夏合宿に参加して2004.8.30
 今回は短時間でしたが、世話人会も見せて頂きました。世話人会では不登校と医療のことが話し合われていました。世話人の方々は、不登校は病気ではないと信じていらっしゃいますが、現実に目の前の子どもが病的な症状を出しているときには、そしてその子どもの親が医療を求めているときには、世話人の方々でも医療にその子どもをゆだねざるを得ないのは、自然の成り行きでしょう。そこで、どのような病院が良いかという問題になります。その点も、何人かの世話人の方は、今までの病院の対応の仕方から、紹介できるような病院を見つけ出されているようでした。本当に子ども達のために献身的に努力をなさっていらっしゃる世話人の方の多いのに、頭が下がりました。
不登校に関して医療を変える、医療を受ける側の意見を医療に反映するという、新しい発想が実現しつつあることを知り、とても勇気づけられました。一部の世話人の方々が精神医療の学会に参加なさって、学会の中に新しい風を吹き込んでいらっしゃる事実を、微弱ながら応援していきたいと思います。どんな形であれ、「子どもと精神医療を考える市民の会」が発足して、子どもの立場からの、ユーザーサイドからの医療が実現させるために機能し出し、将来に向かって発展していくと良いなあと思いました。

心を育てる(大人の立場から)2004.9.20
 心を育てるという言葉には、若干の問題点があります。育てるとは、人が子どもに必要な物を与えて、子どもの成長を待つことや、動植物に飼料や肥料などの必要な物を与えて、動植物が育つのを待つことを指しています。心を育てるとは、子どもを育てる、動植物を育てることに例えて、表現していると思います。けれど、親や大人は、子どもの勉強をさせることができても、勉強すること自体は子ども自身であるように、親や大人は、子どもの心が育つようにし向けることはできても、子どもの心を育てることはできません。子どもの心を育てるのは、子ども自身です。子供達の心は、子供達の置かれている環境との関わりで、自然と育っていく物です。
 心が育っているかどうかの判断の問題も有ります。子どもや動植物が育ったかどうかは、身長や体重、植物ではその大きさなどから、判断できますし、勉強も学力テストなどの方法で計ることができます。けれど、心に関しては、心が育っているかどうかを計る物がないという現実が有ります。子どもでも心が育っている子どももいるでしょうし、大人でも心が育っていない大人もいるでしょう。きっと、大人で心が育っていないと判断される大人がいるから、子どもの内から心を育てて、大人になったら全て人たちの心が育っているようにしたいと願うから、心を育てるという発想が生じているのだと思います。
 現実に心が育っているかどうかの判断する客観的な評価の仕方はありません。心が育っているかどうかは、それぞれの個人の判断に任されています。例えば、Aさんは自分の心は育っていると判断して、Bさんの心は育っていないと判断したとしても、その心が育っていないと判断されたBさんは、自分の心は育っているが、自分の心が育っていないと判断したAさんの心が育っていないと判断する場合も頻繁にあると思います。このように、心が育っているかどうかわからない状態で、子どもの心を育てるというならば、また現在、心の教育という形で子供達の心に必要以上に大人が介入しているために、子供達は大変に苦しくなっています。自然に育つはずの子どもの心さえ育たなくなっている子どもがいます。逆効果になっている子供達がいます。
 現在、心とは何かも解っていません。心がどうなっているのかを計る客観的な方法も有りません。その結果、心を育てるということは、社会のニーズに沿った心を作るように、政府のニーズに沿った心を作るように、子どもに働きかけることを意味するようになります。これらのニーズに沿わない心を持った子供達は、心が育っていないと判断されて、こころを育てるという名目から、必要ない介入をされて、子どもの人権を侵害されて、却ってこころを傷つけられて、その子どもとしては不幸な一生を過ごすことになってしまいます。
 現在の社会は、政府は、日本の中で事件が起こらなければよい、社会や政府に逆らう人が出なければよいという方向で動いているようです。そのために、こころの教育、こころを育てるという名目を掲げて、子供達に関わってきています。その社会や政府からの関わりが嫌だと言って逃げだした子供達を、問題児だとのラベルを貼って、治療、又は矯正という名目を掲げて、社会は、政府は、子供達を苦しめる対応を取ってきています。そのようにして苦しめられた子供達は、病気として薬漬けにされたり、施設に収容されたり、犯罪に走って留置されたりしています。

フリースクール2004.10.4
 NHK第一放送の土曜ジャーナルで、「フリースクール白書」を紹介しながフリースクールについて特集があり、奥地圭子さんと江川紹子さんが出演されました。そこではフリースクールの利点や問題点が話し合われましたが、そこで話し合われなかったことで、重要なことがあると思いますから、触れさせて頂きたいと思います。
 学校に行きにくい状態になった子ども、そして不登校状態になった子どもの問題に対応していて経験することです。「保健室登校などの別室登校や、適応指導教室へ行くことが、不登校の子どもには辛いことが分かったが、子どもが学校に行けないのなら、せめてフリースクールに行って欲しい」という親の希望を聞くことがあります。「学校に行く生き方をしなくても良い」と、表面上は理解していても、平日に子どもが家の中にいることで不安になる親からの希望です。
 家庭の中でエネルギーをもてあましている子どもにとっては、フリースクールに行けることは大きな喜びになると思います。子どもの成長のための、良い選択肢になると思います。けれど、とても家庭から出るエネルギーを持ち合わせていない子どもにとっては、フリースクールも、学校と同じ意味合いになっています。親のフリースクールに行って欲しいという思いは、子どもを新たに苦しませることになると思います。
 家庭から出るエネルギーを持ち合わせていない子どもにとっては、フリースクールに行く前に、家庭が子どもの居場所になっていて、そこで十分に辛い心を癒して、家庭で十分にエネルギーを貯めておく必要があります。家庭でエネルギーを貯めた子どもの次のステップとして、その子どもなりの何かを求めてフリースクールに行くという形である必要があります。フリースクールが、学校に行きづらい子ども達の、学校に行けない子ども達の、新たな苦しみの原因になる場合があるからです。
 現実に、フリースクールに子どもが何かを求めてくる子どもと、学校には行けないからせめてフリースクールには行って欲しいという、親の思いから来る子どもがいます。親の思いから来る子どもは、その内にフリースクールには行けなくなります。その後、時間がたってから、子どもはフリースクールですら行けない自分を認識して、もっと辛い状態になります。つまり、このような子どもにとって、子どもの家庭が最高の居場所になってこそ、フリースクールの存在意味が出てきます。

親とその子ども2004.10.21
 人が親になり、子どもを育てるのは、生物として自然の成り行きです。人が自然だけを相手にして生きていけばよかった時代では、人の本能のままに子どもを育てるので、子どもは十分に育っていきました。ところが現代は、人を相手にして生きていく時代になっています。人を相手にして、自分の子どもを育てて行くには、その人が生まれながらに持っている能力だけでは、子どもを育てられなくなっています。社会の要求に合わせて、子どもを育てなければならないからです。親は子どもに、社会からの要求を、押しつけるようになってきています。それが親としての義務のように考えるようになってきています。
 子どもはこの世に生を受けて、与えられた環境に順応するように、本能的に成長していきます。人が自然だけを相手にして生きていけばよい時代では、子どもは与えられた環境に順応できなかった子どもは淘汰されてしまいました。親もそれをやむを得ないこととして受け入れざるを得ませんでした。
 科学の発達で、子どもが自然淘汰から守られるようになると、人口の爆発的な増大を生じました。特に都市では、子どもも人を相手にして成長する時代になりました。子どもは人だけを相手にするという環境に順応しようとして成長してきています。親からの要求に沿って成長しようとしてきています。親からの要求に沿って、順調に成長できた子どもはそれで納得できています。自分の成長に満足できています。特に、親の社会的な地位よりも子どもがより高い社会的な地位を得たときには、「子どもが親を乗り越えた」と言って、美談として社会から褒め称えられてきています。美談になるような子どもを育てることが、親の役目だと考える親が多くなってきています。
 物質的に貧しかった時代には、親からの要求を受け入れることで、物質的に豊かになることを求めることで、その結果、物質的に豊かになることで、子ども達は納得できました。ところが現在は物質的に豊かになり、これ以上豊かさを敢えて求める必要が無くなっています。それを一番感じているのは子ども達でしょう。親は欲から、物質的な豊かさを維持することを子どもに求めますが、そしてもっと豊かになることを求めますが(この子どもに求める親の希望を愛情だと判断しています)、子どもは物質的な豊かさより、自分の心の豊かさを求めようとしますし、求めるようになっています。心の豊かさを計る方法は無いので、子どもが親を乗り越えると言う表現をすることは大変に難しいけれど、不登校の子どもは親の知らない世界を開拓しているし、親がそれを追いかけてついて行くなら、それだけで子どもは十分に親を乗り越えていると言えるかも知れません。

学校とは何か?2004/11/26
 日本で学校が意味する物は、戦前、戦後、現在と違うようです。また現在でも、大人と実際に学校で勉強している子どもたちとの間では大きく違うようです。現在学校に通っている子どもたちの立場から学校とは何かを考えるときには、子どもたちが学校についてどのように感じているのかということから、考える必要があります。
 現在の大人は子どもの通う学校について、「学校は将来のために勉強をするところ」、「将来の人間関係を作る練習をするところ」、「子どもが自分自身の人格を磨くところ」などと、考えている人が多いようです。そして子どもたちに、子どもたちにとって「学校とは何?」と尋ねると、大人達が考えているような言葉が、優等生の返事が子どもたちから返ってきます。そこで私が「本当にそうなの、本当は何のために学校に行っているのか分からないのでは?」と質問を返したら、殆ど全ての子どもたちが「本当は何のために学校に行っているのか分からない」と答えてきます。
 子どもたちの中には、その子どもなりに学校に何かの目的を持って、生き生きとして学校に通っている子どもたちがいます。そのような子どもはとても少数のように見かけられます。大多数の子どもは、その発する言葉では学校に目的を持って通っているように見えますが、実際には学校に通う意味が分からない子どもたちです。特に中学生や高校生に多いです。そしてまた、少数ですが、学校に行くのは嫌だと言いながら、行かないと親から責められるから、やむを得ず学校に通っている子どもたちもいます。
 多くの大人や学校の先生達は、自分たちの目の前の子どもたちの姿や、子どもたちの発する言葉から、現在の学校を肯定しています。その学校からはずれてしまう子どもたちを問題だと考え勝ちです。つまり多くの大人や学校の先生達は、多くの子どもたちが自分たちの目の前で、所謂良い子を演じている姿を子どもたちの本当の姿だと判断して、子どもたちに対応しています。子どもたちの本当の姿や感じ方を知りません。その結果、子どもたちと感じ方などのずれを生じています。そのずれの原因が親や先生方にあることに気づかなくて、そのずれの原因を子どもたちに求めようとしています。それはますます子どもたちを苦しくしています。
 現実の学校の中では、子どもたちが学校に求めているものと、大人や先生達が子どもたちに求めているものと異なっています。子どもたちが学校で要求されることや、家庭で学校について要求されることが、子どもたちの負担になっています。その結果、学校が子ども達にとってストレス刺激を感じる場所になっています。そこで子どもたちは、大人や先生達の前で良い子を演じてします。それはますます、親や先生達が子どもたちを理解しがたくしてしまいます。けれど子どもたちが素直に発言できる場所では、子どもたちは学校が子どもたちのストレス刺激を感じる場所だと答えています。多くの中学生や高校生が、学校で辛い毎日を送っているようです。学校の中では、子どもたちがその子どもらしく生活できないところにあるようです。

思春期以前の子どもの人権
 人権とは、生物としての人間の間での約束事です。一人一人の人間を大切にすると言う考え方から、人間が考え出した物です。人間のあり方も、身体的な状態、心(脳)の状態により、変わります。身体も心も成熟した大人、身体は成熟しているが心は未だ成熟していない思春期以後の子ども、身体も心も成熟していない思春期以前の子どもと分けて考える必要があります。そして、これらの区別もはっきりとできる物ではありませんから、当然、これらの時期には重なり合うところがあります。
子どもの人権を考えるときの子どもとは何かの問題があります。その問題は大変に難しいでしょう。ここでは思春期以前の子どもの人権について考えてみます。この時期の子どもの特徴として、
1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない
の、三つがあげられます。
子どもの時期は親に守られて、自然淘汰に耐えうる肉体と、自然淘汰に耐えうる永久記憶を作り上げていく時期です。その子どもの内に作り上げられた肉体や永久記憶(知識)の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。これらの前記の三つの特徴は、子どもが大人に守られない限り、自然淘汰を受けやすいことを意味しています(ただし、現代の人間文明の発達により、生命を失うという形での淘汰のされ方は少なくなりましたが、心を失うという形での淘汰は以前より多く存在しています)。これらの特徴は互いに関係しあっていますから、これらの特徴を一つ一つ分けて考えることは大変に難しいです。また、これらの特徴があることによって、大人の人権とは違っていますし、違った考え方が必要です。それをあえて行ってみます。
1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
=成長
これは子どもの本能です。肉体的な欲求を含めて、子ども特有の情動反応です。情動反応ですから、潜在意識であり、私たちは子どもを観察することから知ることができます。また、他の動物にも共通していますから、他の動物で実験をすることで、より詳しく知ることが可能です。
人間を含めて全ての哺乳類は、与えられた環境に順応するように成長しようとします。人間の場合、大人が意識的にそれを阻害しようとする場合があります。それも、子どもの幸福のためと大人が考えて、子どもによかれと考えて、子どもの成長しようとする意欲を奪い去る場合があります。その現れの一つの形として、子どもの登校拒否、不登校、引きこもりと言われているものがあります。親の子供への虐待も、この子供の成長する意欲を奪う物であると考えられます。
2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
=依存
 子供は自分の成長に必要なものを自分で得ることは原則としてできません。できたとしてもとてもそれには大きな危険を伴います。淘汰される可能性が極めて高くなります。子供が危険を回避して淘汰されないためには、大人によって子供は危険から守られる必要があります。また、子供も大人によって本能的に(情動から)守られようとします。
 以前の社会や、物質的に貧しい社会では、家族の生活を維持するための物質的な欲望から、子どもの成長に配慮をしない子どもへの対応がなされる場合がありましたし、現実にもあります。子どもの立場から言うなら、物質的に不足していても、子どもの成長をしようとする意欲を保証してあげた方が良いです。子どもの成長の程度によっても異なりますが、子どもに必要最低限の物質が与えられて、子どもの肉体的な成長が保証されれば、その他の物質的な不足、経験の不足、能力の不足の問題は子どもの方で解決していきます。
3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない
=子どもらしさである反射的な行動
 大人と子供との心の構造の違いを認めることにあります。それは子どもらしさを認めると言う意味にもなります。すなわち、人間を含めて動物の受けた刺激やそれに対しての反応は、全て脳の中に記憶されます。その記憶は強化されない限り、時間とともに消失していきます(一時記憶)。強い情動反応を伴った記憶や、強化された(繰り返し同じ情報が使われる)記憶は永久記憶となり、それ以後その記憶を利用することが出来ます。
 子どもの時期は親に守られて、この永久記憶(学校の勉強を含めて)を作り上げていく時期です。それは大人も同じですが、子供の場合そのときまでにできあがった永久記憶から反射的に反応して行動します。それに対して、大人はしっかりとできあがっているいろいろな永久記憶を組み合わせたり、加工したりして新たな記憶情報を作り、その記憶情報から行動すること(思考行動)ができますが、子供にはそれが原則としてできません。子供が大人になったら、この獲得した永久記憶を選択したり、加工したりしてできあがった記憶情報から行動をするようになります。その永久記憶の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。
 つまり子供は大脳辺縁系に存在する情動記憶と、大脳新皮質にある陳述記憶と操作記憶から、反射的に行動するのに対して、大人は情動記憶からの反射的な行動を押さえて、大脳新皮質にある操作記憶と、その大人なりに加工した陳述記憶から行動するという違いがあります。子供の場合、情動記憶からの行動を外力で押さえつけると、暴力的な反応を示すか、神経症状や精神症状などの病的な症状を出して、とてもつらい状態になってしまいます。
 大人側からみた思春期以前の子供の人権を守るとは、子供たちの尊厳を守るとは、成長の保証、依存の保証、反射的な行動の保証を大人が与えることでしょう。これらのどれかが阻害されると、子供は心に傷を帯びる(ストレス条件反射を学習する)ことになります。一端できた心の傷を完全に治すことは、心の傷が疼かなくするのは大変に難しいです。不可能に近いです。子どもの人権を守るためには、成長、依存、反射的な行動を保証するように心がけ、子どもの心に回復が不可能な、不可能に近い心の傷を付けないことではないかと思います。ただし、子供の人権をある程度傷害(回復可能な心の傷を子供の心に帯びさる)して、それを子供がその傷害を完全に回復できたなら、それは子供にストレスについての耐性をつけることになり、条件次第(心の傷が完全に癒えたなら)では好ましいことになります。ただし、回復可能な程度の子供の人権の傷害なのか、子供の心の傷が完全に癒えたのかどうか、それは個々の子ども次第です。子供の成長の度合いや環境によっても異なります。子供の行動や表情をよく観察して、子供の潜在意識を正確に判断する必要があります。


表紙へ戻る