心の歪んだ子どもによる問題行動
 既に心の歪んだ子供達によって、他の子供達が登校拒否、不登校に追い込まれる場合があります。既に心の歪んだ子供達によって、他の子供達が問題行動に巻きこまれる場合が有ります。現在学校や教師は、これらの既に心の歪んだ子供達への対応に苦慮しています。時にはこれらの既に心の歪んだ子供達を正そうとすればするほど、これらの既に心の歪んだ子供達が問題行動を起こす場合があるからです。既に心が歪んでいるために、学校側の対応で、子どもの心が登校拒否、不登校になると、学校が主張する場合です。
 親が親の勝手な欲望や快楽を満たすことばかりをして、殆ど子どもとの関わりなしに子どもを育てたり、周囲の目ばかりを気にして子どもに沿った子育てをしなかったり、子どもの問題の責任を他に転嫁して全てを学校任せにする親がいます。それらによりひどく心が歪んだ子供達が現実に存在しています。これらの親に責任がある場合の子どもの問題まで学校側が責任をとれというのはおかしいという意見です。
 大人の立場からの誰に子どもの責任があるかという責任論という意味からでは、学校側のこの主張は正しいでしょう。けれど既に心の歪んだ子供達の立場から言うなら、この主張は責任の擦り合いにすぎません。既に心の歪んだ子供達の立場から言うなら、親とは別の教育に関する責任の親への転嫁にしかすぎません。どちらにしても被害者は既に心の歪んだ子供達です。
 どの子どもも与えられた環境の下で一生懸命生きて成長しています。その結果周囲の大人達によってその子どもの心が歪められたとしても、それは子どもの責任ではありません。心が歪められた子どもは被害者です。心が歪められた子どもは救済されなければなりません。子どもも本能的に救いを学校に求めています。その被害者である心を歪められた子どもを救済するのが教育の役目の一つです。子どもの心を歪めたものが何であれ、学校は子供達の学力を伸ばすばかりでなく、これらの被害者である心を歪められた子どもを助けるのも役目のはずです。少なくとも子供達はそのように判断しています。それなのに自分たちで教育しやすい子供達だけを教育し、自分たちに不都合な子供達の教育や救済を放棄して、その結果却ってその子供達の心を傷つけておいて、その子供達の心を傷つけた責任を子供達の親に求めるなら、心を歪められた子供達は救われません。そのようにして学校から傷つけられたら、心を歪められた子供達は激しい怒りと学校にぶつけるようになります。
既に心が歪められた子供達は自分たちの親にも激しい怒りを感じています。けれどそのような子どもたちでも子供達は自分の親には優しいです。いくら親が自分を苦しめていても、親には必要以上に怒りを向けません(子供達は万引きなどの不適応行動を取る場合や、いろいろな神経症状や精神症状を出す場合があります)。けれど学校には違います。そのような子供達の怒りが学校へ向けられた場合、校内暴力や学級崩壊と呼ばれている物になっている

不良行為をする子ども、家出をする子ども2004.2.7
 子どもの身なりや言葉が乱れたり、子どもが家出をしてしまった場合、家出と言えないまでも、家を出たきりに三日家もに帰らないで、盛り場をほっつき歩いたり、知り合った仲間の家に泊まったりする場合、親は大変に心配になる。犯罪に巻き込まれないか、危害を加えられないか、親として心配が続く。そこで子どもを叱ったり注意すると、子どもは激しく反発して、また家を出ていってしまう。親としてどうして良いか分からなくなる。どうしてこんな子どもになってしまったのか、親の子供への不信と怒りが尽きない。配偶者がもっとしっかりと子どもの監督をしないから、学校が子どもをしっかりとしつけないからと考える親もいるようだ。
 学校から見れば、授業にもろくに来ないで、学校の風紀を壊して、教師の言うことを聞かないばかりでなく時には反発する子ども、所謂不良の生徒に困り果てている。親が子供を放任している、親の育て方が悪い、親がきちんと躾をしてこなかったからこのような子どもを生じたと考えているようである。ところがこのような子供の多くは、小さいときにはとても良い子だった場合が多い事実がある。これらのとても良い子だった子どもたちが有るときから突然その行動がおかしくなっている。親がその子供の行動を正そうと、規制しようとしても、逆に子どもは反発して親を無視したり、家を出ていってしまうから、親としても手の打ちようがないように見える。親の力ずくでも子どもはその行動を変えようとしないのである。
 このような子どもたちの問題を考えるとき、2つの前提条件がある。一つは「子どもは親が好きだし、自分の家が大好きである」と言う事実である。もう一つは「動物は辛い状況になると逃げ出す。逃げ出せないときには攻撃する。攻撃できないときにはすくんでしまう。人間の場合には知識が有るから、辛い状態になって逃げ出せないときには、攻撃をする場合と自分から強い刺激を求めようとする行動を取る場合がある」と言う事実である。この場合強い刺激として、感覚的に強い刺激の場合もあるし、価値観としての強い刺激もある。価値観として強い刺激としては酷くほめられるような刺激と、逆に酷く嫌がられるような刺激が有る。酷く誉められるような刺激として、所謂子どもは良い子を演じてしまう場合がある。酷く嫌がられるような刺激として、子どもは所謂不良行為をしてしまう。
子どもの言葉や身なり行動が乱れるのは、子どもが辛い状態にあり、それから逃れられないからである。これは人間の本能的な行動である。しかし親や周囲の大人から見て「子どもが辛い状態にないのに子どもの言葉や身なり行動が乱れる場合がある」と言われるかもしれない。けれどその判断はその親や大人たちの判断であり、それらの人の気づかないところで子どもは苦しんでいる。大人が子どもは苦しんでいるはずはないと言っても、当の子どもは苦しんでいるのが、親や大人には分からないだけである。
 子どもの生活の場は家庭か学校が大半である。だから子どもが辛くなる場所は学校であることが多い。学校で辛くなると子どもは学校を拒否して、学校へ行こうとしなくなる。けれど子どもが学校に行かないことは、親にも教師にも許せないことである。子どもを無理矢理に学校へ行かせてしまうから、子どもは学校内で辛さから逃げられないことになる。そこで子どもは学校内での辛さを解消しようとして、言葉や身なり行動が荒れてくるようになる。子どもの言葉や身なり行動が荒れると親は心配になり、それを正そうとして子どもに働きかけるから、子どもがその辛さを解消すべき家庭にいても楽にならないばかりか、新たな辛さを経験することになる。家庭が辛くなり、子どもの居場所が無くなってしまうから、子どもは家庭から出ていってしまって帰ってこなくなる。それが子どもの家出である。
 不良行為を行う子ども、家出をする子どもの問題を解決するには、なぜ子どもがこれらの行動に出なければならないかを考えれば分かる。辛い学校に行かなくて済む。家の中で安心して過ごせる子どもの居場所がある。この二つが有りさえすれば子どもは家を出ていかないし、安心して過ごせる居場所が家にあると分かると、子どもは家に帰ってくる。子どもは安心して過ごせる家庭にいる限り、言葉や身なり行動が荒れる必要が無くなるし、犯罪や事件に巻き込まれることもなくなる。ただしその安心して過ごせる居場所とは、子どもの判断で安心して過ごせる場所であり、親の判断での安心して過ごせる場所でないことに注意をする必要がある。

不登校経験者の芥川賞受賞
2004/2/20
 今年の芥川賞受賞者の一人に、不登校経験者の金原ひとみさんが選ばれました。私はまだ金原ひとみさんのことを詳しくは知りません。
 不登校経験者の金原ひとみさんが芥川賞を受賞したその事実は、私達不登校の子供達に対応してる者としてとても大きな意味があります。勿論、金原ひとみさんの素晴らしい能力を賞賛しますが、それに加えて、金原ひとみさんの存在自体が、不登校の子どもを持つ親にとても明るい光を投げかけたことです。
 不登校の子どもを抱えて、その子どもの将来に不安を感じている親はたくさんいると思います。私の対応している親達も、子どもの将来の不安から、子どもの不登校を認められない親が多いです。ところがこの金原ひとみさんの芥川賞受賞から未だ何日も経っていないのに、不登校の子どもを持つ親の表情が変わった方が何人かいらっしゃいます。言葉でもはっきりと不登校に自信を持たれたと表現なさっていらっしゃいます。心の奥底から不登校に対して安心感を持たれたようです。
 不登校の子ども達の活躍の現実をはっきりと目の前で見たときには、私達の説明よりも遙かに強力な説得力が、不登校の子どもを持つ親たちには有るようです。

解決したと考えられても 2004/3/25
 カウンセリングを行なっていて、あらためて気づいたことがあります。大人が陥りやすいまちがいが、子育てのなかでしばしば見られている事実です。
 ある子どもが学校で、その子には納得できない理由で教師から叱られました。それに気づいた母親が教師にその事実を説明すると、教師は納得して、翌日教室で子どもたちの前でその子に謝りました。先生が自分の非を認めて子どもの前で謝るのは勇気ある対応だ、すばらしい先生だと大人は思います。それでこの件は落着だと親も先生も考えました。けれどそれ以後もその子は元気が出ないで、不登校になりました。親も先生も、不登校
になったのは本人に問題があると考えました。
そこで「お子さんの問題(その子が先生に叱られたこと)で、先生が非を認めて子どもたちの前で謝ったとしても、子どもの心に受けた傷は少しも治癒していません」と私が指摘すると、親はとてもびっくりしていました。つまり親としては、先生が謝ったのだから問題は解決して、先生と子どもとの関係は先生が叱る前の状態に戻ったはずだと考えていたのです。けれど実際は、その子の心には、先生が謝ったという事実があったとしても、依然として学校や先生で疼く心の傷が存在し続けることには変わりないのです。いったん子どもの心が傷つけられると、謝られたり、仲を取り戻す対応を受けても、そう簡単には心の傷は治癒することはないということなのです。結果、その子は不登校になっています。
 この事実を私が指摘するまで母親は、先生とその子との問題はすでに解決していて、子どもに何も影響を及ぼしていないから、本人に何か問題があって不登校になったと考え続けていました。先生も子どもに何か問題があるから、不登校になったと考えています。親も先生もその子の問題が何か一生懸命探してみましたが、見つからないでいます。いろいろな相談機関に相談して子どもや子育ての問題点を指摘されて、親はとてもつらい状態にありました。
 心の傷は目には見えません。子どもがどのような傷を受けたのか周囲の人にはわかりません。けれどいったん深い心の傷ができたなら(この子の場合は学校を拒否する反応が出た)、その傷を急激に治癒させる方法はないので、子どもに深い心の傷はつけてはならないし、心に傷を受けてしまった子どもは、その傷が疼かない場所に隔離してあげる必要があるのです。

診療所から見た不登校の未然防止法2004.4.20
 不登校は子供にとって好ましいものなのか好ましくないものかの議論があります。子供の不登校に直面した当初の親の多くは悩み続けています。子供も学校へ行けない辛さからいろいろな症状を出しています。親が子供の不登校を受け入れられ、子供も自分の不登校が認められたと納得すると、普通の子供のように元気になれますが、それでも多くの親にとって、子供の不登校は経験したくない物でしょうし、子供も学校へ行きたくても行けない辛さを経験したくないでしょう。
 子供が不登校になる前に、多かれ少なかれ子供が学校へ行きづらくなる時期(登校拒否の初期の状態。このことまで不登校と表現する人もあるようですが)が必ずと言って良いほどにあります。この時期には、子供は「頭が痛い」とか「おなかが痛い」とか「気持ちが悪い」とか、いろいろな身体症状を出して学校へは行こうとしません。けれど親が子供を叱かったりなだめたりしたり、強引に学校に連れて行くと、子供は学校に行ってしまいますし、子供によっては意外と元気に学校で生活してきます。その子供の姿から、親や教師は、行かそうとすれば子供は学校に行くことが可能だと考えます。親や教師は子供の怠けだ、仮病だとして、子供の学校への行き渋りを見過ごしてきています。また、いろいろな症状から子供を病院に連れて行くと、風邪だ、腸炎だ、自律神経失調症だとの診断で、投薬を受けた後子供は学校へ行かされます。親や教師は子供が病気で学校を休んだと判断して、子供が学校に行きづらい状態であることに気づきません。けれど医者通いの頻度が高くなると、親もこれはおかしいと思うようになります。
 診療所の医者として子供達の診療に当たっていると、学校へ行きづらい状態の子供がいろいろな症状を出して来院することを経験してきています。子供を担当する医者にとって、子供が本当の病気から症状を出しているのか、学校へ行きづらくて症状を出しているのかの区別は難しいことではありません。最近学校へ行きづらくて症状を出して来院している子供が増える傾向にあります。
 このような学校へ行きづらい子供が来院したときに、注意しなければならない事実が幾つかあります。子供は言葉では学校へ行きたい、学校が楽しいと言います。子供は病気として認めて欲しいのです。病気として学校を休み誰からも責められないで過ごしたいのです。親は子供が学校へ行き渋っていると考えたくないし、病気による医者からの指示ですと、子供が家でゆっくりと過ごすことに納得できます。そこで風邪だとか腸炎だとかの診断名を付けて偽薬を投与します。薬を飲んでいる間は学校を休むように指導します。休んでいる間は勉強をしないで、ゲームをしたり漫画などの雑誌を見ているようにと指導します。親へは、子供の学校への行き渋りを受け入れられる親には、子供の学校への行きしぶりを説明をします。しかし多くの多くの親は始めて経験する子供の学校への行きしぶりを理解できません。病気で投薬(偽薬であることも説明しません)を受けていると説明を受けた方が、親として心が安定します。子供を責めませんから、子供はゆっくりと家で自分の心を癒すことができます。
 私の経験では、不登校に近い状態の子供でなく、学校へ行き渋りだしたばかりの頃の子供は、2,3日から1週間ぐらい学校をすっかり忘れて家でゆっくりと過ごすと、自分から学校へ行き出します。それ以後(新たな問題が生じれば話は別だが)そのことで、それ以上行き渋りの問題を生じることはありません。自分で自分の息しぶりの問題を解決して学校へ戻ります。親も子供をゆっくりと休ませますから、子供は自分の問題を解決しやすいです。
 不登校を未然に防ぐ一番良い方法は、子供が行きづらくなるような条件を学校内から無くすること、つまり教師が考えて楽しい学校でなく、子供達それぞれにとって学校が楽しいところになることでしょう。二番目の方法は、子供が学校へ行き渋りだしたときには、子供が納得するまで、つまり子供の方から学校へ行くと言い出すまで、登校を促されることなく、家庭でゆっくりと過ごさせてあげる事でしょう。学校への行き渋りを生じても、子供が自分で行き渋りの問題を解決して、子供が不登校状態にならないで済みます。

私が死んだらこの子はどうなる?
2004/5/14
 不登校引きこもりの子どもの対応を行っていて、母親から「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」という言葉を私が聞いた機会はさほど多くありません。私がその言葉を聞いたのは、年長の引きこもりの子どもを持つ母親からでした。ため息をつきながら沈んだ調子で母親から質問を受けたことが、私には何回かあります。
 私が今まで対応してきた中で、子どもが引きこもりの状態で母親が死亡した3ケースを経験していますが、いずれも母親が自殺したケース(原因は子どもの不登校、引きこもりでなく、妻と夫との関係で死を選んでいた)であり、それ以外では母親が一生懸命子どもの対応を続けているケースばかりです。多くの母親は、目の前の子供のことで精一杯で、自分が死んだ後のことを考えている余裕はないようです。
 母親が自殺したケースでも、自殺する前に「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」と言った母親はいません。子供の苦しみよりも自分自身の苦しみに耐えかねて死を選択してしまいました。母親が自殺した後も、引きこもりの子供達はそれなりに生活しています。それが良い結果(子どもが元気になる)を導き出すか、悪い結果(子どもが辛い症状を出し続ける)になるか、これからの問題で、今後どうなるのか答えは出ていませんが、現在の所その子供なりに生きていることは事実です。
 ある親の会で「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」の話が出たとき、余りよく考えないで、私が経験した症例の話をしてしまいました。今よく考えてみると、母親が「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」と話したときには、その母親が 「不登校引きこもりをしている子供が元気になることは、母親にはとても考えられない。母親がとても辛くて、その母親の子供を信頼できない、母親として自分の子供を受け入れられない」 という、その母親が今不安で辛いという意味であり、母親が死んだ結果子供がどうなるのかの結果を、その母親が求めているのではないことに気づきました。

子どもの殺人2004.6.4
 ある人が私に、「あなたのお子さんが、もし人を殺したら親として許せますか?」と質問をしました。人殺しでなくても、子どもが犯罪を犯すのではないかという心配は、多くの親にとって子育ての際の疑問であり、不安の要因の一つであろうと思います。社会も、子どもにしつけという形でそれを防げと、親に圧力をかけてきています。
 我が子が幼かった頃に関しては、我が子は私を信頼してくれていました。我が子は自分の辛さなど、心の内を全て教えてくれていました。我が子には人を殺したいという願望は無かったです。もしあったときには、その時には子どもは人を殺したいぐらいに辛いのだと判断します。その辛さから子どもを守ることで、人を殺すことを回避します。決して犯罪や殺人をするなとか、犯罪や殺人は悪いことだ、犯罪や殺人をするとお巡りさんに捕まり、厳罰にされるとは言いません。その理由は、ほ乳類に関する限り、ストレスが無ければ同じ種を苦しめたり、殺そうとすることがないからです。これはほ乳類という動物としての本能です。ただし人間の大人は、人間的な要素から犯罪を犯したり、人を殺すことをしてしまいます。
 ほ乳類の子どもに関しては、子ども同士の仲間を求め、その中で社会性を身につけ大人になっていきます。辛いときには親の元に逃げ帰って、辛さを解消して子どもの社会へ戻っていきます。それは人間も同じです。子どもは経験から知識を身につけていきます。失敗から、失敗を回避する方法を身につけます。ですから子どもには失敗を許さなければ成りません。犯罪に関しても子どもにとっては失敗であり、殺人は子どもにとっては大きな失敗です。失敗をいろいろと経験し、回避方法を身につけた子どもは、大きな失敗をしなくなります。
 以上の理由から、子どもが好きこのんで人に迷惑をかけたり、人を殺すことはありません。あったとしたら、それは事故か、子どもに強いストレスがかかっていたからです。もちろん人に迷惑をかけたり、人を殺したりすることは許されませんが、それと同時に、子どもがどんな状態にあって、結果的に犯罪などの人に迷惑をかける行為をしてしまったのか、殺人をしてしまったかを考える必要があります。子どもといえども犯罪や殺人は許されませんが、だからといって厳罰に処するというのも間違っています。犯罪を犯した子どもや、殺人を犯した子どもは、同時に大人社会の被害者だからです。殺人を犯した子ども一人一人についての問題点を子どもの立場で考える必要があります。
 問題は犯罪の被害者になったり、殺された人に関してでしょう。本来なら、犯罪や殺人を犯した子どもの親(必ずしも親には責任が無い場合がありますが、道義的な責任があります。けれど道義的責任を果たせない親には、親が道義的な責任を果たすまで、社会が代わって保証する必要がある)や、社会が被害者を保護するべきだとおもいます。健康保険、介護保険、などと同じように、社会が保証する保険制度はできない物でしょうか?

不登校の定義2004.07.12
 引きこもりを考えるときには社会的な要素と個人的な要素を考える必要が有ります。
 社会的な要素としては、その人が属する社会常識として認められている社会活動に参加するかどうかの問題です。ですから、社会常識により社会活動の範囲が異なる場合が有ります。例えば親の農業を手伝う場合、親と共同事業として農業をしている場合には社会活動になります。農業を手伝う場合には、人により判断が異なるでしょうが、社会活動とは考えない人が多くなると思います。また、農業は手伝っていないが、青年会活動などに参加している場合にも、社会活動に参加しているかどうかの判断は人によって異なってきますが、社会活動とは言わない人が多いと思います。家事手伝いや、現在は少なくなっていますが、所謂お嫁さん修行は、社会活動に入るかどうかの問題も有ります。
 学校に通学することが社会活動といえるかどうかの問題も有ります。一般に学校に通うことは社会活動と考えられるようですが、学校には通わないが塾には通う場合には社会活動と言えるかどうかの問題も有ります。ホームスクーリングも、見方によっては社会活動と考えても良い場合もあります。また、ホームレスや、厚生施設などに居る人はどのように考えるのかという問題もあります。
 そのような意味で、社会活動とは社会体制から見て、とても勝手に解釈される言葉です。ですから、現在の引きこもりという概念は社会体制が社会体制の都合で、勝手に作り上げている要素も多くあります。
 個人の問題としては、家の中を含めて、社会の何かに疼く心の傷の存在が有るかどうかが判断の重要な要素です。家の中を含めて、社会の何かに対して、心の傷が絶えず疼く状態では社会活動に参加はできません。家の中や社会の何かに対して、時にしか心の傷が疼かなければ、決まった職業に就職はできませんが、アルバイトなどの、勤務時間に融通の利く職業なら着くことができます。家の中や心の傷が疼かないのに、所謂社会活動に参加していない人たちがいます。それらの人に関しては、それはそれらの人の生き様であり、形の上では社会通念上の引きこもりでしょうが、引きこもりといえない可能性があると思います。ただし、このような考え方は、心の傷の概念が無ければこの判断はできないという問題点があります。また、引きこもりへの対応は、その人の心の傷を見つめながら行うことで、解決への道が開けます。
 私自身は引きこもりの定義として、個人の問題を大切にしています。私の定義は
「社会の何かに疼く心の傷が有り、その心の傷の疼きにより、家の外での生活に何らかの障害を来していること」
です。この定義ですと所謂社会活動をしていても、心の傷が疼いている限り引きこもりになります。別の言い方をすれば、無理して所謂社会活動をしている場合です。

登校拒否、不登校と心の傷2004.8.10
 人間の心の仕組みを分析してみますと、人間の心には考える機能と、知識を蓄積する機能と、経験をすることで反応する仕組みを蓄積する機能と、感情を生じる機能があります。これらの内で、感情を生じる機能は情動と呼ばれ、人間の本能もその中に含まれています。情動は人間の心の基本をなしていますし、人間の命と直結していて、人間の命を守るための心と言って良いと思います。この情動は感情として意識することはできても、情動自体を直に意識することができない機能で、潜在意識と言われています。なお、知識を蓄積する機能も、反応を蓄積する機能も、共に普段は潜在意識に属しますが、知識を蓄積する機能は、必要に応じて意識に上らすこともできます。
 人間は外界から刺激を受けたとき、蓄積した知識を用いて考える機能から行動する場合と、経験し蓄積した反応の仕組みから無意識に反射的に反応し行動する場合と、情動から無意識に、反射的に反応し行動する場合とがあります。蓄積した知識を用いて考える機能から行動する行動の仕方は、人間に特有で、他の動物には見られていません。また、子どもでも、この蓄積した知識を用いて考える機能からの行動はほとんどないといって良いようです。蓄積した反応の仕組みから無意識に反射的に行動する仕方は、人間では年齢や訓練によって発達していきます。動物では猿などの頭の良いと言われている動物でも見られている行動の仕方です。情動からの無意識な反応は、動物に共通な反応の仕方で、特に類人猿と人間とは殆ど同じであると考えられるので、私達は他の動物や類人猿の情動を科学的に研究することから、情動の機能を知ることができます。
 情動を科学的に研究した結果によると、情動は子どもの内でも早期に完成して、その動物特有の反応を始めています。人間では3,4歳頃には既に大人と同じ情動の機能を確立しています。情動には基本的に楽しいに属する機能と恐いに属する機能の二つしか存在しません。その二つの楽しい、恐いのより強い方が、選択されて、その個体の本能や経験に基づいて個体の反応として行動に表現されます。それを情動行動と言います。例えば、空腹時に食べ物を見ればそれを得ようとします。雷の音を聞けば逃げようとします。
 子どもの集団である学校に関しては、子どもの情動行動は学校に楽しいと反応してして、子どもの集団を求めて、子どもは学校へ行こうとします。ただ、子どもは何故学校へ行こうとするのか理解できません。大人から学校は楽しいところだと教えられているものですから、または、実際に学校に行って楽しめたと言う経験を持っていますから、「学校は楽しいから、学校へ行く」と表現します。子どもは、学校を思い出すとそれだけで楽しくなるのですが、その楽しさを感じ取って、学校が楽しいと言っているのではないのです。
 その子どもの情動が、何かの理由で、学校を思い出したとき、子どもの体に恐怖の表現を感じるようになったとき、つまり、学校を思い出したとき、動悸がしたり、息苦しくなったり、手足が震えたり、頭が痛くなったり、気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりする場合が有ります。それと同時に子どもは学校へ行こうとしなくなります。子どもは何故これらの症状が出るのか理解できません。子どもは自分から学校へ行こうとするのですが、体がそれに答えて動いてくれません。決して子どもはこれらの症状から、又は学校が嫌なところだからと意識して、学校へ行こうとしないのではないのです。現実として学校を思い出したり、見たりすると、辛い症状が体に出ると同時に、体が動かなくなり、学校へ行けなくなります。この状態が登校拒否です。
 前記のように、子どもの情動では学校は楽しいところです。それが学校で疼かない、傷ついていない情動です。ところが何かの理由で、子どもの情動で、学校が恐怖の場所になったとき、この子どもの心が傷ついたと言います。そして学校を見たり意識したときに恐怖の症状を示して辛くなることを、学校で心の傷が疼くと言います。子どもの情動が傷ついて、学校で心の傷が疼くこの反応は潜在意識で生じますから、子どもは何故自分が辛くなるのか、学校へ行けなくなるのか解りません。子どもは他の人に説明するときには、その人が理解できる、自分の症状で学校へ行けないと説明をします。
 親も周囲の大人も、子どもが何故学校を見たり意識したりすると、恐怖を表現するのか理解できません。「学校の先生が怖いから」、「いじめる友達がいるから」、「学校の授業がおもしろくないから」、「怠けたいから」、などと理由を考えて、その結果「学校へ行くのをやめてやろう」と子どもが考えて、登校拒否という行動に出たと考えがちです。しかし本当はそうではありません。ただ、学校を見たり、友達を見たり、教科書やノートを見ただけで、胸が苦しくなり、足が動かなくなり、気分が落ち込んでくるのです。それと同時に学校へ行けなくなります。そこには多くの心の専門家や大人達の考えるような理屈はありません。理屈抜きに、自然にそうなってしまうのです。けれど親や大人からは、怠けだ、意欲がない、弱虫だ、頑張れなどと言われても、子供にはどうにもできない領域の生理反応なのです。
 登校拒否は決して子供の意思による拒否行動ではありません。それどころか子供の持っている知識としては、学校へ行こう、学校へは行かなくてはならないとなっています。しかしそう思っただけでも体の内から沸き上がるつらさや怒り、恐怖、体の硬直した動きという情動反応から、子供の知識に反して、学校を避ける行動をとってしまいます。それは子供が成長の過程で、学校生活の中で情動が傷ついた、つまり新たに獲得したいわゆる性格であり、生理反応であり、その事実は子供はどうにもできないものなのです。その子どもの情動が学校を拒否する反応が、親や大人達には受け入れられないという事実があります。自分の情動に生じた反応が、自分の知識に反した生理反応のために、そのとき子供は大変に辛い葛藤状態にあります。
 現在の多くの大人は登校拒否を経験していません。例え子ども時代に学校で辛い経験をして登校拒否の状態であったとしても、その人は学校に行き続けていましたから、大人になってからは、子ども時代にどんなに学校に行きづらかったのか忘れています。大人になってしまうと、子どもが学校に行かないことを、家で好き勝手にしていることを理解できません。登校拒否の子どもにとって、学校が恐怖を生じるところとは考えることができません。親は子どもに学校へはほぼ毎日行ってもらわなくてはなりません。その結果学校へ行こうとしない、学校を恐がる子供をおかしいと、異常であると考えてしまいます。子供の正常な生理的な反応とは考えることができません。そこで子供を無理やりに病院や心の相談所に連れて行きます。正常に反応できる子供を異常な子供として、正常でない反応を取るように強制することになります。それは子供をより一層強く回避行動を取らすことになります。
 多くの大人は登校拒否の状態の子どもを、学校への行き渋りと言う形で気づくことができますが、この学校へ行き渋る子どもの心が傷ついていて、学校や学校に関する物でその子どもの心の傷が疼き、学校へ行けなくなっていることに気づきません。親や大人は子どもの姿を親なりに勝手に判断して、それに基づいて、子どもを何とか学校へ行かそうとします。また、子どもは言葉では「学校へ行く」、「明日は学校へ行く」と言います。けれどいざ行く段になると子どもはいろいろな身体症状(神経症状、精神症状)を出して学校へ行こうとしません。そこで親は「この子どもは学校へ行きたがっているのに、病気で行けないのは可哀想。何とかして学校へ行けるようにしてあげたい。」と子どもを思う気持ちから、子どもを学校へ行かすあらゆる方策を取ります。学校の先生方も学校へ来るように促します。その結果子どもの情動にできた傷の疼きがますます強くなり、全く子どもは学校へ向かって動けなくなります。全く子どもは学校へ行けなくなります。その状態が不登校です。不登校になると、どの親も、どの大人も、子どもが不登校であることに気づきます。
 現在不登校問題がいろいろなところで議論されていますが、不登校とは既に子どもの心が大きく傷ついて、学校に対して強く拒否している状態ですから、不登校になった子どもに大人が気づいた時点から、その子どもの不登校問題を考えても意味が無いことになります。子どもが不登校状態になる前に、登校拒否をして学校へ行き渋っていた時期が必ずあります。その登校拒否をして、学校へ行き渋っていた時期に何が起きていたのかを分析したら、子どもが登校拒否、不登校になった原因が見つかります。けれど理論的にそうであっても、実際には、親や大人達は子どもが登校拒否をして学校へ行き渋っていた時期には、その子どもが不登校状態になる前段階だったとは気づいていませんから、多くのことを見落としていて、子どもが登校拒否を起こした原因を見つけることは大変に難しいことになります。もし子どもが登校拒否を起こした原因が見つかったとしても、間違っている可能性が高いです。
 登校拒否、不登校は、子どもの情動が傷ついて学校を拒否している状態です。学校や学校に関する物で心の傷が疼き、身体症状(神経症状、精神症状)を出して、とても辛くなる状態です。けれど、心の傷は疼かない限り、いろいろな身体症状を出しません。辛くは成りません。登校拒否、不登校の子どもでも、全く普通の子どもと同じように行動でき、生活できます。心の傷が疼かなければ、登校拒否、不登校の子どもでは、学校に関わることはできませんが、学校に関わらないで、その子どもなりの生き方を生きることができます。それが登校拒否、不登校の問題の解決法です。そして心の傷が癒えて学校や学校に関する物に反応しなくなったら、登校拒否、不登校の子供達の中からでも、学校に関わる生き方を選択する子どもも出てきます。
 情動には楽しい機能と、恐怖の機能しかありません。普通の子どもでは学校が楽しい機能になっているのに、登校拒否、不登校の子どもでは学校が恐怖の機能になっています。
この登校拒否、不登校の子どもに、学校が恐怖の機能である度合いより強い何かの楽しい機能を与えてあげると、学校の恐怖機能が存在しても、子どもの情動には楽しい機能が働いて、恐怖の機能が働きません。登校拒否、不登校の子どもが、学校や学校に関する物を見たり、思い出したりしても、子どもは辛い身体症状を出さなくなります。これを心の傷に包帯をすると表現します。これも登校拒否、不登校の解決法の一つの方法です。

親兄弟との交流2004.8.15
 子どもにとって親や兄弟はとても大切な存在です。親との対話や、兄弟姉妹がいる場合のお互いの付き合いは、子どもの成長に欠かすことのできないものです。それは皆さんが認めるところです。
 ところが不登校・ひきこもりの子どもたちで、親から登校を刺激されたり、ひきこもりを否定されたり、兄弟姉妹の存在で登校が刺激されたり、ゆっくりとひきこもれない子どもの場合、親兄弟を拒否することもあります。その場合、子どもは親兄弟との会話や付き合いを拒否して、個室にこもってしまいます。
 彼らは、孤立していてつらいのです。親兄弟には自分のことを理解して欲しいのです。自分の心の内を話したいのです。けれど親兄弟が不登校やひきこもりの子供達の心を理解していないから、自分の心の内を話すとかえってつらくなるから、親兄弟との心の交流を拒否しています。彼らは、自分たちの心を変える余裕はないほど、つらいのです。
 つまり親兄弟が寄り添おうとする前、心を通わそうとする前に、必要なことがあるのです。それはありのままの不登校やひきこもりの子どもを認めることです。今は親兄弟から離れていたい、寄り添って欲しくないと無意識に判断していることを認めることから始まります。
 親兄弟が不登校やひきこもりの子どもの心を理解してたなら、親兄弟から心の交流を持ちかけるなどの対応をしなくても、不登校やひきこもりの子供達は自分の方から親兄弟との交流を求めてきます。

夏合宿に参加して2004.8.30
 今回は短時間でしたが、世話人会も見せて頂きました。世話人会では不登校と医療のことが話し合われていました。世話人の方々は、不登校は病気ではないと信じていらっしゃいますが、現実に目の前の子どもが病的な症状を出しているときには、そしてその子どもの親が医療を求めているときには、世話人の方々でも医療にその子どもをゆだねざるを得ないのは、自然の成り行きでしょう。そこで、どのような病院が良いかという問題になります。その点も、何人かの世話人の方は、今までの病院の対応の仕方から、紹介できるような病院を見つけ出されているようでした。本当に子ども達のために献身的に努力をなさっていらっしゃる世話人の方の多いのに、頭が下がりました。
不登校に関して医療を変える、医療を受ける側の意見を医療に反映するという、新しい発想が実現しつつあることを知り、とても勇気づけられました。一部の世話人の方々が精神医療の学会に参加なさって、学会の中に新しい風を吹き込んでいらっしゃる事実を、微弱ながら応援していきたいと思います。どんな形であれ、「子どもと精神医療を考える市民の会」が発足して、子どもの立場からの、ユーザーサイドからの医療が実現させるために機能し出し、将来に向かって発展していくと良いなあと思いました。

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