子どもを理解する2005/8/12
 さもわかったような言い方で申し訳ありません。いわゆる不登校、引きこもりで辛い状態にある子どもと親との関係を観察して、そして子どもの心の構造から推定していることです。
 多くの辛い状態にある子どもは、自分を完全に理解してとは言っていないと思います。多くの辛い状態にある子どもが行動や症状で言っていることは、自分を信じて見守っていて欲しいということだと思います。子どもにとって必要なことは言うから、言うことだけを親はしてくれて、それ以外のことは何もしないで待っていて欲しいと言うことだと思います。子どもが要求しない限り、親は子どもの辛さや不安を共有しなくても良い、また、親が揺れてしまうのも仕方ないけれど、できたら揺れないで、ただ信じて待っていてくれればよいということだと思います。
 子どもが辛さや不安を共有してくれと言った場合には、親は子どもの辛さや不安を共有するために、子どもに付き合わなければならないのですが、その際に子どものすべてを理解できるわけではありません。特に子どもの反応や行動の多くを占める潜在意識については、親は子どもから感じ取るしか方法がありません。それは子どもの要求に応えられているかどうかの不安を、そして子どもの辛さや不安に十分に共感できているかどうかの不安を、新たに親に生じさせます。その不安から、親は揺れ動くことになります。それは仕方がないことだと思います。親はその不安から揺れ動く割合を少なくすればよいだけだと思います。親はその不安から揺れ動く割合を少なくするために、親なりの努力をすればよいだけだと思います。そのためにはパートナーの協力も必要でしょう。そのためにカウンセラーも必要な場合もあります。そのために親の会も上手に使う必要があります。
 子どもは一人一人性格も違うし、経験も違います。親も一人一人皆違います。同じ子どもや親の言葉でも、その言葉の意味合いや背景は皆違います。しかし子どもと親との関係の基本は皆同じのようです。そこさえ十分にふまえて子どもと向き合えば、後は可能な限り子どもを理解すればそれでよいのであり、完全に理解しようとすることが無理なのだと思います。
この子どもと親との基本的な関係を理解すること、子どもを理解することは親の能力の範囲でよいことを、現在子どもの問題で苦しんでいる親に伝えるのが経験者の親の役割だと思います。

恐怖の学習2005/8/31
 恐怖には生得的な恐怖と、学習した恐怖があります。人間の場合、生得的な恐怖としては、痛みと強すぎる感覚、欲求不満があります。それ以外は全て学習した恐怖と考えられます。これに関しては、議論が多いところですが、ほぼ間違いないでしょう。痛みと強すぎる感覚が恐怖刺激であることは、経験から全ての人が感じているところです。
痛みと強すぎる感覚とは、大脳新皮質に関係ないようです。多分視床から直に大脳辺縁系扁桃体に情報が送られていると考えられます。その痛みや強すぎる感覚ですら、条件反射で恐怖でなくすることもできます。
欲求不満自体は生得的な恐怖ですが、具体的な刺激の内容は学習によって異なります。習慣や慣れと言う状態が途絶したときに生じます。ただし、多くの人はこの欲求不満が恐怖であることに気づいていないようです。欲求不満は欲求不満、恐怖とは異なると感じている人が多いです。けれど脳科学的には、人の認識はどうであれ、脳のレベルから言うなら、欲求不満は恐怖と同じ物です。恐怖を起こす原因が痛みや強すぎる感覚でないという事実だけです。
その他の恐怖は、痛みや強すぎる感覚、欲求不満から、恐怖の条件付けという形で学習しています。たとえば刃物が恐怖になる人は、刃物で痛みやその他の辛い経験をしたから、刃物が恐怖の条件刺激になっています。あの人が恐怖だという場合には、あの人から暴力などの痛みなどの恐怖を受けたことから、あの人が恐怖の条件刺激になっています。
その他の恐怖の中には、痛みや強すぎる感覚、欲求不満から、恐怖の条件付けという形で学習した恐怖の条件刺激を、改めて経験した際に、新たに恐怖の条件付けという形で学習した物があります。この場合には直に恐怖経験の記憶と関係していないために、なぜ恐怖を感じるのかわからないものです。それどころか恐怖を感じていても、その恐怖に気づかない場合も多いです。自分の性格が変だ、病気だと感じてしまう場合が多いです。

子どもはなぜ勉強をするか?2005/9/12
 ある会でのある人の意見です。
「子どもが、役に立たないから勉強したくないと言っているのは、自分で自分の首をしめているようなものですよね。このような、甘えたことばかり言って、嫌なことから逃げてるんですからね。主要科目は確かに実生活からは役に立たない一面があるものの、子供の時期にやっておかないと誰も補ってくれなくなってしまうのですからね。」
この意見の中の、役立たないから勉強をしたくないという意味は、子どもから見たら二つあると思います。
 その一つは言葉通りに、「将来の自分のなりたい職業が思い当たらない。勉強が役立つような職業にはなれそうもない。勉強をしても勉強が役立つような職業に就けないなら、勉強しても意味がない」という意味です。
もう一つはその裏で子どもが意味していることです。それは「その子どもにとって、今している勉強が勉強が楽しければ、勉強に興味を持てるから勉強するけど、勉強をしても楽しくないから、勉強に興味を持てないから、勉強ができないし、勉強をしたくない。勉強ができなければそれ相当の職業に就けない。その結果自分のなれそうな将来の自分の姿を想像できない。希望がない。夢がない。」という意味です。
 子どもに勉強させるというのは、大人の発想です。子どもが大人になって条件の良い会社や官庁に就職できるように願うからです。学校の成績が良くないと、社会で認められた大学に入れません。その後の就職に不利だから、親は子どもに勉強をして欲しい物です。子どもの生活の安泰は、親の老後の安泰を意味していると考えているからです。経済的には子どもに頼らないと考えている親でも、子どもの煩わしい問題には関わりたくないという意味でもあります。
 子どもの立場から言うなら、一部の子どもは、勉強することがおもしろいから、又は親からほめられるなどの、ご褒美が欲しいから、自分から勉強をしています。そうでない多くの子どもは、勉強しないと親や先生から叱られるから、仕方なく勉強をしています。親や学校からの恐怖がなければ、勉強しない子どもが多いです。だからこれらの子どもの勉強はきわめて効率が悪いです。
 子どもが興味を持たない勉強を、子どもにして貰うには、勉強をしたらその子どもにご褒美をあげるか、勉強をしないとその子どもに恐怖を与えるかの方法があります。現在の学校の多くは子ども達に恐怖を与えることで勉強をさせようとしています。勿論先生方はその積もりはないのですが、子ども達はそのように理解しているからです。その結果、先生方にはその積もりはなくても、子ども達の心は傷ついていきます。現在の子ども達の問題を生じています。
 学校の勉強は、子どもがその気になれば短時間に追いつけます。たとえば中学生年齢の子どもがその気になって小学生の勉強をはじめると1〜2週間で追いついた子どもを経験しています。高校生年齢の子どもがその気になって中学校の勉強をはじめたなら、2〜3ヶ月で追いついた子どもを経験しています。普通の大人でも、大学時代に勉強したこととは全く関係ない職場に就職して、全く新しいことをその人なりにマスターして仕事が可能になっている人は多いです。
それでは何のために、子ども達は勉強するのでしょうか?

知識か実習か 2005/9/22
 子どもの教育に関して「理屈より体験することが重要だ」と主張する人たちがいます。この言葉を言い直すと「子どもは、理屈を体験にはできないが、体験は理屈にできる」と、なります。勿論例外や、完璧に成立するわけではないですが、子どもに関しては基本的には正しいです。子どもの特徴の一つだと考えられます。そして現在の学校の先生方や教育学者が気づいていないことなのです。
 これは、学校教育においてはとても大切なことです。学校教育とは体育や音楽、図工、家庭科など、実際に体験する時間もあります。けれど、言葉だけで教えられる時間も多いです。国語、算数、理科、社会などの、言葉で教えられた知識は、言葉だけで答えればそれでよいテストなどには役立ちますが、子どもの実生活の中では、子どもの知識はそれだけでは役立ちません。大人になって知識から動けるようになってはじめて、学校で習った知識が実生活の中で役立つようになります。
 校長先生の訓辞、先生のお説教、道徳の時間、命の尊さを教える、これらはすべて知識であり、例え子ども達がその知識を身につけたとしても、質問されればその知識に沿って答えられますが、実生活でその知識を利用することができないのです。それが子どもとしての自然な姿なのです。
 子ども達は教えられたことを実生活で利用できなければ、その知識を用いなければならなくなった状況下で、子ども達はその知識を用いた行動ができません。その結果大人達から、その子どもは非難される、叱られることになります。
それは新たにそのような知識を取り込む意欲を奪い去ります。いくら校長先生が良い訓辞をしても、先生がいくら良い説教をしても、道徳の時間にいくら良い道徳を教えても、子ども達は上の空になっていきます。
 「子ども達が子ども達の時期に実際に行って欲しい」と、大人達が思う子ども達の行動の仕方は、子ども達に知識で教えるのではなくて、子ども達にいろいろな形での練習で教える必要があります。子ども達への実習の形で教える必要があります。
実習が難しい場合には、ロールプレイングという形や、コンピューターを使ったヴァーチャルな世界のなかでの模擬体験という形でも、練習が可能です。是非、このMSGを見られた人は、このことを覚えておいて、実行してください。そうすればそれだけで子ども達との信頼関係ができてきます。

辛い状態の子ども、元気な子ども2005/10/11
 子どもは生物ですから、本能的に与えられた環境や社会に順応しようとして成長します。何かを求めて動き回り、自分から経験を重ねて行きます。その姿が元気な子どもの姿です。
 人間を含めて全てのほ乳類では、嫌なことがあると逃げ出します。逃げ出せないときには暴れます。暴れられないときにはすくみの状態になります。このすくみの状態が、人間の子どもの場合の元気のなさに相当しています。子どもにとって嫌なことが続くと、子どもは元気を失っていきます。子どもにとって嫌なことがとても強いと、又は嫌なことが長く続くと、子どもははっきりと分かる病気の症状を出して、動けなくなります。
 人間の場合、この嫌なことが何か分からない場合が多いです。子どもには嫌なことだと分かっても、親が嫌なこととは認めない場合が多いです。それは、親から見たら原因もなく、子どもが元気を失っていると判断される場合です。原因が無いと大人が考えても、それはその大人が気づかない嫌な刺激が子どもに加わっているからです。心の傷がある場合にはその反応が強く出るという意味になります。

暴れる子、おとなしい子2005/10/15
 子どもには生きる世界があります。それは主として家庭と家庭の外、学校です。家庭の外、学校で嫌悪刺激に遭遇すると子どもは家庭に逃げ帰ります。家庭内で嫌悪刺激がないと、子どもは家庭内で元気に成長できます。それが元気な引きこもりです。
 家庭内で子どもに嫌悪刺激が存在すると、子どもには逃げ出すところがありません。その結果暴れますし、暴れられないときには所謂すくみのじょうたい、辛い神経症状や精神症状を出します。その意味で、暴れる子どもの方が、辛い神経症状や精神症状を出す子どもよりも回復が早いです。
 子どもが嫌悪刺激に出くわしたとき、暴れるということを経ないで、所謂すくみの状態、神経症状や精神症状を出すようになる場合があります。所謂よい子に見られます。子どもが親に訴えることを放棄した子どもです。
 見方によっては親が上手に子どもを育てた、又は悪いことができない子ども、ということができますが、見方によっては親の思うがままに操縦される子どもという意味になります。親の思いで縛られた子どもといえます。

強者の論理、弱者の論理2005/10/24
 登校拒否、不登校、引きこもり、問題行動を起こした子ども達への対応を行っていて気づいたことです。親や大人達は、自分たちの経験や考え方から、子ども達と向かい合っていて子ども達を育てていますが、それでよい子どもと、それでは却って子ども達が辛くなる場合があるのはなぜか、その理由を分析してみました。そして、子ども達の反応の仕方(=いわゆる性格)は二つの傾向を持った子供達に分けられることが分かりました。
一つの反応の仕方の子ども達は、積極的にその子どもなりに何かをしようとする動機を持っている、又は、積極的に自分の周囲に関わろうとする動機を持っている(エネルギーのある)子ども達です。それを元気な子ども達(強者)と表現しておきます。もう一つの反応の仕方の子ども達は、積極的な行動が少なく、自分の周囲との関わりにも積極性がないばかりか、逆に自分の周囲との関わりを避けようとする子ども達です。それを辛い状態の子ども(弱者)と表現しておきます。
 この二つの反応の仕方の子ども達を厳密に分けることはできません。その両者を併せて持っている場合もあります。ですから、全体にどちらの傾向が強いかと言うことで判断することになります。その両者を会わせて持っている子どものは、弱者として対応した方が良いように感じます。時間的にも強者にから弱者に変化したり、弱者から強者に変化していく場合もあります。
 この二つの反応の仕方の子ども達を厳密に分けることのできないもう一つの理由に、子ども達がいわゆるよい子を演じている場合があります。よい子を演じている子ども達は、親や大人達には元気な子どもとして判断されますが、自分を守るためによい子を演じているのですから、本来なら弱者に属します。よい子を演じる子どもは耐えられるだけ耐えて、親や大人達の要求を受け入れるように反応します。
強者の論理(心理)
 元気な子どもは興味を持った能力やものについて、大人の要求を受け入れて、それを伸ばす能力があります。子どもの心は、生物としての心の反応ですが、子どもは大人の希望するものを受け入れられます。大人の希望する物を受け入れて、大人の希望する方向へ成長していけます。その姿は大人の持つ経験や常識で子どもを理解できる事になります。現在の学校教育、家庭での子育て、スポーツ選手の育成などで、この論理(心理)が使われています。
弱者の論理(心理)
 辛い状態の子どもは自分を守ることで精一杯ですから、大人の要求を受け入れる余裕はありません。大人の要求を受け入れる余裕のない子どもに、大人の要求に従えと関わり合っても、子どもはますます自分を守る反応に出てきます。大人の要求に従えないばかりか、大人の要求を拒否するようになってきます。場合によっては大人の要求の逆の反応を起こしたり、自殺してしまうようになります。
 子どもの心は、生物としての心の反応を示し、その対応は、生物としての子どもの心に沿った物でなければなりません。子どもの心に沿った対応であるから、元気な子どもにも当てはめられる訳ですが、元気な子どもに敢えて当てはめる必要がない子どもの論理(心理)です。それは子ども特有の論理(心理)であり、大人の持つ常識で理解できない論理(心理)です。登校拒否、不登校、引きこもり、問題行動を起こした子ども達への対応で、用いなければならない論理(心理)です。そして大人についても、とても辛い状態になると、その大人にはこの論理が当てはまるようになります。

親の嫌がることをする子ども2005/1/8
あるところで、子どもの問題行動についての話し合いがありました。その際にある人が「大体、子どもなんて、何をやらかすかわからない」と発言しました。この発言はとんでもない間違いです。子どものことを全く知らない人の発言です。私が経験する限り、大人こそ、その人自身だけの利益を考えて、その人自身の欲望から、何をしだすか分かりません。
元気な子どもたちは(辛い状態にない子どもたちは)、自分の属する、与えられた環境に順応しようとして成長します。元気な子どもの行動は、一部の大人たちにとって好ましくない場合もありますが、多くの大人たちにとって問題だと感じるような行動を、子どもは好んでとることはありません。基本的には、親の嫌がるようなことをしません。子どもたちはその子どもなりに、失敗や誤りを犯すでしょうが、それらの失敗や誤りを自分で修正して成長をしていき、最終的には自分の属する社会に順応してしまいます。
子どもが親の嫌がる行動をするのにはそれなりの理由があります。その理由とは、その子どもが耐えられないぐらいに辛い状態にあるという、子どもの側からの訴えです。辛くでどうにもできないから、助けてくれと言う子どもからの訴えです。もっと正確に言うと、子どもがその辛さを回避するための、回避行動です。その事実を知らないで、大人が辛い状態の子どもが起こした問題に関与されたら、子ども達がかわいそうです。多くの大人は認めないでしょうが、”どの子どもも、その子どもなりに、一生懸命生きている”のですから。
多くの大人は認めようとはしませんが、子どもは原則として親の嫌がる行動をすることはありません。子どもが、親の嫌がる行動をしたときには、その子どもが何か辛い状態にあることを意味しています。子どもが辛くて、「辛いよ」と言っても、親が子どもたちの辛さを理解できない場合が多くあります。親にとって辛くないことは、子どもにも辛くないと判断するからです。親は、「こんなこと、少しも辛いことではない」と言います。親は、「こんなことで辛いと言って逃げ出してはいけない。がんばれ」と言って、子どもたちの辛さを解消しようとはしません。またある子どもについては、子どもが言葉にしようとしても、なぜ自分が辛いのか分からないから、子どもが言葉にしようとしても、できなかったという事実もあります。
その子どもの辛さから、子どもを守ってあげたなら、子どもが辛いと表現するようなことから子どもを守ってあげたなら、子どもは親の嫌がる行動をしようとはしません。子どもが元気になったときには、親が子どもの行動に関与しなくても、子どもは親や大人の思いを感じ取って、社会に順応する行動をとるようになります。親や子どもに関与している人は、子どもが行った問題行動ばかりを見ないで、子どもがなぜそのような行動に出なければならなかったかという、その子どもの心の中をのぞいて上げてください。

子どもが泣いた訳2005/11/22
子どもが不登校になって、一年になりました。毎日、朝から晩まで、家の中で、ゲームやテレビ、漫画にふけっています。昨日、友達から電話があって、その後子どもは、「明日は学校に行く」と言いました。そこで私が「行かなくてもいいんじゃない?」と言ったら、子どもは急に泣き出してしまいました。落ち着いたところで、どうして泣いたのか聞いたら、子どもは「学校に行っちゃいけないのかと思った」と言いました。
私はその言葉をどう理解したらいいのかと考えました。常識的には、子どもが学校に行きたいのに、私が言い続けてきた「学校には行かなくてもいいよ」という言葉が、子どもを引き止めて、学校をさぼらせていると解釈されるでしょう。子どもに学校へ行かせる対応を、親の私が取るべきと考えられるでしょう。
子どもが本気で、心の奥底から、学校に行きたいと思うのなら、子どもはもっと元気があるはずです。もっと子どもにエネルギーを感じさせてくれるはずです。友達の誘いで本当に行きたいと思ったら、私がこのように学校に行くのを止めたら、子どもは私に反発するはずです。私が学校に行くのを止めても、それを振り切って子どもは学校に行ってしまうはずです。けれど、子どもは、ひと泣きした後、機嫌も良くなって、いつものようにずっとゲームとテレビと漫画にふけっていて、今日になっても学校には行こうとはしませんでした。
子どもが泣いた原因を、子どもは良く理解できなかったのだと思います。子どもが泣いた原因を、子どもが「学校に行っちゃ行けない」と思った、理解したと言うだけで、子どもの心の奥底(潜在意識の情動)では違っていたと思います。それは子どもが、学校に行けない自分自身を認識して、かわいそうに思ったという意味かもしれません。行きたくないが行かなくてはならないと考えた学校に、行かなくて良いと言われて、うれし泣きをしたのかもしれません。いずれにしても、「行っちゃいけない」と言われて悲しかったのではなかったことだけは間違いないと思います。私の対応が間違っていなかったと思います。

退屈
2005/12/14
 中学二年生の一人娘が登校拒否をして、引きこもりっぱなしでした。昼近くに起きてきて、真夜中過ぎまで、ゲームや漫画、テレビ、ビデオ、DVDと、好き勝手なことをして生活しています。私は東京の会社に勤めていますから、朝早くから、夜まで家にいません。食事も手抜き、掃除洗濯も手抜きの生活をしなければ、お勤めが維持できません。それでも土日は、家にいて、貯まった家事をしながら、娘の相手をすることができます。娘は忙しい私を追いかけるようについて回って、一週間分の娘の思いを機関銃のように私にぶつけてきます。私も忙しさから、ついつい上の空で聞いてしまうことがありますが、そうすると娘が酷く怒り出します。平日は私が疲れ切っていることを知っているのでしょう、私に娘の思いをぶつけることはありません。自分の世界に閉じこもって、好きなことをしていました。それでも最近は、気が向いたときには洗濯をしたり、簡単な料理を作って待っていてくれることもありました。私が「ありがとう」と言うと、娘は嬉しそうな表情をしました。
 日曜日の夜、夕食の料理を作っていたら、娘が「手伝うわ」と言ってやってきて、私とおしゃべりをしながら、手助けをしてくれました。私が「千代ちゃんが家にいてくれるから、お母さんは安心して仕事に行けるよ。ありがとうね。明日からまた留守番を頼むよ。」と言うと「土日、二日間って、本当にすぐに過ぎちゃうのよね。」と子どもが答えました。私が「どうして、そんなに土日が早く終わってしまうの?」と聞くと、娘はそれに答えないで、「あのね、毎日休みっていうのも、結構たいくつなのよ。」と言うので、私が「それじゃあ、土日が千代ちゃんにはとても忙しいのね。」と言うと、娘は「最近は本当に退屈なのよ。テレビやビデオも見飽きたし、ゲームにも飽きちゃったし。どうしたらいいと思う?」と聞いてきました。私は「家でゆっくりしてるなも良いんじゃない?」と答えました。すると娘はしばらく考えた後、「明日はジャスコに行ってみようかしら?」と言いました。

日本の人口減少と子ども2005/12/27
 今年から日本の総人口が減少に転じました。その理由は当然のことながら、死亡者の数よりも出生者の数が少なくなったからです。特に出生者の数が少なくなったことが大きく響いているようです。その出生者数の減少が将来の日本社会の不安材料になると心配している人が多いです。その不安を解消するために、出生者数の増加を期待するような政策も取られています。また、労働人口の減少を防ぐために、所謂フリーターという若者やニートと呼ばれる若者を、職に就かせようとする政策も行われています。
 私たち、登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子供達に関わっている者として、子供の環境を整える政策には納得できるのですが、その内容はあくまでも大人の立場であり、子供の心を無視したり、誤解している政策が多いと、つくづく感じます。例えば、引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達に職業訓練をして就職させようとする政策を考えてみて下さい。引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達の一部は、社会や人間関係に恐怖を感じるから、家庭の中に逃げてきています。また、引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達の一部は、今の社会に埋没して自分を見失いたくない、自分らしい自分で納得できる生き方を探して、それが見つからないから、見つかるまで自分探しをしています。このような子供達に、職業訓練を施そうとしても、子供達は拒否してしまいます。それどころか、社会や人間関係に恐怖を感じて家庭の中に逃げている子供達や、自分らしい生き方を探している子供達のあり方自体を、現在の政策やマスコミの風潮が否定することで、子供達はとても辛くなり、ますます社会の中に出て行こうとしなくなります。
 引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達の中には、前述のように、そのあり方を否定されて、いろいろな神経症状や精神症状を出している子供達がいます。その子供達の症状は神経疾患、精神疾患とそっくりですから、その子供達が医療にかかると、すぐに病気として治療が開始されてしまいます。子供達がそのあり方を否定されてるから辛くて症状を出しているのに、病気だから症状を出していると、問題の本質をすり替えられてしまいます。問題の本質をすり替えられてしまうと、そこには本質的な解決はありませんから、子供達は病気として大量の薬を飲まされ、必要ない処置を受けることになります。その様な子供達は、大量の薬や必要ない処置で余計苦しむことになります。そればかりでなく、子供の方でも、自分が神経疾患である、精神疾患であると信じ込む子供が出てきます。それらの神経疾患、精神疾患を信じ込んだ子供は、自分の辛さを解決するために、問題の本質をすり替えられた薬や治療を積極的に受けて、本質的な問題の解決を求めなくなります。病気でもないのに、何の疑いも持たないで、一生病気として生きていくことになります。
 なぜこのようなことが起こるのかという問題があります。それは現在の大人が子供を知らないからです。子供の心を知らない大人が、子供の心を知った積もりになって、大人の思いで政策を、対応を、医療をしているからです。日本では、子供の数が少なくなりました。将来の社会を支える人が少なくなります。その時のために日本では、引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれる子供達を少なくしようとすることは正しいです。現在の子供への考え方、心理学や精神医療が好ましくないことは、現実が証明しています。現在の子供への考え方、心理学や精神医療がその好ましくない原因を、大人や研究者は子供に求めています。その原因を子供に求めることが間違っていることを、大人や研究者は気づいていません。
 子供を守るためには、子供一人一人を、子供の心に沿って大切にしていく必要があります。一人でも心が傷ついて苦しむ子供をなくす必要があります。子供は人間の形をして、大人と同じように言葉をしゃべります。大人顔負けのことを言うこともあります。大人顔負けの能力を発揮することもあります。けれどそれでも子供の心は大人と違います。子供には子供特有の心があります。子供についての理解を、子供についての心理学を、子供についての精神医学を、子供の立場から、成されるべきです。それは決して現在の風潮や、心理学、精神医学のように大人の推測であってはならないはずです。子供の心についての理解には、生物の心としての、客観的な、科学的な根拠から成されるべきです。  


表紙へ戻る