反論2003.6.6
2003年5月15日の日本医師会雑誌に「思春期をめぐる諸問題ー医療と教育の立場から」という集中講座が特集されていて、筑波大学の宮本信也教授が「不登校の理解と対応」という論文を寄せている。これに対して現場の医師からの反論である。

現場から見た、小学校や中学校の子どもの不登校
 現在、不登校、引きこもりが社会の関心事になっている。しかし、診療所で子ども達を赤ちゃんから、小学、中学と子どもの成長の中で、不登校になった子ども達や不登校になりかけた子ども達(数百名)を見ていると、また、不登校や引きこもりで苦悩する母親達と密接に連絡を取りながら、不登校や引きこもりの子ども達に対応していると、今まで言われていることとだいぶ違うことが起こっている。それは小中学生の不登校では、間違いなくほぼ100%学校や学校に関係する物がストレサーになっている事実である。そして、家族との関係がストレッサーになるのは、家族が不登校の子どもに学校というストレッサーを与え続けている場合である。家族が学校というストレッサーを不登校の子どもに与えなければ、又は与えるのを止めれば、不登校の子どもにとって家族がストレッサーにならない、ならなくなっている。
 子どもが不登校になる原因はいろいろあるが、それらの原因の結果、不登校の子どもは周囲の人から見たらその程度の差は有るが、辛い事件を経験をしている。その程度の差というのは、周囲の人から見たときの判断であり、事件を経験した当人は、死ぬような思いをしている。それは不登校の子ども親との間に信頼関係を持てたとき、子どもが話してくれている。不登校の子どもにとって辛い事件とは、子どもの性格から生じた物、友達関係から生じた物、先生や部活動などによるものがある。ただ、これらの事件が有ったから、子どもが不登校になったのではなくて、これらの事件の結果、学校や学校に関係する物がストレッサーになったから、そのストレサーを回避するために、子どもは不登校になっている。大切なことは学校や学校に関連した物がストレッサーになっていて、子どもはそのストレッサーである学校や学校に関係する物を回避しようとするのであり、学校内で起こった事件が有ったから学校を回避しているのではない。だから、学校内で起こった事件を解決しても、子どもはやはり学校を回避しようとし続けるのである。
 学校や学校に関連する物がストレッサーになっているのだが、ストレスを与える度合いは物によって、また子どもによって異なる。一般に学校の概念や教室、先生が強いストレスを強く与えやすい。同じ学校でも保健室等は教室よりもストレスを与えない。ストレスには加重性がある。一つのストレッサーを受けた場合と、二つ以上のストレッサーを受けた場合とでは、二つ以上のストレッサーを受けた場合の方が、より強いストレス状態になる。同じ保健室でも、そこに誰もいない場合と、誰かいる場合、養護の先生のいる場合、担任がいる場合とでは、子どものストレス状態は異なる。
 子どもが不登校になる前に、程度の差は有るが、必ず学校への行き渋りが見られる。その際に多くの子どもは身体症状や精神症状を出す。この時期は、未だ学校や学校に関する物のストレッサーとしての機能が弱いときである。この時期に、子どもが不登校の前段階だと判断して、子どもをストレッサーから隔離する(子どもが納得するまで学校を休ませる)と、子どもは再登校を始める。不登校にならないで済む。この様に、子どもが学校へ行っていない状態でも、ストレッサーから隔離するために学校へ行かないのと、不登校で学校へ行けないのと、その内容は、その結果は大きく異なる。
 子どもが学校へ行き渋っているのに、登校刺激を与え続けると、学校や学校に関する物が強いストレッサーとして機能をし出す。また、子ども自身が学校や学校に関する物を思い出すだけでも、その事がストレッサーとして機能する。その結果子どもは全く学校へ行けなくなる。子の状態が不登校の状態である。強いストレッサーに晒されて、それから回避できないときには、子どもは強い神経症上や精神症状を出したり、暴れ出したりする。それは哺乳類に共通に見られることであり、異常ではない。哺乳類としての自然な反応である。
 この時期になると、学校や学校に関連する物がストレッサーで無くするのは大変に難しい。学校や学校に関係する物から徹底的に隔離して、学校の卒業を待ち、学校に関係しない生き方をさせるしかない。学校に関係しない生き方をしている内に、子どもの方で学校へ戻ろうとする子どもも出てくる。
 不登校の際に、子どもが出すいろいろな病的症状は、ストレッサーから回避できないために出しているのであり、病的であるが、病気ではない。それを病気として、投薬しても症状が軽くなっても、ストレッサーが存在していることに変わりはない。解決にはならない。医者としてその事に気づく必要がある。
 不登校問題は社会現象であるが、不登校の子どもに関しては、子ども一人一人の子どもの持って生まれた物、学校での事件、その結果学校や学校に関係する物がその子どもにストレッサーとして働くようになったという、個人的な心の問題であり、不登校の子どもに加わるストレッサーを回避でいないでいると、いろいろな病的神経症や精神症状を出すのであり、医者は病気でない子どもを病気として治療することは間違いであり、許されないことである。

心神喪失者医療観察法案2003.6.28
 現在、日本社会は、心の問題で苦しむ人たちを病人として、薬による治療を行うことが常識とされていて、安易に向精神薬を求める傾向があります。心の問題で苦しむ人たちの症状を無くすることが医療の目的になっています。それを助長しているのは精神科医が風邪などと同じ感覚で投薬を開始している事実がありますし、それを色々なメディアを通じて公表しています。ところが実際は、投薬の開始により一時的に症状が改善しても、また新たな症状を出す人が多くて、その結果新たに薬が何種類も追加されて、少ない人でも数種類、多い人では十数種類の薬を毎食後に飲んでいる人たちが多いです。まさに、心の問題で苦しんでいる人たちは、薬漬けになっている状態です。精神科医療では、よくなった例を持ち出して、精神医療の良さを宣伝していますが、その様な例は本当に一握りの人たちです。それも薬で解決したとは私は思っていません。薬では、心の問題で苦しんでいる多くの人たちの問題がいっこうに解決していないばかりか、薬の副作用に新たに苦しんでいる例を数多く見かけています。その事実はきっとご存じだと思います。
 ここで、私が心の問題で苦しんでいる人と表現して、精神病患者と言わない理由にふれておきます。それは私が担当している心の問題で苦しんでいる人たちの半分以上が精神科医で統合失調症、躁鬱病、パニック障害、自閉症、ADHD、LDなどと診断のついた人たちです。これらの人たちの薬を減らし、カウンセリングだけで、心の問題を解決している事実です。この事実から、精神科医療では、病気でない人を病気として治療をしている可能性が高いことです。精神科医が精神病と呼んでいる心の問題で苦しんでいる人に、病気としての根拠を持たないまま、病気として、副作用の強い薬を飲ませている、ある意味で人権侵害を犯している事実です。
 現在精神疾患とは精神科医が自分の感覚で心の問題で苦しんでいる人を精神病と決めています。科学的な、客観的な根拠は全くありません。DSM−4という診断基準があることは事実ですが、この診断基準に合致しているかどうかの判断は、精神科医の主観です。また、DSM−4自体が、精神科医がその主観から作り上げた物であり、科学的な紺強がありません。それどころかDSM−4で障害と規定している物の一部には、脳科学的に単なる生理的なストレスに対する反応であることが分かってきているものもあります。
 精神科医の概念からだけで、人の人権を侵害するような法律を作ることは大変な間違いを生じます。確かに所謂心神喪失者による犯罪があり、それを防ごうとするのは理解できますが、医師として今までの経験から、心の問題で苦しんでいる人たちを所謂心神喪失者に追い込んでいることの片棒を担いでいるのは医療と言うことが出来ます。心の問題で苦しむ人たちに面と向かい合わないで、薬だけ投与して、心の問題ばかりでなく、薬の副作用で苦しむ人を作り、親不信、医者不信、人間不信に陥り、苦しいときに所謂心神喪失者として思わぬ行動に出ています。医者や親等の人間がが人間を所謂心神喪失者にして、犯罪を犯すように陥れていることになります。
 現在必要なのは所謂心神喪失者を隔離して、投薬することではありません。所謂心神喪失者にしてしまう親や医師を変えるにはどうするかを議論することです。今の精神医学を医者の独断からでなく、心の問題で苦しむ人たちの立場になって考えることです。これは可能です。現に、私が実行して成果を上げているのですから。ただ、精神科医や一般の人が、アメリカ流の精神医学を信じ込んでいるだけでは、いくら心神喪失者法案を作っても問題の解決になりません。問題の解決には心の問題で苦しんでいる人達への、心の問題で苦しんでいる人の立場に立ったカウンセリングなどの対応策を法的に確立することです。

生徒のつき合える先生2003.8.14
 ある荒れた中学校で、生活指導担当になった先生が、「どうしたら学校を元の落ち着いた状態に戻せるか」と考えました。そこで先生が思いついたことは、ごく常識的な、生徒達と積極的にスキンシップを取ることでした。毎朝校門に立って、登校してくる生徒たちに挨拶をしようと考えました。そこで、実際に毎朝、雨の日も、風の日も、校門の所に立って、登校してくる子どもたちに挨拶の言葉がけをして、生徒達と気楽に言葉を交わし、生徒達の頭を撫でてあげ、生徒達と気軽に握手をしたりしたりした。休み時間も校内を巡回して、生徒達と気楽に会話をして、生徒達の遊びに加わりました。それが良い結果を生じたという確実な証拠はないのですが、一年間ぐらいで学校内の荒れが納ました。少なくとも学校内の状況が落ち着いて、授業が順調に行われるようになりました。
 現在の小学生、中学生、そしてきっと高校生でも、多くの生徒達は学校で息苦しさを感じています。学校では、学力を高めること、運動能力を高めることを目的に、先生方は一生懸命指導をしていらっしゃいます。先生方は生徒達の事を一生懸命考えているのですが、あくまでもそれらは先生からの立場です。生徒の立場ではありません。先生方の指導は、生徒たちの心を反映していません。生徒達の心を無視した教育が行われています。生徒達の心を無視した対応が行われています。生徒達が学校で色々な問題を起こさないために、学校からの管理で、生徒達の子どもらしさが押さえ込まれています。窒息状態の生徒達が多く見られています。学校内で辛さを感じる生徒達が多いです。それら生徒たちはその辛さから、先生方の前では良い子を演じて、見かけ上学校の方針に沿った行動をしていますが、先生方のいないところでは先生方への不満を言っています。
 この先生方が子どもの心を理解したつもりでいるが、実際は理解していないで、生徒たちを苦しめているという事実は、今の学校も昔の学校も同じです。学校のあり方は今も昔もほとんど変わっていないからです。ところが、昔の学校の生徒達は、学校の終了後、学校外で学校への不満を解消することが出来ました。自然がたくさんありましたから、自由な時間がたくさんありましたから、その中で生徒達は自分を取り戻して、辛さや不満を解消して、新たな気持ちで翌日また学校へ臨めました。また、昔でも進学の問題がある生徒には現在の生徒と同じでしたが、昔の多くの生徒については進学の問題がなかったから、多くの生徒についてはあまり学校に拘らなくて良くて、楽に先生方とつき合えました。
 けれど現在の子どもたちは24時間大人から管理されています。学校での不満を解消する時間も、場所も、方法も、持っていません。それどころか、進学率が高くなることで、多くの生徒たちが勉強するようにとの圧力で、生徒達は苦しんでいます。スポーツ競技会が盛んになり、一流の運動選手になるようにとの圧力で、生徒達は苦しんでいます。それらによって、自分のストレス状態を解消するために、結果として、生徒達が学校内でいじめや非行行為、授業妨害を行うようになって来ています。それらは決して生徒たちがすき好んでしているのではありません。学校が辛いから、家庭が辛いから、その辛さから、その辛さを解消するために、無意識にいじめや非行行為、授業妨害を行っています。指摘されれば自分の行為が悪いことと、生徒達は知識では知っていますが、自分の行為自体が悪いことと認識していません。それらの悪いことをしているという認識のない生徒達を罰しても、生徒達は罰せられた意味を理解できません。罰せられたこと自体が再び新たなストレス刺激となり、そのような生徒のいじめや非行行為、授業妨害はより一層ひどくなり、学校内が荒れたり、事件を生じることになります。
 現在の生徒達が求めているのは、管理されて、無味乾燥とした学校ではありません。必ずしも先生方の都合の良い学校ではありません。生徒達を厳しく指導したり、罰したり、勉強を教えようとする先生ではありません。先生のための生徒になることではありません。生徒達が求めているのは、生徒達がありのままの自分で成長できる学校です。生徒達がありのままで触れ合い、つき合える先生です。生徒たちの普段の言葉が理解できる先生です。生徒のことを完全に理解できなくても、生徒の感情を生徒の立場で感じ取れ、生徒達に共感できる先生です。それは決して生徒達の我が儘ではありません。生徒達は子どもの特性として、これらが満たされ、先生方に受け入れられると安心して、落ち着いて学校生活に臨めます。そうすれば、学校での生徒達の不満や辛さが無くなり、生徒達にはいじめや不良行為、授業妨害の必要が無くなり、学校生活が楽しくなり、勉強にも身が入り、生徒達の学業や運動の成績も上がってきます。
 生徒達は子どもです。大人と違います。大人と違う心を持っています。子どもは大人と同じ言葉を使い、大人と同じように会話をしますから、大人は子どもも大人と同じように感じると考えています。大人も子供時代を経験していますから、自分の子供時代の経験から、子どもの心を理解できると考えています。ところが子どもは感覚で反応して行動をしています。それを情動行動と言います。大人も子供時代は感覚で反応して行動していました。けれどいつの間にか大人になり、大人になると子どもの時していた感覚的な反応からの行動を忘れてしまっています。大人は感覚から情報を得て、それを分析という思考をして、その結果に基づいて行動をします。それを思考行動と言います。大人は情動を自分の意志で調節して、思考から行動することが出来ます。子どもはこの大人のような思考をしていません。とうぜん大人のような思考行動もしません。子どもの感覚も大人より刺激に対して遙かに素直で、その子どもなりの鋭い感覚をもってすぐに反応して行動します。
 大人は子どもの延長上にいます。心も子どもの延長上に大人の心があると考えています。けれど大人は思春期を契機に子どもの心を忘れて、大人の心になっていることに気づいていません。大人達は、子どもの心とは違う子どもの心を理解できない大人の心で、子どもの心になったつもりで、子どもの心を理解したつもりで、子どもに対応するために、その対応が子どもの立場で、子どものためと思って、子どもに対応しても、実際は子どもを理解できていませんから、結果として子どもを苦しめる場合があります。


不登校の児童生徒の減少が意味するものは
2003.9.2
学校基本調査の速報が発表された。昨年度のそれによると一昨年度より、不登校の子どもの数が7511人減って、文科省は「熱心な取り組み」の成果が出ていると判断している。この「熱心な取り組み」が見かけ上、不登校の子どもの数を減らすのに効果が有ったことは、現場で登校拒否、不登校の子どもの対応をしていると理解できる。ただし、それは統計上の不登校の子どもの数が一時的に減っただけで、根本的な不登校問題の解決にはなっていない。それは現在学校で行われている対応が、不登校の子どもを学校へ来させる対応であり、本質的に登校拒否、不登校の問題を解決するための対応ではないと判断されるからだ。
 不登校の子どもに学校へ行くようにとの圧力をかけると、それに反発して暴れる子ども、いろいろな病的症状を出して苦しむ子どもの他に、学校へ行ってしまう子供がいる。特に学校を休みだしたばかりの子どもや、小学校低学年の子どもは、強い登校刺激を与えると、学校へ行ってしまう場合を経験する。現在学校で行われている対応は、不登校の子どもをいかにして登校させるかの方法が取られているから、この種の対応を受けた子どもが、昨年度の不登校の子どもの数の減少に関係していると考えられる。
 不登校新聞のグラフを見る限り、小学生の不登校の子どもの数はこの数年間不変で、減っていない。中学生の不登校の子どもの数が今年に限って減っている。それが何を意味するのかを素直に考えてみる。それは、小学校では今の学校の対応でも不登校の子どもを減らされないのに対して、中学校では今年だけは減らせたと言うことであろう。小学校でも不登校の子どもをなくそうとする努力は熱心に続けられている。けれど効果がないという事実であろう。中学校ではなぜ減らせたか?に関しては、一時的な変化であり、今年度は反動でまた増えるのではないかと、私は推測する。
 現在の学校側の対応が、「早期発見、未然防止」を掲げて行われていたから、昨年度は元来不登校の子どもの数となるべき子どもが、学校側の無理な対応で登校してしまっているのであろう。その結果は、ある期間、そのように対応された子どもは学校へ行くが、その後全く学校へ行けなくなる子どもが多いと考えられる。ということは今年度にその子どもたちがどっと不登校になる可能性が高いと私は推測する。ただし、それらの子どもたちが昨年度は3年生で、今年卒業していたなら、この統計には乗ってこないで、高校へ行けないか、行っても退学してしまう子どもになっているであろう。

多発する少年の事件は何を突きつけているか ある母親よりの投書 2003.9.17
 小動物は、地震や火事など大変な状況をいち早く察知し、行動を起こすという。この不安定な時代に、人間であっても感受性の強い子どもや大人は、身震いするほどの何かを感じているのではないか。感じる力は理屈を越えている。
 世界は、弱いと思われる立場からでないと見えないものがある。親と子ども、教師と生徒、上司と部下、男と女、為政者と民衆・・・・等々、いろいろな上下関係の中で、自分はどの立場にいてどういう権威、支配力を持ち、またどういう抑圧を感じているか。自分が上の立場にいるとしたら、下にいる人の言い分を十分に聞いているか。開かれた対話とは、優位に立つものが謙虚に聞く耳を持たないと成り立たない。
 今、世間を騒がす事件を起こす少年達は、自分の中にある怒りに気づき、吐き出せていたのだろうか。鬱屈した怒りがその表現を誤らせてしまったのではないか。少年達の行動は、欺瞞に満ちた大人の世界に警鐘をならしている。命がけで、私たちに、訴えているように思えてならない。
 私は、25歳から2年間ほど、今で言う「引きこもり」をしていた。今は社会問題として取り上げられているが、20歳であっても30歳、40歳、いくつであっても、思春期をうまく乗り越えられなかった人には必要な期間だと思う。順調に育った大人にはそれが分からないだろう。分からないから問題視して、「引きこもり」というレッテルを貼って阻害する。これは、あらゆることに通ずると思う。
 必要とされているのは、子供達に共感出来て、子供達と一緒に真剣に悩み考え行動する大人達ではないか。グレる子どもを叱る前に、グレたい気持ちを聞いてやる、そんな大人の懐の大きさが欲しい。子どもの成長をいつも信じられる自分であるために、まず自分自身の成長を期待していきたい。子どもたちの不完全燃焼な思いを、希望溢れる未来を作るための「熱い思い」に変えられるような、熱と力のある”大人”になるぞ!


不登校と精神科医療2003/10/10
 あるところで、不登校と精神科医療の話が話題になっていました。ある方のMSGの「学校に行かない、行けないだけで、薬づけに苦しむ子どもたちを少しでも減らしていきたい。」は本当に実感が籠もった良い言葉だと思います。ただし、この場合、「学校に行かない、行けないことでいろいろな症状を出している子ども」についての話だと思います。
 子供が出すいろいろな病的症状を見て、親は何とかしなければならないと思います。相談機関に相談したら、一度医者に診てもらうようにと言われます。医者に行けば、ほぼ間違いなく薬が出ます。不登校を理解できない親には、薬で解決できるのならと思うのも非難できません。その際に「お子さんは心の病です」と言われたら、それを信じ込んでしまうのは親としてやむを得ません。病気と言われたら、親として一生懸命子どもを治そうとするのは当然です。
 以前は不登校は病気として投薬されました。現在は不登校は病気ではないが、子どもの出す症状自体が病気として、投薬されています。一般の開業医では診断をつけないで、症状に対して薬だけ投与されています。いずれの場合も、医者の医学的な既成概念から子どもが投薬を受けていることには変わり有りません。本当に投薬で子どもの不登校の問題が解決するのならそれで良いと思います。ところが子どもが出す症状は、行くと辛くなる学校へ無理矢理に行かされること(親はそのつもりでなくても、子どもがそのように感じている)から生じている事実は、長年不登校の子どもと向かい合った親なら分かることです。医者の持つ、不登校の子供のいろいろな病的症状への既成概念が間違っています。
 私が最近問題だとして指摘したいことがあります。不登校の子どもが長じるに従って、不登校と子供の出す症状とが不明瞭になってきている子どもたちが増えてきています。心の状態は不登校だったのに、無理矢理に学校へ行かされて、高等学校時代に、大学時代に、社会人になって、いろいろな病的症状で苦しむ子どもたちを多く見かけます。これらの子どもでは、不登校と子どもの出す症状との関係が親にも医者には全く分かりません。その結果いろいろな精神疾患として投薬治療を受けて、子どもの苦しむ問題点が見えなくなるばかりでなく、薬の副作用で子どもが辛い状態になっている場合が増えてきています。
 義務教育以降の子どもたちの内でいろいろな病的症状を出す場合には、見かけ上ははっきりとしていないけれど、小学校、中学校、高等学校の時の不登校に根ざしている場合が多いです。このような子どもたちの多くは、医療機関で精神疾患として投薬の治療を受けています。この場合、子どもも親も医者も、子どもの出す病的症状が不登校に根ざしたことから出ていることに全く気づいていません。症状の出し方からいろいろな精神疾患の病名が付けられて投薬されています。私の経験と脳科学的な事実からの判断ですが、現在の子どもの出すいろいろな病的症状は不登校自体か、不登校に関係していると判断して間違いないようです。その時の心の傷が癒えていない場合です。

ある精神科医の話から2003.10.29
 ある精神科医の話です。その精神科医は子どもの頃、父親の相次ぐ転勤で東京に行けば大阪弁を使うなといじめられ大阪に戻れば今度は東京弁でかっこつけるなとはじかれた経験を持っていると言っています。その経験から、くやしさを勉強に向け勉強をしていくうちにだんだん自信がついて成績が上がり、医師になれたと言っています。いじめを受けても耐えて頑張れば、いじめを克服できると言っています。
この精神科医は自分がいじめを受けたと認識しています。それはあくまでも認識であり、実際はそのいじめと認識している物で心が傷つかなかったから、傷ついたかも知れないけれど軽かったから、勉強をしようとして勉強ができました。または勉強をすることで運良く大きなご褒美を得られて、その心の傷を癒すことができた。ですから、この精神科医の経験を多くのいじめられいる子どもたちに当てはめることはできません。しかし、現実にはこの種の励ましが行われていて、多くのいじめで苦しむ子どもたちをより辛くしています。
 それと逆なことがよくあります。子供が受けたいじめが、その子供の人間としての知識や認識の上ではいじめではなくても、動物の人間として、いじめの場合があります。私の知る多くのいじめでは、いじめられている子どもが知識でいじめと認識しようとしても、周囲の教師や親からいじめでないと説得されている場合がしばしば見られます。または、「いじめはよくあることだから、耐えて乗り切れ」と言われています。そのような大人の対応で、自分の受けているいじめがいじめだと認識していない子どもです。
 それらの対応を受けた結果、いじめられている子供がいじめから逃げようとしないし、逃げられない場合が多々あります。そのような子どもは、認識としてはいじめを受けていないと言葉で言うけれど、心の中ではいじめで傷ついて、いろいろな症状に苦しんでいる子どもです。これらのいじめられている子どもは、いろいろな症状を出す自分がおかしいと認識するようになります。自分を否定してしまうようになります。いじめや登校拒否、不登校、引きこもりの子どもたちの中で、または大人が理解できない理由で自殺した子ども達の心の状態は、このようになっているはずです。 

子どもたちへの見方2003.11.8
 子どもたちの問題が生じるたびに、子どもたちをどのように指導すればよいかの議論がなされ、いろいろな提言がなされています。その際に議論する人たちは、子どもたちにはいろいろな性格の子どもたちがいることを認めていますが、そこで議論されている内容は、子どもたち全体をどうするかという内容になってしまっています。
 子どもたちへの対応は、個々の子どもに沿った対応が必要なはずです。また、子どもたちもそれを求めています。けれど学校という、多数の子どもを少ない大人で指導しようとするところでは、それは不可能なことです。けれど、おおざっぱにいろいろな性格の子どもたちがいることを想定するだけでなく、もう一歩踏み込んで、現代の子どもたちを今の学校のあり方との関係で見ていくなら、もっと違った対応が出てくると思います。
 それは
A.現在の学校で十分な子どもたち
B.良い子を演じる子どもたち
C.現在の学校に合わない子どもたち
と、子どもたちの心の状態を分けられる(境界は明瞭ではありませんが)と思います。このように子どもたちの心の状態が分けられるのは、子どもに原因があるのではありません。現在の学校のあり方で子どもたちの心が傷つて、その心の傷つき方から、現実に良い子を演じる子どもたちや、現在の学校に合わない子どもたちが生じています。
 多くの子どもたちは、Aの現在の学校で十分な子どもたちです。学校や親からの対応を受け入れて、どんどんのびていく子どもたちです。現在の学校も親も、子どもたちは現在の学校で十分だと思って対応をしています。
 クラスには少数だけどCの特別な場合をのぞいてどんな指導も受け入れられない子どもがいます。学校内や学校外で問題行動を起こすからわかりやすいです。これらの子どもたちは、すでに学校に合わないのですから、そのような子どもを学校に留めておこうという対応自体が無理なのです。
 難しいのは、そして学校側でも理解できないのが、Bの良い子を演じる子どもたちです。普段はとても良い子ども(成績や行動面でも)なのに、大人のいないところでは、または発作的に、思わぬ反社会的行動を行ってしまう子どもたちです。最近の子どもたちを見ていると、この良い子を演じる子どもたちに属する子どもたちが増えてきています。良い子を演じる子どもたちへの学校側の対応について、子どもたちが納得して学校側の対応に従ったと学校側が判断しても、教師や大人の前で納得したように演じている、対応を受け入れたように演じているが、心の奥底では葛藤に苦しんでいる子どもたちです。

子どもの特性2003.11.19
これから申し上げますことは、幼稚園、小学生、中学生ぐらいまでの子供たちに関してです。診療所の外来で、校医として子供たちを赤ちゃんからそのときまでの成長の過程で、その子供を見ていての印象から話させていただきます。ある瞬間の子供を見ての話ではありません。印象ですから、理由はないと考えてください。ただし、人間以外の動物でも見られる子どもの特性でもありますから、私は子どもが持つ特性と考えて良いのではないかと思います。
ほとんどの子供が幼稚園、小学校、中学校に行くことを、本心(情動として)から喜んでいます。本心から学校へ行きたがっています。例外もありますが、そのような子どもではそれなりに原因があるようです。なぜ行きたがっているかというと、それは友達を求めているからです。決して勉強や規律を身につけるためではありません。これらの子供たちは子供の集団(現実に存在するのは学校が主である)に入っていくことを本心から喜んでいます。その子どもの集団の中で暮らすことで、子どもたちなりの学習や規律を身につけています。私の見る限り、このような特性は他のほ乳類の子どもたちにも見られるので、子供たちが本質的に持つ欲求のようです。
学校で子供たちは本質的に新しいものに興味を持ちます。興味を持ったものに没頭していきます。それは遊びと同じような感じてす。そのような意味で学校の勉強は子供たちに興味を提供します。しかし子供たちがこなせるもの以上のものを与えたとき、子供たちは興味を失っています。逃げだそうとします。このような新しいものへの興味は大人でも見られますが、子どもの方が格段に強いです。それは他の動物で見られる新奇刺激に相当すると思います。
子供たちが学校の先生やその他の大人の指導を受け入れるのは、親が喜ぶ姿を子供たちが求めているからのようです。先生方はご自分の指導を子供が受け入れたとき、ご自分の指導が良かったからと考えがちですが、子供たちは先生の向こうに母親の喜ぶ姿を見ています。先生からの対応を受け入れるのは、その後に子どもたちが母親からのご褒美を得られるからです。そうでないときには、子どもは学校の先生や大人たちからの指導を受け入れるのは、そのときに存在する恐怖を回避するためです。回避するためですから、一時的にしか指導を受け入れません。そのため、指導を定着させるためには、繰り返し恐怖を与えて指導しなければなりません。その結果子どもの心が傷つくばかりでなく、恐怖がないところではその指導と逆なことを行ってしまう場合が有ります。
多くの子どもたち(人に心が傷ついていない)は、子どもの集団である学校に行きたがります。現代では子どもの集団というと学校が大きな役割を果たしています。けれど学校以外にも、友達仲間など、いろいろな子どもの集団があります。そこで新しい経験をする事を子どもは喜びます。子どもの集団である学校での子どもの成長を親が喜ぶとき、子どもはそれを受け入れて、よりいっそう困難を伴うものへの挑戦を行います。子どもの集団である学校での問題点は親の元で解決した後、子どもの集団である学校へ行こうとします。
これらの事実に関してはいろいろな反論が出てくると思いますが、子供の心の奥底をのぞいてみたときには、どうも子供の本質のような気がします。

競争は人間の進化を保障するか?2002.12.8
 地球上の生物の存在のあり方に、自然淘汰の原理が大きく関与していることはほぼ間違いない事実です。この事実を信じる限り、生物の存在は絶えず自然淘汰の圧力を受けていると考えられます。この自然淘汰の圧力にいかに耐えて生き残るか、生き残って子孫を残せるかと言う事実に、多くの生物はその生物なりに優れた能力を獲得しています。また同一種でも、その子孫が結果的により自然淘汰の圧力に耐えられるようにと、個体同士の淘汰を行っています。これら全ての淘汰を、別の見方をすれば競争と言う概念で置き換えられると思います。淘汰という意味で見るなら、競争は進化を保障することになります。ただし、この場合の進化というのは種というレベルの見方であり、同一種内の個体一つ一つから見るなら、同一種であっても、進化に関与できなくて淘汰され、死滅している個体もあるのです。種としては競争に勝っても、その種の中では競争に負けて死滅する個体が出てきます。
 人間という種のレベルで見るなら、環境と人間との戦い方の競争、人間同士での競争で発展、進化が見られます。競争が多ければ多いほど、人間の文化の発展が早い(それが人間に好ましいかどうかは別です)ようですし、また心が傷ついて苦しんでいる人も多いようです。競争が少ない場合には、人間の文化の発展は遅い様ですが、その代わりに心が傷ついて苦しんでいる人たちも少ないように思えます。そして人間に関しては、この競争に負けたからと言って、淘汰されて死滅して良いと言うことには成らなりません。それが他の生物と人間との違いです。この競争に負けて辛い状態にある人を助けようとするのも、(大人の)人間だけが持っている能力又は知識です。(大人の)人間だけは自然淘汰に逆行することも可能なのですし、それもまた人間を進化させる要素です。
 子供達の間ではその能力の差から、子供達の間でランク付けが行われます(このランク付けの過程を競争というなら、競争といえるかも知れませんが、競争を目的とした競争とは異なることに注目する必要が有ります)。多くの場合子供達はその事実を理解でき、その子どもなりの対応ができて、子どもの心が傷つくことは少ないです。もし子どもの心が傷ついても、親の元で心の傷を癒せるなら、その子どもは心の傷を癒した後再挑戦が可能です。子ども達の間で行われるこのランク付けのあり方は、他のほ乳類と非常に似通っています。
 子供達の間に競争のための競争を持ち込み、競争結果を判定するのは大人です。知識、スポーツ、芸術などの分野に競争を持ち込むことで、大人の望む子供達の能力の発展が早くなります。その意味では競争にはそれなりの価値が有ります。現在、子供達をいかに競争に巻きこむかの、どのような形での競争に巻きこむかの、研究は大々的になされています。けれど競争に負けた子供達への対応の研究はなされていないと言って良いと思います。競争に負けた子供達について現在なされている対応は、この大人の望む競争に負けた子どもをいかにしてまた大人の望む競争に戻すかの方法論だけです。この競争に負けた子供達で、いろいろな神経症状、精神症状、不適応行動を取る子供達に対しては、病気というラベルを貼り、非行というラベルを貼り、新たに大人の思う姿に強制することも、これらの症状で辛い状態にある子どもをますます苦しくし、肉体は生きているが心が死んだに近い状態の子どもを、そしてその子どもが肉体的に成長した結果の大人を作っているという現実が有ります。
 現在の日本は競争の社会です。その現実を否定することは出来ません。また、その競争で日本の文化的、経済的、科学的な進歩がもたらされたと私も思います。競争を推奨するわけではありませんが、実際に存在する競争で傷つく人がないようにしたい物です。特に私達大人は、子供達の間で行われる競争を必要最小限にすべきです。実際に存在する競争に負けた子供達の心の奥底を見つめて、そこにある子供達の苦しみ(心の傷)を見つめて、その子どもに沿った対応を考えなければならないはずです。表面的な見かけから病気や非行としてそのような辛い状態の子供達に対応しては成らないのです。
 他の生物と違って、人間に関しては人間特有の心と蓄積された知識が有ります。元来知識は自然淘汰にうち勝つ物でした。ところが知識が一人歩きを始め、元来人間を守るべき知識が一部の人間を苦しめだした事実が有ります。子どもに関しては知識のための知識を得るという人為的な競争が、スポーツや芸術でも、技能でも、それらを得るための競争が生じています。その競争に勝った子どもが将来物質的な富を得られる立場に立ち、負けた子ども達の内の一部は心が傷ついて、人間という心を持った生物として生命を維持しにくい状態になってしまっています。

競争は人間の進化を保障するか?2003.12.8
 地球上の生物の存在のあり方に、自然淘汰の原理が大きく関与していることはほぼ間違いない事実です。この事実を信じる限り、生物の存在は絶えず自然淘汰の圧力を受けていると考えられます。この自然淘汰の圧力にいかに耐えて生き残るか、生き残って子孫を残せるかと言う事実に、多くの生物はその生物なりに優れた能力を獲得しています。また同一種でも、その子孫が結果的により自然淘汰の圧力に耐えられるようにと、個体同士の淘汰を行っています。これら全ての淘汰を、別の見方をすれば競争と言う概念で置き換えられると思います。淘汰という意味で見るなら、競争は進化を保障することになります。ただし、この場合の進化というのは種というレベルの見方であり、同一種内の個体一つ一つから見るなら、同一種であっても、進化に関与できなくて淘汰され、死滅している個体もあるのです。種としては競争に勝っても、その種の中では競争に負けて死滅する個体が出てきます。
 人間という種のレベルで見るなら、環境と人間との戦い方の競争、人間同士での競争で発展、進化が見られます。競争が多ければ多いほど、人間の文化の発展が早い(それが人間に好ましいかどうかは別です)ようですし、また心が傷ついて苦しんでいる人も多いようです。競争が少ない場合には、人間の文化の発展は遅い様ですが、その代わりに心が傷ついて苦しんでいる人たちも少ないように思えます。そして人間に関しては、この競争に負けたからと言って、淘汰されて死滅して良いと言うことには成らなりません。それが他の生物と人間との違いです。この競争に負けて辛い状態にある人を助けようとするのも、(大人の)人間だけが持っている能力又は知識です。(大人の)人間だけは自然淘汰に逆行することも可能なのですし、それもまた人間を進化させる要素です。
 子供達の間ではその能力の差から、子供達の間でランク付けが行われます(このランク付けの過程を競争というなら、競争といえるかも知れませんが、競争を目的とした競争とは異なることに注目する必要が有ります)。多くの場合子供達はその事実を理解でき、その子どもなりの対応ができて、子どもの心が傷つくことは少ないです。もし子どもの心が傷ついても、親の元で心の傷を癒せるなら、その子どもは心の傷を癒した後再挑戦が可能です。子ども達の間で行われるこのランク付けのあり方は、他のほ乳類と非常に似通っています。
 子供達の間に競争のための競争を持ち込み、競争結果を判定するのは大人です。知識、スポーツ、芸術などの分野に競争を持ち込むことで、大人の望む子供達の能力の発展が早くなります。その意味では競争にはそれなりの価値が有ります。現在、子供達をいかに競争に巻きこむかの、どのような形での競争に巻きこむかの、研究は大々的になされています。けれど競争に負けた子供達への対応の研究はなされていないと言って良いと思います。競争に負けた子供達について現在なされている対応は、この大人の望む競争に負けた子どもをいかにしてまた大人の望む競争に戻すかの方法論だけです。この競争に負けた子供達で、いろいろな神経症状、精神症状、不適応行動を取る子供達に対しては、病気というラベルを貼り、非行というラベルを貼り、新たに大人の思う姿に強制することも、これらの症状で辛い状態にある子どもをますます苦しくし、肉体は生きているが心が死んだに近い状態の子どもを、そしてその子どもが肉体的に成長した結果の大人を作っているという現実が有ります。
 現在の日本は競争の社会です。その現実を否定することは出来ません。また、その競争で日本の文化的、経済的、科学的な進歩がもたらされたと私も思います。競争を推奨するわけではありませんが、実際に存在する競争で傷つく人がないようにしたい物です。特に私達大人は、子供達の間で行われる競争を必要最小限にすべきです。実際に存在する競争に負けた子供達の心の奥底を見つめて、そこにある子供達の苦しみ(心の傷)を見つめて、その子どもに沿った対応を考えなければならないはずです。表面的な見かけから病気や非行としてそのような辛い状態の子供達に対応しては成らないのです。
 他の生物と違って、人間に関しては人間特有の心と蓄積された知識が有ります。元来知識は自然淘汰にうち勝つ物でした。ところが知識が一人歩きを始め、元来人間を守るべき知識が一部の人間を苦しめだした事実が有ります。子どもに関しては知識のための知識を得るという人為的な競争が、スポーツや芸術でも、技能でも、それらを得るための競争が生じています。その競争に勝った子どもが将来物質的な富を得られる立場に立ち、負けた子ども達の内の一部は心が傷ついて、人間という心を持った生物として生命を維持しにくい状態になってしまっています。

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