カウンセリング2003.1.3
 カウンセリングと表現すると、特殊な仕事のように感じられますが、日本語に直すと相談という意味です。ですからカウンセリングとは心の問題だけにあるのではありません。どんなことでも相談することがカウンセリングであり、相談を依頼する人がクライエントであり、相談を依頼される人がカウンセラーです。カウンセラーという公的に認定された職業はありません。相談を受ける限り、相談を受けた人はカウンセラーとして、料金を貰おうと無料でおこなおうと、それは相談を受ける人の自由です。
 医療の傍ら、登校拒否、不登校、引きこもりの相談を受けて数年になります。カウンセリングの基本は、ただただ訴えを聞いて、共感してあげることです。訴えを聞いても、決して評価を与えないことです。ですから、いわゆる専門的な知識は必要としません。かえってない方が、訴えをすなおに聞くことができます。
 子どもに対するカウンセリングはほとんど必要がありません。子どもの話を聞きながら、子どもの全てを認めようとします。親に対しては、親が落ち着くまで、親のありのままをやむを得ないと認めます。親の受け取り方を見ながら、子どもの目線や子どもが十分に信頼に足ることを教えてあげます。親が落ち着けば子どもも落ち着いてきます。登校拒否、不登校、引きこもりのカウンセリングには、子どもへの確固たる信頼と子どもの目線だけは知っておく必要があります。それは登校拒否、不登校、引きこもりの経験者とつきあうことで知ることができます。
 一番難しいのは、親が具体的な対応策を質問してきたときです。具体的な対応はいらなくて、子どものありのままを認めて欲しいと伝えても、親は納得しない場合が多いです。私の場合医者(現代の精神医学や心理学を信用していない)で、脳科学的な見方ができますから、その子どもに即した答えを出してあげられますが、多くの方では「How to」になってしまうようです。

仮面を被った子供達(小、中学生に限定する) 2003.1.18
{仮面を被るとは、良い子を演じるとは}
仮面を被る(良い子を演じると同じ意味)は、子どもが嫌悪刺激(その子どもにとっていやな刺激)を受けたとき、見かけ上、情動反応(情動の心=大脳辺縁系)からの動物的な回避行動(その刺激から逃げ出そうとする行動)や、不適応行動(人間で言えることであり、置かれた環境にそぐわない行動)を示さないで、それまでに学習た知識を無意識に用いて(習慣の心=大脳新皮質)、反射的に周囲の大人に受け入れられるように反応することです。見かけ上は、大人の求める理想に近い反応や行動をする子どもの反応の仕方です。時にはその反応が大人びていて、子どもらしさが無いように感じられます。
 仮面を被るには、過去に仮面を被るための知識を学習していなければなりません。それだけの学習をしておくためには、子どもはかなり知的に高くなければなりません。本来良い子供(その子どもが属す文化で良いと考えられている)で、知的にも優れている子どもが、辛い状態になると、仮面を被るようになります。
 仮面を被ること自体は、子どもにとって辛いことでも、努力を要することでもありません。子どもは受けた刺激に反射的に習慣の心の中の知識から反応しているだけです。けれど同時に情動の心が反応して、辛い症状が体中に出ています。子どもはその辛い症状に耐えています(耐えられなくなったときに仮面を取っている)。子どもが仮面を被った状態は、大人の目から見たら、子どもが受け入れてくれて、大人の対応には問題がないと考えられやすいで状態ですから、大人はその子どものためと思って、結果的に子どもに見かけと違って、辛い思いをさせ続けることになります。大人からは、とてもそのようなことはあり得ないと思える状態の子どもが、その心の中で辛さを感じ、辛さに耐え続けています。
{子ども達の心の状態からの概念的な分類}
 どのような子どもたちが大人の前で仮面を被るかを知るには、子どもたちと学校との関係を知る必要があります。現在の子ども(小中学)たちの心に大きな影響を与えているのは学校だからです。殆ど全てと言って良いほどの子どもたちが、学校との関係で心を成長させています。学校との関係で子どもたちの心を見ることで、実際上子どもたちの心を知ることができますし、そうすることで問題を生じることもありません。
 現在の子どもたちを学校との関係で見るなら、子どもたちは概念的に、考え方として、大きく三つに分けられます。ただし正確ではありません。その三つの子供達の区別の仕方は、
1)学校へ問題なく行っている子ども、
2)学校へ行き渋る子ども(登校拒否)
3)学校へ行こうとしない子ども、行くことが出来ない子ども(不登校)
とで、区別できます。子供の心が傷ついて、元気を失っていくと、1)から2)、3)と子供の心は変化していきます。
2)の学校へ行き渋る子どもと、3)の学校へ行こうとしない、行くことが出来ない子どもとの区別はさほど難しくありません。1)の学校へ問題なく行っている子どもと、2)の学校へ行き渋っている子どもの区別は大変に難しいです。
 子どもが仮面を被る、良い子を演じるという意味では、1)の学校へ問題なく行っている子どもはありのままの自分で仮面を被らないか、即ち子どもの本心から良い子である場合か、良い意味で仮面を被る、良い子を演じて、それを自分の経験や知識として、心を成長していっている場合です。多くの子どもがこれに属します。
2)の学校へ行き渋る子どもは、辛い刺激を受けなければ、仮面を被らないで、即ちありのままの自分で良い子でいれます。ところが辛い刺激を受けたときには、元来ならありのままの自分で反応して不適応行動を取るのですが、相手を選んで仮面を被り、良い子を演じてしまいます。そこには理由はありません。単なる反応の仕方です。なぜ、仮面を被るな行動を取るのか、それは子どもが嫌悪刺激に対して、自分を守る方法として、各週しているからです。情動反応の表現として、これらの行動が選択されているだけです。最近、この状態(仮面を被った、良い子を演じる)の子どもの数が増えてきています。
3)の子どもは仮面を被る余裕が有りません。良い子を演じる余裕がありません。辛い刺激を受けたら(辛い刺激は自分の中で作られることもあります)、ありのままの自分で反応して、不適応行動を取ってしまいます。ただし、辛い刺激が無ければ、ありのままの自分で、良い子でいれます。不適応行動を取ることはありません。不登校、引きこもり、不良行為(万引き、盗み、薬物、集団暴走、暴行、不良性行動)をする子どもたちです。
 ここで注意していただきたいことは、不良行為が習慣化した子どもたちと3)の嫌悪刺激を受けると仮面を被らないで不良行為をしてしまう子どもたちとを、私たちが混同することです。万引きを繰り返す子ども、その他の不良行為、犯罪行為を繰り返す子どもがいます。これらの子どもたちはもともと万引きなどの不良行為をしていたのではありません。最初はとても辛い状態にあって、嫌悪刺激を受けたとき、その回避行動として不良行為をしてしまいました。けれどその不良行為をやめさせるような対応が取られなかったために、嫌悪刺激を受けるたびに、不良行為を繰り返すようになっています。不良行為を繰り返した結果、不良行為が習慣化して、嫌悪刺激がなくても不良行為をするようになっています。そこには罪悪感がありません。
 不良行為が習慣化した子どもたちと、3)の嫌悪刺激を受けたら不良行為を行う子どもとの区別は大変に難しいです。例外もあるかもしれませんが、小中学生では、不良行為が習慣化した子どもはないと考えて、実際上は良いようです。
{先生と子ども}
 多くの子どもたちは、学校の先生の前で、その子どもなりに素直に反応しています。けれどある数の子供達は、先生の前では仮面を被って、良い子を演じています。子供達は親からも、先生からも良い子であることを求め続けられて育ってきています。そのために、子供達は先生の求める形になろうと、習慣の心から無意識に反応します。ある数の子どもが、先生方から見た子どもの姿が、その子供の本来の姿ではない場合があります。それらの子どもは、受けた刺激(子どもが置かれている周囲からの関わり)に素直に反応することなく、過去に学習した知識で周囲の大人に喜ばれるように反応しています。それらの子どもについて、子どもが自分の知識から振る舞っている姿を、その子どもの本当の姿だと判断しておられる先生方が多いようです。「あんないい子が?」と先生方は言われます。子どもが習慣の心から反射的に良い子を演じている姿を子どもの本当の姿だと思っておられる先生方の大きな落とし穴です。子どもの本当の姿は先生の居ないところで見られます。ある意味では、先生と言う立場からでは、子どもの本当の姿は見ることはできない場合があると考えても過言ではありません。ただし、その良い子を演じている子どもが、その演技が子どもの本当の性格に移行(習慣として身に付く)すればそれは教育の成果ですし、また、多くの子どもがそれをしています。学校へ問題なく行ける子どもたちはそれをしています。けれど、良い子を演じられなくなったとき、いろいろな問題を生じる子どもとして気づかれることになります。辛くて仮面を被り続けることができなくなった子供達です。
 多くの先生は、子どもが良い子を演じるのを、それが子どもの本当の姿だと判断しています。子どもが良い子を演じるのを止めたとき、先生はこんなはずではなかった、子どもが問題だと考えられます。子どもは周囲の環境に順応しようとして、無意識ですが、精一杯成長しています。その成長の過程で子どもの心が傷ついて、仮面を被ることすら出来なくなり、不適応行動を起こしたとしても、それについて子どもには全く責任がありません。子どもに責任を求めることは間違いです。
{親と子ども}
 本質的には先生と子どもとの関係と同じですが、親と子どもには生まれ落ちてからそのときまでの親子の信頼関係があります。親子の信頼関係が強ければ子どもはありのままの自分で成長できます。よい子を演じる必要がなくなります。信頼関係がないと子どもは親の前でも仮面を被る、よい子を演じなければなりません。


学校での体罰
2002.2.8
 文化省から2001年度の体罰が、小学校から高校までで955件1579人の子供が体罰を受けたことになっています。これは学校側が隠しきれなくて報告した体罰の総数でしょうから、本当はもっともっと多いと思われます。体罰を受けても親に言えなかった子供、親に言っても親から「おまえが悪いんでしょ」と言われて無視された子供、家庭の都合で学校に抗議にいけなかった親もいるでしょう。それらの結果の被害者は全て子どもたちです。
 文化省から発表された体罰はほとんど全てが子どもたちの体に加えられた暴力です。子どもたちに加えられた暴力は体に傷を付けたから発覚しています。体につけた傷以上に問題なのは子どもたちの心につけた傷です。心につけた傷は外から見えません。けれどその心の傷が子どもたちを苦しめ、子どもたちが登校拒否や不登校になっていっています。子どもたちが登校拒否、不登校になると、今度は子どもたちの苦しみは無視されて、辛い学校へその子どもたちを戻そうとする対応で、子どもたちは苦しめられることになります。
 学校の中では立法官も、行政官も、警察官も、司法官も、すべて教師です。教師の意向に反する子どもたちは罰せられ、子どもたちが自分たちのありのままの正当性を主張すると、それもまた罰せられて、時には体罰を受けています。それも教師が子どもたちを愛するがためだ、かわいい子どもたちを正すためだという名目で、子どもたちの意志を全く無視して行われています。現在の校の中で、多くの子どもたちは学力を伸ばしているかもしれませんが、その一方で教師たちが自分たちの職場を守ることを優先するために、深く心を傷つけられて苦しむ子どもたちをも作っています。

万引きについて2002.2.27
 あるテレビニュースで、調査した小中学生のほぼ全員に万引きの経験があるとの報道がされていました。どのような調査をしたのかはっきり示していませんでしたから、その結果をそのまま素直に信じるわけにも行きませんが、かなりの数の子どもたちが万引きをした経験があることは事実のようです。それらの子どもたちは「万引きは悪いこと」と知っていると報道されまていした。けれど自分が万引きをしたことに関しては、欲しかったからと釈明し、悪びれた様子が無かったようです。
 子どもたちは、知識としては万引きは悪いと知っています。調査の中で、万引きが悪いと言わなかった子どもたちは、調査についてまじめに答えていなかったのだと思います。意図的(思考を重ねてという意味でなくて、習慣の心から、反射的にという意味です。すでにこの種の調査など、社会からの働きかけに不適応行動を取ることを学んでしまっている子どもたちです)に、別の答え方をしたのだと思います。
 日本文化の中で成長している限り、子どもたちは万引きは悪いことと学習しています。それと同時に、このような調査について、調査を受けることを遊びにしてしまっている子どもたちもいるといます。それ自体は決して悪いことではないのです。調査する方の、調査の仕方が悪いのです。
 万引きをした子供の親の中には「たかが万引きぐらい」と言う親もいました。親たちは進学に必要な知識ばかりを求めて、子供の心の成長を無視している傾向を表していると思います。子どもたちが生活していくのに必要な知識を発展させていくのを、無視するだけでなく、阻害していると言えると思います。この種の知識の発達が、人間として社会生活をしていくのに大切なことをこの種の親たちは知ってはいますが、無視(学業が将来の物質的な豊かさを保証していると信じ、それを優先しているためだと思います)していると思います。これらの親たちは子どもたちの万引きを、子どもたちの間ではよくあること、あって良いとは思わないが、深刻に考える必要がないこと、放っておけばそのうちにしなくなることだと思っているようです。
 万引きとは他人が店で売るための商品として陳列している物を盗む(代価を払わないで取る)ことです。自然界にあるような、誰にも属していないような物を取るのとは違います。親の所有物を取るのとは違います。万引きを悪いことと決めたことは人間です。万引きが悪いことだからしてはいけないという知識は、人間の約束事です。知識が少ない幼い子供が万引きをするのは決して異常ではありません。幼い子供は生活の中で、他人が所有している物を取っては行けないことを、自然と学習していきます。自我の成立とともに、自分の物、他人の物という概念が成立していきます。自分の物が取られるという経験から、人の物を取ることの問題点を、自然と生活の中で学習していきます。知識が不十分で他人の物を取った結果、親やその他の大人から罰せられたという経験からも、盗むという概念が、盗むことは悪いことだという知識が形成強化されていきます。これらの知識は一生続いて、有効に機能していくはずですし、機能していきます。
 現在の教育は知識の詰め込みです。親も社会も子供に「万引きは悪いこと」と知識では教えています。けれどその知識が、子どもたちの生活に役立っていない事実(経験していないために強化されていない)があります。子どもたちが持つ知識から、子どもたちが行動しようとしていません。子どもたちの持つ知識を使って行動すべき状況下で、子どもたちの持っている知識からの行動を行う経験をしていない、練習をしていない事実です。持っている知識を利用して生活をする練習ができていません。子どもたちは知識ばかりを詰め込まれていて、その知識が生活に役立っていないこと自体は、現在の教育の性格上やむを得ないところがありますが、この万引き一つを考えても、現在の教育の在り方を変える必要があります。つまり子どもたちの知識を生活に用いる練習や、子どもたちの情動にもっと注目した教育を考える必要があります。親たちも、子どもたちの知識から行動する機会があるのに、子どもたちの知識から行動をさせようとしない問題点があります。
非常に幼い子供のように、盗むという概念のない子供立場別として、盗むことが悪いことであると知っている子供が、あえて万引きをする理由には、前記の子どもたちの持っている知識を使う経験がない場合のほかに、子どもたちに加わっているストレスがあります。ストレスによって、普段は全く万引きをしない、しそうもない子供が、突然万引きをしてしまいます。万引きの際の心の緊張(冒険心のような物、新奇刺激に属する)がストレスをうち消してくれるからです。子供によってストレスの内容は異なります。けれど子供にストレスが加わった状態の時に、子供に欲しい物があるときに、時には別に欲しいと思っていなくても潜在意識で欲しい物に、反射的に欲しい物に手を出して万引きをしています。後から振り返って、自分が欲しいと思ったからと理由付けをしています。その万引きをする際の子供の行動は発作的で、無意識ではありますが、それまでのその子供の経験がフルに生かされて行われるところが、私達子どもの心を研究している者にも、とても分かりづらいところです。
 動物の行動は、同一の行動を繰り返すことで、習慣化していきます。状況が整うと反射的にその行動を行うようになります。それは子どもの万引きにも当てはまります。習慣化した万引きの習慣性を取り除くのは大変に難しいです。いわゆる癖という物に相当しますから。その結果、いくら学業ができてもその子どもの一生を台無しにしてしまう場合があります。大人になっていくら社会的に認められた地位を獲得しても、何かの折りにその人の一生を台無しにするようなことをしてしまう場合すらあります。

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