますいじめられていたけれど、ただ耐えていまた。相談機関の指摘で両親は初めていじめと気づいたけれど証拠はありません。そこで両親は相談機関のアドバイスに従って常識はずれの対応を取りました。つまりいじめのことにはAにも学校にも一切触れないで、両親は力ずくでAが学校に行くのを止めまた。それでもAは学校に行こうとしましたが、すぐに自分の部屋の中で過ごし始めまた。携帯電話で呼び出しを受けても電話に出ないようにして現在に至っています。現在は元気になり、家の中で明るく生活をしています。最近になって受けていたいじめの話を両親にし始めていますが、両親はいじめの解決を学校に求めようとはしていません。風の噂で最近Eが仲間にいじめられているらしいです。
 自分の子どものいじめられの解決はまず親が自分の子どもがいじめられていることに気づき、いじめられている自分の子どもを守ることです。いじめの存在を解決することではありません。自分の子どもがいじめられていることから守れたら、その次にいじめの存在を解決しようと親が動き出すことです。

子ども達だけで2007/10/4
 10歳の女の子がもう1年近く学校に行っていません。最近の女の子はとても元気になり、元の同級生が遊びに来たときには、家の中で楽しそうに遊んでいました。時には子ども達だけで買い物に出かけたりすることもありました。
 夏になり大きな花火大会が河川敷でありました。女の子は友達と一緒に花火を見に行く約束をしてしまいました。母親は大変に悩みました。10歳の女の子達だけで花火を見に行くのは大変に危険です。花火の会場は大変に混み合います。どんな人がそこにいるか分かりません。花火が終わって帰る時間もかなり遅くなります。暗い夜道を女の子だけで帰ることになります。常識的には誰か大人がついて行くべきでしょう。大人がついて行けば、それだけ事件や事故を起こす危険は少なくなります。
 ここで考えなくてはならないことは、子どもが自分の能力を伸ばすために何かに挑戦する、特に人間関係や社会のルールを習得する場合には、どうしても多少の事件や事故の危険を伴います。親が親の都合で、親の勝手な思いで、その危険を冒さないで子どもを育てようとすると、子どもの社会性が育たないのです。現在、社会性のない若者達、社会ルールを無視する若者達、自分勝手な若者達が多い原因の一つは、親が子どもに危険を冒してまでも人間関係や社会のルールを習得する機会を与えていないからです。
 危険を理由に子どもの挑戦を禁止するのは、事故が起きたときに親が責任を逃れをするものであり、それは親の都合のからの対応です。自分の子どもを信頼していないという意味になります。自立したいと思う子どもには納得しない対応です。親は子どもの挑戦を可能な限り条件を付けないで認めると同時に、あらゆる危険性を考えて、どのような状況下でもその危険への対処の仕方を考えて、控えておく必要があります。例え子どもが親の思いと違った行動をとったとしても、その時には親としてこう思ったよと優しく教えてあげると、子どもはその失敗を失敗と受け止めて、次の時はそのことをしないで親の思いに沿って行動してくれます。
 しかし現実の多くの親はいろいろと理由をつけて、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと注意ばかりをしてしまい、子どもの自立の芽を摘んでしまいます。それでいて何かにつけて自分の子どもに自立した行動を要求して、子どもを困惑させています。それでは子どもの心が育たないから、社会の中で子どもは自分をしっかりと守っていけなくなります。
 女の子の母親は女の子が不登校になって以来、女の子の全てを信頼して見守ってきていました。今回の花火見物も、女の子がしっかりと考えて、危険を回避する方法を女の子なりに考えて決めたことを信じようとしました。だから女の子が花火大会を見に行くと言い出したとき、母親はしばらく考えた後、見に行って良いよとだけ答えました。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、何々をしなさいとは言いませんでした。花火大会の当日女の子は慣れない浴衣を着て、下駄を履いて、携帯電話を持って、楽しそうに友達と一緒に花火を見に出かけました。

先回りをした対応2007/10/23
<質問>
不登校で辛い状態の子どもへの対応として、「子どもを辛くする物から先回りして子どもを守る」と言われますが、それと同時に「子どもの要求以外のことをしないこと。その要求も100%満たしてあげて、決して100%以上のことをしないこと、100%以下では要求を満たしたことにならないこと。」と言われますが、この二つの言葉は矛盾しているようにも思われます。
 現在学校に行き渋っている小学6年生の男の子が修学旅行には行きたいと言っています。一人で登校することが負担で母親の私が学校まで連れて行っています。私は子どもが修学旅行には行きたいと言っていますから、是非行かせてやりたいと思っています。子どもを辛くする学校と修学旅行から私の子どもを守りたかったので、仲が良いと子どもが言っている友達に電話して、修学旅行に一緒に行こうと誘ってもらったので、子どもは修学旅行に行けました。修学旅行の後も子どもは学校に行き渋っています。この友達に修学寮に一緒に行こうと誘ってもらったことは、子どもが要求していないこと、先回りをした対応だったでしょうか?
<答え>
 あくまでも弱者の論理です。辛い状態の子どもの心についての話です。少し難しいかも知れませんが、情動には接近系(楽しい刺激)と回避系(辛い刺激)があります。接近系の要求には100%その要求を満たしてあげるのがよいです。100%以上の事をするとその時は子どもを喜ばすことが出来ますが、それと同時に子どもは依存を生じて、将来の子どもを苦しめることになります。100%以下ですと子どもの要求を十分に満たしていないから、子どもに葛藤を生じます。回避系の要求(回避系の刺激に対する反応行動は、全て辛い刺激に対しての回避行動であり、回避できないときにはいろいろな問題行動や病的な症状を出して、同時に恐怖の条件刺激を学習します。回避系の刺激は辛い状態の子どもには与えてはいけません。)については親が先回りをして、その回避系の刺激が辛い状態の子どもの心に伝わらないようにする必要があります。
 この子どもの場合学校が負担になっています。学校が子どもを辛くする刺激、回避系の刺激になっています。ですから母親が先回りをして学校という刺激を子どもに与えないようにする必要があります。
 修学旅行が子どもに取って辛くする刺激か楽しくする刺激か、この文面からでは分かりません。子どもは言葉では修学旅行に行きたいと言っているのでしょうが、その場合、子どもが修学旅行に本当に行きたい場合と、修学旅行には行きたくないのですが母親が行って欲し思っている思いを感じ取って修学旅行に行きたいと言っている場合(よい子を演じている)があります。多くの学校が辛い状態の子どもでは、学校の友達も辛くて、その辛い友達や先生が参加する修学旅行も辛いものです。嫌がるものです。けれど中には、修学旅行そのものが好きで、そこに嫌な友達がいたり先生がいても、それ以上に修学旅行が好きだという子どももいます。
 修学旅行が子どもを楽しくする刺激なら、子どもは親が何らかの対応をしなくても、修学旅行に行きます。辛い刺激なら修学旅行に行きません。ですから、仲の良い子どもに誘ってもらったことは、子どもにとって修学旅行が楽しい刺激なら、余計な対応だったことになります。する必要のない対応だった、子どもの要求以上の対応だったと言うことになります。修学旅行が子どもにとって辛い刺激なら、それは子どもを辛い修学旅行に押すことになり、子どもが母親に不信感を持つようになります。後々子どもが家で荒れる原因の一つになります。いずれにしても学校が辛い状態の子どもにはすべきではなかった対応と言うことになります。

引きこもりの子どもの普段の姿2007/11/7
<質問>
 子どもが不登校で家に引きこもり毎日ゲーム三昧です。ゲームが順調なときには、子どもはにこにこしていて、精神的に安定してますが、ゲームの調子が悪いときには、イライラしてコントローラーを投げ飛ばしたりします。その後もちょっとしたことで怒って物を投げるとか、親に暴言を吐いたりします。父親がそれを咎めると、泣いたり、ガクガクと震えたり、引きつけたりすることもあります。子どもが病気ではないか心配です。
 また子どもは朝起きてきませんし、夜遅くまで起きています。食事も好きなものしか食べませんし、何かしても後かたづけをしません。このような好き勝手に生活していて、子どもの将来を考えると心配です。子どもが我が儘で親の手に負えないようになるのではないかと恐れています。
<答え>
 お母様は息子さんに学校に行って欲しいと内心強く思っていらっしゃいます。息子さんの行動に問題意識を感じていらっしゃいます。息子さんの将来に強い不安を感じています。それらのお母様の思いや不安は、お母様にその気はなくても、お母様の表情や行動、言葉の端端から息子さんに伝わっています。
 息子さんは普段落ち着いていて、ゲームの調子が悪いときにはイライラし出したり、精神的に不安定になると、お母様は考えていらっしゃいます。ところが本当の息子さんの姿は違います。不登校引きこもりで辛い状態である現在のお子さんの本当の姿はゲームで調子が悪いときの姿です。現在の息子さんは学校に行かなければならないと感じているのに、実際には行けないという葛藤に苦しんでいて、イライラして精神的に安定していないのが普通の姿です。けれど住み慣れた家の中では、特に息子さんが楽しめるゲームをしていて調子がよいときには、学校を忘れていられますから、不登校を始める前の状態、にこにこして精神的に安定した状態になっています。つまり不登校引きこもりの子ども一般について言うなら、イライラしたり、精神的に安定していないときが普段の姿であり、辛い不登校の子ももの心を癒す物があるときには、不登校になる前のにこにこした、精神状態の安定した心に戻ることが出来るのです。
 息子さんを絶えず辛い状態にしている原因の一つに、お母様の学校への思いを息子さんは感じ取って居ますから、いつもイライラした辛い状態になります。それ以外にも息子さんが学校を思い出す物が息子さんの周囲にはたくさんあるはずです。それらの学校を思い出す物が息子さんの周囲にたくさんあって、それらが息子さんを辛くしていることに、息子さんもお母様も気づいていません。つまり息子さんがイライラした状態とは、息子さんがゲームで調子が悪いときばかりではなくて、息子さんが学校を思い出したときなのです。その学校を思い出した辛さを解消するためにゲームを一生懸命します。ゲームで調子が良ければ学校を忘れていられるから落ち着いた姿になれます。
 家にいても息子さんが学校を思い出すものがたくさんありますから、息子さんは絶えず辛い状態になります。その辛さを解消するために、息子さんはできそうなことを片っ端からしようとします。それが周りの大人達から見たら勝手気ままに見えますが、息子さんが元気になるためにはとても大切なことなのです。息子さんの辛い心を癒すためです。息子さんが学校を思い出さないように、息子さんにとって楽しいことを続けます。息子さんが元気になればお母様の心配は吹っ飛びます。お母様が息子さんに何か要求すると言うことは息子さんに学校を思い出させる、または辛い状態に追い込むことになり、息子さんを元気にしません。
 息子さんが学校を思い出さないように勝手気ままなことをする、我が儘放題のことをする、好きなことだけをするのは、息子さんの辛い心をそれらで癒して息子さんが元気になるためです。息子さんが元気になると不登校や引きこもりの問題は息子さんが解決してくれます。息子さんが不登校や引きこもりの問題を解決してくれたら、息子さんは我が儘放題のことをしなくなります。する必要が無くなるからです。息子さんが見つけた目標に向かって努力してくれますし、親の思いに沿った生き方をしてくれます。ですから息子さんに可能な限り早く我が儘放題な時期を経験して元気になって、不登校や引きこもりの問題を解決してもらうために、我が儘放題なことをしてもらうのです。そして息子さんに元気になってもらうのです。

親と母親との信頼関係2007/11/16
<質問>
娘が小学校から不登校になり、娘を無理矢理に学校へ行かせようとする学校の対応の悪さから、先生方に不信感を持ちました。子どもを小学校に行かせる気は全くなかったです。中学校に進学して、とても良い担任に巡り会いました。とても信頼できる先生だったので、子どもを学校に連れて行くと、子どもはその担任の先生と話し合えるようになっています。子どもは週1回放課後、空いている教室で、担任の指導で子どもの大好きな絵を描いています。
 今回このように良い担任に出会えました。私も娘もこの担任の先生を信頼して、学校生活を取り戻せそうです。子どもは学校に行くエネルギーを湧かせそうです。やはり親と担任との信頼関係がとても大切だと思っています。
<答え>
 お嬢さんが不登校ですから、学校に対して恐怖の条件反射を生じるようになっています。小学校でのお母様のお嬢さんを学校に行かせないという対応は良かったです。中学校での対応についてです。一般的に子どもが学校に行くという行動は ”学校の魅力ー学校の辛さ+学校に行く習慣+親が学校に押す力” で決まります。このお嬢さんの場合、先生という魅力、絵を描くという魅力がお嬢さんを学校に行かす魅力になっています。ですからお嬢さんは学校に行けています。また、夕方という普通に行く学校ではない時間帯ですから、学校から受ける辛さが弱まってもいます。
 本当に学校の魅力が増大してお嬢さんが学校に行けるようになっているのならそれでよいのですが、親御さんが良い先生だと思って(お嬢さんが思っていることとは別です)いることや、お嬢さんの好きなことをさせる(絵を描くことがお嬢さんの本心から好きだとは限らない)と親御さんが思っていることから、お嬢さんを無意識に学校に押している場合があります。つまり親は意識していないけれど、子どもの方では学校に押されていると反応している場合が結構多いのです。子どもがよい子を演じて学校に行ってしまっている場合です。親や先生は子どもが喜んで学校に行っていると間違って判断している場合が多いです。このお嬢さんの場合もこの可能性を考えなければなりません。
一方子どもの辛さは 学校から受ける辛さ+学校に行く習慣+親が学校に押す力ー学校の魅力 ですから、親が無意識でも子どもを学校に押せば押すほど、親が気づかないうちに子どもはもっともっと辛くなっています。子どもがよい子を演じてしまっていると、親が子どもを学校に押していることに気づかないので、子どもはとことん我慢し続けて、どうにも動けなくなって、いろいろな問題行動をしたり病気の症状を出して、親が混乱することになります。このお嬢さんに関してもこの可能性を考える必要があります。
ここで本文のお嬢さんに戻りますと、親御さんも娘さんも信頼できる先生と書かれていますね。信頼関係を考えるときには、母親と子どもとの信頼関係が一番大切です。この親御さんとお嬢さんとの間の信頼関係については書かれていません。もし親御さんとお嬢さんとの間に信頼関係が出来ていますと、お嬢さんは親御さん以外の人に信頼関係を求めません。先生に信頼関係を求めません。潜在意識でその存在を意識しただけでも辛くなる先生から逃げようとしても、素直には求めようとはしません。一般的に不登校の子どものように辛い状態の子どもはその母親の信頼関係を求めるからです。ですからお嬢さんが先生との信頼関係を求めたと言うことは、親御さんとの信頼関係が不十分だと言うことになります。
 このように書きますと親御さんを非難するような書き方になりますが、お子様を守るために敢えて言わせて下さい。親御さんとお嬢さんとの信頼関係が不十分な場合にはお嬢さんは親御さんのために可能な限りよい子を演じます。お嬢さんは無理をして学校に行ってしまいます。そして親御さんはお嬢さんが学校に行くエネルギーを持っていると判断されます。けれどお嬢さんが先生を信頼していると親御さんが判断なさっていらっしゃるその判断が、お嬢さんがよい子を演じている姿から間違って判断していらっしゃいます。このお嬢さんは間違いなく先生が辛いはずですが、親御さんのためによい子を演じています。無理をして学校に行って、お嬢さんが楽しめる絵を描くことで妥協しています。今は妥協できていますが、その内に無理がきかなくなって、いろいろな不適応行動をしたり、病気の症状を出すようになります。
 親と担任との関係と書かれていますが、一般に不登校などで辛い状態の子ども親と担任との関係が良いことを求めていません。繰り返しますが、不登校などで辛い状態の子どもは、母親と子どもとの間の信頼関係を求めています。そして親と子どもとの間に信頼関係が出来ると、親も先生との間の関係を良くする必要を感じなくなります。例え先生がとてもすばらしい先生でも、親と先生との関わりを必要としなくなり、自分の子どもがその子どもなりに生きようとする生き方を認めようとします。親と先生との関係が良い場合には、子どもは学校でよい子を演じてしまい、無理を重ねてしまいます。親と担任との関係がよいと一見子どもにも良いように理解されますが、子どもの立場から言うなら、子どもにとっては好ましくない関係なのです。
 このお嬢さんが学校に行くエネルギーを貯めるには、今のように行けない学校に今のお嬢さんを行かせているという対応では貯まってきません。学校という刺激を一切なくして、親御さんとの信頼関係に守られて、お嬢さんなりの生き方を続けて、その経験の中で勉強の必要性を感じたときに生じてきます。それ以外では生じないと考えて下さい。その理由は、不登校の子ども、学校に辛さを感じる子どもは同時に勉強にも辛さを感じているから、勉強の辛さ以上の勉強の楽しさを見つけられない限り、自分から勉強を始めないからです。

学校に行くなと言ったら

 不登校気味で、今回も昨日からおなかが痛くて学校を休んでいる女の子がいます。以前は母親がすぐに女の子を病院に連れて行き、薬を飲ませて女の子が学校に行けるようになるのを待っていました。しかし最近になって母親は女の子が不登校気味であることに気づきました。 そこで不登校の相談機関で対応法を相談したところ、「学校には行くな」と言ってあげてごらんとアドバイスを受けていました。そこで母親が女の子に「今日はおなかが痛いから学校に行かなくて良い」と言ったところ、女の子は元気になり、テレビを見たり漫画を読んで一日を過ごしました。
 女の子が「明日は学校に行くから朝7時に起こして」と言いました。母親は「あなたは学校に行かないで、家であなたらしく生活をしてごらん」と言うと、女の子は「子どもが学校に行きたがっているのに、どこにあんたのような、学校に行かなくて良いという親が居るの」と怒りだしました。
 それでも母親は「普通の母親は確かにそうでしょう。けれどお母さんは違う。いくらあなたが怒ったとしても、お母さんはあなたが学校に行かないで、家であなたらしい生き方をしてくれるだけで良いと思っている。お母さんはそう思っているのであり、学校に行くかどうかを決めるのはあなた自身でしょう。」というと、女の子は怒って部屋を出て行ってしまいました。しかしその後るんるん気分で過ごしていました。翌朝、自分から起きてきても、学校に行こうとはしませんでした。
 女の子は無意識に病気を演じる、病気の症状を出すことで学校に行かないという選択が許されていると潜在意識で反応していました。その症状を出さないでいると、親から学校に行きなさいと言われると潜在意識で反応しています。女の子は知識として、習慣として、学校には行かなくてはならないとなっています。
 そこで女の子は「明日は学校に行く」と言いましたけれど、潜在意識では学校を拒否しているので、学校に行けそうもないことを感じ取っています。そこで「朝7時に起こして」という条件を付けています。起きようと努力するという意味です。
 母親が女の子に「学校に行くな」と言うと、それは学校に行かなければならないという女の子の知識の否定になりますから、否定されたこと自体では、女の子は怒り出します。けれど女の子の本心に母親の言葉は沿っていますから、母親に認められていると反応し始めて楽になります。元気が出てきます。
 起きられない朝も自然に起きられますが、安心して学校に行こうとはしません。安心して不登校になり、安心して自分なりの生き方を求めることができるようになります。学校で疼く心の傷が早く癒えて、学校で疼かなくなります。


我が子によかれと(1)07/12/22
 中学一年生から不登校、引きこもりになった女の子です。引きこもりになってから女の子は荒れ続けていました。その荒れ方が尋常ではなかったので、両親は女の子が心の病気だと思いある精神科の病院を受診、統合失調症として投薬治療を受けていました。薬を飲ませても、女の子はますます荒れるばかりで、かかりつけの精神科医と相談すれば相談するほど薬が増えていきました。
 薬があまりにも増えたので、それに母親がいくら女の子に薬を飲まそうとしても、女の子は母親に暴力をふるって、だんだん薬を飲まなくなりました。女の子は病院を受診しようともしません。病院は女の子の代わりに受診した母親の話を聞いて、薬を飲ませられない母親を叱りつけ、他種類の薬を大量に処方するだけでした。その病院の対応に母親はだんだん疑問を持つようになり、ネットで調べて当院のカウンセリングを母親が受けるようになりました。
 母親が女の子は病気でないことを信じて、学校や学校に関するものを全て女の子から取り除き、女の子の意志を全て認める対応など、当院からの指導を受け入れて母親が対応を続けたところ、女の子はだんだん落ち着いてきて、暴力もなくなり、母親との関係もとても良くなって、女の子は家の中でゲームや漫画、テレビ、ビデオなどに時間を費やして、気分の良いときには皿洗いや調理などの手伝いもするようになりました。
 あれほど荒れていた女の子が落ち着いてきて約一年たちました。母親との会話も多くなり、いくらか将来の見通しも立って、母親もどことなく安心して生活をできるようになりました。女の子は母親がパートで働いて良いと言って、日中は一人で留守番をするようになっていました。
 そのような日々の中である夕食時に突然女の子が激しく荒れてしました。テーブルの上の食事をひっくり返し皿を母親に向かって投げつけて割りました。母親にはなぜ女の子がこれだけ荒れるのか、全くわかりませんでした。以前激しく荒れていた女の子の姿を思い出した母親は、恐怖と不安から家から庭に出て震えていました。
 女の子は数時間荒れ続けましたが、その後何事もなかったようにして居間でテレビを見て、明け方には眠ってしまいました。母親にはどうして女の子が急に荒れ出したのかどうしてもわかりませんでした。以前女の子が荒れていた頃が思い出されて、そのときの病気が再発したのではないかと心配していました。母親は女の子への対応を夜遅く帰ってきた父親と話し合いましたが、父親からは責められるばかりで、母親は途方に暮れてしまいました。
 翌朝母親は当院に電話をかけてきました。母親が最も心配したことは、このように原因もなく荒れたのは、やはり女の子が病気を持っていて、それが再発したのではないかということでした。そこで当院から「女の子が食事時に荒れたのだから、食事に何か今までと違った変化はなかったか」という質問をしました。母親は「食事はいつものように用意をして、女の子を呼んで食べようとしたけれど、おかずがいつもと違ったおかずを用意した」と言いました。母親からそのおかずについていろいろと聞き出してみると、そのおかずは女の子が幼いときにはとても好んでいたけれど、荒れているときに作って、ますます荒れてしまった時のおかずであることがわかりました。母親としては女の子が元気になってきたので、もっと元気になって貰うために、もっと栄養を付けて貰うために、母親の願いを込めたおかずだったのです。女の子によかれと母親が思って作ったおかずなのでした。
 女の子にとってそのおかずは、女の子の潜在意識の中で何かとても辛いことと結びついていたのです。女の子はそのおかずを見たとたん、潜在意識でその辛い出来事と結びついて、激しい怒りを生じて荒れてしまったのです。もちろんこの反応は女の子の潜在意識で生じていますから、女の子はなぜ自分が荒れたのか全く理解をしていません。その辛い思い出と潜在意識で結びついているおかずがなくなると、女の子の心は安定して今まで通りに過ごすことができるようになるのです。実際にそれ以後も女の子と母親との関係はとても良くて、女の子はだんだん元気になっていっています。
 このように我が子によかれと親が思って行った対応が子どもの心の傷にふれる場合があります。辛い状態の子ども達は親に先回りをした対応を求めていません。それよりも子どもの要求を100%叶えてくれる親を求めています。
 また、我が子のためと、我が子によかれとして親が行ったことが子どもの心の傷にふれた場合、親にはなぜ子どもが荒れるのか、なぜ病気の症状を出すのか全くわかりません。親は子どもが理由もなく荒れたり、病気の症状を出すと感じますから、子どもが異常ではないか、子どもが病気ではないかと考えて、子どもを病院に連れて行ったり、子どもの問題行動に対応する機関に子どもを連れて行きます。それはますます子どもを辛くして、子どもの問題の解決を不可能にしてしまいます。病気でもない子どもを医者が病気だと診断すると、親は子どもを病人と信じ込んでしまい解決策を誤って、子どもを辛い状態から守る解決策を失います。

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